看守の娘

山田わと

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 そこは、小さな温室だった。
 古びたガラス越しに光が差し込み、湿り気を帯びた空気の中に、濃密な花の香りがたゆたっている。

 南国の木々が天井に届くほどに枝を伸ばし、朱や黄の花が鮮やかに咲いていた。

 葉のあいだを、ひらひらと宝石蝶が飛び交っている。
 遠い異国の庭園のようでいて、どこか閉ざされた夢のなかの景色のようでもあった。

 温室の中央には、ひとつの揺り椅子が置かれていた。

 淡い白木のその椅子は、ゆっくりと前後に揺れている。
 そこに座っているのは、一人の女性だった。
 整えられた髪は、真珠のような白。まだ若さを宿しているはずの面差しには、かすかに疲れの影が差していた。年齢を測るのは難しい。少女と呼ぶには遅く、老婦と呼ぶには早すぎる。若さと老いのはざまに佇むような輪郭は、時の流れから取り残されているようだった。

 彼女の膝には、黒い猫が身を丸めていた。

 艶のある毛並みは光をやわらかく返し、瞳は機嫌よさそうに細められている。
 女はその頭を、ゆっくりと撫でていた。

「今日はご機嫌ね、ノクス。何か良いことあった?」

 女の声は熟れ過ぎた果実のように甘い声だった。黒猫のノクスは喉をゴロゴロと鳴らす。

「あのね、私ね、ずっとずっと悪い夢を見ていたの、あの人が消えて、私を置いて、怖くて、寒くて、苦しくて……。でも夢だったのよ、全部夢だったの、だってあの人はもう帰ってきたの、ちゃんとここにいて、最初からずっと一緒だったのよ、何も間違っていなかった、だからもう大丈夫、ずっと一緒にいてあげる、離さない、今度こそ、私とあの人とでちゃんと幸せにしてあげる、あなたは私の子なのだから。ノクス、愛しているわ」
 女は口元に微かな笑みを浮かべながら、意味の定まらない言葉を淡々と紡いでいく。
 黒猫は前足を折り、女の手に額をすり寄せる。

 そのとき、わずかに温室の空気が動いた。

 扉のほうから、靴音を抑えた足音が近づいてくる。
 やがて葉陰のあいだから、一人の男が姿を現した。
 その姿を目にした瞬間、女の表情がにわかに変わる。蕾が陽に焦がれて裂けるように、抑えきれない歓びと、深く濃い執着の気配が、微笑のかたちを借りて顔に咲いた。

「ああ、エリック……わたしのエリック」

 女は陶然とした声で呼びかけると、ゆっくりと立ち上がり、エリックと呼んだ男に向かって両腕を差し伸べた。膝の上にいたノクスが、音もたてず地に飛び降りる。
「元気にしていたかい? ロザリー」
 女は、その言葉を懐かしい調べのように受けとめ、笑みを色濃くする。

 ――ロザリー。呼ばれたその名が、熱を落とすように、ゆっくりと満ちていった。

 エリックはロザリーの両腕を肩に受け、ためらいなくその身を引き寄せる。
 ロザリーの唇から、恍惚とした吐息が零れた。

「エリック、私のこと愛している?」
「勿論だよ、誰よりも君のことを愛している」

 エリックの言葉は穏やかに響いたが、その口調には、ごくかすかに抑揚のずれがあった。
 よくできた台詞のように、滑らかで、少しだけ熱を欠いている。
 だがロザリーは、疑う素振りひとつ見せず、ただ満ち足りたように微笑んだ。

 エリックは、あやすようにロザリーの頭を撫でながら、言葉をつづける。

「けれど、忘れないで欲しい。ロザリー……。全てはノクス次第だという事を。ノクスは君の夢の番人だ。爪を隠したまま、鼠と一緒に遊んでいるようでは、君の世界は壊されてしまうよ」
 二人の足元で毛繕いをしていたノクスだが、不意に名前を呼ばれて「にゃあ」と大きな声で鳴いた。
 ロザリーはノクスに視線をやり、幼い子供のように、くすくすと笑った。
「だってノクスは賢い子よ。そんなこと、するわけないわ」
 ロザリーは屈んで、猫の背に手を伸ばす。ノクスは耳をぴくりと動かしながらも逃げず、されるがままに撫でられていた。
「この子は、わたしとあなたの愛のかたち。間違えるはずがないわ。ね、ノクス?」
 答えるように、ノクスが小さく喉を鳴らした。
 ロザリーの指が猫の背をなぞり、その毛がゆるやかに押し分けられていく。温室の高い天窓から射し込む光が、葉の影を床に映していた。

 その様子をじっと見つめていたエリックが、ふっと小さく息をつき、静かに身を屈めた。

 ロザリーの頬に手を添え、輪郭をたどるように、指先がそっと肌を撫でる。
 ロザリーは顔を上げた。熱に浮かされた眼差しが、まっすぐに彼をとらえる。
 唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬の静けさのあとだった。
 軽く啄むような口付けの中、エリックの腕は彼女の腰を抱き寄せ、そっと横たわらせる。

 織物の擦れあう音、熱を帯びた吐息、肌越しの震えが混じり合い、温室の空気は重たく湿りはじめる。重なった唇は、次第に湿った熱を増し、執拗に、深く、そして貪るように絡んでいく。
 唾液の糸を引きながら唇が離れ、彼女の目元には陶酔と熱の入り混じった霞が漂っていた。喉の奥からこぼれた吐息はかすれており、言葉にはならず、甘い呻きが零れる。
 エリックはロザリーの片脚をそっと手に取り、ゆるやかに持ち上げる。彼の手は仄白い腿を這い、その奥まで伸ばされた。

「……っあ!」

 ロザリーの身体がびくりと震えた。腕がきつく締まり、エリックを逃すまいとすがりつく。
「エリック……愛してる。ねえ、ずっと、ずっと、わたしだけを見て……」
 ロザリーの囁きは夢と現のあわいで、吐息と共に零れ落ちる。堪え切れずに首を仰け反らせ、喘ぎながら身を揺らす彼女に向かい、エリックは静かに答えた。
「僕も愛しているよ」
 凪いだ声だった。

 まるで子どもに言い含めるように、やさしく、熱を帯びずに。
 外の光が葉の隙間を抜けてガラスに反射し、ロザリーの髪に淡く射していた。

 緩やかな金の光が一筋、肩先に帯のように揺れる。

 足元ではノクスが丸く身を縮め、両目を細めてじっと眠りに沈んでいた。
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