看守の娘

山田わと

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Echo20:思い出

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 ルネが初めて言葉を発した日を境に、彼は目に見えて変わりはじめた。

 それまでの沈黙が嘘のように、今では挨拶を返し、問いかけにも言葉で応じるようになった。
 たどたどしかった受けごたえも、少しずつ自然なものに近づき、日を追うごとにやわらかさを増していく。

 時折言葉を選びながらも、落ち着いた調子で会話ができるまでになっていた。

 表情にも変化が現れた。
 無表情だった面差しには、時折穏やかな色が差すようになり、ほんの少し口元がほころぶこともある。以前のように怯えて目を伏せることは、もうほとんどなかった。

 着替えも食事も、自分の手でできるようになってきた。
 アリセルやユーグの助けを借りずとも、身の回りのことを少しずつ自分の力でこなしていく様子に、アリセルは密かに胸を熱くした。
 そして何より、アリセルが手を差し出しても、ルネはもう怯えない。
 静かにその手を見つめ、ためらうことなく自分の手を重ねてくれるようになったのだ。


 その日は、秋のはじめにしては珍しく風がやわらかく、陽の光も穏やかだった。

 木々の梢がかすかに揺れ、窓から吹き込む風には、乾いた土と熟れかけた果実の匂いが混じっている。塔の石壁にも、どこか静かな温もりが宿っていた。
 昼食を終えたアリセルは、食後の余韻にひたりながら、敷物の上に腰を下ろしていた。
 今日の昼食は早朝からこしらえたもので、焼きたてのパンに茹で卵をはさみ、炒めたキノコとハムを薄く挟んだサンドイッチが主だった。添えたのは、皮ごと焼いたリンゴと、干したプルーン。彩りは地味だが、季節の味がしっかりと詰まっていた。
「アリセルってさ、料理うまいよな。いつか店でも出せるんじゃないか?」
 パンの端をつまみながら、ユーグが言う。
 褒められたのが嬉しくて、アリセルはくすぐったそうに笑った。
「いいなぁ、そういうお店とかちょっとやってみたいかも。朝は焼きたてのパンを出して、お昼は香草サンドとかスープとか。焼き菓子とかもあってもいいかも」
「きっと村で一番の人気店になると思うぞ。……なあ、ルネ」
 ユーグの呼びかけに応えるように、ルネはこくり頷いた。
「あ、ありがと……」 
 二人に褒められて嬉しさと照れが入り混じり、思わず頬が緩んでしまう。
 顔を赤くするアリセルの隣で、ユーグは荷物の中から小さな麻袋を取り出した。その中に入っていたのは、香ばしく炒ったコーヒーだ。
「コーヒーっていい香りよね。でも私、飲んだことないの」
「まぁ、大人の飲み物だから」
「……ん? それって私が子どもだって言いたいの?」
 ムッとするアリセルを横目に、ユーグは湯を沸かし、小さな金属の器に粉を入れて煮出しはじめた。
牢内に広がったその香りは、石の匂いと混ざり合い、どこか異国の空気を運んでくるようだった。
 やがて、湯気の立つカップが三つ、敷物の上に並んだ。ユーグが片膝をついて手渡していく。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
 アリセルは両手でカップを受け取る。焦がした木の実を思わせる香ばしい香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。
「……わあ、いい香り」
 ひと口だけ――と、そっと口をつけて啜ってみる。だが。
「にがっ!」
 思わず小さく叫んでしまい、アリセルは慌ててカップを少し遠ざけた。
 眉をひそめながら口元をぺろりとぬぐうと、こくんと喉が動く。
「だろ?」
 ユーグが楽しそうに笑い、隣のルネを見る。
 彼もまた、小さく眉をひそめながら、アリセルとまったく同じ反応を見せた。その様子にくすっと笑って、アリセルは自分のカップを見つめた。
「ユーグはよく飲めるね。こんなの」
「大人だから」
「年とると味覚が死んで、舌も鈍くなるんだって。だから平気なんだね。……加齢のせいだ」
 いつになく舌鋒鋭いアリセルに、ユーグは危うくコーヒーを吹き出しかけた。
 その様子に一矢報いてやった気分になるアリセルの横で、ルネがぽつりと呟いた。
「……コーヒーは、祖父が好きだった……。こんな味だったんだね……」
 その言葉にアリセルは、そっとルネの横顔を見つめた。
 処刑された祖父のことを、彼が自分から語り出すとは思っていなかった。

「ルネ様のお祖父様って、どんな方だったんですか?」
 問いかけながらも、胸の奥にはわずかな躊躇いがあった。
 身内を語ることは、ルネにとって触れてはならない傷ではないか。軽々しく聞いてしまったのではないかと、言葉を口にしたそばから、心がざわめく。
 だが、ルネは特に気を悪くした様子もなく、ゆっくりと視線を落とすと、手の中のカップを見つめながら続けた。
「話したことは……あまりなかったけど……。優しい人だった」
 その表情はどこか遠い記憶を手繰るようで静かだった。
 ユーグが無言のまま手を伸ばし、ルネの頭をくしゃりと撫でる。一見すると雑なその仕草に、さりげない慰めの気持ちが込められていることを、アリセルは知っている。何も言わずに撫でられていたルネの顔には、穏やかな表情が浮かんでいた。

 ややあって、ユーグはルネの頭から手を離し、ふと思い出したように口を開いた。
「そう言えば、来週から用事で都に行くことになってさ。しばらく戻ってこれないかも」
「え、そうなんだ。寂しくなるね。用事って……何の?」
「野暮用」
「……ふうん」
「不貞腐れるなって。ちゃんと土産買ってくるからさ。……ルネも何か欲しいものあるか?」
 ユーグに問いかけられて、ルネは軽く視線を彷徨わせてから、言葉を継いだ。
「……都の話、聞かせて欲しい。きっと、僕がいた頃とはずいぶん変わってるんだろうね」
「そんなので良けりゃ、いくらでも話してやるよ。アリセルは?」
「わたし、スミレの砂糖漬けがいい!」
 胸の前で手を組んで、アリセルはぱっと声を明るくした。
「小さな箱に入ってて、見た目もすごく可愛いんだって。今、流行っているって聞いたの」
「了解」
 あっさりと返された一言に、アリセルの胸は高鳴った。
 スミレの花びらが一枚ずつ砂糖で包まれていて、それが瀟洒な小箱に入っているのを想像するだけで、心がふわりと浮き立つ。お茶の時間に、小さなお皿にひとつだけそっと乗せて出したら、きっと綺麗だろう。そんなふうに夢をふくらませていたアリセルだったが、不意に、胸のどこかがひっかかるような感覚に襟を引かれた。

 ユーグがしばらくの間、都へ行く。知らない人が大勢いて、物騒なことだってあるかもしれない。

「あの、ユーグ」
 気づけば、声が少しだけ真面目になっていた。
「お財布とか、ちゃんと気をつけてね。人も多いし……変な人に声かけられても、ついていったりしちゃダメだからね。特に、綺麗で悪い女の人とか…女の人とか……!」
「今、なんで女の人って二回言った?」
「だってユーグ声かけられたら、ついていっちゃいそうだから」
「ついて行かない……たぶん」
「たぶん!?」
 キッとした眼差しでユーグを睨みつけたアリセルだが、ふと肩の力を抜く。
「でも、ユーグがいないのは寂しいな……」
「そんな神妙にならなくても、ほんの少しの間だけだって」
 ユーグが軽く笑いながらそう返した時、隣にいたルネがそっと彼の袖をつまんだ。
 わずかに驚いたように視線を向けたユーグに、ルネは静かに言葉を添える。
「……ユーグ、気をつけて」
「ああ、ありがとな」
 短く返したユーグの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
 アリセルは思わず、小さく笑みをこぼす。

 出発はまだ先のはずなのに、まるでもう見送りをしているみたいだ――そう思うと、寂しくて、でもなぜか少しだけおかしくなった。
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