看守の娘

山田わと

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幕間Ⅲ

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 夜の都をノクスは歩いていた。

 新月のため空には光がなく、墨を流したような闇の中に、街灯だけが均等に灯っていた。
 靴音は乾いて小さく、静まり返った通りに吸い込まれていく。

 街路樹は等間隔に並び、剪定された枝葉が街灯の光を乱すことはない。
 建物の輪郭も整っており、どれも控えめな色彩で、過不足なく並んでいた。
 広場の芝は隅まで刈り込まれ、中央の時計塔が夜半を過ぎた時を正確に刻んでいる。

 わずかに風が吹いた。
 その拍子に、幼い頃に見た景色が、記憶の底から浮かび上がる。

 かつて、都は今よりもずっと騒がしかった。石畳は歪み、所々にひびが走っていた。
 店々は粗末な木造で、張り出された布や板の看板が視界を塞いでいた。通りには荷車と物乞いが入り混じり、売り声と怒声が飛び交っていた。ぼろをまとった兵が門に腰を下ろし、空を仰いでいた。
 夜になると光が乏しく、路地には暗がりが残り、横暴と略奪の気配が空気に溶けていた。

 それらは、遠く色褪せた記憶だ。

 今は違う。都は整えられ、音も光も形も、すべてが均整を保っている。この景色を築き上げたのは、紛れもなく統領エリック・ジルベールである。


 ノクスは脇道へ折れ、ひときわ灯りの弱い小さな酒場の前で立ち止まった。
 扉は古びた木製で隙間から、燻んだような光が漏れていた。
 取手に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。内側は外よりもさらに暗く、橙色の灯がいくつか、卓とカウンターを照らしている。空気は酒と煙草の匂いを孕み、低く交わされる声やグラスの音が、店の隅々に静かに満ちていた。
 カウンターの端に腰を下ろし、短く言う。

「アブサンを」

 店主が黙って頷き、手際よく用意を始めた。
 細身のグラスと銀のスプーン、角砂糖、冷えた水差し。淡い緑の液体は、苦艾とアニスを主とする蒸留酒、緑の妖精とも呼ばれる、かつて禁じられていた酒だ。
 ノクスは角砂糖をスプーンにのせ、水差しをゆっくりと傾ける。
 ぽたり、ぽたりと落ちる水が砂糖を溶かしながら、グラスの中の酒を白く濁らせていく。薬草の香りが微かに立ち昇り、周囲の空気と混ざって、曖昧な輪郭をつくった。
 砂糖が溶けきると、グラスを取り、口をつける。
 舌の上に苦味が広がり、喉がわずかに灼ける。ほどなくして、身体の内側が音もなく緩み、何かが静かに遠のいていく。

「お兄さん、いい飲みっぷりね」

 何気なくかけられた女の声に、ノクスの肩はわずかに動いた。
 瞬時、脳裏に浮かんだのは少女の笑顔だった。明るく、真っ直ぐで、どこにも翳りのないその笑顔。世界は善意に満たされていると信じ続ける、あの眼差し。

 振り返ると、そこには艶のあるドレスを着た女がいた。
 きっちりと結われた髪に、唇に笑みを乗せ、手を腰に当てて立っている。
「ひとり? ねえ、隣、いい?」
 その声を聞いた瞬間、ノクスは微かに目を伏せた。
 もう違っていた。少女の声に似ていたのは、最初の一言だけ。抑揚か、音の端か、ほんのわずかな響きが記憶をかすめただけで、それ以外には何一つ重なるものがなかった。
 女はノクスの返事を待たずに、隣に腰を下ろし、改めてグラスを覗き込んだ。
「アブサンって怖いお酒でしょ。わたし、これ飲むといつも泣いちゃうの。酔ってくると、頭の奥のほうから、変な記憶とか、どうでもいい後悔とかが湧いてきて……。笑うつもりで飲んでるのに、いつのまにか涙が出てるのよ」
 ノクスはグラスをくるりと回しながら、横目を向けた。
「泣くほど飲むなよ。もったいない」
「でも酔わなきゃ、夜なんて退屈でしょ」
「俺は酔っても、たいして楽しくならない」
 女はつまらなそうに唇を尖らせ、すぐまた笑った。
「じゃあ、退屈ってことね。……わたしと話してても?」
「さあ。それは話してみないとわからないな」
 その答えに満足したのか、女はグラスを持ち上げて、くいと傾けた。
 琥珀色の液体が喉を滑り落ちるのを追うように、ノクスも口元にグラスを運んだ。
 アブサンの強い香りが鼻に抜け、舌先に残る苦みがじわりと染みこむ。
 喉もとを過ぎる頃には、脳の奥に火が灯るようだった。
「わたしね、昔ちょっとだけ舞台に出てたの」
 女がぽつりと口を開いた。
「小さな劇団だったけど、お芝居が好きでね。毎日毎日、誰かになりきるのが楽しかった。現実なんて、舞台の上では全部忘れられたから」
「へえ」
 ノクスは相槌を打ちながら、目の焦点をグラスの奥に置いていた。
 アルコールが静かに、しかし確実に思考の輪郭をぼやけさせていく。
「でもね、観客なんてほとんどいなかった。拍手も、感想も、何にもない夜が続いて……ある日ふと、誰のために演じてたんだろうって思ったのよ」
「……それで、やめたのか」
 自分の声が、わずかに低くなったのが分かる。
 女の言葉が、どこか深くに触れた。『誰のために』という言葉が、再び少女の面影を揺らしたのだ。
「ねえ、聞いてる?」
 女の指が、ノクスの袖をちょいと引いた。「聞いてる」と答えるノクスだが、その声には熱がなかった。女はグラスを傾ける。
「じゃあ、今度はあなたのこと。聞かせてよ」
「俺のことを聞いて、楽しくなるとは思えないけどな」
「楽しくなくてもいいの。……ね、ちょっとだけ」
 ノクスの視線が、揺れる酒の色から女の目元へと移る。
 そのまま何かを探るように、ほんの短く見つめて、ふと微笑した。
「前に知り合いが言っていた。自分の話を始めたがる男は、酔いが浅いって」
「なにそれ」
「酔いが深くなると、逆に何も言わなくなるんだと。黙って誰かの話を聞くほうが、よっぽど楽なんだってさ」
 女は一瞬、眉をひそめかけて、すぐに口元をゆるめた。
「じゃあ、わたしの話、もっとしてあげるってこと?」
「ああ。聞いてるほうがいい」
 女はグラスを手に取り、楽しげに笑った。
「だったら遠慮なく話しちゃおうかな。長いわよ?」
 ノクスは頷くと、グラスを軽く傾けた。
 残った酒が静かに揺れ、光を鈍く跳ね返す。
 その揺らぎをぼんやりと見つめながら、女の声を聞く。笑い混じりの軽やかな語り口。

 目の前にいる女の笑顔はよくできた仮面のように見えたが、それはきっと、自分も同じなのだろうと思った。




 酒場を出たあと、ふたりは夜の通りを抜け、裏手に入った路地の小さな宿へと歩いた。
 女が顔なじみだと言っていた店で、ノクスは何も言わず、促されるままに奥の部屋へ入る。

 父と会った夜は、いつもこうだった。

 喉を焼くような強い酒を煽り、女を抱く。
 あの男と顔を合わせた後は、決まって誰かの肌の中に沈まなければ、まともに夜を越せなかった。
 言葉も感情も、どこかで擦り減っていた。だから手を伸ばす。温もりでも、慰めでもない。
 ただ、忘れるために。

 部屋の灯りは淡く、壁際に置かれたランプが揺れている。

 薄いシーツの上、ノクスは女の身体に手を這わせていた。
 柔らかく起伏する胸元に指先を沈め、細い腰のくびれをなぞり、太腿の内側に触れるたび、女は甘く喘いだ。
 絡み合った脚と脚が擦れ合い、熱を帯びた肌が重なる。
 だが彼の心はどこにも触れていなかった。
 女の爪が背を這い、腰が揺れても、意識の芯は遠く離れた場所に沈んでいた。

 現実の輪郭はかすみ、まとわりつく熱の奥で、ただ身体だけが律儀に反応する。

 女は笑いながら喘ぎ、喉を鳴らして快楽をねだってくる。
 けれどその声が、耳の奥で別の誰かの声と重なった。

 懐かしく、優しく、まるで疑うことなど知らないあの少女の声。

 ノクスは目を閉じた。現実を遠ざけるように、ゆっくりと意識を沈めていく。
 押しつけられる体の重みを感じながらも、心の奥でまったく別の腕を求めていた。

 想像の中の彼女は、いつも無防備だ。
 触れられることに慣れていない。恥じらい、怯え、けれど拒みきれないまま、身をよじる。

 感覚のすべてが錯綜し、脳内を焼き尽くしていく。
 目の前の女に触れているのに、なぞっているのは少女の輪郭だった。
 知らないはずの身体を、心が勝手に編み上げる。
 幻の中の少女は、請い願うように腕を伸ばし、細い指先を彼の胸に這わせてくる。
 痛みに似た色を瞳に浮かべ、呼吸を飲み込みながら、それでも信じるように彼の名を呼んだ。

「………っ…」

 ノクスの唇が動いた。
 自分でも気づかぬまま、喉の奥から少女の名が零れ落ちる。
 女を抱いた腕に力がこもり、昂ぶりが背筋を駆け上がる。腰の奥に溜まっていた熱が臨界を超えた刹那、すべてが弾けた。

 身体が果てたのと同時に、心の中にあった少女も、泡のように消えていった。

 女が、息を整えながら寄り添ってくる。ノクスは片腕を目元にのせた。

 果ててなお、飢えは満たされない。渇きは癒されない。
 むしろ、ひとしきり身体が熱を発散した今、残されたのは、より深い虚ろだけだった。
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