看守の娘

山田わと

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Echo28:予兆

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 世界の輪郭がゆるんだ。

 空は透けるように淡く、地面は確かに在るのに、足裏に重さを返してこない。
 何もかもが本物のようで、けれど少しだけ違っていた。

 これは、夢だ。

 そう思ったとき、アリセルの耳に鐘の音が届いた。
 幾重にも重なったその音は、空を震わせながら降りそそぐ。
 まるで祝詞のように、澄んで、途切れなかった。

 視界が開けていく。

 白い石畳の広場には、見渡すかぎりの人がひしめいていた。
 顔は見えない。ただ、口々に歓声を上げ、手を掲げ、花びらを放っていた。

 赤、白、橙、青、紫。

 色とりどりの花弁が風に乗り、天までも彩ってゆく。

 彼女の足元には絹の絨毯があった。
 織り込まれた金糸と銀糸が陽光を反射し、歩を進めるたび、模様がゆるやかに揺れた。
 裳裾は白金で、細かな宝石が縫い込まれ、わずかな動きで無数の光を放っていた。

 左右には積まれるのは財宝の数々だ。

 瑠璃の壺に金貨があふれ、象牙の箱には翡翠と紅玉が山のように詰められている。
 真珠が滝のように流れ落ちる水盤の奥には、純金の獅子像が据えられ、仕掛けによって口から光が吹き上がっていた。

 鼓笛隊が太鼓を打ち鳴らし、ラッパが咆哮し、角笛の音が空を切り裂く。

 鳥たちが高く舞い、雲のあいだから陽が差し込んだ。

 そして、王冠が運ばれた。

 七つの宝玉があしらわれた冠は、中央に燃えるようなルビーを据えていた。
 金の細工は葡萄の葉のように流線を描き、両側には鳩の羽が繊細に彫られている。まるで神の器のようなそれが、ゆっくりと頭上へ掲げられていく。

 同時に、右手の中指に、重みが生まれた。

 視線を落とすと、ひとつの指輪が嵌められていた。
 それは巨大で、見事な指輪だった。その宝石は、どこまでも透明で、けれどただの無色ではなかった。陽光をとらえるたび、内部で光が細かく砕け、七色の閃きを絶えず放っている。瞬くたび、きらめきは表情を変え、時に星屑のように、時に氷柱のように、まばゆく揺らいだ。

 だがその輝きを見た瞬間、胸が、苦しくなった。

 喉が詰まり、視界がわずかに霞む。
 音楽も歓声も遠のいて、ただ自分の鼓動の音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。

 あの人が誕生日にくれた木の指輪は、どこへ行ってしまったのだろう。

 探しても見つからなかった。
 右手の豪奢な指輪だけが、やけに重く、冷たく感じられた。

 そのとき、風が吹いた。裳裾が揺れ、髪が舞う。

 空から舞い降りた金色の花弁が、頬にふわりと触れた。

「我らが王妃に、万歳を!」

 神官の声が響き、万の歓声が続いた。
 空が割れるような音の奔流。花の雨。金と銀と宝石の光が、世界のすべてを包み込んでいく。
 だがアリセルは、震える指先で木の指輪を探し続けていた。
 何もない場所を、何度も、繰り返しなぞっていた。



「…………っ!」 
 何かが崩れ落ちる音がした気がして、アリセルは跳ね起きた。
 息がうまく吸えなかった。胸が上下に波打ち、喉が詰まったように熱くなる。
 視界がぶれていた。見えているのに、どこにも焦点が合わない。
 肌を撫でる空気が、うっすらと冷たい。

 カーテンにはやわらかな光が差し込み、鳥のさえずりが遠くで揺れている。朝だった。

 震える左手で右の指に触れると、温かな木肌のエンジュの指輪が、確かにそこにあった。
 アリセルの肩が、ゆっくりと下がった。
 胸の奥に詰まっていたものが、長い吐息とともに静かにほどけていく。

 ふと、頬が濡れていることに気付く。

 いつから泣いていたのか、自分でもわからない。
 夢を見ていた。それだけは覚えている。けれど、どんな夢だったのか、思い出そうとすると霧がかかったように曖昧だった。ただ、何かがまぶしく輝いていて、何かを夢中で探していた気がする。

 しばらくの間、アリセルは寝台の端に腰を下ろしたまま、掌を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと息を整えながら、身支度を始める。
 身なりを鏡で確かめてから階段を下りると、香ばしい香りが鼻をくすぐった。

 扉を開けると、すでに食卓には朝食が並んでいた。

 銀の皿には薄紅色のサーモンが薄く切り分けられ、添えられたディルとレモンが爽やかな香りを添えている。卵は殻付きのまま白い陶器に載せられ、まだ温もりを残していた。
 脇には白パンと、軽く炙ったクロワッサン。果物は白磁の鉢に盛られ、イチジク、ラズベリー、完熟のアプリコットが彩りを添えていた。
 銀のポットには濃い紅茶が湯気を立て、小さな水差しには温められたミルクが注がれている。

「おはよう、アリセル」

 ミーシャが微笑みながら振り返った。
 その隣で、父のジョゼフも静かに席を立ち、「おはよう」と言葉を添える。アリセルは軽く頷き、椅子に腰を下ろした。
「顔色が優れないようだが、何かあったのか?」
 ジョゼフの穏やかな声に、アリセルは一瞬だけ返事に迷い、それから小さく首をかしげた。
「……なんか、嫌な夢を見てた気がするの。でも、忘れちゃった」
 アリセルの声に、ミーシャはふっと微笑んで、ポットから紅茶を注ぎ始めた。
 ジョゼフもそれ以上は何も言わず、再び椅子に腰を下ろす。
 アリセルは皿の上の果物を一つ手に取った。
 しばらくして、ジョゼフが紅茶のカップを手に取りながら、口を開いた。

「アリセル。デイジー嬢との時間は、心地よく過ごせたかい?」

 昨日の出来事を思い出すような、淡い興味の調子だった。
 だが、デイジーの名前を聞いた途端、アリセルの顔がわずかに引きつった。
 酸っぱい果物でも口にしたかのように、眉がひそみ、唇の端がきゅっと歪む。
 手にしていたフォークが中空で止まり、返事も一瞬、宙に浮いたままになった。
「……うん、まあ……元気な人だったよ」
 言いながらも、声の調子がどこか心許ない。
 そんなアリセルを気にした様子もなく、ミーシャは言葉を継いだ。
「デイジー嬢には、ルネ様のご指導とあわせて、あなたの教育もお願いしているのよ」

 ――きぃっ。

 握っていたフォークの先が、皿の縁をこすった。甲高い音が食卓に浮かび、空気が一瞬だけ凍ったように感じられた。
 アリセルはすぐにフォークを持ち直し姿勢を正す。

「あの。お母様……。今、なんて?」
「あなたの教育もお願いしているの」

 微笑みながら告げるミーシャを目に、アリセルはみるみる内に青ざめる。
 救いを求めるようにジョゼフの顔を見ると、彼は少し困ったように笑った。
「お前も年頃だし、将来に備えてのことだ。必要な知識や心得は、きちんと身につけておくべきだろう」
「あなたには女性として、これから知っておいてほしいことがたくさんあるわ。……ふさわしい時が来たとき、戸惑わないようにね」
 ミーシャは笑みを崩さぬまま、やわらかな口調でそう続けた。
 その言葉の響きに、アリセルは瞬きをひとつした。

 言葉の意味は理解できる。けれど、胸のどこかがかすかにざわついた。
 母の言葉には、作法や礼儀を学ぶ以上の意味が込められているように思えた。
 何か、大事なことを伝えられている気がしてならなかった。

「それとね、今度の晩、お食事会を開こうと思っているの。デイジー嬢とユーグ君、それから私たち家族とで。お二人とも年も近いし、趣味も合いそうでしょう? こうして顔を合わせる機会があると、いろんな面で親しみも生まれるものよ」
 ミーシャが穏やかに言葉を重ねていく間、アリセルはただ黙って座っていた。

 先程から、立て続けに聞かされる話が多すぎた。

 デイジーが自分の教育係になること。将来に向けて必要な知識を学ばされること。そして、ユーグとデイジーが並んで食卓を囲むという予定。

 理解しようと努めてはいたが、心が追いつかない。

 ひとつひとつを考える間もなく、気づけば返事の言葉も浮かばなくなっていた。
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