【第一部完結】精霊の幸う国の古城管理人

橘佐和

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第2章 王都の影と日向に咲いた花

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「おじいちゃん! お父さん、お母さん――どうして」
 絵の中の両親と祖父は、エレノアに向かって優しく微笑んでいる。自分と同じ、赤毛に緑の瞳の父。自分と同じ、花蜜石のブローチを身に着けた美しい母。そして二年前、亡くなる最期の瞬間まで自分を案じ、家令としての心得を説いてくれた祖父――。ただ一人、自分だけが存在しない、家族の肖像画。
 エレノアは思わず駆け寄り、絵に手を伸ばす。しかし指先がカンバスに触れようとしたまさにその瞬間、その絵は隣に並べられたものと同じ――ただ色がランダムに重なるだけの、抽象画に変化してしまった。
「え……、なに? ……どうして……」
慌てて手を引っ込め、呆然としたまま立ち尽くすエレノアの隣に、投げ出されたスケッチブックを拾ってヴァイスが並ぶ。
「あんたには、これが亡くなった家族に見えたのか……」
「……どういう、こと?」
ヴァイスはカンバスの縁を愛おしげになでると、小さく頷いた。
「俺はたしかに、強力なパトロンを持ってる。そいつから金を受け取ることで、今は好き勝手、方々に行って自由に絵が描けている。ただしそいつは、出資の際にある条件を出してきた」
「……」
「一つはあんたが言ったとおり、俺の無事と居場所とともに、各地の情勢を定期的に知らせること。そしてもう一つが、金と自由を与えてやるからには、何か後世に残るような、特別な絵を描くこと――だ。そこで俺は、精霊が宿る絵を描きたいと言った」
「……精霊が、宿る?」
「ああ。……精霊というのはクロシェットが言ったとおり、自然そのものに宿るものもあれば、物や道具に宿るものがある。だがどちらにしてもその存在は、そのものの〝心〟が具現化したものなんじゃないかと俺は思っている。クロシェットが生まれたのも、認めたくはないが、俺の絵に対する迷いがあったからだ」
隣に並べられた、まだ何も描かれていない白いカンバスに目を遣りながら、ヴァイスは言葉を続ける。
「俺のろくでもないパトロンは、面白そうだからとその絵の主題まで指定してきた。ヤツの性格からしてどうせ思いつきの適当だろうが、三つの主題を連作にして、見た人間が己の人生を想い起こすような絵を描けと――いわく、『思い出の場所』、『大切な人』、そして『忘れられない恋』の三つだそうだ」
「じゃあ、わたしが今見たのは――」
「大切な人。……言っただろう、精霊は心そのものだと。これは――見る人間によって、描かれているものが変わる絵なんだ」
エレノアは口元を手で押さえて息を呑む。
「そんな――そんなものが、本当に?」
「これはきっと、完成したら俺の画家としての人生そのものにもなる。最初は安っぽい題目を出されたもんだと思ったが、旅をして、日々をまっとうに生きている人間を眺めているうちに、悪くないと思えた」
拾ったスケッチブックをパラパラとめくり、目を細めるヴァイスに、エレノアは慌てて頭を下げる。
「あ――ごめんなさい、わたし、取り乱して……! 大切なものを」
「いや。ここにあるものはもう全部、カンバスの方に落とし込んでる。殻みたいなもんだ。――極論、これらは言ってしまえば風景画と人物画と心象画だが、結局どれもこれも、他人にも自分にも深く向き合わなければ、えがけない。正直まだ未完成で、絵を見た全員があんたみたいに見えるわけじゃないし、最後の一枚に至っては手つかずだが――まあ、画家であることの証明にはなっただろう」
 そこまで言うと、ヴァイスは意地悪そうな笑みを浮かべて、テーブルの方まで向かうと鞄から絵の具で汚れた布巾を取り出す。
「筆を拭う布だが、一度洗ってあるからいいだろう。顔をふけ、泣き虫とうもろこし。そんなだから、泣き虫とうもろこしなんだな、あんた」
「――ハンカチくらい持ってます!」
エレノアは自分がいつからか涙を流していたことに気付き、ヴァイスに背を向けて顔を拭う。フィオレロの話を思い出してのことだろうが、それにしたってデリカシーというものがなさすぎやしないか。この人の描いた絵で、あんなにも優しい笑顔の祖父や両親が見えるなんて、信じられなかった。
 否、おそらく普段の振る舞いと画家としての振る舞いの間に差がありすぎるのだ。芸術家には変わり者が多いとか人格に問題があるとか、世間では偏見もやっかみも含めていろいろと言われているが、意外に正しいのかもしれない。少なくとも、目の前の男には当てはまるような気がする。
「――トルテュフォレに来たのは、偶然ですか」
「そうむくれるな。――まあそういう話は追々。あんたのことは、酒場で街の人間から聞いたんだけどな。気の良さそうなオッサンや口が軽そうな男たちに酒をおごって、女衆を気持ち美人に描いてやったら、いろいろ話してくれたよ。この城は、街の人間には愛されているんだな。街のシンボルだと言っていた。あんたも一人でよく頑張ってるって、褒めてたぞ」
「それは……そう、ですか。嬉しいお話が聞けました」
「顔が緩んでるぞ、とうもろこし。単純だな」
「……」
「とりあえず俺は寝る――腹もふくれたし、キャンキャンうるさいのがいない今のうちにゆっくり寝たい。あのお坊ちゃんともまだ話したいし、適当なタイミングで起こしてくれ」
「……かしこまりました」
「ああ、いや待て」
踵を返してさっさと退出しようとしたエレノアを、何か思いついたようにヴァイスが引き留める。
「まだ何か」
「あんた、絵は描けるか?」
「……絵?」
一瞬なにを問われているかわからなかったが、素直に首を横に振る。
「いえ……わたくしには、絵心がまったくありませんので」
「ここでいい。何か描いてみろ。まったく描けないってことはないだろう、子供たちでさえ描けるんだから」
「これは……」
そう言われて差し出されたのは、先ほどのスケッチブックと筒入りの色鉛筆。ただし開かれていたのは最後のページ近くの見開きで、色鉛筆で落書きのようなものがたくさんされていた。動物や植物、食べ物。お姫様や童話の主人公――どれも愛らしく、自由な色選びが見ていて楽しい。
「外で絵を描いてると高確率で人が寄ってきてな。特に子供たちは、自分も描きたいと騒ぐんだ」
「ふふ。きっとこの子たちは、自分の生活に根ざしたものや好きなもの、思い描いた夢を、そのまま描いていたんでしょうね」
小賢こざかしい技術も思想もない。尊いな」
「あの……それで、なぜわたくしが? 先に申し上げておきますが、わたくしの絵など、おそらくこの子たちの絵と大差ないと思うのですが……」
「単に俺が見たいからだ」
「はあ……」
ため息と肯定の言葉を同時に吐き、エレノアは色鉛筆を見遣る。おそらく描くまでは解放されないだろうと、大人しく筒のふたをぽんと抜き、好きな青色の鉛筆を爪先で引き抜いた。
 絵を描くなんていつ以来だろう。それこそ子供の頃、学校で芸術を学んだとき以来ではなかろうか。子供たちの絵を見ながら何を描こうか迷ったが、それならば子供の頃に欲しかったものを描こうと、ページの角にそれをささっと描いた。
「これでよろしいでしょうか……」
スケッチブックと色鉛筆を返せば、ヴァイスは一度ぐるりとページを見――ある一点で視線を留めると、途端に噴き出した。
「ちょっ――もう! だから言ったのに!」
「いや、悪い悪い――可愛いと思うぞ、この、多分、猫」
「多分じゃなくて猫です! 子供の頃、飼いたかったので」
「うん、そうか。安心した。誰にでも得手不得手があるんだな。――しかし絵が下手な奴ほど思い切りよく線を引くのはどうしてなんだろうな。脚が横並びに四本あるのも、なぜか共通してる」
「知りません! 失礼します!」
エレノアは頬をふくらませ、今度こそ客間を後にする。部屋の中ではヴァイスが笑いながらそれを見送っていたが、物音が消えて静まり返ると、おもむろにスケッチブックの角をぴりぴりと破り始めた。
 いびつな猫の絵。
 枕元のサイドチェストには、ランプと一緒にガラス玉が埋め込まれたブリキの缶が置かれていた。掛け布団に模された布には小さなビーズで花の幾何学模様が刺繍されていたが、こういうものを創るのと絵を描くのはまったく別の才能らしい。
 そのビーズの花とふかふかのクッションの間にいびつな猫を滑り込ませると、ヴァイスは一度大きく伸びをして、バスルームに消えた。

   ・◆・◆・◆・

「はあ……。なんか、疲れた……」
 一方、自室に戻ったエレノアは、ぼすりと自分のベッドに倒れ込んだ。髪を解き、体の下でぐしゃぐしゃになっていた夜着を引き抜いて、唸る。結局一晩カーテンが開けっ放しだった窓からは、濃くなってきた夏の日が差し込み始めていた。
 眩しくて寝返りをうち、目に入ってきた机に、そういえば日記が書きかけだったことを思い出す。
「……あれ?」
そしてあるものの姿が見えないことに気付き、飛び起きた。
「あれ? あれ?」
あのとき、たしかに定位置に戻したはず――そう思ったが、そこには何もない。念のため日記帳をたたみ机を端から端まで見回すが、見当たらない。もしかして着替えたとき、急いでいたから服か何かと触れて落としてしまったのだろうか。そう思って、絨毯に這いつくばって部屋中をくまなく調べてもみるが、どこにも何もない。
(うそ……うそ、どうしよう。どうしよう……!)
 昨晩の嵐が再来したように、頭の中が一気に冷え込む。あれは祖父から贈られたこととそのいきさつも含め、自分の持ち物の中でも特に格調高いものであった。
 エレノアは立ち上がり、ぼさぼさになった髪を気にする余裕もなく、愕然として机を見つめる。
 ――おおよそ、十年をともに過ごした大切な羽根ペン。
 あの美しい月待鳥つきまちどりの羽根ペンが、一晩のうちに忽然と姿を消してしまっていた。
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