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【第2部】第6章 雨夜のソワレ
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(ああ……降ってきた)
しとしとと、優しい雨の音が耳に届く。エレノアが厨房の勝手口から外を覗くと、そのわずかな光を反射して、薄い雨が暗闇に浮かび上がった。
(〝愛の夜語り〟ね……今夜は冷えそう。でも、こんな雨の日は落ち着く。嫌いじゃない。あの羽根ペンをなくす前なら、すぐに部屋に戻って書き物をしていたのに)
夏の嵐とは打って変わった様相で名付けられた、秋の夜の長雨。土間に座りながらそれをぼうっと眺めていると、子供心にもどこかそわそわとした、絵本の一ページが思い浮かぶ。花の天蓋に覆われたベッドで、薄衣を纏い腕を絡めて見つめ合う精霊王とお妃様。その唇は二人ともに薄く開かれ、相手への愛しさをささやきあっている。
(秋の夜の長雨は、恋人たちを閉じ込める優しい檻……肉体を一つの褥に、思考を互いの愛に、心を幸福のぬくもりに……そんな一節だったかしら。……人肌ってそんな幸せを感じるほど、あったかいのかな……? いやいや――わたしったら何を考えてるの、恥ずかしい! じゃなくて、はしたない! ……でも昔の絵本て、大人っぽい芸術的な絵が多かったのよね……。昔は今より文字が読める人間が限られていたというし、知識人に向けて、画家や宗教家が描いたものが多かったからなのかしら……)
画家、という言葉に、嫌でも一人の人物の姿が思い浮かぶ。
(……何事もなければ、ヴァイス様やクロシェット様もそろそろお戻りになる頃よね。でもそうしたら、今年の秋冬は、いつにも増してきっと賑やかになるわ。旅のお話も聞けるかもしれないし……それは少し、楽しみかも。隊商宿ってどうなっているんだろう。北の山の方では、もう雪も降ったかな。さすがにまだ早いか。でもきっと、道中のあちこちでスケッチをしているんでしょうね……それならまだ、お戻りにはならないかも。絵のこととなると、他のことなんて見向きもしなくなるような、自由な方だもの……)
あれからヴァイスの絵はエレノアが自ら管理し、一日一回以上は必ず目視するようにしている。換気の間も目を離さず、置いていった大型の道具や他の荷物も、できるだけ手入れしている。
部屋はそのままでもいい気がしたが、寝食をともにするならば、やはり客間よりは別の部屋をアトリエとして提供した方がいいともヘンドリックからは言い含められていた。
(アトリエか……なんだか、今まで触れてこなかった特別な響き。これってもしかして、わたしもパトロンになるのかしら?)
ぽつりと鼻先に、大きな雫が一粒落ちてくる。
(お手紙……どうなっただろう。お受け取りいただけたかしら……)
雨の気配を頼りに二人を思い出していると、厨房からカタカタとケトルのふたが鳴る音が聞こえてきた。沸かしすぎてしまったようだ。
お茶の準備をしてエレノアが食堂に戻ると、談話室の方でもメリッサが囲炉裏に火を入れているところだった。その隣のテーブルでは、神話の本とノートを開くソワレに、蒼白い梟の姿をしたアレックスが偉そうに講釈を垂れている。そしてその向かいの席でそれを静かに見守り、しかし要所要所でトルテュフォレとの関わりを語ってくれるヘンドリック。
実のところそれは、エレノアも通ってきた道だった。最初はたくさんのおとぎ話から。それが神話になり、人の世の謳となり、物語となり、歴史となり、今の世に繋がってくる。
特にヘンドリックの渋みのある声によって結ばれていく「おとぎ話」と「自分の家」は、幼いエレノアにとって頭の中でぱちぱちと光が弾けるような、すさまじい知識欲をかき立てられるもので――アレックスが音を上げ、ヘンドリックからは早く寝るようにとたしなめられるほど、もっともっとと先の話をねだったものだった。
今はクローマチェストの創世神話を学んでいるらしい。特に花樹鹿のつがいによって、世界に均衡がもたらされる話をしているようだ。あの紋章もそうだが、美術や宗教、歴史に民俗学、たくさんの分野に関わってくる。
(そう――それで梟なのね。懐かしいな)
それはまだ世界ができたてで、なにもかもが不安定だった頃のお話。
花樹鹿ははじめ、雄も雌も体がすべて白い、ただの鹿だった。
そんな中、真っ黒な毛を持って生まれた雌の鹿が一頭いた。瞳の色も、皆は赤いのに自分だけ反転したように緑色だ。彼女は他の鹿たちと異なる自分の姿を恥じ、また家族までもが他の鹿たちから疎まれるのを憂い、山奥に姿を隠してしまった。
そんな彼女の優しい心を知った他の動物たちは彼女を優しく見守り、彼女はその動物たちとともに静かに、けれど穏やかに暮らしていた。
そんな彼女のお気に入りは、雪が解け、たくさんの色が生まれ出る春の奥山だった。
萌える若木や咲う花の高木の合間を軽やかにすり抜けて、舞うように春の精霊たちと戯れる雌鹿。春の精霊に祝福された彼女は、春を重ねるたびにとてもしなやかでみずみずしく、生命力にあふれた雌鹿に成長していった。
それを遠くから眺めながら、やがてその美しさに気付いた花の精霊たちは、漆黒の毛や角に自らの花や葉を飾りつける。
黒に際立って浮かぶ、色とりどりの花の輪郭。
他と違うことを責めるのでなく、嘆くのでなく――互いの違いを認め、互いの色を引き立て合う、その素晴らしさを雌鹿は知った。
やがて飾られた花々は彼女の角に根付き、雌鹿の一部となった。雌鹿は春の間、まるで花のヴェールを纏ったように華やかで美しい、特別な装いを見せるようになった。
そんなある春の夜、一匹の梟によって一つの報せがもたらされた。山の頂にある御殿に棲まう鹿の王様が、お妃様を探すために大きな舞踏会を開くので、皆、御殿に参内するように――と。
雌鹿たちは皆、喜び勇み、御殿に出掛けていった。
しかし黒い雌鹿だけは、行くことを拒んだ。自分が行ったら、また他の鹿に責められてしまうかもしれない。ようやく、変われたと思ったのに。昔に戻るのが怖い。今から出るのが怖い、と。
悲嘆する雌鹿に、他の動物たちは考えた。そして、今に留まろうとする黒い雌鹿に語りかけた。
同じように黒いものがともに行けば、怖くはない。自分たちが一緒に行くから、一度だけ王様に会いに行こう、と。
鳥も獣も虫も、黒いものが雌鹿の元へ集った。それに感激し、勇気をもらった雌鹿は、ゆっくりとではあったが立ち上がった。
代表して蜂が花のヴェールを手入れし、烏が道案内をし、熊が道を拓いた。
一方、御殿では華やかなパーティーが催されて、開け放たれた窓からは、様々な精霊たちも顔を覗かせていた。
しかし、鹿の王様は不機嫌そう。お気に入りが見つからないのか、誰ともダンスを踊らない。
雌鹿が怯え、見物に来た他の動物たちが不穏な空気を感じ始めた頃、御殿の入り口がにわかに騒がしくなった。動物たちの垣根が割れ、しかし皆、同じ方をずっと見つめている。
それに気付いた鹿の王様も、ついに玉座から降りてやってくる何かを迎える。
まず最初に現れたのは烏だった。烏は王様に恭しくお辞儀をして、その翼で広間の入り口を示した。
ややあって現れたのは――宵闇よりも深い黒に春を纏った、目が眩むほどに美しい雌鹿だった。
熊に導かれ、蜂に添われ、まるで供物か生贄として貢がれるかのように、うつむき加減に歩む雌鹿。
鹿の王はそれが近付いてくるのをじっと待ち、そして烏と熊、蜂が左右に控えると、そっと黒い雌鹿に近付いた。
頭を垂れる雌鹿に、鹿の王様は優しく鼻先を近付け、顔を上げさせる。
雌鹿の緑の瞳と、鹿の王様の真紅の瞳が、そのまなざしが交わる。
その瞬間――二頭の鹿は、恋に落ちた。
(――好きだったなあ。花のヴェールの絵がすごく綺麗で。お話も素敵だった……)
その話にはまだ続きがある。しかし、それを待っていては湯が冷めてしまう。エレノアはテーブルの側まで行って、声をかけた。
「ソワレ、アレックス。あまり根を詰めすぎないようにね。ヘンドリックもみんなも、少し休憩しない?」
「エレノア様――」
ガラスのティーセットを乗せた銀盆を見たソワレは、慌てて立ち上がる。
「申し訳ありません! 給仕でしたら私が――」
「いけませんよ、学ぶ人が一番優先されるべきです。さあ、座って。よく見ていてくださいね」
「は……はい。しかし――こちらは……? ハーブティーとは、また違うようですが……」
ガラスのティーポットの中には乾燥した花や木の実が折り重なり、一見するとインテリアとして飾られるドライフラワーボトルにも見える。メイドたちも興味津々といった感じで、それを覗き込んだ。
「メインのお花は菊ですね」
「この青黒い実は、オリエンスブルーでしょうか。あとはドライフルーツにシナモン、ナツメ……蜜砂糖が入っているということは、甘い飲み物なのですか?」
「そうらしいわね。わたくしも初めていただくのだけれど――勉強で頭が疲れているときには、いいでしょう」
砂糖と花蜜を固め、割って使う蜜砂糖はかなり甘い。そのまま齧ろうものなら、喉が焼けつくほどに甘い。エレノアがそれを承知なのは、もちろん経験済みだからなのだが――レシピを見る限り、かなりの量が入っていたので多少は減らしたが、どうだろうか。
ティーポットのふたを取り、少し冷ましたケトルの湯をゆっくりと注いでいく。それをじっと見つめていた皆の表情が明らむのが、エレノアにもすぐに肌で感じられた。
「わあ――」
「すごい……!」
とくとくと湯が流れ込むにつれ、丸くふくらみ始めるイエローのソラナリューシュの花。層をなしていた花びらがほわりほわりとほころび、やがてタッキングドレスのように広がっていく。さらに蜜砂糖とオリエンスブルーの色素がゆらりと溶け出しポットの中が甘やかな夜の色に染まり始めると、その中でくるくると回る花は、まるで舞踏会で華麗に踊る貴婦人のように見えた。
ヘンドリックも目を細め、ソワレに告げる。
「なるほど――これはまさに、ポットの中の夜会。お前のためのお茶だ」
「ふふ。もてなすばかりでは、疲れてしまいますからね。ベリンダ先生に相談したところ、最近東洋から輸入されたというお茶の本からアレンジレシピを作って、材料を用立ててくださって――工芸茶とか、八宝茶というらしいです。材料は少しクローマチェスト風になっているけど、このレシピを見たときすぐにあなたが思い浮かんだの」
「あ――か、感激です……! ありがとうございます、エレノア様……!」
「どういたしまして。さあ、みんなでいただいてみましょう」
ポットとそろいのガラスのティーカップに、夜の甘露を分けていく。湯気とともに華やかな甘さが空気に広がり、それだけでも満たされた気持ちになる。底にいくにつれて深まる青は、見た目にも美しい。
『おっと。それならば学術の師である私からも、もう一つ面白い見せ物をいたしましょう。エレノア様、レモンとナイフをご用意いただけますか』
「ええ――レモンなら、ウィシュカがお料理によく使うから、厨房の戸棚にあったはずですが」
「私がお持ちいたします」
突然のアレックスの申し出に、すぐに駆け出して戻ってきたメリッサの手には、言われたとおりのもの。
『それを少し切って、ソワレ君のカップにしぼってくれたまえ』
「え? 普通にレモンティーにするということですか?」
『まあ見ていなさい、今のソワレ君にはさらにぴったりのお茶になるはずだから』
「え……な、なんでしょうか……?」
アレックスの悪戯そうな口調に怯えながら、ソワレはおそるおそるカップをメリッサの方に差し出す。メリッサもよくわからないまま、集まった皆を一度見回した後、三分の一ほどに切ったレモンを指先できゅっと摘まんだ。
「まあ――」
「ええっ!? 何ですかこれ――魔法ですか!?」
「すごい……!」
レモンの入ったカップの中が、青から紫、紫からピンクにとみるみる変化していく。繊細なカットが施された鋼玉《コランダム》のように透き通ったピンク色は、夜会をさらに華やかに彩った。
『なに、君が敬愛してやまないエレノア様が、わざわざ君のために淹れてくださったお茶だ。今の君の心には、このくらい鮮やかな花が咲き乱れているだろうと思ってね』
「あ、アレックス様……! でも、あの……本当に、すごいです! これも魔法なんですか?」
『いや、魔法よりかは錬金術に近い。レモンの酸味が、ときにこうして視覚的な色に作用する』
皆が盛り上がる中、エレノアはヘンドリックに向き直る。
「ねえヘンドリック――今度のガーデン・ティーパーティー、こちらをガルニエ侯爵ご一家にお出しするのはいかがでしょう。婚約者の方にも、きっとお喜びいただけるんじゃないかしら」
「そうですね……。まずは味と、ベリンダ医師のレシピを精査して、お花や色など良さそうなものがあれば」
「あ――そうでした。まずは味ね。それでは、改めて」
「いただきます」
皆で顔を見合わせて、ソワレは華やかなピンクのお茶を、他の者は淑やかな青のお茶を口に含む。
そして――再び皆で視線を交わしたあと、思わず笑いながら口々に叫んだ。
「あっまぁ……!」
「甘い……!」
「すっごくあまーい!」
それなのに、なぜかもう一口が欲しくなる。
秋雨に世界が濡れそぼつ中、城内の一角は和気あいあいとした空気に包まれ、また夜の闇に橙色の灯を滲ませるのだった。
しとしとと、優しい雨の音が耳に届く。エレノアが厨房の勝手口から外を覗くと、そのわずかな光を反射して、薄い雨が暗闇に浮かび上がった。
(〝愛の夜語り〟ね……今夜は冷えそう。でも、こんな雨の日は落ち着く。嫌いじゃない。あの羽根ペンをなくす前なら、すぐに部屋に戻って書き物をしていたのに)
夏の嵐とは打って変わった様相で名付けられた、秋の夜の長雨。土間に座りながらそれをぼうっと眺めていると、子供心にもどこかそわそわとした、絵本の一ページが思い浮かぶ。花の天蓋に覆われたベッドで、薄衣を纏い腕を絡めて見つめ合う精霊王とお妃様。その唇は二人ともに薄く開かれ、相手への愛しさをささやきあっている。
(秋の夜の長雨は、恋人たちを閉じ込める優しい檻……肉体を一つの褥に、思考を互いの愛に、心を幸福のぬくもりに……そんな一節だったかしら。……人肌ってそんな幸せを感じるほど、あったかいのかな……? いやいや――わたしったら何を考えてるの、恥ずかしい! じゃなくて、はしたない! ……でも昔の絵本て、大人っぽい芸術的な絵が多かったのよね……。昔は今より文字が読める人間が限られていたというし、知識人に向けて、画家や宗教家が描いたものが多かったからなのかしら……)
画家、という言葉に、嫌でも一人の人物の姿が思い浮かぶ。
(……何事もなければ、ヴァイス様やクロシェット様もそろそろお戻りになる頃よね。でもそうしたら、今年の秋冬は、いつにも増してきっと賑やかになるわ。旅のお話も聞けるかもしれないし……それは少し、楽しみかも。隊商宿ってどうなっているんだろう。北の山の方では、もう雪も降ったかな。さすがにまだ早いか。でもきっと、道中のあちこちでスケッチをしているんでしょうね……それならまだ、お戻りにはならないかも。絵のこととなると、他のことなんて見向きもしなくなるような、自由な方だもの……)
あれからヴァイスの絵はエレノアが自ら管理し、一日一回以上は必ず目視するようにしている。換気の間も目を離さず、置いていった大型の道具や他の荷物も、できるだけ手入れしている。
部屋はそのままでもいい気がしたが、寝食をともにするならば、やはり客間よりは別の部屋をアトリエとして提供した方がいいともヘンドリックからは言い含められていた。
(アトリエか……なんだか、今まで触れてこなかった特別な響き。これってもしかして、わたしもパトロンになるのかしら?)
ぽつりと鼻先に、大きな雫が一粒落ちてくる。
(お手紙……どうなっただろう。お受け取りいただけたかしら……)
雨の気配を頼りに二人を思い出していると、厨房からカタカタとケトルのふたが鳴る音が聞こえてきた。沸かしすぎてしまったようだ。
お茶の準備をしてエレノアが食堂に戻ると、談話室の方でもメリッサが囲炉裏に火を入れているところだった。その隣のテーブルでは、神話の本とノートを開くソワレに、蒼白い梟の姿をしたアレックスが偉そうに講釈を垂れている。そしてその向かいの席でそれを静かに見守り、しかし要所要所でトルテュフォレとの関わりを語ってくれるヘンドリック。
実のところそれは、エレノアも通ってきた道だった。最初はたくさんのおとぎ話から。それが神話になり、人の世の謳となり、物語となり、歴史となり、今の世に繋がってくる。
特にヘンドリックの渋みのある声によって結ばれていく「おとぎ話」と「自分の家」は、幼いエレノアにとって頭の中でぱちぱちと光が弾けるような、すさまじい知識欲をかき立てられるもので――アレックスが音を上げ、ヘンドリックからは早く寝るようにとたしなめられるほど、もっともっとと先の話をねだったものだった。
今はクローマチェストの創世神話を学んでいるらしい。特に花樹鹿のつがいによって、世界に均衡がもたらされる話をしているようだ。あの紋章もそうだが、美術や宗教、歴史に民俗学、たくさんの分野に関わってくる。
(そう――それで梟なのね。懐かしいな)
それはまだ世界ができたてで、なにもかもが不安定だった頃のお話。
花樹鹿ははじめ、雄も雌も体がすべて白い、ただの鹿だった。
そんな中、真っ黒な毛を持って生まれた雌の鹿が一頭いた。瞳の色も、皆は赤いのに自分だけ反転したように緑色だ。彼女は他の鹿たちと異なる自分の姿を恥じ、また家族までもが他の鹿たちから疎まれるのを憂い、山奥に姿を隠してしまった。
そんな彼女の優しい心を知った他の動物たちは彼女を優しく見守り、彼女はその動物たちとともに静かに、けれど穏やかに暮らしていた。
そんな彼女のお気に入りは、雪が解け、たくさんの色が生まれ出る春の奥山だった。
萌える若木や咲う花の高木の合間を軽やかにすり抜けて、舞うように春の精霊たちと戯れる雌鹿。春の精霊に祝福された彼女は、春を重ねるたびにとてもしなやかでみずみずしく、生命力にあふれた雌鹿に成長していった。
それを遠くから眺めながら、やがてその美しさに気付いた花の精霊たちは、漆黒の毛や角に自らの花や葉を飾りつける。
黒に際立って浮かぶ、色とりどりの花の輪郭。
他と違うことを責めるのでなく、嘆くのでなく――互いの違いを認め、互いの色を引き立て合う、その素晴らしさを雌鹿は知った。
やがて飾られた花々は彼女の角に根付き、雌鹿の一部となった。雌鹿は春の間、まるで花のヴェールを纏ったように華やかで美しい、特別な装いを見せるようになった。
そんなある春の夜、一匹の梟によって一つの報せがもたらされた。山の頂にある御殿に棲まう鹿の王様が、お妃様を探すために大きな舞踏会を開くので、皆、御殿に参内するように――と。
雌鹿たちは皆、喜び勇み、御殿に出掛けていった。
しかし黒い雌鹿だけは、行くことを拒んだ。自分が行ったら、また他の鹿に責められてしまうかもしれない。ようやく、変われたと思ったのに。昔に戻るのが怖い。今から出るのが怖い、と。
悲嘆する雌鹿に、他の動物たちは考えた。そして、今に留まろうとする黒い雌鹿に語りかけた。
同じように黒いものがともに行けば、怖くはない。自分たちが一緒に行くから、一度だけ王様に会いに行こう、と。
鳥も獣も虫も、黒いものが雌鹿の元へ集った。それに感激し、勇気をもらった雌鹿は、ゆっくりとではあったが立ち上がった。
代表して蜂が花のヴェールを手入れし、烏が道案内をし、熊が道を拓いた。
一方、御殿では華やかなパーティーが催されて、開け放たれた窓からは、様々な精霊たちも顔を覗かせていた。
しかし、鹿の王様は不機嫌そう。お気に入りが見つからないのか、誰ともダンスを踊らない。
雌鹿が怯え、見物に来た他の動物たちが不穏な空気を感じ始めた頃、御殿の入り口がにわかに騒がしくなった。動物たちの垣根が割れ、しかし皆、同じ方をずっと見つめている。
それに気付いた鹿の王様も、ついに玉座から降りてやってくる何かを迎える。
まず最初に現れたのは烏だった。烏は王様に恭しくお辞儀をして、その翼で広間の入り口を示した。
ややあって現れたのは――宵闇よりも深い黒に春を纏った、目が眩むほどに美しい雌鹿だった。
熊に導かれ、蜂に添われ、まるで供物か生贄として貢がれるかのように、うつむき加減に歩む雌鹿。
鹿の王はそれが近付いてくるのをじっと待ち、そして烏と熊、蜂が左右に控えると、そっと黒い雌鹿に近付いた。
頭を垂れる雌鹿に、鹿の王様は優しく鼻先を近付け、顔を上げさせる。
雌鹿の緑の瞳と、鹿の王様の真紅の瞳が、そのまなざしが交わる。
その瞬間――二頭の鹿は、恋に落ちた。
(――好きだったなあ。花のヴェールの絵がすごく綺麗で。お話も素敵だった……)
その話にはまだ続きがある。しかし、それを待っていては湯が冷めてしまう。エレノアはテーブルの側まで行って、声をかけた。
「ソワレ、アレックス。あまり根を詰めすぎないようにね。ヘンドリックもみんなも、少し休憩しない?」
「エレノア様――」
ガラスのティーセットを乗せた銀盆を見たソワレは、慌てて立ち上がる。
「申し訳ありません! 給仕でしたら私が――」
「いけませんよ、学ぶ人が一番優先されるべきです。さあ、座って。よく見ていてくださいね」
「は……はい。しかし――こちらは……? ハーブティーとは、また違うようですが……」
ガラスのティーポットの中には乾燥した花や木の実が折り重なり、一見するとインテリアとして飾られるドライフラワーボトルにも見える。メイドたちも興味津々といった感じで、それを覗き込んだ。
「メインのお花は菊ですね」
「この青黒い実は、オリエンスブルーでしょうか。あとはドライフルーツにシナモン、ナツメ……蜜砂糖が入っているということは、甘い飲み物なのですか?」
「そうらしいわね。わたくしも初めていただくのだけれど――勉強で頭が疲れているときには、いいでしょう」
砂糖と花蜜を固め、割って使う蜜砂糖はかなり甘い。そのまま齧ろうものなら、喉が焼けつくほどに甘い。エレノアがそれを承知なのは、もちろん経験済みだからなのだが――レシピを見る限り、かなりの量が入っていたので多少は減らしたが、どうだろうか。
ティーポットのふたを取り、少し冷ましたケトルの湯をゆっくりと注いでいく。それをじっと見つめていた皆の表情が明らむのが、エレノアにもすぐに肌で感じられた。
「わあ――」
「すごい……!」
とくとくと湯が流れ込むにつれ、丸くふくらみ始めるイエローのソラナリューシュの花。層をなしていた花びらがほわりほわりとほころび、やがてタッキングドレスのように広がっていく。さらに蜜砂糖とオリエンスブルーの色素がゆらりと溶け出しポットの中が甘やかな夜の色に染まり始めると、その中でくるくると回る花は、まるで舞踏会で華麗に踊る貴婦人のように見えた。
ヘンドリックも目を細め、ソワレに告げる。
「なるほど――これはまさに、ポットの中の夜会。お前のためのお茶だ」
「ふふ。もてなすばかりでは、疲れてしまいますからね。ベリンダ先生に相談したところ、最近東洋から輸入されたというお茶の本からアレンジレシピを作って、材料を用立ててくださって――工芸茶とか、八宝茶というらしいです。材料は少しクローマチェスト風になっているけど、このレシピを見たときすぐにあなたが思い浮かんだの」
「あ――か、感激です……! ありがとうございます、エレノア様……!」
「どういたしまして。さあ、みんなでいただいてみましょう」
ポットとそろいのガラスのティーカップに、夜の甘露を分けていく。湯気とともに華やかな甘さが空気に広がり、それだけでも満たされた気持ちになる。底にいくにつれて深まる青は、見た目にも美しい。
『おっと。それならば学術の師である私からも、もう一つ面白い見せ物をいたしましょう。エレノア様、レモンとナイフをご用意いただけますか』
「ええ――レモンなら、ウィシュカがお料理によく使うから、厨房の戸棚にあったはずですが」
「私がお持ちいたします」
突然のアレックスの申し出に、すぐに駆け出して戻ってきたメリッサの手には、言われたとおりのもの。
『それを少し切って、ソワレ君のカップにしぼってくれたまえ』
「え? 普通にレモンティーにするということですか?」
『まあ見ていなさい、今のソワレ君にはさらにぴったりのお茶になるはずだから』
「え……な、なんでしょうか……?」
アレックスの悪戯そうな口調に怯えながら、ソワレはおそるおそるカップをメリッサの方に差し出す。メリッサもよくわからないまま、集まった皆を一度見回した後、三分の一ほどに切ったレモンを指先できゅっと摘まんだ。
「まあ――」
「ええっ!? 何ですかこれ――魔法ですか!?」
「すごい……!」
レモンの入ったカップの中が、青から紫、紫からピンクにとみるみる変化していく。繊細なカットが施された鋼玉《コランダム》のように透き通ったピンク色は、夜会をさらに華やかに彩った。
『なに、君が敬愛してやまないエレノア様が、わざわざ君のために淹れてくださったお茶だ。今の君の心には、このくらい鮮やかな花が咲き乱れているだろうと思ってね』
「あ、アレックス様……! でも、あの……本当に、すごいです! これも魔法なんですか?」
『いや、魔法よりかは錬金術に近い。レモンの酸味が、ときにこうして視覚的な色に作用する』
皆が盛り上がる中、エレノアはヘンドリックに向き直る。
「ねえヘンドリック――今度のガーデン・ティーパーティー、こちらをガルニエ侯爵ご一家にお出しするのはいかがでしょう。婚約者の方にも、きっとお喜びいただけるんじゃないかしら」
「そうですね……。まずは味と、ベリンダ医師のレシピを精査して、お花や色など良さそうなものがあれば」
「あ――そうでした。まずは味ね。それでは、改めて」
「いただきます」
皆で顔を見合わせて、ソワレは華やかなピンクのお茶を、他の者は淑やかな青のお茶を口に含む。
そして――再び皆で視線を交わしたあと、思わず笑いながら口々に叫んだ。
「あっまぁ……!」
「甘い……!」
「すっごくあまーい!」
それなのに、なぜかもう一口が欲しくなる。
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