【第一部完結】精霊の幸う国の古城管理人

橘佐和

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第7章 特別なお客様

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 城内の厨房は、主に宿泊客がいるときや、イベントでお料理が大量に必要になるときに開かれる。使用人の居住棟にある厨房の倍以上の広さを持ち、設備も良い。また地下の貯蔵庫などは外気の影響を受けにくく、換気や掃除などこまめな管理は必要だが、果物や根菜、穀物の保存には現役で使用されている。
 いつかここで、城の真のあるじである王族のために腕を振るいたい――そうウィシュカが語ることもあったが、いまだ叶えられる様子はない。

 その厨房が近付くにつれ、砂糖や小麦の甘くこもった香りが空気に混ざり漂ってくる。エレノアはもう、それだけで踊り出したい気分になった。
(ああ、いい匂い。この匂いだけで美味しそう!)
 ウィシュカが作る焼菓子ガレットは、幼い頃からエレノアお気に入りのご褒美おやつだ。
 さっくりとした軽やかな音とともに、こくのあるバターと卵の風味が口の中いっぱいに広がり、優しい甘さがほどけていくクッキー。つるんとした愛らしい見た目のマカロンは、見ているだけでもわくわくしてしまう。口に入れればしゅわっとした独特な食感とともにガナッシュがとろけ、えも言われぬくちどけと味わいをもたらしてくれる。一晩置いたパウンドケーキは素材の味がしっとりと馴染み、大きな口で頬張ればそれだけで体中に幸せが満ちていく。特にレモンケーキは絶品だ。ケーキの焼き面に薄くアプリコットのジャムを塗り、そこに糖衣がけを施すのがウィシュカ流だった。
 試験でいい成績を収めたとか作文で賞をとったとか、そんなときは祖父やヘンドリックも多少の食べ過ぎには目をつむってくれた。ウィシュカもおまけで蜜酒漬けのさくらんぼを乗せて焼いてくれたり、ひときわ厚くカットしてくれたり。そそのかされて、蜜砂糖をかじったのもこの頃の話だ。
 ティーパーティーで残ったお料理はそのまま使用人たちで頂戴することになるので、実は皆、役得とばかりにその絶品お菓子を狙っている――が、残念なことに例年ろくに残った試しがない。結局、皆で材料費を出し合って別に作ってもらうことになり、そしてそこまでが使用人たちのティーパーティーの慣例であった。
 心だけはスキップをして――しかし体もたまにくるりとターンを決めながら城内を進み厨房の近くまで来ると、エレノアはすぐに異変に気付いた。
(――あら)
なにか、メイドたちの声が荒びている。ウィシュカの声も聞こえた。忙しいからつい大きな声を上げてしまったとか、騒音のする部屋で意思疎通を図るため大声を出したとか、そういう類ではない。
 エレノアは浮かれた態度を改めると、早足で厨房に向かった。
「あ――エレノア様!」
「メリッサ。今なにか、大きな声が聞こえたけれど」
「はい、今ご報告に伺おうかと」
――直後、厨房の入口からメリッサが飛び出してきて、そのまま厨房に通される。
 厨房は調理や盛り付けを行うエリアと、できあがったお料理を一時置きするためのテーブルが並ぶエリアに別れていたが、そのテーブルが並ぶエリアに入った瞬間、エレノアにはなにが起きたか大体の見当がついた。
「あらまあ、大変」
「エレノア様!」
 テーブルとテーブルの間の道を塞ぐように放置されたままのワゴン。その上には茶葉の缶やその銘柄を記したカード、砂時計、砂糖やジャム、蜂蜜のポットなどが所狭しと敷き詰められており、これらが出始めるといよいよ準備も佳境だと感じる。感じる――が、そのワゴンの向こうでは長方形の大きな銀盆サルヴァが一枚ひっくり返り、盤上に敷いていたレースドイリーごと焼き菓子が床に散乱していた。
「申し訳ありません――」
 エレノアの姿を認めると、それらを拾い集めていたクラヴィスとソワレが慌てて立ち上がる。
「一体なにがあったの?」
「申し訳ありません、私が――!」
「いえ」
がばりと頭を下げるソワレを制し、クラヴィスが続ける。
「ソワレには初めての不慣れな厨房で、私たちも準備に追われていたため指示が煩雑になってしまい、導線の共有が上手くできていないまま作業させてしまいました。申し訳ありません。お料理を運ぶワゴンを準備しようと銀盆を持った自分が、ワゴンの準備を終えて庭園に向かおうとしていたソワレに振り向きざまにぶつかってしまって。きちんと指示をしなかった、私の責任です」
「待ってください、それならメイド長である私の責任です! 私がもっと各々の状況を把握して、丁寧に教えていれば防げたミスです」
「そう――」
大方の予想どおりで、エレノアは頷きながら散乱したお菓子の前にしゃがむ。
 幸せさえ感じられるような甘やかな香りの中、空気が重く萎縮するのが肌に伝わってくる。
 使用人たちは誰もが責任を感じているが、一番悪いのは自分だ。ソワレも普段の仕事に慣れ始めて作業スピードも格段に上がり、ミスも少なくなっていたので大丈夫だと思い込んでしまっていた。メイドたちの指示も的確で、彼女たちに任せておけば安心だという思いもあった。きっとそれは、ソワレも同じであっただろう。
 けれどもそれは、あくまで日常の業務の話だ。今回は特別なイベント。初めての場所、初めての作業なのだから、自分がきちんと側について、彼女たちの負担を減らすべきだった。
 エレノアはその折り重なったクッキーの、一番上のバタークッキーをつまむ。
 ナッツやドライフルーツ、茶葉が混ぜ込まれたクッキー。少し贅沢なチョコレートのクッキー。そしてエレノアの大好きなバタークッキー。もっと凝ったお菓子もあるが、ウィシュカの神髄はこうしたシンプルなお菓子にこそ顕れると思う。
 エレノアは皆が見つめる中、躊躇なく指先のクッキーを口に放り込んだ。
「え――エレノア様!?」
「それ、床に――!」
あまりに突拍子のないエレノアの行動に、その場の重苦しい雰囲気を吹き飛ばす勢いで使用人たちが驚愕した声を上げる。――が、
「……んー! やっぱりウィシュカのクッキーは絶品だわ。小さい頃は、これが食べたくて必死になって勉強していたのに。今は役得ね」
「……エレノア様」
本当に幸せそうに頬を抱き、にこにことしながらクッキーを食むその姿に、皆、一様に脱力して泣き笑いのような表情を浮かべた。
 立ち上がったエレノアは家令としての振る舞いに戻り、一人一人に指示を出す。
「メリッサ、ウィシュカは?」
「お料理の数を減らすわけにはいかないと、明日以降の材料を持ち出して、時間内にお出しできるお菓子を新たに作り直すそうです。先程はそのご報告と、許可を頂戴しに伺うところでした」
「結構です。トルテュフォレは王家の威信も背負っています。今の難しい時世で、間違っても城が窮しているなどとおかしな噂が立たないよう、出すべきときには出さないとね。ウィシュカに構わないと伝えてちょうだい。あと、クッキーは最高の出来栄えだったと」
「――はい!」
「クラヴィス、とにかくここを片付けてしまいましょう。手伝います。ソワレは少し二人で話しましょうか。とりあえず、その紅茶のワゴンをヘンドリックに届けてちょうだい。わたくしもすぐに参ります」
「はい……申し訳ありませんでした」
まるで親に叱られた子供のようにうなだれ、小さくなったように見える背を見送って、エレノアはクラヴィスと向き合いクッキーを拾い集める。
「申し訳ありません……家令であるエレノア様に、このようなことを」
「いいのよ――それよりクラヴィス、さっきヘンドリックから聞いたわ。テーブルに、精霊の席を作ってくれたこと。ヴァイス様やクロシェット様がいたら、きっと喜んだと思うわ」
「いえ――あ、あれは、別に。彼らのためにしたわけではありませんので」
「ふふ、そう? でもきっと初めてのティーパーティーに、精霊たちも今頃声を掛け合っておめかししていると思うわ。わたくしが家令のときに、こんなにも素敵でトルテュフォレにふさわしいおもてなしを創ってくれたこと、感謝いたします。ありがとう」
「エレノア様――」
「人を育てるって、難しいわね。自分たちはわかっているつもりでも、いざ教えようとすると、伝えたいことが伝えきれなかったり。わたくしも配慮が足りず、ごめんなさい。でも……ソワレはいい先輩に恵まれて、幸せだわ」
めったに取り乱さないクラヴィスの顔が、くしゃっと歪む。それから静かに頷くと、先程のエレノアのように床に触れていないクッキーをつまみ、かじった。
「美味しい?」
「はい。最高です」
ちゃっかり一番コストのかかるチョコレートクッキーを選んでいるあたり、さすがしたたかなトルテュフォレのメイドだ。仕込んだのはヘンドリックだったが、しっかりと物の価値についての教育が行き届いている。
 クッキーを飲み込んだクラヴィスは改めて頭を下げると、再び手を動かし始める。
「ソワレ、朝からかなり緊張しているようでしたので……よろしくお願いします。あの子の場合、落ち着いて物事にあたればそれほど変な失敗もしないので――必要以上に気に病んでいないといいのですが」
「そうね……ソワレの心は、この城の誰よりも繊細だから。ウィシュカのお腹の半分くらいには、図太くなってもらわないとね」
 冗談めかして言えば、クラヴィスの顔にもようやく笑みが戻る。エレノアはそれを見届けると、改めてソワレのいる庭園へと足を向けるのだった。
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