銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

銀色の湖

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馬車のリズムに揺られながら、車内には静寂が満ちていた。 向かいに座るヴォルフの視線を感じ、エリアスは居心地の悪さに膝の上で指を絡ませる。 
すると、ヴォルフが不意に口を開いた。

「やはり、その色はよく似合う」

低い声が狭い空間に響く。

「私の見立ては間違っていなかった。君が着てくれて嬉しいよ」

その言葉に、エリアスはハッとした。 そうだ、自分はまだ礼すら言っていなかった。 一方的に贈られた高価な品々を、ただアンナに着せられて出てきただけだ。 礼儀知らずにも程がある。

「申し訳、ありません……!」

エリアスは深く頭を下げた。

「お礼を、何よりも先に申し上げるべきでした。このように高価なものを頂戴し、さらに身に余るお言葉まで……本当に、ありがとうございます」 
「エリアス」

ヴォルフの手が伸びてきて、エリアスの固く握りしめた手をそっと包み込んだ。 
そして、優しく引かれるままに顔を上げさせられる。

「なぜ、そんなに他人行儀なんだ」
 「え……」 
「謝る必要などない。今まで君と話す時間を作れなかったのは、私の不手際だ。それに、贈り物は私の趣味のようなものだ。君に何が似合うか想像して選ぶのは、存外楽しい」

ヴォルフの声は驚くほど優しかった。 そして、至近距離で視線がかち合う。

結婚式の時でさえ、これほど近くで目を合わせたことはなかった。 
彼のアイスブルーの瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいて、美しい。 
その瞳の中に、怯えたように目を見開く、みすぼらしい自分の姿が映り込んでいるのが見えた。

(なんて、綺麗な目なんだろう)

自分への劣等感に押しつぶされそうになりながらも、エリアスはその瞳から目を逸らすことができなかった。 
強い引力に捕らえられたように、いつまでも見ていたいと願ってしまう。

エリアスが言葉を失って見つめていると、ヴォルフの大きな手が、エリアスの手から離れ、そっと頬へと伸びた。 
指先が輪郭をなぞる。 その熱に、エリアスは金縛りにあったように動けなくなる。

ガタンッ――!

その時、車輪が石に乗り上げたのか、馬車が大きく揺れた。 バランスを崩したエリアスの体が、前へと投げ出されそうになる。

「っと、危ない」

ヴォルフの長い腕が伸び、エリアスの身体を抱き留めた。 固い胸板に顔が押し付けられる。

(……っ!)

瞬間、エリアスの鼻腔を強烈な香りが満たした。 それは、香水のような人工的なものではない。 もっと本能の深い部分を揺さぶる、圧倒的な強者の香り。 
雨上がりの森のような、静謐でありながらも力強い、アルファの匂いだった。

エリアスにとって、初めて間近で感じる「夫」の匂い。 心臓がおかしいほど早鐘を打った。 怖い、と思うはずなのに。 
なぜか、その匂いに包まれていると、震えていた心が凪いでいくような、不思議な安らぎを覚えた。

「大丈夫か?」

頭上から降る声に、エリアスは弾かれたように身体を離した。

「は、はい……申し訳ありません」
 「いや、怪我がないならいい。……着いたようだ」

馬車が停止する。 ヴォルフは乱れた襟元を直すこともなく、先に降りて手を差し出した。 エリアスはまだ高鳴る鼓動を必死に抑えつけながら、その手を取った。

馬車から降りたエリアスは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。

「これは……」

そこは、森に囲まれた巨大な湖だった。 風はなく、鏡のように凪いだ水面が、陽の光を受けてキラキラと輝いている。 その輝きは、隣に立つヴォルフの銀髪と同じ色に見えた。 どこまでも透明で、冷たく、けれど目が眩むほどに美しい。

「爵位と共に与えられた領地の中で、私が最も気に入っている場所だ」

ヴォルフが湖を見つめながら言った。

「屋敷に籠りきりでは気が滅入るだろう。まずは君に、この地の美しいところを知ってほしかった」

その言葉に、エリアスの胸が温かいもので満たされた。 アンナの言っていたことは本当だったのだ。 
この人は、ただ外面が良いだけではない。 「妻」という役割を演じさせている自分に対しても、少しでも快適に過ごせるようにと、こんな場所まで連れてきてくれた。 その配慮が、痛いほど嬉しかった。

エリアスは、今度こそ逃げずに、ヴォルフの方を向いた。

「……こんなに美しい景色は、初めて見ました」

ヴォルフの目を見つめ、心からの言葉を紡ぐ。

「連れてきてくださって、本当にありがとうございます。旦那様」

すると、ヴォルフの目元がふわりと緩んだ。 厳格な仮面が解け、少年のような柔らかな笑みが浮かぶ。

「――そうか。君に気に入ってもらえてよかった」

ドキン、と心臓が跳ねた。 その笑顔はあまりにも無防備で、そして破壊的なまでに魅力的だった。 直視し続けることができず、エリアスは慌てて湖の方へ視線を戻した。

頬が熱い。 指先が震える。

(ああ、だめだ)

エリアスは湖面の輝きを見つめながら、自分自身に強く言い聞かせた。

この人は優しい。 誰に対しても誠実で、使用人にも、そして間違いで娶った妻にさえも、こうして優しさを分け与えてくれる。 けれど、それを特別だと思ってはいけない。 これは「良き領主」「良き夫」としての振る舞いであって、自分への愛ではないのだから。

この結婚生活に、愛も幸せもありはしない。 あるのは、形式だけの妻という立場と、優しい主人という関係性だけ。

(勘違いするな。期待するな)

そうしなければ、いつか必ず壊れてしまう。 エリアスは胸に湧き上がる淡い感情に蓋をして、きつく唇を結び、ただ黙って美しい湖を見つめ続けた。
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