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第1章
呼び名
湖を後にし、再び馬車は走り出した。
心地よい揺れの中、ヴォルフが提案した。
「昼時だ。近くに評判の良い店があるから、そこで食事にしよう」
連れて行かれたのは、大通りから一本入った場所にある、隠れ家のようなレストランだった。
重厚な扉を開けると、中は照明を落とした落ち着いた空間が広がっている。 幸いなことに客は少なく、各席が衝立や観葉植物で仕切られていた。
エリアスは密かに胸を撫で下ろした。
これなら、輝くようなアルファの隣に、自分のような陰気な男が並んでいる不釣り合いな光景を、他人に見られずに済む。
「ここの料理は、素材の味を生かしていて美味いんだ。君の口にも合うといいが」
運ばれてきたのは、目にも鮮やかな料理の数々だった。 彩り豊かな前菜、香ばしく焼かれた魚料理。 実家にいた頃のような、得体の知れない煮込み料理とは違う。 少しずつだが、エリアスは食事を楽しむ余裕ができ始めていた。
食事中、ヴォルフはゆったりとした口調で、エリアスに問いかけてきた。
「エリアスは、好きなものはあるか?」
「え……」
「好きな食べ物、嫌いなものや、好きな色、興味のあることでもいい。君のことを教えてくれ」
エリアスは言葉に詰まった。
好きなものなど、考えたこともなかったからだ。 与えられるものを無心で食べるしかなかったし、服はすべて弟のお下がりか、地味な色のものばかり。 動物だって、窓の外を飛ぶ名もなき鳥か、部屋の隅を走るネズミくらいしか見たことがない。
(……正直に言えば、彼を困らせるだけだ)
エリアスは答えを探し、当たり障りのない嘘を並べた。
「……淡い色の花が好きです。動物は、遠くから眺める分には」
「そうか。屋敷の庭師に言って、季節の花を増やさせよう」
ヴォルフは無理に聞き出そうとはせず、エリアスの拙い言葉に耳を傾けてくれた。
その穏やかな空気に、エリアスの緊張も少しずつ解れていく。
「……実家では、よく本を読んでいました」
「本?」
「はい。特に、この国の歴史についての書物を」
それは嘘ではなかった。
薄暗い部屋に一日中閉じ込められていたエリアスにとって、父の書庫からこっそり持ち出した古い歴史書だけが、外の世界を知る唯一の窓だったのだ。
すると、ヴォルフが興味深そうに身を乗り出した。
「それは素晴らしい。実は、君に頼みたいと思っていたことがあるんだ」
「私に、ですか?」
「ああ。知っての通り、ハルトマン家は爵位を得て日が浅い。商売の駆け引きは得意だが、貴族社会のしきたりや古い歴史については、まだ疎いところがある」
ヴォルフは真剣な眼差しで続けた。
「これから社交界に出ていく上で、君の知識を借りたい。歴史やマナーについて、私の相談役になってくれないか」
エリアスは瞬きをした。
社交界での人付き合いは皆無だったが、知識だけはある。 両親がエリアスを少しでも高く売るために、マナーや教養だけは厳しく叩き込んできたからだ。
まさか、自分を縛り付けていたその鎖が、この人の役に立つ日が来るとは。
「……私でよろしければ。微力ながら、旦那様のお役に立てるよう努めます」
エリアスが頷くと、ヴォルフは嬉しそうに微笑んだ。
そして、ふと思い出したように言った。
「その『旦那様』というのを、やめてくれないか」
「え?」
「名前で呼んでくれ。ヴォルフと」
エリアスは息を呑んで首を横に振る。
「とんでもございません、ヴォルフ様! 私などが呼び捨てにするなんて、そんな失礼なこと」
「夫婦なのだから、失礼なことなどない。それとも、私が君をエリアスと呼ぶのは不快か?」
「いえ、そんなことは……」
「なら、君もそうしてくれ」
ヴォルフは譲らなかった。 真っ直ぐな瞳が、エリアスを捕らえて離さない。
「エリアス。これからも、私は君のことを知っていきたいと思っている。だから、まずは呼び方から距離を縮めていこう」
逃げ場はなかった。 エリアスは膝の上で拳を握りしめ、長い逡巡の末、蚊の鳴くような声で絞り出した。
「……分かりました、……ヴォルフ」
その瞬間、ヴォルフは満足そうに目を細めた。
「ああ。いい響きだ」
その笑顔を見た瞬間、エリアスの胸に、焼けるような恐怖が走った。
(……怖い)
実家という地獄から連れ出してくれただけで、十分すぎるほどの恩恵だった。 雨風を凌げる部屋、温かい食事、優しい使用人たち。 それだけでも分不相応なのに、この人はさらに、対等な関係や、心の交流まで求めてくる。
贅沢で、優しくて、温かくて。 この心地よさに慣れてしまったら、いつか突き落とされた時、自分はもう二度と立ち上がれないだろう。
距離なんて、縮めてはいけないのに。
ズキリ、と痛みが走る。 エリアスはテーブルの下で、自分の左手の甲に、右手の爪を思い切り立てていた。
皮膚が破れ、血が滲む感触がある。 その鋭い痛みだけが、浮つきそうになる心を現実に繋ぎ止めてくれる。
(勘違いするな。お前はただの、形式だけの妻だ)
愛されているわけではない。 彼が優しいのは、彼自身の美徳であって、自分に価値があるからではない。
決して、溺れてはいけない。
エリアスは血の滲む拳を隠したまま、顔を上げた。
そして、ヴォルフに心配をかけないように、不快な思いをさせないように、完璧な仮面を被って微笑んでみせた。
「……ふふ。少し、照れくさいですね」
その笑顔の下で、エリアスの心は悲鳴を上げていた。
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