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第1章
義務と生贄
しおりを挟む屋敷に戻った頃には、日はすっかり傾いていた。 夢のような外出時間は終わり、現実へと引き戻される。
玄関ホールでコートを預けながら、エリアスはヴォルフに向き直り、深く一礼した。
「今日は、本当にありがとうございました。お忙しい中、私如きのために貴重なお時間を割いていただき……申し訳ありません」
「エリアス、謝罪は禁止だと言っただろう」
ヴォルフは苦笑しつつも、咎めるような色はなかった。
エリアスは「失礼いたしました」と小さく呟き、逃げるように自室へ戻ろうとした。 これ以上彼と一緒にいては、抑え込んでいる心が乱れてしまう。
早く一人になって、安心したかった。
だが、その足は止められた。
ヴォルフの手が、すれ違いざまにエリアスの手首を掴んだのだ。
「待ってくれ」
「……はい?」
「湯浴みを済ませたら、私の部屋に来てほしい」
エリアスの動きが、完全に停止した。 思考が真っ白になり、やがてじわじわと、その言葉の意味が脳裏に染み渡っていく。
(……ああ。そうか)
経験も知識もないエリアスでも、その意味は分かる。
夜、伴侶を寝室へ呼ぶ。
それは夫婦として、そしてオメガとアルファとしての「務め」を果たすことに他ならない。
エリアスは、この屋敷に来た日に考えたことを反芻した。
自分は愛されることのない身だが、オメガという性を持って生まれた以上、跡継ぎを産むことは当然望まれるだろう。
ヴォルフは商人だ。莫大な結納金を払った以上、その対価を求めるのは権利だ。
(可哀想に……)
エリアスが抱いたのは、恐怖よりも先に、ヴォルフへの同情だった。
こんなに立派で、美しく、誰からも慕われる男性が、こんな陰気で魅力のない「間違いの妻」を抱かなければならないなんて。
愛してもいない相手と肌を重ねるのは、彼にとっても苦痛な義務に違いない。
けれど、彼はそれを遂行しようとしている。 真面目な彼のことだ。
それもまた「夫としての責任」だと思っているのだろう。
エリアスは俯き、震えそうになる声を必死に押し殺して答えた。
「……分かりました」
肯定の言葉を聞くと、ヴォルフは満足そうに頷き、執務室の方へと歩いていった。
その背中を見送りながら、エリアスは自分が屠殺場へ引かれていく子羊のような気分になった。
部屋に戻ると、アンナが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、エリアス様!いかがでしたか?」
「ああ……綺麗な湖だったよ」
「まあ、素敵!それで、旦那様とはたくさんお話しできましたか?」
目を輝かせるアンナに、エリアスは淡々と、しかし重要な事実だけを告げた。
「アンナ。……湯浴みの後は、ヴォルフの部屋へ行くことになった」
一瞬、アンナがきょとんとし、次の瞬間、その顔がぱあっと花が咲いたように明るくなった。
「まあ!まあまあ!!ついに……!」
アンナは口元を両手で覆い、感激したように身を悶えさせた。
彼女にとって、それは愛し合う夫婦の甘い時間の始まりであり、待ちに待った進展なのだ。
「すぐに準備いたしますね!とびきり良い香りのオイルを使いましょう。お肌もすべすべにして……ああ、なんて喜ばしいことでしょう!」
嬉々として準備を始めるアンナの背中を見ながら、エリアスは胸が張り裂けそうだった。
違うんだ、アンナ。
これはそんな幸せなものではない。
ただの、冷たい儀式だ。
けれど、そんなことを言って彼女の笑顔を曇らせるわけにはいかない。
エリアスは、されるがままに磨き上げられた。 温かいお湯も、甘い香りのオイルも、今夜ばかりは死化粧のように感じられた。
身支度を整え、エリアスは一人、長い廊下を歩いていた。 足取りは鉛のように重い。 ヴォルフの私室は、屋敷の西側、最も奥まった場所にある。
一歩進むごとに、心臓の音がうるさくなる。 結婚式の日、結局何もなかったことに安堵していた自分がいた。
同じ部屋で過ごしたことも、隣で眠ったことすさえない。
そんな段階を飛ばして、いきなり身体を繋げることになるなんて。
(怖い……)
本能が警鐘を鳴らす。 痛いのだろうか。 彼は乱暴にするだろうか。
それとも、あの顔合わせや結婚式の時の冷たい落胆の目のまま、事務的に事を済ませるのだろうか。
どちらにしても、自分の心はまた削り取られることになる。
やがて、重厚な扉の前に辿り着いた。
主人の威厳を示すような、見上げるほど大きな扉。
エリアスはノックのための手を上げたまま、動けなくなった。
この扉を開ければ、もう後戻りはできない。
自分は完全に、彼の「所有物」として刻印されることになる。
逃げ出したい。 部屋に帰って、布団に包まって震えていたい。
けれど――。
(……私には、拒否する権利なんてない)
実家から救い出してくれた対価。
美味しい食事、温かい寝床、優しい言葉。 それらを与えてくれた彼に対し、自分が返せる唯一のものが、この身体と、子を成す機能だけなのだとしたら。
エリアスは、ぎゅっと唇を噛み締め、震える拳を握り直した。
そして、意を決して、硬い木板を叩いた。
コン、コン。
静寂な廊下に、乾いた音が響く。 それはまるで、エリアスの運命を決定づける判決の音のようだった。
「……入れ」
中から、低い声が聞こえた。 エリアスは震える手でノブを握り、ゆっくりと押し開けた。
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