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第1章
琥珀色の熱
しおりを挟む重厚な扉の内側は、予想に反して静謐な空間だった。
ヴォルフの私室は、彼という人間をそのまま形にしたような部屋だった。
華美な装飾は抑えられているが、床に敷かれたペルシャ絨毯、壁一面の本棚、そして部屋の中央に鎮座する革張りのソファなど、どれもが一級品であり、この屋敷の主が過ごすに相応しい威厳と品格が漂っている。
「……待っていたよ、エリアス」
部屋の奥から声がした。
エリアスは息を呑んだ。 そこにいたヴォルフは、いつもの完璧に整えられた姿ではなかった。
湯浴みを終えたばかりなのだろう。ナイトガウンを羽織り、銀色の髪はセットされずに濡れたまま額に落ちている。 その無防備な姿が、彼が持つ本来の色気を剥き出しにしていて、エリアスは直視できずに視線を彷徨わせた。
普段の「鉄壁の騎士」のような姿とのギャップに、心臓が大きく跳ねる。
「そこに座ってくれ。いいワインが開いているんだ」
ヴォルフが示したのは、暖炉の前の大きなソファだった。 ベッドではないことに、エリアスはわずかに安堵し、言われるがままに隣に腰を下ろした。
手渡されたグラスには、深いルビー色の液体が揺れている。
「口に合うといいが」
「いただきます……」
エリアスは恐る恐る口をつけた。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、滑らかな液体が喉を通り過ぎる。
社交界の付き合いで、安い酒を無理やり飲まされたことはあったが、これは全く別物だった。 果実の甘みと深み、そして心地よい余韻。知識のないエリアスでも、これがとんでもなく上質なワインであることは分かった。
「……美味しい、です」
「そうか。よかった」
素直な感想を漏らすと、ヴォルフは嬉しそうに目を細め、自分もグラスを傾けた。
それからは、昼間のレストランでの会話の続きのような、穏やかな時間が流れた。 ヴォルフは仕事の話や、領地の話をし、エリアスは相槌を打ちながらワインをちびちびと飲む。
次第に、アルコールが回ってきたのか、エリアスの思考はふわふわと漂い始めた。
それと同時に、強張っていた肩の力が抜けていく。 そして、ふと、ある考えに至った。
(……なんだ、そうだったのか)
緊張してここまで来た自分が、ひどく滑稽に思えてきた。
彼は、自分を抱くつもりなど最初からなかったのだ。
これだけの時間、酒を飲み、会話をしているだけ。 肌に触れようともしないし、寝室へ連れ込もうともしない。
オメガとしてすら、求められていない。
それが正解なのだろう。
ヴォルフは家柄という「看板」のために自分を娶っただけだ。 跡継ぎを作るためなら、きっと別の場所から、美しく優秀なオメガか、あるいは愛人を招くつもりなのだろう。
その時になって、間違って娶った妻――エリアス――が騒ぎ立てないように。 こうして優しくして、ワインを振る舞い、関係を良好にしておくことで、「ここまでしてやったのだから、文句はないだろう」と無言の契約を結んでいるのだ。
(ああ、それなら……納得だ)
エリアスは心底安心した。
自分が愛されることも、求められることもない。 ただの同居人として、穏便に済ませようとしているだけ。
それなら、これ以上傷つくこともないし、期待することもない。
これで、少しも勘違いせずに済む。
彼が見せる笑顔も、優しさも、思いやりも、贈り物も。 すべては「円満な関係」を維持するための対価であり、演技なのだ。
今、ソファの背もたれ越しに触れているこの手も、ただのポーズで…………。
思考がワインの熱に溶けていく。 心地よいまどろみの中で、エリアスが瞳を閉ざしかけた、その時だった。
ふわり、と気配が動いた。 いつの間にか、横並びだった距離が詰められている。
「……っ?」
熱い掌が、エリアスの頬に触れた。 驚いて顔を上げると、そこには逃げ場がないほど近くに、ヴォルフの顔があった。
「エリアス」
低く、甘い声で名前を呼ばれる。 脳が理解するよりも早く、ヴォルフの顔が傾いた。
唇が、重なった。
「ん……っ」
結婚式での、あの儀式的で乾いたキスとは違った。 唇の形を確かめるように押し付けられ、熱く、柔らかく、そして深く絡め取られる。
口の中に、同じワインの味が広がった。 アルコールの香りよりも強く、ヴォルフ自身の匂いに包み込まれる。
エリアスは石のように固まったまま、何が起きているのか分からずにいた。
抱くつもりなどないはずなのに。 演技のはずなのに。 どうして、こんなに丁寧で、情熱的なキスをするのだろう。
唇がわずかに離れる。 銀糸の髪が、エリアスの頬をくすぐった。 目の前には、ヴォルフのアイスブルーの瞳がある。
馬車で見つめ合った時と同じ、吸い込まれそうなほど美しい瞳。 けれど、今は決定的に違うものがあった。
熱だ。 火傷しそうなほどの熱量を含んだ瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
そこには、エリアスが予想していた「哀れみ」も「計算」もない。 ただ純粋で、切実な渇望だけが揺らめいていた。
「……ヴォル、フ…………?」
震える声で呼ぶと、ヴォルフは愛おしそうに目を細め、再び顔を寄せた。
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