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第1章
終わりの予感
しおりを挟むその日の夜、ヴォルフはいつもより早い時間に帰宅した。
当然のように、夕食は二人で摂ることになる。
昨夜あんなことがあったばかりで、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったが、ヴォルフは拍子抜けするほど普段通りだった。
「身体は、辛くないか?」
メインディッシュが運ばれてきた頃、ヴォルフが気遣わしげに尋ねてきた。
「今朝は、君を起こさずに出てすまなかった。怒っているか?」
「い、いえ!とんでもないです」
エリアスは慌ててナイフを置いた。
「私の方こそ、ヴォルフが出かけるのに気づかないほど寝入ってしまって……妻として、あるまじき失態です。本当に申し訳ありません」
「……そうか。ならいいんだが」
ヴォルフは少し寂しそうな、微妙な表情を浮かべたが、エリアスはそれを「使用人の手前、完璧な妻を演じてくれなくて困る」という意思表示だと受け取った。
もう二度とないことなのだから、そんなに謝らなくてもいいのに。
やはり彼は真面目な人だ。一夜限りの関係であっても、最後まで誠実であろうとしている。
グラスの水を飲み干すと、ヴォルフが改まった様子で切り出した。
「実は、来週末に王宮主催の夜会がある。我が家にも招待状が届いているんだ」
「夜会、ですか」
「ああ。そこで、新興貴族としての挨拶も兼ねて出席しようと思うのだが……エリアス、君に同行してほしい」
エリアスは心の中で小さく溜息をついた。
社交界の華やかな場に、自分のような地味で陰気な妻を連れて行かなければならないなんて。
ヴォルフへの同情で胸が痛む。
しかし、これは「ハルトマン家の夫婦」としての公務だ。拒否権などない。
「……承知いたしました」
「ありがとう。それから、当日の衣装だが、すべて私に選ばせてくれないか」
ヴォルフの申し出に、エリアスは納得した。
(なるほど、そういうことか)
部屋には既に一生分とも思えるほどの衣服が贈られているが、それでもまだ足りないのだ。
公の場で恥をかかないよう、自分のセンスで完璧に「修正」したいのだろう。
少しでも見栄えが良くなるように、彼なりに必死に考えてくれているのだ。
「分かりました。全て、ヴォルフにお任せします」
「ああ。君ならきっと、何でも着こなしてくれるはずだ」
ヴォルフは満足そうに微笑んだ。
その笑顔すら、エリアスには「よし、これで体裁は整う」という安堵に見えた。
食後のデザートを終え、エリアスが退席しようと立ち上がった時だった。
「エリアス」
「はい?」
「今夜も、湯浴みを済ませたら私の部屋においで」
その言葉に、エリアスの動きが止まった。
予想外の誘いだった。
昨夜、義務は果たしたはずだ。
それなのに、なぜまた?
ヴォルフの真剣な眼差しを見て、エリアスはハッとした。
(……ああ。話があるのか)
昨夜は身体の関係だけで終わってしまった。
だから今夜は、今後のことについて――エリアスの処遇について、きちんと説明するつもりなのだろう。
使用人たちが聞き耳を立てているダイニングでは話せない内容。
例えば、「実は迎え入れたい人がいる」とか、「これからは食事も別で食べる」といった、契約の変更についての話に違いない。
「……分かりました」
エリアスは静かに頷いた。
それが、宣告を受けるための呼び出しだと確信して。
「まあ!今夜もですか!?」
部屋に戻り、事情を伝えると、アンナは昨夜以上に張り切って準備を始めた。
鼻歌交じりに新しい香油を選び、エリアスの肌を念入りに磨き上げる。
「旦那様ったら、本当にエリアス様に夢中なんですね。ふふ、今夜はどんな素敵な夜になるんでしょう」
アンナの無邪気な言葉が、今のエリアスには痛い。
ごめんね、アンナ。
君のこの努力は、今夜は無駄になるんだ。
抱かれるために行くんじゃない。
「もう君を抱くことはない」と告げられに行くのだから。
申し訳なさと、ずしりと重い諦めを抱えながら、エリアスは湯浴みを終えた。
再び、重厚な扉の前に立つ。
昨夜とは違う、冷たい緊張感が指先を震わせた。
この部屋に入れば、現実と向き合うことになる。
甘い夢は終わりだ。
いや、そもそも始まってすらいなかったのだ。
昨夜の情熱も、優しいキスも、エリアスが勝手に「思い出にしたい」と願って、美化していただけ。
ヴォルフにとっては、ただの義務的な作業だった。
そしてそれは、昨夜が最初で最後だと、これから通告される。
「……ふぅ」
息を吐く。
大丈夫。覚悟はできている。
むしろ、はっきりと言ってもらった方が楽だ。
「承知しました。貴方の自由になさってください」と、笑顔で頷くだけでいい。
エリアスは震える手を握りしめ、自分に言い聞かせるように、ゆっくりとノックをした。
コン、コン。
その音は、まるで終わりの鐘のように響いた。
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