銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

優しさという名の刃

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「……入っておいで、エリアス」

ノックの音に応えて扉を開けると、ヴォルフが柔らかな笑みで出迎えてくれた。
その表情は、昨日部屋に招き入れられた時よりもさらに穏やかで、慈愛に満ちているように見えた。

けれどエリアスには、その優しさが、これから言い渡される残酷な事実への前置きのように感じられた。
死刑囚に最後に与えられる、甘い菓子のようなものだ。

「さあ、座って」

促され、エリアスはソファに腰を下ろした。
昨夜とは違い、テーブルの上にワインはない。
やはり、酔って誤魔化すような話ではないのだ。

ヴォルフも隣に座り、エリアスに向き直ると、少し居住まいを正すように改まった表情になった。

「今日は、少し真面目な話があるんだ」
「……はい」

心臓が冷たく収縮する。
ついに、来た。
エリアスは膝の上で拳を握り、どんな言葉でも受け止められるよう覚悟を決めた。

「少し前にアンナから聞いたのだが……君のヒートが、そろそろ来るそうだな」

予想外の言葉に、エリアスは目を丸くした。
別れ話や、今後の処遇の話ではなかったのか。

「今までは、薬で抑えてきたと聞いた。周期は三ヶ月に一度だと」
「あ……はい。そうです」

言われてみれば、確かにそうだった。
あまりに色々なことがありすぎて忘れていたが、カレンダーを思い出せば、今月末頃に当たる。
来週の夜会が終わった、その次の週くらいだ。

(……そういうことか)

エリアスは納得して、小さく笑みを漏らした。
確かに、夫婦としてヒートをどう過ごすかは、管理上の大事な話題だ。
発情したオメガのフェロモンは、屋敷中のアルファに影響を与えかねない。
ヴォルフは真面目な人だ。屋敷の主人として、そのリスク管理をしっかりしておきたいのだろう。

そんなに改まって聞かなくても、誰かを巻き込んだりなんてしないのに。
エリアスは安心させるように、明るく答えた。

「はい、だいたい夜会の翌週くらいですね。実家から持ってきた薬が多少ありますから、それを飲んで部屋に籠るつもりです。大丈夫ですよ」

そう言って、にっこりと笑って見せた。
これで彼は安心するはずだ。
しかし、ヴォルフの反応は予想外のものだった。
彼は眉間の皺を深くし、訝しげな顔でエリアスを見つめたのだ。

「……大丈夫、とは?」
「え?」
「何が、大丈夫なんだ?」

問い返され、エリアスは戸惑った。
言葉通りの意味だ。なぜ分からないのだろう。

「え、だって……夫として、妻のヒートを処理しないといけないって、責任を感じてくださっているんでしょう?」

エリアスは諭すように続けた。

「ご安心ください。私は今までずっと、一人で適当な薬を飲んで耐えてきましたから。今回もいつも通りにするだけです。アンナにも言いましたが、誰にも迷惑はかけないつもりです。ヒートが終わるまでは誰も部屋には近づかないでほしい、それだけです」

完璧な回答だと思った。
これなら、彼の手を煩わせることは何一つない。
そう言い切って、エリアスはヴォルフを見つめた。

しかし、ヴォルフの顔から険しさは消えなかった。
それどころか、彼は切なげに眉を寄せ、エリアスの手を取った。

「……どうしたんですか?」

エリアスが尋ねると、ヴォルフはエリアスの手を両手で包み込み、真摯な瞳で告げた。

「エリアス。すまない……私は貴族としてだけではなく、夫としても半人前だが」

ヴォルフは言葉を区切り、強く言った。

「エリアスのヒートは、夫として、一緒に過ごしたいと思っている」
「――は?」

エリアスは思考が停止した。
思わぬ言葉に、呆然とするしかない。
どういう意味なのか、理解できない。

ヒートを一緒に過ごす?
それはつまり、発情期の間ずっと、身体を繋げ続けるということだ。
番でもない、愛してもいない相手と、数日間も寝食を忘れて交わり続けるなんて、正気の沙汰ではない。

「ヴォルフ、何を……貴方には、私よりも優先すべき仕事がたくさんあります。そんな、私のヒートなんかに付き合っていたら、貴方の時間を無駄に……」
「君との時間は、」

ヴォルフが、強い口調で遮った。
ビクリと肩を揺らすエリアスに対し、ヴォルフはすぐに声を和らげ、けれど揺るぎない声で言った。

「君との時間は、どんなことでも無駄なんかじゃない」
「……っ」

エリアスは混乱の極みにあった。
なぜ?
どうしてそこまで言うんだ?
義務感? 責任感? それとも、昨夜の続き?
分からない。
けれど、真っ直ぐに向けられたその瞳から、逃げ出すことも、拒むこともできなかった。
それ以上、ヴォルフはエリアスを追い詰めたり、問い詰めたりはしなかった。
ただ、静かに身を寄せ、エリアスを優しく抱きしめた。

「……」

温かい腕の中。
アルファの匂いと体温に包まれる。
本来なら、世界で一番安心できる場所のはずだ。
けれど、エリアスが感じたのは、震えるほどの「恐怖」だった。

怖い。
ヴォルフが義務で与えてくるこの優しさも、温もりも、甘い言葉も。
エリアスにとっては、心臓を抉る鋭い刃のようだった。

これ以上優しくされたら、勘違いしてしまう。
期待してしまう。
そして、その期待が裏切られた時、自分は今度こそ死んでしまうだろう。
彼は無自覚に、優しさという凶器でエリアスを殺そうとしている。

しばらく抱きしめられた後、ヴォルフはエリアスの背中をぽんぽんと撫でた。

「……今夜は、このまま一緒に寝よう。昨夜は無理をさせたから、何もしないよ」

そう言われ、抵抗する気力もなく、エリアスはベッドへと導かれた。

「今夜は」ということは、またがあるという意味なのか。
そもそもヒートを一緒に過ごすという言葉は、本気なのか。
何も分からないまま、エリアスはヴォルフに背を向けて横になった。

カサリ、とシーツが鳴る。
背後から、大きな身体が密着してきた。
ヴォルフの腕がエリアスの腹部に回され、背中越しに抱きしめられる。

「おやすみ、エリアス」

耳元で囁かれ、首筋に温かい息がかかる。
怖いくらい、温かくて、力強くて、良い匂い。
その心地よさが、今はただ恐ろしかった。
やがて、ヴォルフの呼吸が深く、規則正しくなった。

彼が完全に眠りに落ちたことを確信してから、エリアスは唇を噛み締めた。
溢れそうになる声を必死に殺し、静かに、静かに涙を流した。

(……まだ、終わらせてくれないのか)

今夜、全て「終わり」にされると思ったのに、そうじゃなかった。
でも、それは救いではない。
これからも、いつか必ず来る「終わりを告げられる日」を待つ時間が、残酷に引き延ばされただけだ。
毎日毎日、この甘い毒のような優しさに怯えながら、首を洗って待たなければならない。

(勘違いするな。絶対に)

エリアスは濡れた枕に顔を押し付け、自分自身に強く言い聞かせた。
この温もりも、彼の言葉も、全ては彼の「誠実さ」という名の演技だ。
愛されているわけじゃない。

この広い屋敷に、ヴォルフの腕の中にさえ、本当に自分のものなんて、ひとつもないのだから。
そう思いながらも、背中から伝わるヴォルフの体温と、安心しきった寝息につられて、エリアスの意識は抗いがたく微睡みへと引きずり込まれていった。

涙の跡も乾かぬまま、彼はまた深い眠りにつく。
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