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第1章
格の低い妻
しおりを挟む曲が終わり、夢のような時間は幕を閉じた。
エリアスは名残惜しさを隠して、ヴォルフから身を離した。
「喉が渇いただろう。飲み物を持ってくるから、少しここで休んでいてくれ」
「はい。ありがとうございます」
ヴォルフはエリアスを壁際の目立たない場所へ誘導し、優しく肩をポンと叩いてから、人混みの中へと歩いていった。
その背中を見送り、エリアスはふぅ、と長く息を吐いて壁に背を預けた。
緊張の糸が切れ、ドッと疲れが押し寄せてくる。
けれど、それは心地よい疲労感だった。
ヴォルフが戻ってくるまで、大人しく待っていよう。
そう思い、エリアスは何気なく彼が向かった先へ視線をやった。
「……あ」
視線の先、給仕からグラスを受け取ろうとしていたヴォルフの周りに、いつの間にか人の壁ができていた。
それも、ただの人だかりではない。
華やかに着飾った、美しいオメガたちだ。名家の令嬢や令息たちが、まるで蜜に群がる蝶のように、ヴォルフを取り囲んでいる。
距離があるため、何を話しているかは聞こえない。
だが、扇の隙間から見える熱っぽい視線や、艶やかな笑みを見れば、エリアスでも容易に想像がついた。
彼らは、ヴォルフを狙っているのだ。
先ほどのダンスを見て、彼らは理解したのだろう。
あの成り上がりの元商人は、金で買った地味なオメガに対してさえ、あそこまで優しく、大切に振る舞うのだと。
ならば、もっと若く美しく、家柄も良い自分が彼の妻になれば、どれほど可愛がられるだろうか。
どれほど贅沢で、甘やかな生活が待っているだろうか。
彼らの瞳には、ヴォルフへの恋心以前に、彼の持つ圧倒的な経済力と、強いアルファとしての魅力への渇望が浮かんでいる。
エリアスという「試供品」を見て、商品の価値を再認識したのだ。
彼らは今、エリアスの後釜を狙って、必死にアピールしている。
(……なんて、浅ましい)
同じ会場に妻であるエリアスがいるというのに、彼が少し離れただけで、これだけ公然と声をかけ、囲い込むなんて。
貴族社会の常識ではあり得ない無礼な振る舞いだ。
だが、それを可能にさせているのは、他でもないエリアス自身の「格」の低さだった。
『あの程度の妻なら、すぐに追い落とせる』
『私の方が相応しい』
そんな侮りが、会場の空気に満ちている。
もし、ヴォルフの隣にいたのが弟のヨハンだったら、こうはならなかっただろう。
ヨハンの圧倒的な美貌と、人を惹きつけるカリスマ性があれば、誰もがその座を奪おうなどとは考えず、ただひれ伏して祝福したはずだ。
ベルク家が経済的に落ちぶれていようとも、ヨハンには「格」があった。
(やっぱり、私は……)
私が妻だから、ヴォルフがこんな無礼な目に遭っている。
彼に見合うだけの威厳も魅力も持っていないから、彼まで軽く見られてしまうのだ。
楽しそうに談笑するオメガたちと、それに囲まれるヴォルフ。
その光景はあまりに残酷で、まぶしすぎた。
胸が締め付けられ、息ができなくなる。
あの中に割って入り、「彼は私の夫だ」と主張する勇気など、エリアスにはなかった。
自分の惨めさを突きつけられるようで、これ以上、一秒たりとも見ていられなかった。
エリアスは逃げるようにその場を離れた。
人の波を縫い、光の届かない場所を求めて。
辿り着いたのは、夜風が吹き込む、人気の少ないバルコニーだった。
「……っ」
重いガラス戸を閉めると、会場の喧騒が遠のき、静寂が訪れる。
暗闇の中、エリアスは手すりにしがみつき、震える息を吐き出した。
冷たい夜風が、熱を持った頬を冷やしていく。
けれど、胸に開いた穴だけは、冷えるどころかじくじくと痛み続けていた。
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