銀色の商人と贋作の妻

真大(mahiro)

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第1章

恐怖と救い

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冷たい夜風が吹き抜けるバルコニーは、会場の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
エリアスは手すりに寄りかかり、震える息を吐き出して心を落ち着かせようとした。

あの大広間には戻りたくない。
ヴォルフが他のオメガたちに囲まれている姿など、もう見たくなかった。

「……おや、こんなところに一人かい?」

不意に、背後から声をかけられた。
ビクリと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。

赤らんだ顔と、纏っている酒臭さ。
そして何より、エリアスの本能が警鐘を鳴らす、強烈で不快なフェロモン。

(……アルファだ)

エリアスは身を竦ませた。
男はニヤニヤと笑いながら、ふらりと近づいてくる。

「どうした、壁の花か?それとも誰かとの待ち合わせですっぽかされたのか?」
「……失礼します」

エリアスは関わり合いにならないよう、足早に大広間へ戻ろうとした。
だが、すれ違いざまに肩を乱暴に掴まれた。

「待てよ。せっかく会えたんだ、相手をしてくれよ」
「離してください!」

男の力は強く、エリアスは抵抗する間もなく壁際まで押し込まれてしまった。
背中が冷たい石壁にぶつかり、逃げ場を失う。

「いい匂いだ……オメガだな?」

男はエリアスの首筋に顔を埋め、獣のように匂いを嗅いできた。
ヒートは来週だ。まだフェロモンは濃くないはずなのに、男は酔っているせいか、オメガであれば誰でもいいといった様子で、荒い鼻息を吹きかけてくる。

「や、やめて……っ!」

両手首を片手でねじり上げられ、頭上に押し付けられる。
骨が軋むほど強く握られ、痛みに顔が歪む。

ヴォルフに触れられた時の、あの優しく包み込むような拘束とはまるで違う。
そこにあるのは、相手を慈しむ心など欠片もない、ただ純粋な暴力的衝動と欲望だけだ。

「いいじゃないか、減るもんじゃなし。俺が可愛がってやるよ」

男の手が、エリアスの胸元のブローチを引き千切る勢いで掴み、礼服のボタンに指をかけた。

怖い。
ただひたすらに、怖い。

「たす、け……っ!」

叫ぼうとした口は、男の大きな手で塞がれた。
声が出せない。
酸素が遮断され、視界が涙で滲む。

カチャリ。
耳元で、男がベルトのバックルを外す金属音が聞こえた。
その音に、エリアスは全身の血が凍りついたようにゾッとした。
何をされようとしているのか、明確に理解してしまった。

(助けて、助けてヴォルフ……ッ!)

心の中で絶叫した。
貴方以外には触れられたくない。
貴方のあの熱くて優しい手以外、何もいらない。
お願い、助けて。

ボロボロと涙が溢れ出し、男の手を濡らす。
男はその涙を見て、嗜虐心を煽られたように下卑た笑みを浮かべ、エリアスの首に手をかけた。

その、瞬間だった。

ドゴォッ!!

鈍く、重い衝撃音が響いたかと思うと、目の前の男の姿が掻き消えた。

「――え?」

エリアスが呆然と瞬きをすると、目の前には、鬼のような形相をしたヴォルフが立っていた。

肩で息をし、拳を握りしめている。
男は、ヴォルフに殴り飛ばされ、数メートル離れた床に無様に転がっていた。

「エリアスッ!」

ヴォルフが駆け寄り、崩れ落ちそうになるエリアスを強く抱きしめた。

「すまない……!遅くなった、怖かっただろう、すまない……!」

震える声で謝罪しながら、乱れた服を合わせ、エリアスの身体を包み込む。
その腕の力強さ。
鼻腔を満たす、森のような清涼な香り。
そして、心臓の早鐘。

(……ヴォルフだ)

同じアルファなのに、何もかもが違う。
この人は、絶対に自分を傷つけない。
エリアスは恐怖の糸が切れ、泣きじゃくりながらヴォルフの胸にしがみついた。

「う、あ……っ、怖かっ、た……ヴォルフ、ヴォルフ……っ」
「ああ、もう大丈夫だ。私がいる。誰も君には触れさせない」

ヴォルフはエリアスの頭を優しく撫でながら、床で呻いている男へと視線を向けた。
その瞳は、エリアスに向けるものとは正反対の、絶対零度の冷徹さを宿していた。

「……貴様の顔は覚えたぞ」

地を這うような低い声が、夜闇に響く。

「ハルトマン家の妻に手を出した代償だ。貴様の家門、今後一切の商流を断ち切り、経済的に破滅させてやる。覚悟しておけ」

男はヒッと悲鳴を上げ、恐怖に顔を引きつらせて後退った。
ヴォルフはそれ以上男を見る価値もないとばかりに視線を切り、エリアスを横抱きに抱き上げた。

「帰ろう、エリアス」

軽々と持ち上げられ、エリアスはヴォルフの首に腕を回した。
大広間には戻らず、そのまま裏口から馬車へと向かう。

夜風はまだ冷たかったが、ヴォルフの腕の中は暖炉のように温かかった。
先ほどまでの恐怖で暴れ回っていた心臓が、彼に触れているだけで嘘のように落ち着いていく。

守られている。
愛されているわけではないかもしれないけれど、この人は命がけで自分を守ってくれた。
それだけで、もう十分だった。
張り詰めていた緊張が一気に解け、強烈な睡魔が襲ってくる。

「……ヴォルフ……」
「ああ。眠っていいよ」

優しく額に口づけを落とされ、エリアスはその温もりと力強さに安心して、ヴォルフの腕の中で深い眠りへと落ちていった。
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