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第1章
痛みを塗り替えて
しおりを挟むガタ、と車輪が止まる振動で、エリアスは微睡みから引き上げられた。
重い瞼を開けると、窓の外には見慣れたハルトマン邸の玄関ポーチが見える。
「……着いた、のか」
身じろぎをして、ハッとした。
自分はまだ、ヴォルフの膝の上に抱かれ、子供のように包み込まれていたのだ。
御者が扉を開ける気配がする。
慌てて降りようとしたが、ヴォルフの腕は鋼のようにエリアスを拘束して離さなかった。
「ヴォ、ヴォルフ……?もう屋敷です、降りないと……」
「そのままでいい」
ヴォルフは短く告げると、エリアスを抱き上げたまま馬車を降りた。
玄関ホールには、シュミットをはじめとする使用人たちが整列して出迎えていた。
主人が、乱れた服のままの妻を抱きかかえて帰宅する。
その只ならぬ光景に、使用人たちの間にどよめきが走りかけたが、誰一人として声をかける者はいなかった。
ヴォルフが全身から放つ、人を寄せ付けない鋭い覇気が、すべての質問を封じていたからだ。
「下っていろ。誰も通すな」
ヴォルフは鋭く命じると、そのまま足早に階段を上がり、自身の私室へと向かった。
重厚な扉が閉められ、エリアスは天蓋付きの大きなベッドにそっと下ろされた。
身体が沈み込むと同時に、ヴォルフの手がエリアスの礼服に伸びる。
「……っ」
一瞬、バルコニーでの恐怖がフラッシュバックして身を強張らせたが、ヴォルフの手つきは、恐怖を解きほぐすように慎重で優しかった。
ボタンが外され、乱されたシャツが脱がされる。
ヴォルフは無言のまま、エリアスの全身を目で検分していった。
「……酷いな」
苦渋に満ちた声が落ちる。
エリアスの白い手首には、男に強く握られた指の跡がどす黒い痣となって浮き上がっていた。
そして首筋にも、抵抗した際に擦れた赤い跡が残っている。
「痛むか?」
「い、いえ……これくらい、平気です」
エリアスが首を横に振ると、ヴォルフは痛ましげに顔を歪めた。
そして、エリアスの手首を取り、その痣にそっと唇を寄せた。
「っ……」
「許せないな。君の肌に、こんな傷をつけるなんて」
チュ、と音を立てて、痣を愛しむように口付けられる。
さらに顔を寄せ、首筋の擦り傷にも、熱い舌先で薬を塗るように優しく舐められた。
そこは、あの男が汚らわしい息を吹きかけた場所だ。
ヴォルフはそれを知っているかのように、穢れを自身の口づけで塗り替え、浄化していく。
(……優しい)
その慈愛に満ちた行為に、エリアスの目頭が熱くなった。
自分が悪いのに。
ヴォルフに言われた場所で大人しく待っていればよかったのだ。
あんな暗い場所に、オメガが一人で不用心に入り込んだ自分が愚かだった。あんな目に遭うのは自業自得だというのに。
「……申し訳、ありません……」
エリアスは消え入りそうな声で謝罪した。
「私が……愚かでした。貴方の言いつけを守らずに、勝手に動いて……」
「謝るのは君の悪い癖だ、エリアス」
ヴォルフが顔を上げ、エリアスの涙で濡れた頬を親指で拭った。
その瞳に、責める色は微塵もない。
「誰も君を責めていない。私が目を離したせいだ。君を一人にした私が全面的に悪いんだ」
「ちが、います……」
エリアスは弱々しく首を振った。
違う。貴方は悪くない。
あの時、あの場にいたくなかったのだ。
貴方が他のオメガたちに囲まれているのを見て、自分が惨めで、貴方に迷惑をかけている現実を直視できなくて、逃げ出したのは自分だ。
(……言わなきゃ)
嫉妬したのだと。
怖くて逃げたのだと。
本当のことを伝えたかったが、緊張の糸が切れた身体は限界を迎えていた。
泥のような疲労と、ヴォルフの体温に包まれている安心感が、強烈な睡魔となって襲ってくる。
「ヴォル、フ……わたし、は……」
「しーっ。もういい。今は何も考えずに眠りなさい」
ヴォルフの大きな手が、エリアスの頭を優しく撫でる。
そのリズムは、幼子を寝かしつけるように一定で、心地よかった。
「大丈夫だ。もう怖いものは何もない」
耳元で囁かれるバリトンの声が、意識を闇へと誘う。
瞼が鉛のように重い。
言いかけた言葉は唇の端から零れ落ち、エリアスはヴォルフの手の温もりを感じながら、気絶するように深い眠りへと落ちていった。
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