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第2章
闇からの手
しおりを挟むヴォルフとの我慢の日々が始まってから、ようやく一週間が過ぎた。
寂しい気持ちがないと言えば嘘になる。
けれど、エリアスはその空白を埋めるように、意欲的に領地経営の手伝いに没頭していた。
最初は書斎での勉強だけだったが、最近ではシュミットの補佐として、実務の一部を任せてもらえるようになっていた。
幸い、大きな気候災害などは起きていない。
だが、領内には古い橋の老朽化に伴う修繕計画や、領民からの細かな申し立ての処理など、やるべきことは山積みだ。
ヴォルフは商会主としての激務をこなしながら、領主としての根幹に関わる重要な決裁を行っている。
その負担を少しでも減らすため、エリアスは末端の小さな仕事を引き受け、シュミットの力を借りながら一つずつ処理していった。
「よし、これでこの村への資材配分は完了だ」
ペンを置き、小さく息を吐く。
やることがあると気が紛れるし、何より「この家の役に立っている」という実感が、ヴォルフに会えないエリアスの心を支えてくれていた。
一通りの仕事を終えて夕食を済ませると、いつものようにアンナに世話をしてもらい、湯浴みをした。
「エリアス様、肩が凝っていらっしゃいますね。少しマッサージしましょうか?」
アンナは温かい手でエリアスの背中を流しながら、労わるように声をかけてくれた。
「旦那様とゆっくり過ごせる時が、早く来るといいですね。あと二週間……もう少しの辛抱ですわ」
「ありがとう、アンナ。……そうしてもらえると助かるよ」
アンナは小瓶を取り出し、エリアスの肩にオイルを垂らした。
ふわりと、浴室に甘い花の香りが広がる。
「……っ!?」
エリアスは息を呑んで硬直した。
その香りは、以前ヴォルフが「マッサージ」と称してエリアスを癒やし、そしてそのあと……とろとろに蕩かして愛してくれた時に使ったものと全く同じ香油だったのだ。
(あ、あの時の……っ)
脳裏に蘇る、淫らな音と熱い快感の記憶。
アンナの純粋な親切心によるマッサージなのに、エリアスの心臓は早鐘を打ち、身体が変に反応してしまいそうになる。
エリアスは必死に平常心を装い、「いい香りだね」と震える声で答えるのが精一杯だった。
アンナには絶対に、この動揺の理由は知られたくない。
湯浴みとマッサージを終え、ポカポカに温まった身体でヴォルフの部屋へと戻った。
今夜もヴォルフの帰りは遅い。
エリアスは一人、二人用の大きなキングサイズベッドに入ろうとした。
カタリ。
その時、窓の方で小さく何かが鳴った気がした。
風だろうか?
エリアスは不審に思い、窓辺へと近づいた。
ガラス越しに外の闇を覗き込むが、庭の木々が風に揺れているだけで、変わった様子はない。
「……気のせいか」
外は寒空だ。窓を開けて確認することはせず、そのままベッドに戻ろうと踵を返した。
ガタンッ!
背後で、いきなり窓が外から開け放たれた。
「えっ――!?」
驚いて振り返ろうとした瞬間、強烈な力で何者かに背後から抱きすくめられた。
同時に、分厚い革手袋のようなもので口を塞がれ、床へと押し倒される。
「んんーッ!?」
ドサリ、と床に倒れ込む。
だが、衝撃はほとんどなかった。
侵入者がエリアスの身体を庇うように受け止め、音を最小限に殺したからだ。
手慣れている。
エリアスの上に乗っているのは、黒づくめの格好で顔を隠した人物だった。
その体格と重みから、男だということしか分からない。
エリアスは声を上げようと懸命に手足をばたつかせて暴れたが、男は動じることなく、塞いだ口にさらに布を押し当ててきた。
ツン、と鼻をつく刺激臭。
(……っ!)
薬品の匂いだ。
エリアスの背筋が凍りついた。
これは、父に馬車で拐われた時に嗅がされたものと同じ匂いだ。
まさか、父がまた?
いや、違う。
薄れゆく意識の中で、エリアスの思考が高速で回転する。
あの後さらに落ちぶれた父に、これほど即効性のある高価な薬品や、こんな手練れの侵入者を用意できるはずがない。
あの時も、父の背後には扇動していた人物がいた。
エリアスを欲し、父に金と知恵を貸していた男。
(……バンガルド卿……)
あの男だ。
父の計画が失敗しても、彼自身はまだエリアスを諦めていなかったのだ。
つまり、これは――。
そこまで考えたところで、エリアスの視界が暗転した。
抵抗していた腕から力が抜け、完全に脱力する。
意識を失ったエリアスの身体を、侵入者は荷物でも扱うように軽々と担ぎ上げた。
そして、誰に見つかることもなく、音もなく窓から夜の闇の中へと消えていった。
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