70 / 251
第2章
王宮の夜と上着の香り
しおりを挟む王宮の馬車に揺られ、運ばれた先は、やはり王宮そのものだった。
夜会などで数回訪れたことはあるが、それ以外で足を踏み入れたことはない、雲の上の世界だ。
「失礼します」
依然として薬の影響で思うように身体が動かせないエリアスを、若い騎士が軽々と抱き上げてくれた。
そのまま、長い回廊を進み、通されたのは王宮内にある一室だった。
ヴォルフの屋敷も十分に豪華で上質な調度品が揃っていたが、王宮のそれはさらに格が違う。
歴史の重みを感じさせるタペストリー、細工の施された家具。
ここがどういう立場の人間が使う部屋なのかは分からないが、少なくともエリアスが泊まるために用意された、最高級の客室であることは察せられた。
「お待ちしておりました」
部屋には、可愛らしい見た目のメイドが一人待機していた。
騎士は丁寧にエリアスをメイドに預けると、一礼して部屋を出て行った。
「さあ、まずは綺麗にいたしましょうね」
メイドは、ぐったりとしているエリアスに事情を問いただすこともなく、ただ優しく微笑んで浴室へと案内してくれた。
温かいお湯が張られたバスタブ。
彼女の手によって、バンガルド卿に舐め尽くされた不快な感触や、彼がつけた唾液の痕が丁寧に洗い流されていく。
こびりついていた悪夢が、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
身体を清め終えると、肌触りの良いシルクのナイトウェアを着せてもらい、ふかふかのベッドへと寝かされた。
「お食事をご用意いたしますね」
甲斐甲斐しく世話を焼き、退室しようとするメイドに、エリアスは初めて声を絞り出した。
「……待って」
「はい?」
「ここに来た時に……私がかけていた、あの上着を……取ってもらえないか」
メイドはすぐに意図を理解し、ソファに置かれていた黒い上着を持ってきてくれた。
騎士がかけてくれた、ヴォルフの上着だ。
「こちらですね。どうぞ」
「ありがとう……」
上着を受け取り、メイドが退室するのを見届けると、エリアスはベッドの中で小さく丸まった。
上着に顔を埋め、深く息を吸い込む。
森のような、深く落ち着く愛しいアルファの香り。
その匂いが脳に届くと同時に、エリアスは少しずつ思考する力を取り戻していった。
(……決闘)
騎士は、確かにそう言っていた。
『決闘』とは、貴族院の条約に基づき制定された、貴族同士の諍いを決着させるための最終手段だ。
通常は領地の権利や金品を賭けることが多いが、「人」そのものを賭けの対象にすることは極めて稀だ。
ヴォルフは「エリアスの安全な返還」を条件とし、対価として「ハルトマン家の名誉」、あるいはそれ以上のものを賭けたのだろう。
そして、決闘とは当主同士の殴り合いではない。
互いの家が有する「武力」、つまり騎士たちを戦わせる代理戦争の形になることがほとんどだ。
格下の家が上位貴族に挑み、勝利した前例がないと言われるのはそのためだ。
歴史ある上位貴族であればあるほど、精強な私兵団や優れた騎士を抱えている。新興貴族のヴォルフが、武力でバンガルド侯爵家に勝つことは、常識的に考えれば不可能なのだ。
(ヴォルフは、どうするつもりなんだ……)
勝算があって申し込んだのか。それとも、なりふり構わず私を取り戻すために暴挙に出たのか。
もし、この決闘に負ければどうなる。
賭けの対象となったエリアスは、名実ともに、公的にバンガルド卿の所有物となる。
もう二度と、ヴォルフの元へは帰れない。
けれどエリアスは、自分の身の上よりも、勝っても負けてもヴォルフに害が及ぶことだけが気がかりでならなかった。
あのまま、ヴォルフが何もせずにいれば、「妻を上位貴族に奪われた」という社交界での噂だけで済んだかもしれない。
それは屈辱的だが、家そのものが潰れることはない。
けれど、決闘という公的な場で敗北すれば、その汚名は国中に広まり、ハルトマン家の信用は地に落ちるだろう。
(……馬鹿な人だ。私なんかのために)
損得勘定で言えば、エリアス一人を切り捨てるのが正解だったはずだ。
それなのに、彼はすべてを賭けてくれた。
もしあのままバンガルド卿の元にいたら、確実にヒートを利用されて犯され、無理やり番にされていただろう。
ヴォルフが、一時的でもそれを食い止め、助け出してくれた。
その事実が嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
「う、ぅぅ……っ」
ヴォルフの上着に顔を埋め、エリアスは嗚咽を漏らした。
商人の彼が、こんな無謀な賭けに出るほど、自分を愛してくれている。
「会いたい……っ」
ヴォルフに会いたい。
あの温かい腕に抱きしめてほしい。
「怖かったね」と頭を撫でてほしい。
「ヴォルフ……ヴォルフ……」
溢れる涙が上着に染み込んでいく。
エリアスは涙が枯れ、意識を失うように眠りに落ちるまで、愛する人の残り香を命綱のように抱きしめ、泣き続けた。
82
あなたにおすすめの小説
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
僕の、しあわせ辺境暮らし
* ゆるゆ
BL
雪のなか僕を、ひろってくれたのは、やさしい男の子でした。
ふたりの、しあわせな辺境暮らし、はじまります!
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
抑制剤の効かない薬師オメガは森に隠れる。最強騎士団長に見つかり、聖なるフェロモンで理性を溶かされ、国を捨てた逃避行の果てに番となる
水凪しおん
BL
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた」
人里離れた森で暮らす薬師のエリアルは、抑制剤が効かない特異体質のオメガ。彼から放たれるフェロモンは万病を癒やす聖なる力を持つが、同時に理性を失わせる劇薬でもあった。
ある日、流行り病の特効薬を求めて森を訪れた最強の騎士団長・ジークフリートに見つかってしまう。エリアルの香りに強烈に反応しながらも、鋼の理性で耐え抜くジークフリート。
「俺が、貴方の剣となり盾となる」
国を救うための道具として狙われるエリアルを守るため、最強の騎士は地位も名誉も投げ捨て、国を敵に回す逃避行へと旅立つ。
シリアスから始まり、最後は辺境での幸せなスローライフへ。一途な騎士と健気な薬師の、運命のBLファンタジー。
今からレンタルアルファシステムを利用します
夜鳥すぱり
BL
大学2年の鳴水《なるみ》は、ずっと自分がオメガであることを隠して生きてきた。でも、年々つらくなる発情期にもう一人は耐えられない。恋愛対象は男性だし、男のアルファに会ってみたい。誰でも良いから、定期的に安全に話し相手をしてくれる人が欲しい。でもそんな都合のいい人いなくて、考えあぐねた結果たどり着いた、アプリ、レンタルアルファシステム。安全……だと思う、評価も星5で良いし。うん、じゃ、お問い合わせをしてみるか。なるみは、恐る恐るボタンを押すが───。
◆完結済みです。ありがとうございました。
◆表紙絵を花々緒さんが描いてくださりました。カッコいい雪夜君と、おどおど鳴水くんです。可愛すぎますね!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる