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第4章
残酷な仮定
しおりを挟む翌朝、ヴォルフは予定通り商談のために旅立っていった。
エリアスは玄関先に立ち、いつものように穏やかな笑顔で夫を見送った。
「いってらっしゃい、ヴォルフ。気をつけて」
遠ざかる馬車の背中を見つめながら、どうか無事に、何事もなく帰って来られますようにと心から祈った。
その日の午後、定期健診のために王宮の医師が屋敷を訪れた。
アルシードの配慮のおかげで、本来ならエリアスが出向くべきところを、わざわざ医師の方から足を運んでくれるのだ。
やってきたのは女性の医師だった。
医者とはいえ、エリアスと二人きりの密室になり、肌に触れることになる。数少ないはずの女医を手配したのは、アルシードの純粋な心遣いなのか、それとも「他の男にエリアスを触らせたくない」というヴォルフの根回しがあったのか。
本当のところはエリアスには分からなかったが、同性相手であることに少し安堵した。
医師は慣れた手つきで聴診器を当て、脈を測り、傷跡の状態を確認していく。
「……うん、経過は順調ですね」
医師はカルテに何かを書き込みながら、明るい声で告げた。
「状態はかなり回復しています。心音も正常ですし、懸念されていた貧血も数値上はほとんどありません。傷跡も、驚くほど綺麗になっていますね。本当に良かったです」
身体的な回復は、医師のお墨付きをもらえるほど完璧だった。
エリアスはほっと胸を撫で下ろした。だが、本当に聞きたいことはそこではなかった。
医師が道具を片付け始めたのを見て、エリアスは意を決して口を開いた。
「あの……先生。一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
「はい、なんでしょう?」
「私も、身体の状態はかなり回復していると実感しています。……でも」
エリアスはシーツを強く握りしめた。
「……もう来るはずの、ヒートの予兆が……全くないんです」
「……」
医師の手が止まる。
「いつもは三ヶ月に一度、身体が熱くなったり香りが強くなったりと、明らかな予兆が数日続いてから、ヒート期間に入りました。抑制剤がないと耐えられないくらい、症状も重かったんです。……それなのに」
一度言葉にすると、堰を切ったように不安が溢れ出した。
「もうすぐ、前のヒートから三ヶ月が経つはずなんです。なのに……な、なにも……なくて……」
しっかり説明しようとしたのに、喉が詰まり、最後は言葉にならずにポロポロと涙がこぼれ落ちてしまった。
初対面に近い医師の前で泣くなんて恥ずかしい。そう思うのに、ずっと一人で抱え込んでいた恐怖が限界を超え、感情を抑えることができなかった。
医師は静かに椅子に座り直し、真剣な眼差しでエリアスを見つめた。
そして、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「……奥様。オメガの身体というのは、未だこの世の『神秘』とされていて、医学でも解明されていないことが多いのです。そのため、医師として断定的な診断をすることは困難です」
医師は一度言葉を切り、無情な可能性を口にした。
「ただ……奥様も薄々感じていらっしゃる通り、仮説としては考えられます。一度に大量出血をし、長時間生死の境を彷徨ったショックで……身体が生命維持を最優先し、生殖機能を停止させている可能性があります」
「せいしょくきのうを……ていし……」
エリアスは呆然と、その言葉を反芻した。
「そのため、ホルモンバランスが崩れ、ヒートが来ないのかもしれません」
「……それは、治るんでしょうか」
縋るように聞くと、医師は痛ましげに眉を下げた。
「つまり、いつそれが再開するか……身体がそれを再び必要と判断して再開するかどうかは、……申し訳ありません。医師では分からないということです」
医師は残酷な事実を突きつけた。
「現状、ここまで身体機能や体力が回復しているにも関わらず、予兆すら再開しないということは……奥様のお身体は、ショックによって生殖機能を完全に失っている、という可能性も……否定はできません」
その後のことは、エリアスはよく覚えていない。
世界から音が消え、色が失われたようだった。
医師が「あくまで仮定ですから、あまり思いつめないでください。とにかくまずは身体の回復を優先してください」と慰めの言葉を残し、静かに去っていったことは、なんとなく覚えている。
だが、そこから自分がどうしたのか、記憶が曖昧だった。
気づけば、部屋には誰もいなくなっていた。
エリアスはただ呆然と、ベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。
思考が停止し、涙さえも枯れ果てていた。
夕食の時間になり、アンナが心配して部屋に来てくれたが、エリアスは顔を上げることもできず、「一人にしてほしい」とだけ告げた。
食事も喉を通らず、全て断った。
窓の外が暗くなり、夜が訪れても、エリアスは眠ることができなかった。
ヴォルフのいない広すぎるベッドの真ん中で、ただ空虚な闇を見つめ、呆然と時を過ごした。
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