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第4章
最後の嘘
しおりを挟む悲しみに暮れていた夜が明け、エリアスはそのまま一睡もせずに朝を迎えた。
涙は枯れ果て、心は凪のように静まり返っていた。
いつものように、静かに寝室へ入ってきたアンナに対し、エリアスは努めて明るく、普段通りに振る舞うように声をかけた。
「……アンナ。すまない、心配をかけてしまったね」
不意に声をかけられたアンナは驚いたように顔を上げ、ベッドに近づいた。
「奥様……っ、どうされたのですか?昨夜は何も召し上がらず、お水も減っていません……」
アンナの瞳には、心底からの心配が滲んでいる。
その優しさに胸が痛むが、エリアスは微笑みを崩さなかった。
「すまない、もう大丈夫だ。お腹が空いたから……今持ってきてくれたその朝食を、こちらへ持ってきてくれるかい?」
エリアスがそう言うと、アンナは安堵したように表情を輝かせた。
「はい、ただいま!」
アンナはすぐにサイドテーブルから温かいスープとパン、水を運び、エリアスがベッドの上で食べられるように手際よく準備を整えてくれた。
エリアスは味のしないスープを口に運び、ゆっくりと嚥下しながら、何気ない風を装って切り出した。
「アンナ。頼みがあるんだ」
「はい、何でございましょう?」
アンナが一歩近づく。
「馬車を用意してくれるかな」
その言葉に、アンナは少し驚いた顔をした。
「外出されるのですか?お身体は大丈夫ですか? 昨日お医者様が来られてから、奥様のご様子がおかしかったので……お身体の具合が、実は良くないのかと心配しておりました」
アンナの鋭い指摘に、エリアスは動揺を見せずに首を振った。
「いや、逆だよ。身体はかなり回復していると、先生にお墨付きをもらったんだ。だから、大丈夫」
エリアスはアンナの目を真っ直ぐに見つめ、用意していた『目的』を口にした。
「ヴォルフに前に連れて行ってもらった、あの書店に行きたいんだ」
「書店、ですか?」
「ああ。勉強のためにと買ってもらった本は、入院中も含めて全て読んでしまったからね。……自分の目で、新しい本を選びたいんだ」
エリアスは少し照れたように笑ってみせた。
「ヴォルフが常々、勉強のためだけでなく、自分の楽しみのための本も買うべきだと言ってくれていただろう?だから……ヴォルフがいない間、彼を待つだけでなく、自分のために時間を使いたくて。……そうしたいんだ」
その言葉は、あまりにも前向きで、健全な響きを持っていた。
「家のため」や「妻としての義務」ではなく、「自分のため」に時間を使いたいというエリアスの言葉に、アンナは心底ほっとしたように表情を緩ませた。
「そうですか……!それは、旦那様もさぞお喜びになりますね。奥様がハルトマン家のためだけに時間を使っている、と旦那様はずっと頭を悩ませていらっしゃいましたから」
アンナは嬉しそうに手を合わせた。
「ええ、すぐに準備いたします!」
「ふふ、ありがとう」
エリアスは笑って見せたが、胸の奥では冷たい風が吹いていた。
この嘘が、アンナを喜ばせれば喜ばせるほど、罪悪感が深く突き刺さる。
アンナに着替えを手伝ってもらい、外出用の身支度を整えたエリアスは、用意された馬車へと乗り込んだ。
「私もお供いたします」
当然のように付いてこようとするアンナを、エリアスは拒まなかった。
「ああ、一緒に行こう」
エリアスは、アンナと護衛の従者一名を連れ、馬車で思い出の書店へと向かった。
ガタゴトと揺れる馬車の中、窓の外を流れる景色を眺めながら、エリアスはこれがこの馬車に乗る最後になるだろうと静かに悟っていた。
やがて馬車は、ヴォルフとのデートで訪れたあの大きな書店の前に到着した。
従者が扉を開け、エリアスは地面に降り立つ。
「アンナ。すまないが……本は一人で、ゆっくり選びたいんだ」
一緒に降りようとしたアンナを、エリアスは手で制した。
「えっ、ですが……」
「ここは店員も多いし、人の目も多いから大丈夫だよ。何か危険なことがあったらすぐに分かるから、安心して」
「……分かりました。では、ここでお待ちしておりますね」
少し不安そうながらも、アンナはエリアスの「一人の時間が欲しい」という意図を汲んで引き下がってくれた。
「行ってきます」
そう言って、エリアスは書店へと向かった。
入り口の重厚な扉に手をかけ、開ける直前。
エリアスは一度だけ、ゆっくりと振り返った。
そこには、ハルトマン家の紋章が輝く立派な馬車。
そして、窓から心配そうに、でも優しく微笑んで手を振ってくれている、大好きなメイドの姿があった。
(……さようなら、アンナ)
この光景をこの目で見ることは、もう二度とないだろう。
エリアスはその景色を網膜に焼き付けるように見つめた後、前を向き、静かに書店の扉を閉めた。
(…………さようなら、…………ヴォルフ)
重い音がして、エリアスとハルトマン家を繋ぐ世界が遮断された。
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