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第4章
さようなら
しおりを挟むヴォルフが馬車から飛び降り、大急ぎで屋敷の中へ駆け込むと、そこは異様な空気に包まれていた。
普段は静粛な屋敷内が騒然としており、使用人たちは皆、顔面蒼白で立ち尽くしている。
その中心で、アンナが顔を覆って号泣しており、常に冷静なシュミットでさえも、一気に老け込んだかのように深く疲弊していた。
「――何があった!!」
ヴォルフの怒号にも似た問いかけに、アンナはさらに激しく泣き崩れ、言葉にならない。
代わりにシュミットが、沈痛な面持ちで一歩前に出た。
「……旦那様」
「エリアスは!どこだ!」
「……ご報告申し上げます」
シュミットは声を震わせながらも、事実を伝えた。
「今朝、奥様が『書店に行きたい』とアンナにお命じになられました。……馬車でアンナと護衛の従者とで向かわれ、到着すると『自分のための本を選びたいから』と、お一人で中に入られました」
シュミットは一度言葉を切り、苦渋の表情で続けた。
「それから一時間経っても出てこられないことを不思議に思った二人が中を探しましたが……すでに、奥様の姿はどこにもなかったそうです」
「お、奥様が……っ!」
泣きじゃくっていたアンナが、過呼吸になりかけながら声を絞り出した。
「旦那様が言うように、『自分のために時間を使いたい、そのための本を買いたい』と……あんなに嬉しそうにおっしゃっていたのに……っ」
アンナは床に崩れ落ちた。
「二人で書店の周りも、何時間もかけて探しましたが、どこにもおられません……っ!店員も、客が多かったので奥様のことは分からない、と……」
ヴォルフは呆然と立ち尽くした。
書店に入り、自ら姿を消した?
その状況から導き出される可能性は二つ。何者かに店内で拉致されたか、もしくは――エリアス自ら、姿を消したか。
後者の可能性が脳裏をよぎった瞬間、ヴォルフの全身から血の気が引いた。
(だとしたら、どうしてだ?)
ここ最近は多忙で家を空けることも多かったが、毎夜必ず会いに行き、愛を囁き合っていたはずだ。
旅立つ前夜も、エリアスはヴォルフの身を案じ、優しくキスをして送り出してくれた。
二人の間に、不和など微塵もなかったはずだ。
それとも、自分は何か致命的なことを見逃していたのだろうか。
「……とりあえず、大至急で近辺を捜索させています。今はその結果を待つしか……」
シュミットの言葉も、今のヴォルフの耳には遠く響くようだった。
ヴォルフは何も答えず、呆然と青ざめた顔のまま、ふらりとその場を離れた。
目指す先は、二人の寝室だった。
重い扉を開ける。
そこには、毎日遅くまで起きてヴォルフの帰りを待っていてくれた、愛しい人の姿はない。
静寂だけが満ちる部屋で、ヴォルフはエリアスが使っていた枕元の冷たいシーツに触れた。
まだ微かに残る、愛する人の甘い匂い。
「……エリアス……」
今朝まで、ここにいたのに。今はいない。
ヴォルフはすがるようにエリアスの匂いを辿り、シーツの上を這うように手を動かした。
すると、枕の下に、シーツの布地とは違う硬質な感触があった。
「……?」
引き出してみると、それは何も書かれていない真っ白な封筒だった。
嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
ヴォルフは震える手で急いで封を開け、中身を取り出した。
出てきたのは、一枚の紙と――。
カラン、と乾いた音を立てて落ちた、銀色の輪。
エリアスの、結婚指輪だった。
ヴォルフのアイスブルーの瞳と同じ色の宝石が嵌め込まれた、永遠の誓いの証。
ヴォルフは息を呑み、紙を開いた。
そこには、エリアスの美しく整った文字で、たった一言だけが記されていた。
『さようなら』
それだけだった。
言い訳も、理由も、恨み言も、感謝の言葉さえもない。
ただ、拒絶と別れを告げる一言。
エリアスは、何者かに連れ去られたのではない。
自らの意思で指輪を外し、ヴォルフの元を去ったのだ。
その事実だけが、冷たく重くのしかかった。
「……あ、あぁ……」
ヴォルフは愕然とし、全く状況を処理できないまま、指輪を強く握りしめた。
宝石の角が掌に食い込む痛みを感じながら、ヴォルフはその場に崩れ落ち、深く項垂れた。
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