35 / 112
第2章
鳥籠の鍵
しおりを挟む十年ぶりのレオナルドの声は、ユリウスのことを「ユーリ」とは呼ばなかった。
ただ、硬く「ユリウス」と。
その事実を突きつけられた瞬間、ひび割れ、かろうじて形を保っていたユリウスの心は、音を立てて悲鳴を上げた。
「…………ブラント卿。こんな夜に、どうされたのですか」
ユリウスは、先ほど無意識に「レオ」と呼んでしまった過ちを、なかったことにするかのように他人行儀に問いかけた。
こうすることを、レオナルドが望んでいると察したからだ。
(二度と、あの頃のような愛称では呼んでくれない。……そういうことだ)
レオナルドに心から軽蔑されているのだと想像していたことが、ユリウスの中で確信に変わった。
裏切り者で、ルシエルの愛玩具に成り下がった男になど、親しみを込めた呼び名を使う価値もないということだろう。
レオナルドは、ユリウスを離さなかった。背後から抱きすくめるように確保したまま、闇の中で話を続けるつもりらしい。
ここは扉の前、廊下の暗がりだ。
幸いなことに、この区画には誰も寄り付かない。
ルシエルが帰ってこない今夜、誰に見られることもないだろう。
ユリウスは、レオナルドが何か用件があって――例えばルシエルへの伝言か、あるいは今の地位を利用した政治的な脅しか――を言いに来たのだと推測した。
早く用事を済ませて、去ってほしい。
どうせ、穢れた存在になど触れたくもないだろうから。
そう身構えて、罵倒なり冷徹な言葉なりを待った。
だが、レオナルドは何も言わなかった。
そのまま、ユリウスの身体を軽々と横抱きに抱き上げた。
「……っ、ブラント卿、なにを……!」
「『レオ』と呼んでくれないのか」
部屋の中へ足を踏み入れながら、彼がポツリと聞いてきた。
ユリウスは耳を疑った。
何を言っているのか。先に他人行儀に「ユリウス」と呼び、線を引いたのはそちらなのに。
どの口がそれを言うのか。弄ばれているようで、胸が苦しい。
「……はい。ブラント卿。私は……貴方をお名前で呼ぶ立場にありませんので」
ユリウスは感情を押し殺し、極めて落ち着いた声で、淡々と答えた。
部屋の中に入ると、照明の明るさで顔が見られてしまう。
ユリウスは抱き上げられたまま、レオナルドの胸に顔を伏せ、表情を見られないように努めた。
今の自分の顔が、情けなく歪んでいるかもしれないと思ったからだ。
レオナルドは、部屋の中央にあるソファまで歩くと、壊れ物を扱うように優しくユリウスを下ろした。
ついに、明るい場所で向き合う形になる。
その時にはもう、ユリウスは仮面を被り終えていた。
何も感じていない、冷徹で美しい人形の仮面を。
「………今夜は時間がない。ユリウス」
レオナルドは立ったまま、ユリウスを見下ろして言った。
「秘密裏に、近いうちに俺の部下を寄越す。その時に、ついてきてくれないか」
どういう意味なのか、全く分からなかった。
尋問のための連行、ということか。
だが、その言葉に対する拒否権はないと悟った。
今の彼、国を揺るがす英雄だ。
一介の愛妾ごときが逆らえる相手ではない。
「…………それは、命令ですか」
問うと、レオナルドは沈黙した。
それを肯定と勝手に捉えて、ユリウスは頷いた。
「分かりました。状況にもよりますが……ついていきます」
「状況にもよる」という意味は、レオナルドにも分かるはずだ。
ユリウスは一日の大半をルシエルの監視下に置かれている。
そこから逃げられない時、あるいは物理的に拘束されている時は不可能だ、という意味だ。
レオナルドはそれを理解したようで、短く頷いた。
そして、用件は済んだとばかりにレオナルドは背を向けた。
動いた拍子に、ふわ、と彼の匂いが風に乗って漂う。
懐かしい、甘い香り。
頭がおかしくなりそうだった。
このままでは、抑え込んでいるオメガの本能が誘発され、無様にすがってしまう。
「早く、出て行ってください」
絞り出すように告げた。
それに従い、レオナルドは足音も立てずに部屋を出て行く。
ガチャリ。
扉が閉まり、そして、外から鍵をかける音がした。
かつてルシエルがかけた鍵を、今度はレオナルドの手によってかけられたのだ。
ルシエルの鳥籠の中に、想い人の手によって再び閉じ込められたような錯覚。
あまりの皮肉さに、ユリウスは乾いた笑みを漏らした。
「はは……」
その場に崩れ落ち、膝を抱える。
「レオ……何をさせたいか分からないが、……ゴミのように捨てた私のことは、もう放っておいてくれ……」
誰もいない部屋で、本音が零れ落ちた。
放っておいてくれ。もう関わらないでくれ。
そう願うのに、レオナルドにまた会えば、ユリウスは拒めない。
彼が「来い」と言えば這ってでも行くし、「抱かせろ」と言われれば喜んで股を開くだろう。
それを確信しているからこそ、それに翻弄される自分が情けなくて、馬鹿みたいで。
ユリウスは虚しさに押しつぶされそうになりながら、鍵のかかった扉を見つめ続けた。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】選ばれない僕の生きる道
谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。
選ばれない僕が幸せを選ぶ話。
※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです
※設定は独自のものです
※Rシーンを追加した加筆修正版をムーンライトノベルズに掲載しています。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
六年目の恋、もう一度手をつなぐ
高穂もか
BL
幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。
順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。
「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
たとえ運命じゃなくても、僕は
mimi
BL
「僕は自分の気持ちを信じたい。
たとえ運命から背を背けようとも」
音楽大学に通うΩの青年・相田ひなた。
努力家の先輩αと、
運命の番だと告げられた天才α。
運命か、愛情か――
選ぶのは、僕自身だ。
※直接的な描写はありません。
【運命】に捨てられ捨てたΩ
あまやどり
BL
「拓海さん、ごめんなさい」
秀也は白磁の肌を青く染め、瞼に陰影をつけている。
「お前が決めたことだろう、こっちはそれに従うさ」
秀也の安堵する声を聞きたくなく、逃げるように拓海は音を立ててカップを置いた。
【運命】に翻弄された両親を持ち、【運命】なんて言葉を信じなくなった医大生の拓海。大学で入学式が行われた日、「一目惚れしました」と眉目秀麗、頭脳明晰なインテリ眼鏡風な新入生、秀也に突然告白された。
なんと、彼は有名な大病院の院長の一人息子でαだった。
右往左往ありながらも番を前提に恋人となった二人。卒業後、二人の前に、秀也の幼馴染で元婚約者であるαの女が突然現れて……。
前から拓海を狙っていた先輩は傷ついた拓海を慰め、ここぞとばかりに自分と同居することを提案する。
※オメガバース独自解釈です。合わない人は危険です。
縦読みを推奨します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる