それではまた、どこかでお会いしましょう。

スイ

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 二〇二五年の、一〇月でした。湊斗と付き合って二年目の秋。日本人のナノマシン研究にノーベル賞が与えられ、初めての女性首相が誕生した時期です。

 会社の昼休み中、私の携帯に知らない番号から電話がありました。電話を取ると、知らない、だけど懐かしい訛りが聞こえてきました。

 電話の主は地元、つまり宮崎の警察で、母さんが死んだという連絡でした。

「これから署の方にこれますか?」

 私は、電話の向こうの人が何を言っているのか良く理解できませんでした。何度も聞き返し、そのたびに同じ説明をしてくれました。そして私は今神戸に住んでいる事、仕事中である事、上司と相談して出来るだけ早く行くという事を伝えました。電話口の向こうで、刑事さんは警察署の住所を口にしていました。だけど地元の警察署というだけで場所はすぐに分かりました。家からイオンに行く時に通る道でしたから。

 電話を切った後、私はしばらく呆然としていました。窓からは隣のビルが見え、さらに向こうには組み立て中の船とガントリークレーンが見えました。私の後ろを清掃業者のおばちゃんがカートを押しながら歩いて行ったのを覚えています。

 母さんが死んだ。

 自分にそう言い聞かせました。それでもやっぱり『母さん』と『死』という言葉が上手く結びつきません。それよりもまだやるべき仕事が終わっていない方が気になって、なぜなら仕事が終わったら湊斗と月見バーガーを食べに行く約束をしていたからです。その日は、なんの変哲も無い、いつもの一日でした。

 時間の感覚は無くて、気づけば休憩時間は終わりかけていました。湊斗に「どうした?」と声をかけられなければ、きっと仕事が始まってもずっと窓の景色を見ていたと思います。

 私は警察から電話があった事、母さんが死んだ事を話しました。自分の口から出ている言葉なのに、違う誰かから言い聞かされているように耳に届いていました。

「それなら、一緒に行こう」

 と湊斗が言ってくれた時、その意味を私はよく理解できませんでした。

 それからの湊斗はとても早く、上司に私と湊斗の有休を申し入れた後、早々に宮崎までの飛行機と、宮崎で借りるレンタカーを予約してしまいました。会社を出て、そのまま伊丹空港に直行し、飛行機を待つ短い時間に最低限の着替えや充電器、それにおにぎりやお茶、そんな物を搭乗ロビー内のお店で全部揃えてしまいました。

 気付いたら、宮崎の空港にいました。ブーゲンビリアと、まるで外国みたいに格好つけた名前の、小さな空港です。時計を見ればまだ会社から出て三時間ほどしか経っていません。本当ならまだ仕事をしている時間でした。

 湊斗は空港内のレンタカー屋さんで軽自動車を借りてくれました。警察署の住所を入れて、当然のように運転してくれて、ずっと色んな事を話しかけてくれましたが私はずっと上の空な返事しか返せていませんでした。

「ごめんなさい」

 と私はレンタカーの中で湊斗に謝りました。

 湊斗は笑って、

「どうして謝るのさ」

 と言いました。

 :::

 里帰りはひどく久しぶりでした。福岡にいるときは年に一回は帰っていたのですが、それもパンデミックで疎遠になり、神戸に来てからは距離もあってよりいっそう帰らなくなっていました。

 母さんからは時折連絡が来ていましたが、それもお互いの近況を知らせるばかりで、向こうから帰っておいでよ、と言われる事もありませんでした。母さんが私に会いたがっていたのか、それとも本心から帰ってこなくてもいいと思っていたのか、結局分からずじまいです。

 警察署に着く頃には、流石に日が暮れていました。担当の刑事さんは電話よりもしわがれた声をしていました。勿論面識のない方ですが、地元特有の訛りはこんな時でも耳に懐かしく響きました。

 刑事さんの説明によると、最初に気付いたのはアパートのお隣さんで、少し前からとても変な匂いがしたらしいです。大家さんを呼んでマスターキーで中に入ると玄関に母さんが倒れていました。鍵が掛かっていた事と部屋を荒らされた様子が無い事から事件性はなく、家の中で激しく頭を打ったような形跡もない。脳内出血等による突然死の可能性が高い、とのことでした。

 そして、恐らく死後一週間ほど経っていると。

 私はいくつかの書類にサインをして、警察署の一階にある霊安室に行きました。そこには線香とろうそく、そして棺桶が置かれていました。

 私が顔のところにある窓を開けようとすると、警察は手で制止しました。そして言いにくそうに、

「その、見つかった時点で腐敗が大分進んでいまして……正直、見ない方が良いかと」

 私はその言葉に怯えて手を引っ込めてしまいました。結局母は、そのまま火葬され、手元には小さな骨壺だけが残りました。

 :::

 沢山やらないといけないことが残っていました。母が契約していた携帯やガスや電気にNHK、そのほか様々な解約。市役所への届け出。それに家も賃貸だったので、片付けないといけません。

 湊斗はそういう細々とした事も手伝ってくれました。私の事だから、仕事が忙しいから、何度も断って神戸に帰って貰おうとしましたが聞いてはくれません。有休は沢山ある、二人だとすぐに終わる。そう言って部屋の片付けから書類の提出、何から何まで手伝ってくれました。

 久しぶりに帰った家は、母さんが倒れた跡がシミになって残っていました。家全体にひどく鼻につく匂いがこびりついていて、だけど、それ以外は私の知っている実家でした。

 ダイニングがあって、居間があって寝室のある小さな部屋。テレビを中心にこたつテーブルやタンスが置かれている居間の本棚には、父さんが集めていた小説やマンガ、それに昔のゲームソフト、少しだけ料理の本が置かれています。父さんがいて、母さんがいて、私がいた、あの頃のままです。

 全て懐かしい物ばかりですが、全部を残すわけには行きません。持って帰れる物、つまり父さんのパソコンやゲーム機、母さんの料理本やエプロンとか、そういう小さな物は神戸に遺品として貰うにしても、それ以外の家具は早々に処分しなければいけませんでした。

 そうやって二人がかりで家を空っぽにしていきます。全てが懐かしく、処分するには辛い物ばかりでした。

 私が台所の片付けをしていた時です。食器棚の端に、古びたノートを見つけました。小さく、ポケットに入りそうなA5のノートが何冊も何冊も。その時私は記憶が蘇りました。私が物心ついたときから、父さんが死んで私が家事をし始めるくらいまでの間、母さんは時折台所でそのノートに何かを書き込んでいたのです。

 ノートの中身は料理のレシピでした。

 母の繊細な字が、びっしりと並んでいました。そこに書かれているレシピは子供が好きそうな物ばかりで、そんな中、赤ペンで所々注釈が入っています。お肉を一度お湯に通したり、鳥の皮の部分を切ったり。きっと昔は意味の分からなかったその赤ペンも、料理を日常的にしていたその時の私には、はっきりと何をしてるのかが分かりました。油抜きです。ハンバーグも肉団子もチキン南蛮もエビフライも、揚げ物だって、出来るだけ油を使わないようにしています。

 どれも頭に思い浮かびます。父さんが生きていた頃は毎日作ってくれていた晩ご飯、父さんがいなくなった後は週末に作り置きしていた大量のおかず。ノートに書かれたレシピはどれも見覚えがあって、小さかった私が大好きだった物ばかりです。

 そのノートは私の為のレシピ帳でした。

 ボタボタと大粒の涙がノートにこぼれ落ちました。立っていられなく、膝を曲げて泣きました。居間で片付けをしていた湊斗が「どうしたの?」と訊ねてきました。私は湊斗にノートを渡しました。そしてみっともないない程震えた声で、そのレシピ帳は私の為の物であること、そしてその時初めて、「私、病気なの」と、肝臓に重い病気を患っている事を伝えました。

 生まれつきの病気で、もしかしたら移植が必要かも知れなくて、きっと長生きは出来なくて、だけど母さんはずっとそんな私を守ってくれていた。食事もそうだし、父さんが死んでも一生懸命昼も夜も働いてくれた。母さんはとても立派な人だった。私のために生きてくれた。なのに、私は何も返せなかった。母さんとずっと距離をとり続けてしまった。母さんは私に沢山の物を与えてくれたのに、私は母さんに不幸ばかり与え、仕舞いには一人で死ぬような環境に置いてしまった。

「私を産んだから、母さんはこんな風に死んじゃったんだと思う。私が母さんを不幸にした。私が母さんの幸せを奪った。私は、母さんの人生にとって、いちゃいけない存在だった」

 言葉にしたら尚のこと後悔ばかりが募ってきました。私は、結局母さんという人をよく知らないまま失ってしまいました。知ろうという努力すらしませんでした。それが辛くて、悲しくて、情けなくて、悔しくて、でもどうしようもなくて、ただただ泣き続けることしか出来ませんでした。

 そんな私を、湊斗は抱きしめてくれました。普段の優しい湊斗が嘘みたいに、乱暴で、力強くて、暖かい抱きしめでした。決して線の太くない湊斗の体が、とても分厚く感じました。胸と腕に押しつけられた顔は窒息していまいそうで、このまま死ねたらどれだけ幸せだろうかと私は思いました。

「結婚しよう」

 そう湊斗は言いました。あまりに突然のことだったので、聞き間違いかと思いました。だけど湊斗は続けて、

「お母さんはきっと澪のことをずっと好きだったよ。絶対。だから、今度は俺がずっと好きでいるよ」

 湊斗の優しさが嬉しくて、私はまた涙がこぼれてきました。そのまま随分長い時間私は泣き続けて、そして、ようやく「よろしくお願いします」と絞り出しました。
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