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12-1.二人の昔について(Side C)
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如月さんに何を吹き込むつもりなのかと、そればかりが気がかりで仕事が手に付かなかった。
あの日の事について今まで何か言われたことはない。だけどやっぱり、伊崎は僕の事を許していないのではないかと思う。
:::
事前に詰めるところを詰めていたので、商談と言っても実質ハンコを貰いに行くだけだった。だからこそ交わす言葉は何気ない雑談ばかりで気が焦ってしまう。一件目も二件目もそんな感じで、次の仕事につながる会話もあると言うのに、頭は伊崎にあること無いこと吹き込まれている如月さんのことばかりが浮かんでいた。底知れない如月さんの中に、僕に対する軽蔑の気持ちが詰め込まれるのではないかと。
結局どんな話をしたのか、あまり覚えていない。
予定よりずっと早く仕事を終わらせた僕は、車を飛ばして会場へと駆けつけた。空いている駐車場は徒歩二十分くらい離れた場所で、そこだって僕が入った途端に満車のランプが点灯するほどの混みようだった。
会場の混雑はそれ以上で、入るには入れたけれど中は人混みで思うように移動が出来なかった。常にどこかでブース毎の小さなイベントが行われる中、僕がリースした家具で彩られたブースは特に多くの人だかりが出来ている。集団の一番後ろにたどり着いた僕の目に、数十メートル先でマイクを片手に収録の裏話で盛り上がる主人公とヒロインの声優、それにその後ろで静かに佇む双子のメイドの姿が写った。
「それではお待たせしました、今から皆さんに劇場予告編をご覧いただきたいと思います」
主人公の男性声優がそう声を張ると、周囲から歓声が湧き上がった。ブース上部には大型ディスプレイが備え付けられており、黒地に白の『特報』という文字が浮き上がる。皆の目がディスプレイに釘付けになる中、僕はブース上の如月さんに気を取られていた。男性声優が如月さんの方を向いて何かを話しかけている。距離があるせいで二人の表情は見えない。だけどその声優はシモネタで有名だし、心なしか、遠目から見る如月さんは体を気持ちだけ引いているように思えた。動作より気配と言った方が近い。一緒に仕事をしたこの数カ月がなければ決して分からないような仕草に、僕は不安を積もらせる。
空間を覆うような拍手が巻き起こる。ふと見ればディスプレイは元の黒に沈んでいた。拍手が鳴り止むのを待って、男性声優がマイクを握り、
「というわけで劇場版の予告でした。もう収録は終わってるんですけど、かなり泣ける出来となっているので、是非是非ご期待ください」
「はい、そういう事でね。……てか私はお二人の方が気になったんですけど、予告中、一体何話してたんですか?」
向かい側に座る女性声優が訊ねた。手の平を如月さんと男性声優、それぞれへ交互に向けている。僕は固唾を飲む。喉がカラカラで、手のひらがじんわりと湿っている。
「いや、だってすっごい可愛いんですよ。今ね、彼氏はいるのって聞いたらいないって」
「ちょっと、だからそういうのはセクハラだって毎回」
「いやでもね、」
如月さんはまっすぐ背筋を伸ばしたまま微動だにしない。動じていない風に見えるその姿勢が、その実、想定外の出来事に対しての防衛体勢だと僕は知っている。やっぱりこんな仕事断るべきだった。会場に男性声優を咎める雰囲気はなく、むしろいつもの鉄板ネタであると笑う人が多い。
「ご主人様」
きっと声優が持つどちらかのマイクが拾ったのだろう。伊崎の真っ直ぐな声が会場に響く。
「まったくお仕事中だと言うことをお忘れではございませんか? 妹の美しさに現を抜かしている暇があったら、少しはご自身の身の程を弁えていただかなくては」
胸を張っているわけでもない。皮肉な口調のくせに堂々と言い張るその姿は、アニメの中の姉様その物だった。会場に広がった静けさは白けではなく感嘆のもの、ちいさな「おー」という声があちこちから聞こえてくる。女性声優が「ほら怒られましたよ!」と強めに言い、それに合わせて「すみません」と半笑いで言う。そしてそのままイベントは、ラストに向かってのトークへと流れていった。
僕の目には、言う前も言った後も変わらず済まし顔で佇む伊崎と、その隣で少し肩の力を抜いた如月さんばかりが映っていた。
:::
トークイベントが終わってもブースの人混みは途絶えなかった。カメラを持った人が列を作り、原作の舞台を再現した一室に佇む如月さんと伊崎を代わる代わるに写している。ふと、遠目に見ていた僕に如月さんが気付き、小さく、誰にも分からないほどの傾きで会釈した。
他のブースをふらふら、誘蛾灯の青い光に引き寄せられる夜の虫みたいに見て回っていると、天井からイベント終了のアナウンスが流れる。会場の至る所から拍手が起き、お客さんの流れが少しずつ出口へと向かっていく。僕は立ち入り業者として貰っていた『関係者』の札を首から下げる。
如月さんがいるブースへ向かうと、丁度最後の一人が写真を撮り終えて捌けていくところだった。代理店や出版社の関係者だろうか、スーツを着た男性が数名、如月さんと伊崎の元に訪れて頭を下げ、そこでもまた一緒に写真を撮っている。如月さんはいつもの凜とした顔を、伊崎は人当たりの良い笑顔を浮かべている。だけど流石に、二人の顔には疲れが見えた。
やがてその人達も散り、早くも片付けの業者が作業に取りかかろうとしている。僕の姿に気付いた如月さんと伊崎はこちらへと歩み寄る。
「お疲れ様」
と僕は声をかける。伊崎は首を左右に傾けながら「ホントにね」と笑いながら言った。如月さんは両手を前で結んで「お疲れ様です」と深々頭を下げる。いつもより大きく、そして上が露出した胸の膨らみにばかり目が行ってしまい、如月さんが頭を上げた後も知らず知らず視線が釘付けとなってしまう。
「社長?」
青い髪に片目を隠した如月さんが僕に問いかける。「あ」と思わず口から零れる。
「似合ってるね、すごく」
取って付けたのような言い回しになってしまったと思った。すかさず伊崎が、
「見とれてたのよ、如月ちゃんのおっぱいに」
「いや違う、あ、いや、見とれてたって言うのはそうかもしれないけど、そっちじゃなくて」
伊崎が言った途端に如月さんは、はっとした顔を浮かべ、隠すように胸を押さえて黙り込んでしまう。伊崎はカラカラと笑った。
「まぁ、でもクオリティ高いでしょ? 大好評も大好評よ。もう今日だけで何枚撮られたか分からないわ。本当に万いってるんじゃない? 名刺も凄い量もらったしね」
「名刺?」
「あの、色んな方から頂きました」
如月さんは一度ブースに戻り、机の上に置いていた名刺の束を持ってくる。差し出されるがまま手に取ると、会社名が書かれている一般的な物から名前と肩書き、アドレスやSNSのユーザー名だけが書かれた物など様々だった。
「カメコさんから、私と同じような仕事の人、出版社や大手中堅怪しげな芸能事務所まで、まぁ色々と。あんたのとこ辞めてもこれで食べていけるわ、ホントに」
「いえ、でも」
如月さんはチラリとのぞき見るように僕を見上げて、すぐに視線を戻す。
「辞めるつもりはありませんので」
咄嗟にどう答えて良いか分からず、だけど沸き上がる笑みをそのまま顔に浮かべると自然に「それは良かった」と言葉がこぼれた。伊崎は腰に手を当てて「さて」と呟くと、
「お二人はどうするの? もうこのまま帰る? それともこっちに泊まっていくの?」
「帰るも何も片付けが」
「良いわよそれくらい。業者も搬入と同じだし、あんたに指示して貰わないといけない事は無いはずだから。それに私だっているから大丈夫よ」
「いや、それも悪い」
「なに? 私じゃ不安だって?」
「そうじゃなくて、お前も疲れてるだろ?」
伊崎は「そりゃもう」と言って肩をすくめる。
「だけどこれくらいやるわよ。一応これでも責任者よ? それに今回は色々と、本当にお世話になりましたし。だから、二人でご飯でも行ってきな」
僕が食い下がろうとするよりも先に「と、言う事で如月ちゃん。とりあえず貴重品持ってロッカー室。こいつを連れて、ドアの前で待たせといて」と如月さんに向き直る。「あ、はい」と如月さんは踵を返し、貴重品を取りに再びブースへと小走りで向かっていく。
その後ろ姿を見ながら、
「ねぇ」
トーンを抑えた声で伊崎は言う。
「如月ちゃんがなんか言っても、あんたはボロ出さなくても良いからね」
「ーー何の話?」
チラリと僕を見る。唇だけを微笑みの形に変えて、
「わかんなかったらそれで良いわ」
如月さんが片手にスマホと財布を握り戻ってくる。伊崎は逃げるように踵を返して、
「んじゃお疲れ。今日はありがとね、如月ちゃん。今度どっか遊びに行こう」
如月さんは「はい、ありがとうございました」と言って頭を下げる。僕は伊崎の最後に言った言葉の意味を考えながら、その後ろ姿を見つめていた。
:::
如月さんと僕は殆ど同じタイミングで向き合う。それがなんだかおかしくて、またお互い笑みを浮かべた。
「お疲れ様。大変だったね」
「慣れないことでしたので、少し」
「どうしようか。とりあえず着替えて、どこかご飯でも行く?」
「そう、ですね」
と言いながら、如月さんは自分の格好を見下ろす。スカートの裾を指先で摘まみながら、
「あの、ところで社長的にはこの姿、どうでしょうか?」
カラコンを入れているのだろう、いつもの吸い込まれるような黒とは対照的な、透き通る青の瞳で如月さんは訊ねる。意識していないとすぐに引き寄せられてしまう露わになった谷間から視線を剥がし、そのままいつもと違うメイド服姿の如月さんを上から順に見つめていく。スタイルの良さも着こなしも、そして立ち居振る舞いも、全てが完璧と言って良いほどのできだった。
「似合ってる、本当に。これ以上再現度の高い人は見たことないよ。いや、原作超えてると思う」
如月さんは、はにかむように笑った。そういう風に微笑む如月さんを見るのは初めてかも知れない。いつものどこか遠慮がちな仕草とは対照的に、今の如月さんは無邪気になついてくれる子供のような愛らしさが滲んでいた。そんな如月さんを見て、僕も安心や愛おしさが疲れに染み渡っていく。きっとこの瞬間を漫画にしたら、僕と如月さんどちらの頬にも赤いギザギザの朱が差すだろう。
「今日はたくさんの方に撮って頂いたんですけど、まだ社長には撮ってもらっていません」
「あぁ、たしかに。一枚、記念、」
「是非そうして頂きたいんですけど、その、ここはもう片付けに入っているので、長居するのは失礼だと思うんです」
如月さんの言わんとしていることが分からなくて、僕は黙り込んでしまう。辺りを見渡しても一般のお客さんの姿は見当たらず、関係者がイベント後の安堵とこれからの片付けの苦労を併せ持ちながらあちこちを行き来している。始まる前のぴりぴりとした緊張感は無く、むしろ疲れも相まってどこか寛容な空気があるように思えた。
「もし良ければ、どこか落ち着いた、二人っきりになれる場所で撮って頂きたいんです」
如月さんは視線を左右に泳がせ、声をいっそう潜めた後、
「お望みなら、社長が気にされているここも、大丈夫なので」
胸の谷間に手を置いた如月さんを見て、僕はようやく『この後の予定』について提案を受けていることに気が付いた。恐らく、今日、如月さんを見た男性が多かれ少なかれ頭に描いた妄想が、僕の気持ち一つで現実になろうとしているのだと。
「場所は、社長にお任せします」
如月さんは意を決したように胸を張り、「けど」と続けて僕を見上げる。丸い瞳の中の青色は、海にも空にも思える。底知れない深さの表面にある澄み切った青だ。
「もしかしたら、帰るのには遅い時間となってしまうかも知れないので、そのまま泊まれるような場所が、いいと思います」
言い終わった後、如月さんは「なんて」と言って、照れ隠しの笑みを浮かべた。
あの日の事について今まで何か言われたことはない。だけどやっぱり、伊崎は僕の事を許していないのではないかと思う。
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事前に詰めるところを詰めていたので、商談と言っても実質ハンコを貰いに行くだけだった。だからこそ交わす言葉は何気ない雑談ばかりで気が焦ってしまう。一件目も二件目もそんな感じで、次の仕事につながる会話もあると言うのに、頭は伊崎にあること無いこと吹き込まれている如月さんのことばかりが浮かんでいた。底知れない如月さんの中に、僕に対する軽蔑の気持ちが詰め込まれるのではないかと。
結局どんな話をしたのか、あまり覚えていない。
予定よりずっと早く仕事を終わらせた僕は、車を飛ばして会場へと駆けつけた。空いている駐車場は徒歩二十分くらい離れた場所で、そこだって僕が入った途端に満車のランプが点灯するほどの混みようだった。
会場の混雑はそれ以上で、入るには入れたけれど中は人混みで思うように移動が出来なかった。常にどこかでブース毎の小さなイベントが行われる中、僕がリースした家具で彩られたブースは特に多くの人だかりが出来ている。集団の一番後ろにたどり着いた僕の目に、数十メートル先でマイクを片手に収録の裏話で盛り上がる主人公とヒロインの声優、それにその後ろで静かに佇む双子のメイドの姿が写った。
「それではお待たせしました、今から皆さんに劇場予告編をご覧いただきたいと思います」
主人公の男性声優がそう声を張ると、周囲から歓声が湧き上がった。ブース上部には大型ディスプレイが備え付けられており、黒地に白の『特報』という文字が浮き上がる。皆の目がディスプレイに釘付けになる中、僕はブース上の如月さんに気を取られていた。男性声優が如月さんの方を向いて何かを話しかけている。距離があるせいで二人の表情は見えない。だけどその声優はシモネタで有名だし、心なしか、遠目から見る如月さんは体を気持ちだけ引いているように思えた。動作より気配と言った方が近い。一緒に仕事をしたこの数カ月がなければ決して分からないような仕草に、僕は不安を積もらせる。
空間を覆うような拍手が巻き起こる。ふと見ればディスプレイは元の黒に沈んでいた。拍手が鳴り止むのを待って、男性声優がマイクを握り、
「というわけで劇場版の予告でした。もう収録は終わってるんですけど、かなり泣ける出来となっているので、是非是非ご期待ください」
「はい、そういう事でね。……てか私はお二人の方が気になったんですけど、予告中、一体何話してたんですか?」
向かい側に座る女性声優が訊ねた。手の平を如月さんと男性声優、それぞれへ交互に向けている。僕は固唾を飲む。喉がカラカラで、手のひらがじんわりと湿っている。
「いや、だってすっごい可愛いんですよ。今ね、彼氏はいるのって聞いたらいないって」
「ちょっと、だからそういうのはセクハラだって毎回」
「いやでもね、」
如月さんはまっすぐ背筋を伸ばしたまま微動だにしない。動じていない風に見えるその姿勢が、その実、想定外の出来事に対しての防衛体勢だと僕は知っている。やっぱりこんな仕事断るべきだった。会場に男性声優を咎める雰囲気はなく、むしろいつもの鉄板ネタであると笑う人が多い。
「ご主人様」
きっと声優が持つどちらかのマイクが拾ったのだろう。伊崎の真っ直ぐな声が会場に響く。
「まったくお仕事中だと言うことをお忘れではございませんか? 妹の美しさに現を抜かしている暇があったら、少しはご自身の身の程を弁えていただかなくては」
胸を張っているわけでもない。皮肉な口調のくせに堂々と言い張るその姿は、アニメの中の姉様その物だった。会場に広がった静けさは白けではなく感嘆のもの、ちいさな「おー」という声があちこちから聞こえてくる。女性声優が「ほら怒られましたよ!」と強めに言い、それに合わせて「すみません」と半笑いで言う。そしてそのままイベントは、ラストに向かってのトークへと流れていった。
僕の目には、言う前も言った後も変わらず済まし顔で佇む伊崎と、その隣で少し肩の力を抜いた如月さんばかりが映っていた。
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トークイベントが終わってもブースの人混みは途絶えなかった。カメラを持った人が列を作り、原作の舞台を再現した一室に佇む如月さんと伊崎を代わる代わるに写している。ふと、遠目に見ていた僕に如月さんが気付き、小さく、誰にも分からないほどの傾きで会釈した。
他のブースをふらふら、誘蛾灯の青い光に引き寄せられる夜の虫みたいに見て回っていると、天井からイベント終了のアナウンスが流れる。会場の至る所から拍手が起き、お客さんの流れが少しずつ出口へと向かっていく。僕は立ち入り業者として貰っていた『関係者』の札を首から下げる。
如月さんがいるブースへ向かうと、丁度最後の一人が写真を撮り終えて捌けていくところだった。代理店や出版社の関係者だろうか、スーツを着た男性が数名、如月さんと伊崎の元に訪れて頭を下げ、そこでもまた一緒に写真を撮っている。如月さんはいつもの凜とした顔を、伊崎は人当たりの良い笑顔を浮かべている。だけど流石に、二人の顔には疲れが見えた。
やがてその人達も散り、早くも片付けの業者が作業に取りかかろうとしている。僕の姿に気付いた如月さんと伊崎はこちらへと歩み寄る。
「お疲れ様」
と僕は声をかける。伊崎は首を左右に傾けながら「ホントにね」と笑いながら言った。如月さんは両手を前で結んで「お疲れ様です」と深々頭を下げる。いつもより大きく、そして上が露出した胸の膨らみにばかり目が行ってしまい、如月さんが頭を上げた後も知らず知らず視線が釘付けとなってしまう。
「社長?」
青い髪に片目を隠した如月さんが僕に問いかける。「あ」と思わず口から零れる。
「似合ってるね、すごく」
取って付けたのような言い回しになってしまったと思った。すかさず伊崎が、
「見とれてたのよ、如月ちゃんのおっぱいに」
「いや違う、あ、いや、見とれてたって言うのはそうかもしれないけど、そっちじゃなくて」
伊崎が言った途端に如月さんは、はっとした顔を浮かべ、隠すように胸を押さえて黙り込んでしまう。伊崎はカラカラと笑った。
「まぁ、でもクオリティ高いでしょ? 大好評も大好評よ。もう今日だけで何枚撮られたか分からないわ。本当に万いってるんじゃない? 名刺も凄い量もらったしね」
「名刺?」
「あの、色んな方から頂きました」
如月さんは一度ブースに戻り、机の上に置いていた名刺の束を持ってくる。差し出されるがまま手に取ると、会社名が書かれている一般的な物から名前と肩書き、アドレスやSNSのユーザー名だけが書かれた物など様々だった。
「カメコさんから、私と同じような仕事の人、出版社や大手中堅怪しげな芸能事務所まで、まぁ色々と。あんたのとこ辞めてもこれで食べていけるわ、ホントに」
「いえ、でも」
如月さんはチラリとのぞき見るように僕を見上げて、すぐに視線を戻す。
「辞めるつもりはありませんので」
咄嗟にどう答えて良いか分からず、だけど沸き上がる笑みをそのまま顔に浮かべると自然に「それは良かった」と言葉がこぼれた。伊崎は腰に手を当てて「さて」と呟くと、
「お二人はどうするの? もうこのまま帰る? それともこっちに泊まっていくの?」
「帰るも何も片付けが」
「良いわよそれくらい。業者も搬入と同じだし、あんたに指示して貰わないといけない事は無いはずだから。それに私だっているから大丈夫よ」
「いや、それも悪い」
「なに? 私じゃ不安だって?」
「そうじゃなくて、お前も疲れてるだろ?」
伊崎は「そりゃもう」と言って肩をすくめる。
「だけどこれくらいやるわよ。一応これでも責任者よ? それに今回は色々と、本当にお世話になりましたし。だから、二人でご飯でも行ってきな」
僕が食い下がろうとするよりも先に「と、言う事で如月ちゃん。とりあえず貴重品持ってロッカー室。こいつを連れて、ドアの前で待たせといて」と如月さんに向き直る。「あ、はい」と如月さんは踵を返し、貴重品を取りに再びブースへと小走りで向かっていく。
その後ろ姿を見ながら、
「ねぇ」
トーンを抑えた声で伊崎は言う。
「如月ちゃんがなんか言っても、あんたはボロ出さなくても良いからね」
「ーー何の話?」
チラリと僕を見る。唇だけを微笑みの形に変えて、
「わかんなかったらそれで良いわ」
如月さんが片手にスマホと財布を握り戻ってくる。伊崎は逃げるように踵を返して、
「んじゃお疲れ。今日はありがとね、如月ちゃん。今度どっか遊びに行こう」
如月さんは「はい、ありがとうございました」と言って頭を下げる。僕は伊崎の最後に言った言葉の意味を考えながら、その後ろ姿を見つめていた。
:::
如月さんと僕は殆ど同じタイミングで向き合う。それがなんだかおかしくて、またお互い笑みを浮かべた。
「お疲れ様。大変だったね」
「慣れないことでしたので、少し」
「どうしようか。とりあえず着替えて、どこかご飯でも行く?」
「そう、ですね」
と言いながら、如月さんは自分の格好を見下ろす。スカートの裾を指先で摘まみながら、
「あの、ところで社長的にはこの姿、どうでしょうか?」
カラコンを入れているのだろう、いつもの吸い込まれるような黒とは対照的な、透き通る青の瞳で如月さんは訊ねる。意識していないとすぐに引き寄せられてしまう露わになった谷間から視線を剥がし、そのままいつもと違うメイド服姿の如月さんを上から順に見つめていく。スタイルの良さも着こなしも、そして立ち居振る舞いも、全てが完璧と言って良いほどのできだった。
「似合ってる、本当に。これ以上再現度の高い人は見たことないよ。いや、原作超えてると思う」
如月さんは、はにかむように笑った。そういう風に微笑む如月さんを見るのは初めてかも知れない。いつものどこか遠慮がちな仕草とは対照的に、今の如月さんは無邪気になついてくれる子供のような愛らしさが滲んでいた。そんな如月さんを見て、僕も安心や愛おしさが疲れに染み渡っていく。きっとこの瞬間を漫画にしたら、僕と如月さんどちらの頬にも赤いギザギザの朱が差すだろう。
「今日はたくさんの方に撮って頂いたんですけど、まだ社長には撮ってもらっていません」
「あぁ、たしかに。一枚、記念、」
「是非そうして頂きたいんですけど、その、ここはもう片付けに入っているので、長居するのは失礼だと思うんです」
如月さんの言わんとしていることが分からなくて、僕は黙り込んでしまう。辺りを見渡しても一般のお客さんの姿は見当たらず、関係者がイベント後の安堵とこれからの片付けの苦労を併せ持ちながらあちこちを行き来している。始まる前のぴりぴりとした緊張感は無く、むしろ疲れも相まってどこか寛容な空気があるように思えた。
「もし良ければ、どこか落ち着いた、二人っきりになれる場所で撮って頂きたいんです」
如月さんは視線を左右に泳がせ、声をいっそう潜めた後、
「お望みなら、社長が気にされているここも、大丈夫なので」
胸の谷間に手を置いた如月さんを見て、僕はようやく『この後の予定』について提案を受けていることに気が付いた。恐らく、今日、如月さんを見た男性が多かれ少なかれ頭に描いた妄想が、僕の気持ち一つで現実になろうとしているのだと。
「場所は、社長にお任せします」
如月さんは意を決したように胸を張り、「けど」と続けて僕を見上げる。丸い瞳の中の青色は、海にも空にも思える。底知れない深さの表面にある澄み切った青だ。
「もしかしたら、帰るのには遅い時間となってしまうかも知れないので、そのまま泊まれるような場所が、いいと思います」
言い終わった後、如月さんは「なんて」と言って、照れ隠しの笑みを浮かべた。
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