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12-2.二人の昔について(Side C)
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私はどうなりたい?
更衣室の鏡には青い髪の毛のメイドが映っている。つい半日前にここで伊崎さんから言われた言葉を思い出す。『付き合ってくれたら肩の荷が下りるよ』と。彼のことを好きかと言われたらもちろん首を縦に振る。だけど元気よく『はい』と答えることは出来ないかも知れない。それが今の自分。
私は、彼とどうなりたい?
メイドに憧れていたくせに、私は誰かの事を考えたりはしていなかった。彼と知り合ってからのこの数カ月も、彼を通した自分の姿ばかり見ていたと思う。だけど今日、違う存在になりきって一日を過ごせたおかげで、少しだけキャッカンテキな視線というものを手に入れた、気がする。私は伊崎さんの肩の荷をおろすために、彼とのこれからを過ごすのか。
それともーー。
さて、と私は呟く。
「また後でね」
私は小さく口にし、ウィッグを外して自分に戻る。
:::
彼が提案してくれるご飯屋さんはどれもこれも名前や紹介を聞いただけで高そうなところばかりだった。政治家の誰それが通ったお店とか、フランスのなんとかという賞をとったシェフがいるとか。私が着替えるまでの短い間で、八方手を尽くして調べてくれたのは本当にありがたかったけど、今日は少しだけ、わがままな自分でいようと思った。
「ーー本当にここで良いの?」
「美味しいんですよ?」
「まぁ確かに美味しいけど」
車はコインパーキングに止め、駅前のロータリーを渡った先。土曜の夜八時の雑踏は人で溢れかえっていて、だけど微妙にピークの時間がずれていたのか、それとも運が良かったのか、リーズナブルで有名なイタリアンレストランは席が空いていた。周りは食事を取る人よりも、空っぽの皿を挟んで熱っぽくしゃべる人のほうが多い。店員さんの案内で窓際の二人席へ座る。歩行者信号が青くなり、一斉に歩き出す人が見えた。
「よく来るの?」
一礼して店員さんが去った後、スタンドに立てられているメニューを広げながら社長は訊ねる。私は「昔は」と言ってパスタのページに目を落とす。
「大学の時に、勉強とかでよく居座っていました。もちろん、この店じゃないですけど」
「だから久しぶりに来たくなった、的な?」
「落ち着くので」
と私は笑いながら言う。照れ隠しの笑みというものを、多少不器用でも浮かべられるようになったのは本当に最近のことだ。
「一人で?」
「友達もあまり。こんな性格でしたから」
「よく声とか掛けられたでしょ」
「そんなこと……たまにだけ」
「やっぱり」と言って笑う彼に「でも今日は大丈夫ですよ」と私は言う。
「社長がいますから」
少しだけ彼が固まって、また笑みを浮かべた後に「そうだね」と言った。今の私には、彼が浮かべた笑顔の種類が手に取るように分かった。もっと早く彼と出会えていれば、今頃の私はもっと自然な笑みを浮かべられていたのかも知れない。
「私は決まりましたので、どうぞ」
と言い、私はメニューを彼の方に回す。彼は数ページパラパラめくるとすぐに呼出ボタンを押す。私はほうれん草のクリームパスタを、彼はミートドリアと5ピースのスパイシーチキン、それに二人ともドリンクバーを頼んだ。
「僕も昔はよくこういうところで勉強してたかな」
彼はどこか遠くに視線を向けながら、そう言った。私に話しかけていると言うより、その言葉でもって昔の自分を浮かび上がらせているような感じだった。私は頬杖を突く彼の腕に浮かび上がる、太い血管をじっと見ていた。
「真面目な学生でもなかったけど、なんとなく色んな人がいる中で一人でいるのが好きだったりしたんだ。もちろん、誰かとわいわいやりながらってのも悪くないけど」
「伊崎さんともよく来たりしたんですか?」
彼は並びの良い前歯を見せ「たまにはね」とつぶやく。そのまま視線を伏せ、テーブル上に置かれた季節限定レモン風味の海鮮パスタを見ていた。
私は今になって、伊崎さんの屈託のない笑顔がたまらなく羨ましくなった。自然と頭に思い浮かんでしまったのだ。一人、きっとイヤホンで耳に蓋をして、自分の世界にいる彼にごくごく自然な口調で話しかける伊崎さんの姿が。肩を叩いてイヤホンを取り上げて、向かいの席に座り、彼の食べかけのピザやチキンを口に運ぶその飾りっけのない仕草が。それは今日、何百人という人の前で躊躇なく、そして一片の迷いも間違いもなく私を助けてくれた伊崎さんの姿とも重なった。
私は、長い間完璧とは自分一人で完結するものだと思っていた。だけど今日という一日を過ごした今となってはそれは違うと言える。私が漠然と憧れていた完璧なメイドは、誰かのために動ける人間なのだと思う。分かっているつもりだった。だけど知っているだけだった。
「伊崎さんは、少し後悔しているようでした」
視線を上げ不思議そうに私を見る彼に、「社長とのお付き合いをお断りした件、です」と伝える。そして伊崎さんから伝え聞いたことを彼に伝える。あの時は、彼が語った伊崎さんとの関係を私の口から話した。そして『ま、いっか』という言葉をもって、今度は伊崎さんの言葉で彼との関係を語ってくれた。
会話の最後で伊崎さんは罪悪感という言葉を使っていた。けれど多分、後悔と言った方が伊崎さんの心情に近い気がした。それがどこから湧き上がった物かは分からない。だけどなんとなく、伊崎さんは彼との何かを取り戻したがっているように思えた。
料理が来て、それぞれの前に注文した皿を並べられても私は伊崎さんが語った彼との昔話を続けた。
そして最後に、
「初めて伊崎さんとお会いした時、正直に言うと羨ましかったです。社長と、とても仲が良さそうでしたし、私には無いものをとてもたくさん持ってらっしゃったので。ああいう風になれたらなと思いましたけど、今日でそれはやっぱり無理だと思いました。とてもじゃないですが私は伊崎さんみたいにはなれません。結局、私は私のままで、なりたい自分になるしかないんだって、そう思い知りました。でも、あながち絶望的っていう気分でも無いんですよ? むしろちょっと楽になったというか、自己満足でしか無いんですけど、なれない誰かになる努力なんてしなくてもいいんじゃないかな、なんて」
二の句をつなげるのに迷っている彼に、私は「すみません長々と」と言い、箱に入ったフォークとスプーンを差し出す。
「冷める前に、いただきましょう」
彼は片手でそれを受け取り、「そうだね」と言って、笑った。
:::
あんたはボロ出さなくていいからね。
そういう意味だったのか。
食べた料理はあまり味がしなかった。伊崎がそう言うのならこのまま黙っていても許されるんだろう。むしろタイミング的に、今言うのは最悪だって馬鹿でもわかる。
それでも。
伊崎だけじゃなく、如月さんにだって失礼な気がした。
:::
お店を出た如月さんはドラッグストアと服屋さんに行きたいと言った。本格的な服屋ではなく、大きな駅に入っている季節ごとの必要最小限がまとめられた店。
「あの、泊まる準備をしていなかったので色々と買いたい物が」
女性は大変だ、と思った。
すでに今は十時に近かった。お互いの立場や気持ちはさておいて、現実的に今から二時間も車を走らせてあの家に帰る気にはちょっとなれない。
それに、もうそれ相応のホテルは取っているし。
幸い目前の駅に目的の店は固まっていたので、そこで買い物は済ませることにした。よく見るファーストリテインな服屋を見つけると、如月さんは「ちょっと買ってきます」と言い小走りで向かった。ついていこうと思ったけど、女性向けのインナーや下着売り場へ入っていったのを見ておとなしく店の外で待っていることにする。
次に行ったドラッグストアはそこから少し離れたところにあって、小さな店内に所狭しと医薬品や化粧道具が置かれていた。如月さんは小さなボトル三つがセットになったスキンケアセットを手に取っていた。何に使うものかを訊ねたら、洗顔とメイク落としと保湿です、と答えた。やっぱり女性は大変そうだった。
僕は如月さんの手からそれを取り上げて「何か他にほしいものは?」と訊ねる。如月さんは少しぽかんとした顔を浮かべた後、
「ちゃんと自分で買いますよ」
「これくらい奢らせて。安いモデル代でしょ?」
「別に、撮りたいんだったらいつでも撮って良いんですけど」
少し不満げだった。だけどその不満がどこに向いているのか、僕には一瞬わからなくなった。
:::
ドラッグストアと服屋のビニール袋を持って駐車場へと向かう。駅を出て、その外周に沿ってぐるりと周り裏手へと歩くその途中、「あ」と行って如月さんが立ち止まる。横を歩く僕の袖を引っ張って、如月さんは道路の向かい側にあるコンビニを指差す。
「あの、ちょっと行きませんか?」
「何か買い忘れたものがあった?」
「そう、ですね。そんな感じです」
僕と如月さんは行き交う車の合間をぬって夜の国道を小走りで走り抜ける。僕はふとこれと同じことを昔にしたことがある気がした。体全体で感じる既視感の根源を探ると、大学生の時に伊崎と一緒に遊んだあの日にたどり着いた。遊んだ、というよりデートと言った方が良いのかも知れない。服屋と本屋とファミレス。ホテルから出た後に一日がかりで出歩いたあの日は、本当に楽しかった。
だけど今になって考えれば、僕はあの日一日、伊崎から感じる違和感に気がついていた。ほんの些細な仕草、例えば声をかけて振り返った時に行く目の位置とか、ふとした瞬間に黙りこむ時間の長さとか、笑顔を浮かべるその一瞬前のぎこちない表情とか。だけどそれを僕は始終、知らないふりをしていた。きっとそういうものなんだろう、と思って黙りを決め込んだ。
自動ドアが開き、店員のやる気のない「いらっしゃいませ」に出迎えられる。如月さんはそのままレジの前をまっすぐ歩いて曲がり、蓋のない冷凍庫を見下ろす。四角く区切られた仕切りの中に、アイスが詰め込まれている。
「アイスが食べたかったの?」
「えぇ。おごりですよ。社長もお好きなのを」
「いいよ、僕が出すから」
「私からじゃありません」
如月さんはスマホを取り出してQR決済のアプリを起動させる。表示されたトップ画面に「500円」という記載があった。
「伊崎さんからです。社長の分もありますので」
僕は思わず苦笑する。如月さんと伊崎の間でどんな会話があったかは分からないけど、なにか準備されたレールの上を爆走しているような、そんな爽快感もあった。
「それなら僕はこれ」
と言って丸みを帯びたチョコの棒アイスを選ぶ。如月さんは「私はこれにします」と言って、ちょっと高級なカップのバニラアイスを手に取った。僕と目が合うと、らしくない愛想笑いを浮かべながら、言い訳するみたいに、
「あの、社長が安いのを選ばれたので、ちょっと高級品を」
なるほど。確かに足して丁度五百円くらいだ。
レジへ行き、それぞれ選んだアイスをカウンターに置く。店員さんがスキャナーでバーコードを読み取り、袋に詰める間、如月さんはじっと画面を見つめていた。そして、おずおずと僕にスマホを差し出して、
「すみません、お支払いは」
「いや、僕じゃなくて、こっちに」
と店員さんを指差す。如月さんは視線を外し、
「その、伊崎さんに言われて入れてみたんですけど、使い方が」
:::
しゃり~ん
:::
スマホを返し、コンビニを出る。
ぜひ、と言われたのでコンビニの前に座り込んでアイスを食べる事になった。映画や舞台の広告が貼られたウィンドウを背中に、二人並んでしゃがむ。ビニール袋の中に包装を入れアイスを頬張る。久しぶりに食べたチョコアイスは口の中で甘く溶け、体の中へと下っていった。すぐ目の前は歩道でたくさんの人が行き交っている。スーツ姿のサラリーマン、制服姿の男女、自転車に乗って走り去る人や、耳にイヤホンをつけてスマホに目を落としながら歩く人。人の流れを見ているとつい時間を忘れ、ふと気づいて如月さんの方を見ると、
「あ」
目があった瞬間に如月さんはそう呟いた。カップに満々と詰められたアイスの表面には、一掬い目の窪みがある。プラスチック製のスプーンの上で、カップから削られたアイスが夏と春の間の夜気に当てられている。
「食べないの?」
「あ、食べます。けど、」
「けど?」
如月さんは顔をカップに落として、スプーンを口に含む。
「社長の横顔をまじまじと見るのは、もしかしたら初めてかと思いまして」
「そう? いつも見てない?」
「もちろん見てはいるんですけど、社長は私と話す時は必ず私の方を見てくれるので、じっと見る機会は今まであまりなかったのだと」
如月さんは二口めを食べながら「今になってそれを気づきました」と呟く。如月さんが言った事はそのまま僕にも当てはまっていて、確かにこうやって如月さんの顔を見ることはあまりなかったと思う。長い黒髪、上を向いたまつげ、切れたように深く大きく開いた目に高い鼻。口から顎、首までのラインはしっかりとした凹凸を描きながら伸びていて、その下のスタイルは言わずもがな。何度見ても見飽きない美人がそこにいた。
だけど、失礼な話、僕の頭にはさっきから既視感が飛び回って仕方がなかった。学生の頃に、唯一こうやって肩を並べてアイスを食べた女の子がいた。そいつは如月さんとは正反対のタイプで、すこしうざったいところはあるけど気がきくやつで、当時の僕は、確かにそいつに好意を抱いていた。
「さっき、レストランで話してくれた事だけど」
如月さんはこちらを振り向く。大きな瞳に一瞬気圧されて、だけど言わなくてはいけないことを口にする。
「伊崎さんと、社長の話ですか?」
「そう。実は、一つだけ違うところがあるんだ。飲み会の帰りで偶然であったのも、ホテルに行ったのも、次の日にデートしてコンビニでアイス食べながら振られたのも本当。でも」
僕は唾を飲み込む。目をそらしたくて仕方がないけど、一番大事なことは目を見て言わなくてはならない。手にもったアイスが溶けたのか、僕の指先に冷たさが伝わる。
「誘ったのは僕の方からだったんだ。それに、終電がなくなるまで伊崎を引き止めてたのも。できるだけ会話が途切れないようにして……。もちろん、無理やり引き込んだとか、乱暴なんかはしてない。でも、こういう状況になったらアイツは断れないだろうなってのは、正直思ってた」
如月さんの表情は変わらず、僕の目を見つめている。その目を見ていると、どこまでもどこまでも言い訳の言葉が流れ出そうになる。どっちも酔っていたし、お互いの仲は傍目から見ても良いものだった。伊崎が嫌がるようだったらもちろん諦めるつもりだった。始まる前も終わった後も伊崎は嫌な顔をしていなかったし、次の日のデートも違和感を感じることはあってもいつもとそう変わる様子はなかった。
頭に浮かんだそういう言葉全ては如月さんの大きな瞳に吸い込まれる。僕はポツリと「ごめん」と呟く。
「本当はレストランで聞いた時にそう言わなくちゃいけなかった。でも、楽しい時間が終わるかもと思ったら、それを口に出来なかった」
耐えきれず、僕は目を伏せ、もう一度「ごめん」と言った。僕の革靴と如月さんのショートブーツを見つめ、雑踏の音に耳をすませる。
:::
あ、そういうことか。
彼の言葉を聞いて私はそう思った。今の今まで気にもとめなかった違和感が解かれていく。伊崎さんと社長が今まで友人としての付き合いがあったのも、伊崎さんが罪悪感と言い換えたに違いない後悔を持っていた理由も。
たぶん、伊崎さんは順番が逆だったら、と考えていたのではないだろうか。
ホテルに行った日と、デートした日が逆だったら。一日楽しいデートをして、ご飯を食べて、コンビニでアイスを食べて、そしてホテルに行きたかったんだと思う。
丁度、私が今日過ごしたみたいに。
だけど現実は逆になってしまった。
それが許せなかった理由が何かはわからない。単純なプライドの問題かも知れないし、もしかしたら他の何かが絡んでいたかも。だけど一つだけ言えるのは、きっと伊崎さんも社長に対して好意を抱いていたんだろうという事。そうでないとホテルにはいかないだろうし、その後も仲良くは出来ないだろうから。
ま、いいか。
と伊崎さんは言っていた。私はそれを、社長に知らないところで色々話すけどいいか、という意味に捉えていた。でもおそらく、その意味合いはもっと深いのだと思う。社長に対してではなく、自分自身に対して。昔、社長に対して抱いていた好意と拒絶。そのまま時間が流れてタイミングを逃し、ふっと現れた私にその好意を預けることにした決意。だから私に小さな嘘をついて社長との間を取持とうとしたのだろう。そういう色んな諦めと決心が、あの一言に秘められていたのだと思う。
ーー社長だって、わざわざ言わなくてもいいのに。きっと私が話をしたときからずっと悩んでいたんだろう。それをおくびにも出さず、今の今までいつもどおり接してくれていた。
みんな優しい人だな。
私はそこまで優しくない。でも、できるなら皆のように優しさを伝えたい。どんな言葉を重ねれば、どんな表情をしたらいいのか。きっと今の私の感情をそのまま伝えられたら、色んなことがうまく行く気がする。だけどどうしたら、
ーー。
一つ、思いつく。色んなところで使い古されたシュチュエーション。でも上手にできるだろうか。いや、悩むのはやめよう。行動で示そう。そうやって、色んな人の優しさに応えよう。
目を伏せた社長の頬に手を当てる。びくんと跳ねた社長が私を見て、だけど何が起きているのか分からず固まっているようだった。顔が近づく度に心臓の鼓動が過速度的に波打つ。息を止め、目を瞑り、手のひらから伝わる彼の体温をただ感じる。
唇を重ねた。
:::
柔らかい感触が離れていく。雑踏の音が戻り、如月さんがつい一瞬前と同じ場所に戻るのをただただ見つめる。
「すみません」
と硬い表情のまま、如月さんは言った。だけど頬は真っ赤に染まっている。きっと僕も同じだ。
「こっちのほうが色々とよく伝わる気がして」
この年になって、こんなにドキドキすることになるとは思わなかった。まるで初心な中学生みたいに、目の前の素敵な女性の存在に浮ついている。さっきまでも、もちろん魅力的に見えていた如月さんの全てが、今はより一層輝いて見える。
「社長が伝えたいことも、伊崎さんが伝えたかったことも、全てではないですがわかっているつもりです。その上で、申し上げるのですが、」
短く如月さんは息を吸い込む。そして、僕の目を見て、
「私は、あなたの事が好きになってしまいました。優しくて、心強くて、いつも私を気にかけてくださるあなたのことが。昔のことを気にされているのはわかりますが、それが理由で、私がこの数カ月で見てきた姿が偽物になったりはしません。私は今までそういうお付き合いをしたことがありません。色んなところで迷惑をかけるかもしれません。でも、それでよければ、私と恋人になってくれませんか?」
空っぽの壺みたいな人だと思った。
でも知らない間に、あふれるほどの想いが詰め込まれていた。僕がこぼした何気ない感情を一つ一つ拾って大事にためて、きらめく頃になって僕に見せてくれるこの人がたまらなく愛おしい。喉元まで込み上がった熱いものを通して発した「もちろん」は震えて、いやに湿っぽく聞こえただろう。だけど僕は僕の言葉で、彼女の想いに応えなければと思った。
「僕も、如月さんのことが好きです。これからもどうか、僕と一緒に毎日を過ごして欲しい」
如月さんは優しくほほえみ、
「はい」
と言った。
:::
食べ終わったアイスを店内のゴミ箱に捨てる。「では」と小さく頭を下げて歩き出す如月さんの手を、僕は握る。
驚いた顔をした如月さんを見て、僕は「いや」と言い訳するみたいに、
「恋人同士だし、良いかなって」
如月さんはツーテンポくらい遅れて「あ、はい」と応え、背筋を伸ばす。
「もちろん、この後にすることに比べたら」
「この後?」
「え? その、ホテル、行くんですよね」
「撮影しに、だよね」
目も口も開けっぱなしのまま、かすれるような声で「あ」と絞り出し、
「そ、そうでしたね。もちろんです」
右肩下がりで音量が絞れていく如月さんを見て、僕は今、彼女に恥をかかせてしまったのだと気づく。あまりにも女性との付き合いから離れていたせいで、それにさっきまでの昔と今が入り混じった色んな感情のもつれのせいで、世間一般で言うところのホテルがどういう事をするのか、抜け落ちていた。
「あの」
ポツリと、如月さんは言う。
「もし時間があったらで良いのですが、撮影、以外にもいくつか恋人らしいことが出来たら、嬉しいかもしれません」
「その、如月さんさえ良ければ、むしろ僕の方こそ頼みたいというか」
続く言葉もなく、火照った顔をお互いに見ないようにしながら、僕達は駐車場へと向かう。
更衣室の鏡には青い髪の毛のメイドが映っている。つい半日前にここで伊崎さんから言われた言葉を思い出す。『付き合ってくれたら肩の荷が下りるよ』と。彼のことを好きかと言われたらもちろん首を縦に振る。だけど元気よく『はい』と答えることは出来ないかも知れない。それが今の自分。
私は、彼とどうなりたい?
メイドに憧れていたくせに、私は誰かの事を考えたりはしていなかった。彼と知り合ってからのこの数カ月も、彼を通した自分の姿ばかり見ていたと思う。だけど今日、違う存在になりきって一日を過ごせたおかげで、少しだけキャッカンテキな視線というものを手に入れた、気がする。私は伊崎さんの肩の荷をおろすために、彼とのこれからを過ごすのか。
それともーー。
さて、と私は呟く。
「また後でね」
私は小さく口にし、ウィッグを外して自分に戻る。
:::
彼が提案してくれるご飯屋さんはどれもこれも名前や紹介を聞いただけで高そうなところばかりだった。政治家の誰それが通ったお店とか、フランスのなんとかという賞をとったシェフがいるとか。私が着替えるまでの短い間で、八方手を尽くして調べてくれたのは本当にありがたかったけど、今日は少しだけ、わがままな自分でいようと思った。
「ーー本当にここで良いの?」
「美味しいんですよ?」
「まぁ確かに美味しいけど」
車はコインパーキングに止め、駅前のロータリーを渡った先。土曜の夜八時の雑踏は人で溢れかえっていて、だけど微妙にピークの時間がずれていたのか、それとも運が良かったのか、リーズナブルで有名なイタリアンレストランは席が空いていた。周りは食事を取る人よりも、空っぽの皿を挟んで熱っぽくしゃべる人のほうが多い。店員さんの案内で窓際の二人席へ座る。歩行者信号が青くなり、一斉に歩き出す人が見えた。
「よく来るの?」
一礼して店員さんが去った後、スタンドに立てられているメニューを広げながら社長は訊ねる。私は「昔は」と言ってパスタのページに目を落とす。
「大学の時に、勉強とかでよく居座っていました。もちろん、この店じゃないですけど」
「だから久しぶりに来たくなった、的な?」
「落ち着くので」
と私は笑いながら言う。照れ隠しの笑みというものを、多少不器用でも浮かべられるようになったのは本当に最近のことだ。
「一人で?」
「友達もあまり。こんな性格でしたから」
「よく声とか掛けられたでしょ」
「そんなこと……たまにだけ」
「やっぱり」と言って笑う彼に「でも今日は大丈夫ですよ」と私は言う。
「社長がいますから」
少しだけ彼が固まって、また笑みを浮かべた後に「そうだね」と言った。今の私には、彼が浮かべた笑顔の種類が手に取るように分かった。もっと早く彼と出会えていれば、今頃の私はもっと自然な笑みを浮かべられていたのかも知れない。
「私は決まりましたので、どうぞ」
と言い、私はメニューを彼の方に回す。彼は数ページパラパラめくるとすぐに呼出ボタンを押す。私はほうれん草のクリームパスタを、彼はミートドリアと5ピースのスパイシーチキン、それに二人ともドリンクバーを頼んだ。
「僕も昔はよくこういうところで勉強してたかな」
彼はどこか遠くに視線を向けながら、そう言った。私に話しかけていると言うより、その言葉でもって昔の自分を浮かび上がらせているような感じだった。私は頬杖を突く彼の腕に浮かび上がる、太い血管をじっと見ていた。
「真面目な学生でもなかったけど、なんとなく色んな人がいる中で一人でいるのが好きだったりしたんだ。もちろん、誰かとわいわいやりながらってのも悪くないけど」
「伊崎さんともよく来たりしたんですか?」
彼は並びの良い前歯を見せ「たまにはね」とつぶやく。そのまま視線を伏せ、テーブル上に置かれた季節限定レモン風味の海鮮パスタを見ていた。
私は今になって、伊崎さんの屈託のない笑顔がたまらなく羨ましくなった。自然と頭に思い浮かんでしまったのだ。一人、きっとイヤホンで耳に蓋をして、自分の世界にいる彼にごくごく自然な口調で話しかける伊崎さんの姿が。肩を叩いてイヤホンを取り上げて、向かいの席に座り、彼の食べかけのピザやチキンを口に運ぶその飾りっけのない仕草が。それは今日、何百人という人の前で躊躇なく、そして一片の迷いも間違いもなく私を助けてくれた伊崎さんの姿とも重なった。
私は、長い間完璧とは自分一人で完結するものだと思っていた。だけど今日という一日を過ごした今となってはそれは違うと言える。私が漠然と憧れていた完璧なメイドは、誰かのために動ける人間なのだと思う。分かっているつもりだった。だけど知っているだけだった。
「伊崎さんは、少し後悔しているようでした」
視線を上げ不思議そうに私を見る彼に、「社長とのお付き合いをお断りした件、です」と伝える。そして伊崎さんから伝え聞いたことを彼に伝える。あの時は、彼が語った伊崎さんとの関係を私の口から話した。そして『ま、いっか』という言葉をもって、今度は伊崎さんの言葉で彼との関係を語ってくれた。
会話の最後で伊崎さんは罪悪感という言葉を使っていた。けれど多分、後悔と言った方が伊崎さんの心情に近い気がした。それがどこから湧き上がった物かは分からない。だけどなんとなく、伊崎さんは彼との何かを取り戻したがっているように思えた。
料理が来て、それぞれの前に注文した皿を並べられても私は伊崎さんが語った彼との昔話を続けた。
そして最後に、
「初めて伊崎さんとお会いした時、正直に言うと羨ましかったです。社長と、とても仲が良さそうでしたし、私には無いものをとてもたくさん持ってらっしゃったので。ああいう風になれたらなと思いましたけど、今日でそれはやっぱり無理だと思いました。とてもじゃないですが私は伊崎さんみたいにはなれません。結局、私は私のままで、なりたい自分になるしかないんだって、そう思い知りました。でも、あながち絶望的っていう気分でも無いんですよ? むしろちょっと楽になったというか、自己満足でしか無いんですけど、なれない誰かになる努力なんてしなくてもいいんじゃないかな、なんて」
二の句をつなげるのに迷っている彼に、私は「すみません長々と」と言い、箱に入ったフォークとスプーンを差し出す。
「冷める前に、いただきましょう」
彼は片手でそれを受け取り、「そうだね」と言って、笑った。
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あんたはボロ出さなくていいからね。
そういう意味だったのか。
食べた料理はあまり味がしなかった。伊崎がそう言うのならこのまま黙っていても許されるんだろう。むしろタイミング的に、今言うのは最悪だって馬鹿でもわかる。
それでも。
伊崎だけじゃなく、如月さんにだって失礼な気がした。
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お店を出た如月さんはドラッグストアと服屋さんに行きたいと言った。本格的な服屋ではなく、大きな駅に入っている季節ごとの必要最小限がまとめられた店。
「あの、泊まる準備をしていなかったので色々と買いたい物が」
女性は大変だ、と思った。
すでに今は十時に近かった。お互いの立場や気持ちはさておいて、現実的に今から二時間も車を走らせてあの家に帰る気にはちょっとなれない。
それに、もうそれ相応のホテルは取っているし。
幸い目前の駅に目的の店は固まっていたので、そこで買い物は済ませることにした。よく見るファーストリテインな服屋を見つけると、如月さんは「ちょっと買ってきます」と言い小走りで向かった。ついていこうと思ったけど、女性向けのインナーや下着売り場へ入っていったのを見ておとなしく店の外で待っていることにする。
次に行ったドラッグストアはそこから少し離れたところにあって、小さな店内に所狭しと医薬品や化粧道具が置かれていた。如月さんは小さなボトル三つがセットになったスキンケアセットを手に取っていた。何に使うものかを訊ねたら、洗顔とメイク落としと保湿です、と答えた。やっぱり女性は大変そうだった。
僕は如月さんの手からそれを取り上げて「何か他にほしいものは?」と訊ねる。如月さんは少しぽかんとした顔を浮かべた後、
「ちゃんと自分で買いますよ」
「これくらい奢らせて。安いモデル代でしょ?」
「別に、撮りたいんだったらいつでも撮って良いんですけど」
少し不満げだった。だけどその不満がどこに向いているのか、僕には一瞬わからなくなった。
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ドラッグストアと服屋のビニール袋を持って駐車場へと向かう。駅を出て、その外周に沿ってぐるりと周り裏手へと歩くその途中、「あ」と行って如月さんが立ち止まる。横を歩く僕の袖を引っ張って、如月さんは道路の向かい側にあるコンビニを指差す。
「あの、ちょっと行きませんか?」
「何か買い忘れたものがあった?」
「そう、ですね。そんな感じです」
僕と如月さんは行き交う車の合間をぬって夜の国道を小走りで走り抜ける。僕はふとこれと同じことを昔にしたことがある気がした。体全体で感じる既視感の根源を探ると、大学生の時に伊崎と一緒に遊んだあの日にたどり着いた。遊んだ、というよりデートと言った方が良いのかも知れない。服屋と本屋とファミレス。ホテルから出た後に一日がかりで出歩いたあの日は、本当に楽しかった。
だけど今になって考えれば、僕はあの日一日、伊崎から感じる違和感に気がついていた。ほんの些細な仕草、例えば声をかけて振り返った時に行く目の位置とか、ふとした瞬間に黙りこむ時間の長さとか、笑顔を浮かべるその一瞬前のぎこちない表情とか。だけどそれを僕は始終、知らないふりをしていた。きっとそういうものなんだろう、と思って黙りを決め込んだ。
自動ドアが開き、店員のやる気のない「いらっしゃいませ」に出迎えられる。如月さんはそのままレジの前をまっすぐ歩いて曲がり、蓋のない冷凍庫を見下ろす。四角く区切られた仕切りの中に、アイスが詰め込まれている。
「アイスが食べたかったの?」
「えぇ。おごりですよ。社長もお好きなのを」
「いいよ、僕が出すから」
「私からじゃありません」
如月さんはスマホを取り出してQR決済のアプリを起動させる。表示されたトップ画面に「500円」という記載があった。
「伊崎さんからです。社長の分もありますので」
僕は思わず苦笑する。如月さんと伊崎の間でどんな会話があったかは分からないけど、なにか準備されたレールの上を爆走しているような、そんな爽快感もあった。
「それなら僕はこれ」
と言って丸みを帯びたチョコの棒アイスを選ぶ。如月さんは「私はこれにします」と言って、ちょっと高級なカップのバニラアイスを手に取った。僕と目が合うと、らしくない愛想笑いを浮かべながら、言い訳するみたいに、
「あの、社長が安いのを選ばれたので、ちょっと高級品を」
なるほど。確かに足して丁度五百円くらいだ。
レジへ行き、それぞれ選んだアイスをカウンターに置く。店員さんがスキャナーでバーコードを読み取り、袋に詰める間、如月さんはじっと画面を見つめていた。そして、おずおずと僕にスマホを差し出して、
「すみません、お支払いは」
「いや、僕じゃなくて、こっちに」
と店員さんを指差す。如月さんは視線を外し、
「その、伊崎さんに言われて入れてみたんですけど、使い方が」
:::
しゃり~ん
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スマホを返し、コンビニを出る。
ぜひ、と言われたのでコンビニの前に座り込んでアイスを食べる事になった。映画や舞台の広告が貼られたウィンドウを背中に、二人並んでしゃがむ。ビニール袋の中に包装を入れアイスを頬張る。久しぶりに食べたチョコアイスは口の中で甘く溶け、体の中へと下っていった。すぐ目の前は歩道でたくさんの人が行き交っている。スーツ姿のサラリーマン、制服姿の男女、自転車に乗って走り去る人や、耳にイヤホンをつけてスマホに目を落としながら歩く人。人の流れを見ているとつい時間を忘れ、ふと気づいて如月さんの方を見ると、
「あ」
目があった瞬間に如月さんはそう呟いた。カップに満々と詰められたアイスの表面には、一掬い目の窪みがある。プラスチック製のスプーンの上で、カップから削られたアイスが夏と春の間の夜気に当てられている。
「食べないの?」
「あ、食べます。けど、」
「けど?」
如月さんは顔をカップに落として、スプーンを口に含む。
「社長の横顔をまじまじと見るのは、もしかしたら初めてかと思いまして」
「そう? いつも見てない?」
「もちろん見てはいるんですけど、社長は私と話す時は必ず私の方を見てくれるので、じっと見る機会は今まであまりなかったのだと」
如月さんは二口めを食べながら「今になってそれを気づきました」と呟く。如月さんが言った事はそのまま僕にも当てはまっていて、確かにこうやって如月さんの顔を見ることはあまりなかったと思う。長い黒髪、上を向いたまつげ、切れたように深く大きく開いた目に高い鼻。口から顎、首までのラインはしっかりとした凹凸を描きながら伸びていて、その下のスタイルは言わずもがな。何度見ても見飽きない美人がそこにいた。
だけど、失礼な話、僕の頭にはさっきから既視感が飛び回って仕方がなかった。学生の頃に、唯一こうやって肩を並べてアイスを食べた女の子がいた。そいつは如月さんとは正反対のタイプで、すこしうざったいところはあるけど気がきくやつで、当時の僕は、確かにそいつに好意を抱いていた。
「さっき、レストランで話してくれた事だけど」
如月さんはこちらを振り向く。大きな瞳に一瞬気圧されて、だけど言わなくてはいけないことを口にする。
「伊崎さんと、社長の話ですか?」
「そう。実は、一つだけ違うところがあるんだ。飲み会の帰りで偶然であったのも、ホテルに行ったのも、次の日にデートしてコンビニでアイス食べながら振られたのも本当。でも」
僕は唾を飲み込む。目をそらしたくて仕方がないけど、一番大事なことは目を見て言わなくてはならない。手にもったアイスが溶けたのか、僕の指先に冷たさが伝わる。
「誘ったのは僕の方からだったんだ。それに、終電がなくなるまで伊崎を引き止めてたのも。できるだけ会話が途切れないようにして……。もちろん、無理やり引き込んだとか、乱暴なんかはしてない。でも、こういう状況になったらアイツは断れないだろうなってのは、正直思ってた」
如月さんの表情は変わらず、僕の目を見つめている。その目を見ていると、どこまでもどこまでも言い訳の言葉が流れ出そうになる。どっちも酔っていたし、お互いの仲は傍目から見ても良いものだった。伊崎が嫌がるようだったらもちろん諦めるつもりだった。始まる前も終わった後も伊崎は嫌な顔をしていなかったし、次の日のデートも違和感を感じることはあってもいつもとそう変わる様子はなかった。
頭に浮かんだそういう言葉全ては如月さんの大きな瞳に吸い込まれる。僕はポツリと「ごめん」と呟く。
「本当はレストランで聞いた時にそう言わなくちゃいけなかった。でも、楽しい時間が終わるかもと思ったら、それを口に出来なかった」
耐えきれず、僕は目を伏せ、もう一度「ごめん」と言った。僕の革靴と如月さんのショートブーツを見つめ、雑踏の音に耳をすませる。
:::
あ、そういうことか。
彼の言葉を聞いて私はそう思った。今の今まで気にもとめなかった違和感が解かれていく。伊崎さんと社長が今まで友人としての付き合いがあったのも、伊崎さんが罪悪感と言い換えたに違いない後悔を持っていた理由も。
たぶん、伊崎さんは順番が逆だったら、と考えていたのではないだろうか。
ホテルに行った日と、デートした日が逆だったら。一日楽しいデートをして、ご飯を食べて、コンビニでアイスを食べて、そしてホテルに行きたかったんだと思う。
丁度、私が今日過ごしたみたいに。
だけど現実は逆になってしまった。
それが許せなかった理由が何かはわからない。単純なプライドの問題かも知れないし、もしかしたら他の何かが絡んでいたかも。だけど一つだけ言えるのは、きっと伊崎さんも社長に対して好意を抱いていたんだろうという事。そうでないとホテルにはいかないだろうし、その後も仲良くは出来ないだろうから。
ま、いいか。
と伊崎さんは言っていた。私はそれを、社長に知らないところで色々話すけどいいか、という意味に捉えていた。でもおそらく、その意味合いはもっと深いのだと思う。社長に対してではなく、自分自身に対して。昔、社長に対して抱いていた好意と拒絶。そのまま時間が流れてタイミングを逃し、ふっと現れた私にその好意を預けることにした決意。だから私に小さな嘘をついて社長との間を取持とうとしたのだろう。そういう色んな諦めと決心が、あの一言に秘められていたのだと思う。
ーー社長だって、わざわざ言わなくてもいいのに。きっと私が話をしたときからずっと悩んでいたんだろう。それをおくびにも出さず、今の今までいつもどおり接してくれていた。
みんな優しい人だな。
私はそこまで優しくない。でも、できるなら皆のように優しさを伝えたい。どんな言葉を重ねれば、どんな表情をしたらいいのか。きっと今の私の感情をそのまま伝えられたら、色んなことがうまく行く気がする。だけどどうしたら、
ーー。
一つ、思いつく。色んなところで使い古されたシュチュエーション。でも上手にできるだろうか。いや、悩むのはやめよう。行動で示そう。そうやって、色んな人の優しさに応えよう。
目を伏せた社長の頬に手を当てる。びくんと跳ねた社長が私を見て、だけど何が起きているのか分からず固まっているようだった。顔が近づく度に心臓の鼓動が過速度的に波打つ。息を止め、目を瞑り、手のひらから伝わる彼の体温をただ感じる。
唇を重ねた。
:::
柔らかい感触が離れていく。雑踏の音が戻り、如月さんがつい一瞬前と同じ場所に戻るのをただただ見つめる。
「すみません」
と硬い表情のまま、如月さんは言った。だけど頬は真っ赤に染まっている。きっと僕も同じだ。
「こっちのほうが色々とよく伝わる気がして」
この年になって、こんなにドキドキすることになるとは思わなかった。まるで初心な中学生みたいに、目の前の素敵な女性の存在に浮ついている。さっきまでも、もちろん魅力的に見えていた如月さんの全てが、今はより一層輝いて見える。
「社長が伝えたいことも、伊崎さんが伝えたかったことも、全てではないですがわかっているつもりです。その上で、申し上げるのですが、」
短く如月さんは息を吸い込む。そして、僕の目を見て、
「私は、あなたの事が好きになってしまいました。優しくて、心強くて、いつも私を気にかけてくださるあなたのことが。昔のことを気にされているのはわかりますが、それが理由で、私がこの数カ月で見てきた姿が偽物になったりはしません。私は今までそういうお付き合いをしたことがありません。色んなところで迷惑をかけるかもしれません。でも、それでよければ、私と恋人になってくれませんか?」
空っぽの壺みたいな人だと思った。
でも知らない間に、あふれるほどの想いが詰め込まれていた。僕がこぼした何気ない感情を一つ一つ拾って大事にためて、きらめく頃になって僕に見せてくれるこの人がたまらなく愛おしい。喉元まで込み上がった熱いものを通して発した「もちろん」は震えて、いやに湿っぽく聞こえただろう。だけど僕は僕の言葉で、彼女の想いに応えなければと思った。
「僕も、如月さんのことが好きです。これからもどうか、僕と一緒に毎日を過ごして欲しい」
如月さんは優しくほほえみ、
「はい」
と言った。
:::
食べ終わったアイスを店内のゴミ箱に捨てる。「では」と小さく頭を下げて歩き出す如月さんの手を、僕は握る。
驚いた顔をした如月さんを見て、僕は「いや」と言い訳するみたいに、
「恋人同士だし、良いかなって」
如月さんはツーテンポくらい遅れて「あ、はい」と応え、背筋を伸ばす。
「もちろん、この後にすることに比べたら」
「この後?」
「え? その、ホテル、行くんですよね」
「撮影しに、だよね」
目も口も開けっぱなしのまま、かすれるような声で「あ」と絞り出し、
「そ、そうでしたね。もちろんです」
右肩下がりで音量が絞れていく如月さんを見て、僕は今、彼女に恥をかかせてしまったのだと気づく。あまりにも女性との付き合いから離れていたせいで、それにさっきまでの昔と今が入り混じった色んな感情のもつれのせいで、世間一般で言うところのホテルがどういう事をするのか、抜け落ちていた。
「あの」
ポツリと、如月さんは言う。
「もし時間があったらで良いのですが、撮影、以外にもいくつか恋人らしいことが出来たら、嬉しいかもしれません」
「その、如月さんさえ良ければ、むしろ僕の方こそ頼みたいというか」
続く言葉もなく、火照った顔をお互いに見ないようにしながら、僕達は駐車場へと向かう。
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