58 / 73
これからの四人
出会ってからずっと
しおりを挟む
報告を受けながら歩いていると鍛錬場からいつもより賑やかに聞こえた声に視線を向け、無意識に表情が綻ぶ。一心不乱に剣を振っているその位置から俺の姿は見えないのだろう。
慌ただしさは突然訪れた。公務中だった俺の元に舞い込んできた情報に思わず立ち上がり、そして父と母も一瞬瞠目したものの俺にそちらを優先させ自分たちがその公務を引き継いでくれた。
部屋に近付くにつれ人が多くなり騒ぎも大きくなる。頬に伝った汗を拭うことなくドアの目の前で控えていたジョナサンに視線を向けたときだった。
「いってぇー! マジでイテェイテェイテェッ!! 裂けるぅッ!」
「大丈夫あんたちょっとアホなとこあるけど体力と根性だけはあるんだから!」
「もうちょっと優しく応援してぇ⁈」
中は更に騒然としており、そこからずっと悲鳴に似た叫び声が上がっていた。
つい先日「そろそろかも~」だなんてのんびりとしていた声とは思えない。ひたすら叫んでいる声の傍から聞こえたもう一つの声は、恐らく母君だ。本当は母上も傍にいたかったそうだが母上も母上で公務がある。だからこそ彼の、アシエの母君が「それならあたしが」とやってきてくれた。実母がいるほうがアシエも安心できるだろうから、その申し出は本当にありがたかった。
「なんかう○こ出そうっ」
「奥様出ているのは赤子の頭です!」
たまにアシエらしいなという言葉を聞きつつ、一先ずジョナサンにもう一度視線を向け軽く深呼吸する。正直俺も緊張している。だからといって部屋の前でウロウロすることもできず、ただドアの前でジッと前を見据えていた。
そうして長い間アシエの叫びを聞いていると、中がシン……と静まり返った。心配で駆けつけてきたメイドや執事、使用人たちが互いに顔を見合わせて息を呑んでいる。
一際、大きな産声が上がった。
ドアの外でワッと歓声が上がり、身体の力が抜けそうになった俺の肩をジョナサンが労るように支えてくれた。よかったと、安堵だけがあふれた。
少し待っているとドアが開かれ、中に通される。真っ先にベッドの上で横たわっているアシエに駆け寄った。あれだけ体力に自信のあるアシエが汗だくでぐったりとしている。それほど、命を産み出すというものが如何に壮絶なものなのかありありと表していた。
「ありがとう、アシエ」
俺を見て、微笑んだアシエに思わず涙ぐみそうになる。身体を変えてまで子を成し、何もかも受け止めてくれたアシエに感謝と共に労りの言葉を送る。アシエは笑顔を浮かべ、そして胸に抱いている我が子に視線を向けた。
「よかったー! ウェルス似で! 俺に似て庶民顔だったらどうしようかと思った!!」
子を産んでもアシエらしいその言葉に、苦笑をもらせばいいのか元気そうでよかったと安堵の息を吐けばいいのか。恐らく俺はゴチャゴチャな笑みを浮かべていたに違いない。
王族らしい金の髪に触れ、そんなこと気にしなくていいのにと思ってしまう。アシエに似た子だったとしても可愛いことには違いないのだから。
それが五年前の出来事だ。恐らく普通なら乳母に任せるところを、アシエは積極的に自分で子を育てた。時折母上と母君の力を借りながら、アシエの腕の中で成長していく我が子を愛らしく思わないわけがない。
初めて「パパ」と「ママ」の言葉を発したとき、アシエは少しだけ動きを止めて思案した。確かに「ママ」ではあるものの、アシエは男だ。
「まぁ……産んだの俺だし。俺がママだ! うん!」
一瞬で解決した。その辺りは相変わらずおおらかだなと笑みを浮かべ、一緒に我が子の成長を見守っていた。
そして先日五歳になった誕生日のとき、アシエは我が子にプレゼントを贈った――それはアシエ特製の剣だった。
俺とアシエの子なのだから、あの子も立派な王族の一員だ。俺の幼い頃と同じタイミングで教育が施され始めた。まだまだ序盤だが量は一般の子よりも恐らく多い。だが根を詰めすぎるのもよくないと休憩がてらにアシエと共に散歩に行き、そのときに鍛錬場にも足を運び遠くから鍛錬を見学したらしい。
すると、剣を振る騎士たちの姿が格好良く見えたそうだ。確かに剣術も学ぶのだからそう思うことは悪くないし、基礎を学び始める時期でもある。
アシエはそんな息子のために鋼を打った。子どもが持ちやすいよう、尚且つ怪我をしないように。けれどちゃんと実践でも使えるように。二年前に産んだ子を少しだけ侍女に預け、鍛冶師としての作品を作り上げた。
あのときの我が子の喜びようといったら凄まじいものだった。俺も先に欲しがっていた本をプレゼントしたのだが、それ以上だったものだから。あまりの感情の爆発っぷりに娘がびっくりして泣き始めたぐらいだ。
アシエによく似た妹が泣き始めて流石の息子も一度剣を置き、泣き止むまでなだめた。どうやら我が息子は妹が大切で仕方がないようだ。その気持ちはよくわかる。可愛らしいのだから仕方がない。
「やぁ!」
「今日も励んでいるな」
「ええ。どうやら『母上と妹はぼくがまもる!』って頑張っているようですよ。いや~微笑ましいですねぇあっふぁ! あの頃の貴方よりもずっと子どもらしくて愛らしいですよ」
「今日も口がよく回るな」
「口が回らない私は気持ち悪いでしょ~」
「それもそうだ」
傍らで書類の内容をツラツラと流していたケニスは今日も飄々としている。お前だってあの頃剣を持ち上げることすらできなかったのにな、と内心こぼしながら足を鍛錬場へと向けた。今はまだ時間があるから、少しでも鍛錬を見てあげようという思いだった。
「父上!」
近付いてくる俺に気付いたのか、騎士と向き合っていた目がこちらに向いた。軽く手を振ると目を輝かせて少しだけ飛び跳ねる。俺があのくらいのときはあそこまでの素直さはなかった。きっと母親に似たのだろう。
俺が来たことによっていいところを見せたくなったのか、もう一度鍛錬に付き合ってくれた騎士と向き合い剣を構える。まだ身体が小さいため、多少の怪我はいいがあまり無理はさせないでくれと伝えてある。
「たぁ!」
声を上げながら剣を打ち込み、騎士がそれを受け止める。あの騎士も同じ年齢ぐらいの子どもがいるらしく、手加減などをよくわかっていた。
そう、騎士のほうに問題はなかった。彼はいつも通り絶妙な力加減で受け止めていたのだから。問題は、我が子のほうだった。
俺が見に来たせいもあったのだろう。いつも以上に力んでいた手は強く剣を弾いた。手から離れた剣は飛んでいき、一度壁に激突する。しかし勢いはそこで殺されず、跳ね返るように飛んでいく――飛んでいった先が、我が子のところだった。
俺と騎士が駆け出したのは同時。だが俺からだと距離がある。それは騎士もわかっていて息子に手を伸ばしているところだった。しかし、なぜこうも、こういう状況になると妙に動きがゆっくりになるような錯覚に陥るのか。
騎士の手よりも、剣が先に息子のほうに届いてしまう――間に合わない。
悲鳴に似たような声が聞こえたのはどこからなのかわからない。ハッと一度息を呑み目の前の状況を理解しようと頭の中を駆け巡らせる。
剣は、我が子を傷付けることはなかった。
「危ねぇだろうがッ!!」
直後聞こえてきた怒声に、引き攣った音のあとに嗚咽がこぼれたのが聞こえた。
あの子が、アシエに叱られたのはこれが初めてだった。
いやあの子だけじゃない、俺も、あのとき傍にいた者はみなそうだったに違いない。アシエは誰かに怒鳴ることなど一度もなかったのだから。飛んできた剣があの子に当たる直前にどこからともなく駆けつけてきたアシエが、まさにその身を呈してあの子を守った。
自分の腕の中で泣き始めた息子にアシエもハッとし、抱え込むように強く腕に力を入れたのが見えた。
「いきなり怒鳴ってごめんな。怖かったな」
グズグズと鼻を鳴らす息子をなだめるようにゆっくり背中を撫で、小さく左右に揺れている。傍で顔を青くしていた騎士には一先ず片手を上げ、そしてすぐにアシエの傍で膝をつく。息子は怪我をしなかったものの、アシエの右肩から背中にかけて切り傷ができていた。
息子が泣き止むのを待って、そして目の高さを合わせてアシエは説明した。実はアシエも近くでこっそり様子を眺めていたらしい。俺が来たことにも気付き、そしていつも以上に力んでいる息子に嫌な予感がしたそうだ。
アシエは鍛冶師だ、剣を振るうときにどこにどう力を入れていいのか、どういう扱いをしたら危険なのか、それもよく理解していた。
「剣はおもちゃじゃねぇんだ。扱いには気を付けなきゃいけないだろ?」
「……はい、ごめんなさい……」
「あのお兄さんにも謝らなきゃな? いつもちゃんと教えてくれてるのに、さっきそれを守らなかっただろ?」
「アシエ様、私は……」
「ごめんなさい……」
「い、いえ……」
自分の責任でもあると思っている騎士に、アシエは息子にしっかりと謝罪をさせた。確かにあの状況だと彼に責任があるのだと糾弾するのは違う。頭を下げてきた息子に騎士も戸惑い、俺のほうに視線で助けを求めてきた。が、ここは素直に受け止めてあげてくれと小さく首を横に振ると、ようやく観念したのか居心地が悪そうにその謝罪を受け止めた。
「安心しろ。俺も見ていた。ここでお前を解雇することはない。これからも息子に剣の指南をよろしく頼む」
「は、は! これからも誠心誠意お仕えいたします!」
息子は一度手を診てもらったほうがいいだろうとのことで、あとは騎士の彼に任せることにした。
「さて」
そして去ろうとしているそのたくましい背中を逃さまいと、ガッツリと左肩に手を置く。
「君も手当てをしないとな? アシエ」
「あ~、大丈夫だって! こんくらいツバ付けときゃ治るから!」
よくよく見てみると、確かに薄っすらと切り傷が付いているだけではあった。流石は鍛冶師としての屈強な身体を持っている。が、その言葉に俺は薄っすらと笑みを浮かべる。
「――そうか、唾か」
「昼間から何やらしい顔してんだよえっちー」
「最近二人きりの時間を過ごせていなかったからな」
娘が傍にいないようだがとサッと辺りを見渡してみると、俺の視線に気付き「今はお昼寝中だよ」との言葉が返ってきた。それにまた笑みを深くする。
先程まで俺の傍にいたケニスの姿もなくなっている。こういうときの察しのよさには助けられる。あとで執務室に戻るとその机には仕事が大量に乗っているだろうが、それも難なくこなせばいいだけの話だ。
「アシエ」
腰を抱き寄せ耳元に息を吹きかける。くすぐったかったのか肩を揺らしながら笑っているのが見えた。
「もうなにぃ~? 手当てだけでいいって」
「唾を付ければいいんだろう?」
「いやもうムッツリスケベだな誰も見てないからって」
侍女もいない護衛もいない、息子と娘も今は傍にいない。
誰もいないことを俺と同じようによく知っているアシエは楽しそうに笑ったかと思うと、向きを変え、俺の首に手を添えて引き寄せた。
「俺も年頃の男の子だから」
「ずっと年頃だな」
「あっはは! いいじゃん」
――ウェルスと出会ってからずっと年頃だよ。
だなんて、そんな殺し文句のようなことを言われてどうにもならないわけがない。横に抱きかかえて運んでしまおうかと思ったが、「俺の質量なめんなよ」と笑う声に断念した。これから激しい運動をする予定なのだから、腰が痛くなるようなことは避けたい。
アシエの発した言葉だが、それを言うなら俺もきっとあのときアシエと出会ってからずっと浮かれているのだろう。
慌ただしさは突然訪れた。公務中だった俺の元に舞い込んできた情報に思わず立ち上がり、そして父と母も一瞬瞠目したものの俺にそちらを優先させ自分たちがその公務を引き継いでくれた。
部屋に近付くにつれ人が多くなり騒ぎも大きくなる。頬に伝った汗を拭うことなくドアの目の前で控えていたジョナサンに視線を向けたときだった。
「いってぇー! マジでイテェイテェイテェッ!! 裂けるぅッ!」
「大丈夫あんたちょっとアホなとこあるけど体力と根性だけはあるんだから!」
「もうちょっと優しく応援してぇ⁈」
中は更に騒然としており、そこからずっと悲鳴に似た叫び声が上がっていた。
つい先日「そろそろかも~」だなんてのんびりとしていた声とは思えない。ひたすら叫んでいる声の傍から聞こえたもう一つの声は、恐らく母君だ。本当は母上も傍にいたかったそうだが母上も母上で公務がある。だからこそ彼の、アシエの母君が「それならあたしが」とやってきてくれた。実母がいるほうがアシエも安心できるだろうから、その申し出は本当にありがたかった。
「なんかう○こ出そうっ」
「奥様出ているのは赤子の頭です!」
たまにアシエらしいなという言葉を聞きつつ、一先ずジョナサンにもう一度視線を向け軽く深呼吸する。正直俺も緊張している。だからといって部屋の前でウロウロすることもできず、ただドアの前でジッと前を見据えていた。
そうして長い間アシエの叫びを聞いていると、中がシン……と静まり返った。心配で駆けつけてきたメイドや執事、使用人たちが互いに顔を見合わせて息を呑んでいる。
一際、大きな産声が上がった。
ドアの外でワッと歓声が上がり、身体の力が抜けそうになった俺の肩をジョナサンが労るように支えてくれた。よかったと、安堵だけがあふれた。
少し待っているとドアが開かれ、中に通される。真っ先にベッドの上で横たわっているアシエに駆け寄った。あれだけ体力に自信のあるアシエが汗だくでぐったりとしている。それほど、命を産み出すというものが如何に壮絶なものなのかありありと表していた。
「ありがとう、アシエ」
俺を見て、微笑んだアシエに思わず涙ぐみそうになる。身体を変えてまで子を成し、何もかも受け止めてくれたアシエに感謝と共に労りの言葉を送る。アシエは笑顔を浮かべ、そして胸に抱いている我が子に視線を向けた。
「よかったー! ウェルス似で! 俺に似て庶民顔だったらどうしようかと思った!!」
子を産んでもアシエらしいその言葉に、苦笑をもらせばいいのか元気そうでよかったと安堵の息を吐けばいいのか。恐らく俺はゴチャゴチャな笑みを浮かべていたに違いない。
王族らしい金の髪に触れ、そんなこと気にしなくていいのにと思ってしまう。アシエに似た子だったとしても可愛いことには違いないのだから。
それが五年前の出来事だ。恐らく普通なら乳母に任せるところを、アシエは積極的に自分で子を育てた。時折母上と母君の力を借りながら、アシエの腕の中で成長していく我が子を愛らしく思わないわけがない。
初めて「パパ」と「ママ」の言葉を発したとき、アシエは少しだけ動きを止めて思案した。確かに「ママ」ではあるものの、アシエは男だ。
「まぁ……産んだの俺だし。俺がママだ! うん!」
一瞬で解決した。その辺りは相変わらずおおらかだなと笑みを浮かべ、一緒に我が子の成長を見守っていた。
そして先日五歳になった誕生日のとき、アシエは我が子にプレゼントを贈った――それはアシエ特製の剣だった。
俺とアシエの子なのだから、あの子も立派な王族の一員だ。俺の幼い頃と同じタイミングで教育が施され始めた。まだまだ序盤だが量は一般の子よりも恐らく多い。だが根を詰めすぎるのもよくないと休憩がてらにアシエと共に散歩に行き、そのときに鍛錬場にも足を運び遠くから鍛錬を見学したらしい。
すると、剣を振る騎士たちの姿が格好良く見えたそうだ。確かに剣術も学ぶのだからそう思うことは悪くないし、基礎を学び始める時期でもある。
アシエはそんな息子のために鋼を打った。子どもが持ちやすいよう、尚且つ怪我をしないように。けれどちゃんと実践でも使えるように。二年前に産んだ子を少しだけ侍女に預け、鍛冶師としての作品を作り上げた。
あのときの我が子の喜びようといったら凄まじいものだった。俺も先に欲しがっていた本をプレゼントしたのだが、それ以上だったものだから。あまりの感情の爆発っぷりに娘がびっくりして泣き始めたぐらいだ。
アシエによく似た妹が泣き始めて流石の息子も一度剣を置き、泣き止むまでなだめた。どうやら我が息子は妹が大切で仕方がないようだ。その気持ちはよくわかる。可愛らしいのだから仕方がない。
「やぁ!」
「今日も励んでいるな」
「ええ。どうやら『母上と妹はぼくがまもる!』って頑張っているようですよ。いや~微笑ましいですねぇあっふぁ! あの頃の貴方よりもずっと子どもらしくて愛らしいですよ」
「今日も口がよく回るな」
「口が回らない私は気持ち悪いでしょ~」
「それもそうだ」
傍らで書類の内容をツラツラと流していたケニスは今日も飄々としている。お前だってあの頃剣を持ち上げることすらできなかったのにな、と内心こぼしながら足を鍛錬場へと向けた。今はまだ時間があるから、少しでも鍛錬を見てあげようという思いだった。
「父上!」
近付いてくる俺に気付いたのか、騎士と向き合っていた目がこちらに向いた。軽く手を振ると目を輝かせて少しだけ飛び跳ねる。俺があのくらいのときはあそこまでの素直さはなかった。きっと母親に似たのだろう。
俺が来たことによっていいところを見せたくなったのか、もう一度鍛錬に付き合ってくれた騎士と向き合い剣を構える。まだ身体が小さいため、多少の怪我はいいがあまり無理はさせないでくれと伝えてある。
「たぁ!」
声を上げながら剣を打ち込み、騎士がそれを受け止める。あの騎士も同じ年齢ぐらいの子どもがいるらしく、手加減などをよくわかっていた。
そう、騎士のほうに問題はなかった。彼はいつも通り絶妙な力加減で受け止めていたのだから。問題は、我が子のほうだった。
俺が見に来たせいもあったのだろう。いつも以上に力んでいた手は強く剣を弾いた。手から離れた剣は飛んでいき、一度壁に激突する。しかし勢いはそこで殺されず、跳ね返るように飛んでいく――飛んでいった先が、我が子のところだった。
俺と騎士が駆け出したのは同時。だが俺からだと距離がある。それは騎士もわかっていて息子に手を伸ばしているところだった。しかし、なぜこうも、こういう状況になると妙に動きがゆっくりになるような錯覚に陥るのか。
騎士の手よりも、剣が先に息子のほうに届いてしまう――間に合わない。
悲鳴に似たような声が聞こえたのはどこからなのかわからない。ハッと一度息を呑み目の前の状況を理解しようと頭の中を駆け巡らせる。
剣は、我が子を傷付けることはなかった。
「危ねぇだろうがッ!!」
直後聞こえてきた怒声に、引き攣った音のあとに嗚咽がこぼれたのが聞こえた。
あの子が、アシエに叱られたのはこれが初めてだった。
いやあの子だけじゃない、俺も、あのとき傍にいた者はみなそうだったに違いない。アシエは誰かに怒鳴ることなど一度もなかったのだから。飛んできた剣があの子に当たる直前にどこからともなく駆けつけてきたアシエが、まさにその身を呈してあの子を守った。
自分の腕の中で泣き始めた息子にアシエもハッとし、抱え込むように強く腕に力を入れたのが見えた。
「いきなり怒鳴ってごめんな。怖かったな」
グズグズと鼻を鳴らす息子をなだめるようにゆっくり背中を撫で、小さく左右に揺れている。傍で顔を青くしていた騎士には一先ず片手を上げ、そしてすぐにアシエの傍で膝をつく。息子は怪我をしなかったものの、アシエの右肩から背中にかけて切り傷ができていた。
息子が泣き止むのを待って、そして目の高さを合わせてアシエは説明した。実はアシエも近くでこっそり様子を眺めていたらしい。俺が来たことにも気付き、そしていつも以上に力んでいる息子に嫌な予感がしたそうだ。
アシエは鍛冶師だ、剣を振るうときにどこにどう力を入れていいのか、どういう扱いをしたら危険なのか、それもよく理解していた。
「剣はおもちゃじゃねぇんだ。扱いには気を付けなきゃいけないだろ?」
「……はい、ごめんなさい……」
「あのお兄さんにも謝らなきゃな? いつもちゃんと教えてくれてるのに、さっきそれを守らなかっただろ?」
「アシエ様、私は……」
「ごめんなさい……」
「い、いえ……」
自分の責任でもあると思っている騎士に、アシエは息子にしっかりと謝罪をさせた。確かにあの状況だと彼に責任があるのだと糾弾するのは違う。頭を下げてきた息子に騎士も戸惑い、俺のほうに視線で助けを求めてきた。が、ここは素直に受け止めてあげてくれと小さく首を横に振ると、ようやく観念したのか居心地が悪そうにその謝罪を受け止めた。
「安心しろ。俺も見ていた。ここでお前を解雇することはない。これからも息子に剣の指南をよろしく頼む」
「は、は! これからも誠心誠意お仕えいたします!」
息子は一度手を診てもらったほうがいいだろうとのことで、あとは騎士の彼に任せることにした。
「さて」
そして去ろうとしているそのたくましい背中を逃さまいと、ガッツリと左肩に手を置く。
「君も手当てをしないとな? アシエ」
「あ~、大丈夫だって! こんくらいツバ付けときゃ治るから!」
よくよく見てみると、確かに薄っすらと切り傷が付いているだけではあった。流石は鍛冶師としての屈強な身体を持っている。が、その言葉に俺は薄っすらと笑みを浮かべる。
「――そうか、唾か」
「昼間から何やらしい顔してんだよえっちー」
「最近二人きりの時間を過ごせていなかったからな」
娘が傍にいないようだがとサッと辺りを見渡してみると、俺の視線に気付き「今はお昼寝中だよ」との言葉が返ってきた。それにまた笑みを深くする。
先程まで俺の傍にいたケニスの姿もなくなっている。こういうときの察しのよさには助けられる。あとで執務室に戻るとその机には仕事が大量に乗っているだろうが、それも難なくこなせばいいだけの話だ。
「アシエ」
腰を抱き寄せ耳元に息を吹きかける。くすぐったかったのか肩を揺らしながら笑っているのが見えた。
「もうなにぃ~? 手当てだけでいいって」
「唾を付ければいいんだろう?」
「いやもうムッツリスケベだな誰も見てないからって」
侍女もいない護衛もいない、息子と娘も今は傍にいない。
誰もいないことを俺と同じようによく知っているアシエは楽しそうに笑ったかと思うと、向きを変え、俺の首に手を添えて引き寄せた。
「俺も年頃の男の子だから」
「ずっと年頃だな」
「あっはは! いいじゃん」
――ウェルスと出会ってからずっと年頃だよ。
だなんて、そんな殺し文句のようなことを言われてどうにもならないわけがない。横に抱きかかえて運んでしまおうかと思ったが、「俺の質量なめんなよ」と笑う声に断念した。これから激しい運動をする予定なのだから、腰が痛くなるようなことは避けたい。
アシエの発した言葉だが、それを言うなら俺もきっとあのときアシエと出会ってからずっと浮かれているのだろう。
208
あなたにおすすめの小説
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
転生したようだけど?流れに身を任せていたら悪役令息?として断罪されていた――分からないまま生きる。
星乃シキ
BL
発作の後に目覚めたら、公爵家嫡男の身体だった。
前世の記憶だけを抱えたまま生きるレイは、ある夜、男の聖女への嫌がらせの罪で断罪される。
だが図書室の記録が冤罪を覆す。
そしてレイは知る。
聖女ディーンの本当の名はアキラ。
同じ日本から来た存在だった。
帰りたい聖女と、この身体で生きるレイ。
秘密を共有した二人は、友達になる。
人との関わりを避けてきたレイの人間関係が、少しずつ動き始める。
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、
隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。
しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです…
オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が
なかたのでした。
本当の花嫁じゃない。
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
勝手にサインしろと仰いましたので、廃嫡書類に国璽を押して差し上げました
鷹 綾
恋愛
「確認? 面倒だ。適当にサインして国璽を押しておけ」
そう言ったのは、王太子アレス。
そう言われたのは、公爵令嬢レイナ・アルヴェルト。
外交も財政も軍備も――
すべてを裏で処理してきたのは彼女だった。
けれど功績はすべて王太子のもの。
感謝も敬意も、ただの一度もない。
そして迎えた舞踏会の夜。
「便利だったが、飾りには向かん」
公開婚約破棄。
それならば、とレイナは微笑む。
「では業務も終了でよろしいですね?」
王太子が望んだ通り、
彼女は“確認”をやめた。
保証を外し、責任を返し、
そして最後に――
「ご確認を」と差し出した書類に、
彼は何も読まずに署名した。
国は契約で成り立っている。
確認しない者に、王の資格はない。
働きたくない公爵令嬢と、
責任を理解しなかった王太子。
静かな契約ざまぁ劇、開幕。
---
夫婦喧嘩したのでダンジョンで生活してみたら思いの外快適だった
ミクリ21 (新)
BL
夫婦喧嘩したアデルは脱走した。
そして、連れ戻されたくないからダンジョン暮らしすることに決めた。
旦那ラグナーと義両親はアデルを探すが当然みつからず、実はアデルが神子という神託があってラグナー達はざまぁされることになる。
アデルはダンジョンで、たまに会う黒いローブ姿の男と惹かれ合う。
出来損ないと虐げられ追放されたオメガですが、辺境で運命の番である最強竜騎士様にその身も心も溺愛され、聖女以上の力を開花させ幸せになります
水凪しおん
BL
虐げられ、全てを奪われた公爵家のオメガ・リアム。無実の罪で辺境に追放された彼を待っていたのは、絶望ではなく、王国最強と謳われるα「氷血の竜騎士」カイルとの運命の出会いだった。「お前は、俺の番だ」――無愛想な最強騎士の不器用で深い愛情に、凍てついた心は溶かされていく。一方、リアムを追放した王都は、偽りの聖女によって滅びの危機に瀕していた。真の浄化の力を巡る、勘違いと溺愛の異世界オメガバースBL。絶望の淵から始まる、世界で一番幸せな恋の物語。
朝目覚めたら横に悪魔がいたんだが・・・告白されても困る!
渋川宙
BL
目覚めたら横に悪魔がいた!
しかもそいつは自分に惚れたと言いだし、悪魔になれと囁いてくる!さらに魔界で結婚しようと言い出す!!
至って普通の大学生だったというのに、一体どうなってしまうんだ!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる