残365日のこおり。

tonari0407

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第2章

言わなくても想像できること 5月23日

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 【注意】今回の話はデリケートな内容を含みます。苦手な方は読むのを避けてください。

 水川はあいりと共に4回目の早朝シフトをこなしていた。その後のあいりは水川の指示通り、ねこねこにゃんだふる内で彼のアイテム集めを手伝っていたし、バイトのシフトも水川の負担のない範囲まで行えるようになっていた。しかし、あいりの様子に水川は違和感を感じていた。

 たちばなさん、ねこねこにゃんだふる楽しんでるのかな?自分じゃ猫飼わないし、愛でないし、アイテム使わないし。俺的には有りがたいんだけど、この人何のためにやってんだろ?

 ゲーム内の水川の家に合鍵を持ったあいりはいつの間にかやってきて、アイテムを置いていく。同じくゲーム内の合鍵を持つ、腐れ縁の雪穂はそのことに対して、何故だかぷんぷんと水川に文句を言ってきた。説明するのも面倒だったので、「俺のいうこときいてくれる人」と言ったら、更に怒って連絡が来なくなった。折角時間とアイテムに余裕が出来たので、雪穂とのセックスに時間を取られないのは水川にとっては有りがたかった。

 バイト中のあいりは、相変わらずマスクをしていた。メガネも自分で持参したものをかけており、長い前髪も合わさって彼女の顔はほぼ見えなかった。声は出ていたし、話す内容も特に変ではない。しかし、ふとした瞬間に見えるメガネ越しの彼女の目は、水川から見ると日に日に暗くなっていっている気がした。また、彼女は時折口元に手を当てて、壁に身を任せており、体調が万全でないこともわかっていた。

 悩みでもあるのか。俺には関係ないけど。

 水川はこれ以上無駄に面倒なことに首を突っ込みたくはなかった。そのため、悩みを聞いたりする気もなかった。

 2回目のバイトの後に彼女からもう大丈夫と言われたので、水川はもうあいりの家に迎えに行ってはいなかった。帰りは家の方向が同じことや効率よくアイテムを入手する方法や欲しいアイテムについて伝えるため、水川はあいりとと共に歩いて帰っていた。

 少し時間と気分に余裕が出来た水川は、朝御飯を食べにファミレスに行くかあいりを誘ってみた。しかし、あいりは首を横に振った。

 「まだ、食べられない?」

 あいりはまた更に痩せたように見えた。ほぼほぼ身体のラインが見えない服を着ているのに、その中身がすかすかなのは彼女の頬がこけていることからも明らかだった。

「ちょっと最近匂いもダメで」

 彼女は自虐的に微笑んだ。ゲームのお礼も兼ねて渡したミルクティーを、あいりが今回は飲まずに鞄にそっとしまったのを、水川は知っていた。

「水分も取れない感じ?」

 水川が顔を覗き込んで聞くと、メガネ越しにあいりの目が潤んだ。

 こりゃ駄目だわ。

「病院行こう?水分取れないのはヤバイから。バイトは頑張ってくれてるの知ってるけど、このままだと倒れるよ?」

 水川の言葉にあいりは頑なに首を横に振った。

「薬は?吐き気止めとか飲んでる?」

更に首を振るあいりに、水川はため息をついた。

「何で飲まないの?死にたいの?」

少しイラついて、冷たい声が出てしまった。

立ち止まったあいりの肩は震えていた。

「知ってる人が死んだら後味悪いから、とりあえず薬局で薬買おう?」

あいりは首を横に振って、掠れた声を出した。
「薬は飲めません」

「なんで?」
水川の問いかけにあいりは答えなかった。

「飲めない理由は?」
更に問いかけるが、あいりは震えるだけだった。

過去の経験から水川は何となくその理由がわかっていた。元彼がした酷いこと、男性不信、吐き気、病院に行きたくない、薬を飲まない。

「妊娠検査はした?」

あいりの肩がびくっと震えた。

その反応で答えはわかった。

 面倒なことは嫌なんだけどな。

「一緒に行くから産婦人科行こう?たちばなさん自身の為にも」

 水川はスマホで病院を検索し、近くの病院へ行く先を変更した。


病院は朝なのに混んでいた。受付で手渡された問診票をあいりは無言で記入し、提出した。そのまま、尿コップを手渡され、トイレの方にふらふらと歩いていく。

待合室にはお腹が大きな妊婦さんや、彼氏と来ている若い女性、がん検診に来たご婦人など様々な人がいた。その表情もそれぞれだったが、水川はあいりが一番暗いと感じていた。2人は何も聞かず、何も言わずに順番を待った。

 あいりの名前が呼ばれたのは、受付を済ませてから1時間程経った後だった。力なく立ち上がる彼女に「一緒に行った方がいい?」と水川は聞いたが、あいりは首を横に振った。

 それから10分程経った所で、あいりの名前を呼んだ看護師の女性が水川に声をかけてきた。

「すみません。たちばなあいりさんのお連れの方ですよね?彼女、診察室で泣いてしまって、話せる状態ではないのですが、来てもらってもいいですか?」

 水川は仕方なく腰をあげた。

 診察室に入ると、40代位の女性医師が水川を待ち構えていた。あいりは椅子に座り、両手で顔を覆って、声を出さずに震えて泣いていた。

「パートナーの方ですか?」
医師の声に水川は被せるように答えた。
「全く違います」

その断固たる声に医師は少し怯んだように見えた。
「では、ご家族の方ですか?」
25歳の水川は医師からは兄に見えたのかもしれなかった。
「違います。ただのバイトの同僚です。体調が悪そうだったので連れてきただけです」

あくまで自分には関係ないと、水川は毅然とした態度を貫きたかった。

「なるほど、そうなんですね。たちばなさん、この方に先程お話した内容をお伝えしてもいいですか?」
医師の言葉に何とあいりは頷いた。

まじかよ。水川は心の中でため息をついた。

「たちばなさんは、妊娠しています。尿検査で妊娠反応が陽性でしたし、子宮内に胎嚢、つまり赤ちゃんの入った袋が確認できました。このまま順調にいけば、心拍が確認できるのは次の診察の時かなと思います。
ただ、たちばなさん自身がこのまま妊娠を継続するか迷われているとのことで、もしも中絶をご希望するのであれば早めの処置が良いとお伝えした所です。
パートナーの方ともよくお話して決めた方が良いとお話していたら、このような状況になったので、お連れの方にも来てもらいました」

 医師の言葉を聞いた水川は、本来ここにいるべき人間の顔を思い浮かべた。何で俺がこんなことをと思いつつ、言葉を選んで話し始める。

「えーっと、多分そのパートナーとはたちばなさんは話せないと思います。僕もよく事情は知らないんですけど、もう別れたみたいですし、今回の妊娠についても彼女の同意があったとは思えません」

 水川の言葉にあいりは顔を覆っていた手を離して、彼の顔を見た。

「見たら分かると思うんですけど、たちばなさん食べられてなくて、すごい痩せたんです。最近は水分もとれてないみたいで。
今後どうするかは正直、僕には分かんないですけど、取り敢えず倒れないように点滴か薬か何かしら処置をしてもらえますか?見てて心配なんで」

水川の言葉に医師は頷いた。そしてあいりの方を見てゆっくり話す。

「そうですね。かなり痩せてるし、顔色も悪いから、点滴しましょうか、たちばなさん。今後のことはまた後日相談しましょう」

医師の言葉にあいり小さく「はい」と言った。

 点滴を受けるあいりに水川は仕方なく付き添った。針を刺された腕は想像以上に細くて痛々しかった。

 途中で看護師が来て、離席を促されたので水川は待合室に戻った。スマホで人工妊娠中絶手術について検索する。日本で中絶が認められているのは妊娠22週未満まで、妊娠週数によって手術方式が異なり、早ければ母体の負担も少なくなる。

 2人が口論していた日は4月17日だった。そこで妊娠したとすれば、大体今は妊娠7週位になる。まだ時期としては十分間に合う。お金も置いていったとのことなので、費用面も問題ないだろう。ただ、あいりの悲しそうな顔を思い出すと、どの選択をしても彼女の心には傷が残ることが容易に想像できて、水川はミジンコやろうを憎らしく思った。

 ようやくあいりが点滴を終えて待合室に戻って来たとき、水川は待ち疲れて眠っていた。

「水川さん、本当にすみません。終わりました」
あいりのその声で起きたときには、会計も終わっていて帰るだけだった。

「決めたの?」
水川の問いかけにあいりは小さく答えた。

「いえ、決められなくて。どちらにしても一週間後の診察には来るように言われてます」

「ミジンコさんには連絡した?」

「いえ、するつもりはありません」
 あいりはその問いかけにははっきりと答えた。
「なんで?」
うつむいて黙ってしまうあいりに、水川はイライラした。

「たちばなさんだけが1人で悩んで苦しんでって、かなり不公平じゃない?相手は妊娠してるかもって心配もしてないかもしんないのに」

「その可能性は分かってると思います。置いてったものが全部カフェインレスだったんで」
 たちばなさんはどこか遠くを見ながら、そう言った。

「きっと協力もしてくれると思います。でも私は、ただ、何か言いたくないんです」

「そっか、じゃあバイトとゲーム、色々ちゃんとするまで禁止ね。特にバイトは禁止、シフト消しとくから来ないでね」

 水川はあいりが何を言っても、バイトに関しては意見を変えなかった。

 ゲームは無理のない範囲で、ちゃんとねこを愛でるならよし、という妥協案で落ち着いた所で、丁度あいりの家の前まで着き、2人は別れた。

 水川にあいりから電話がかかってくるのはこの一週間後のことになる。

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