クローバー

鹿ノ杜

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五十嵐純と水木夏菜子 5

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 珍しく、平日の夕方にケントさんが台所に立っていて、真剣な面持ちで沸騰した鍋の中をのぞき込んでいる。茹だった肉の匂いが漂っているから、気になって尋ねてみる。
「何をつくってるんですか?」
「豚の角煮だよ。食べるだろ?」
「昼に中華は食べちゃったんですけど」
「いいじゃん、夜も中華で。角煮チャーハンをつくりたいんだ」
 夕方の、まだ六時前だ。強烈な夕焼けが窓から差し込み、部屋中に反射する。僕とケントさんはガスコンロの前に並んで、豚のブロック肉が茹でられる様を眺めている。
「あれ、もしかして、今日って休みでした? 部屋着だし」
「そうそう。頼むから有休を取ってくれ、って言われてさ。ずっと寝ちゃってたよ、今日は。さっき起きたんだ」
「疲れてるんですよ」
「そうかな。別に、仕事って苦じゃないんだよ。楽しいもんだよ。変態だね、ってヤスに笑われるけど」
 スマートフォンからタイマーが鳴って、豚肉を鍋から取り出す。分厚いやつがいいだろ? と言いながら切り分ける。
「圧力鍋があればな。すぐにできるのに」
「やっさんもほしいって言ってましたよ。レパートリーが増えるのにって」
「女子かよ。でも、こうやってぼーっと時間をかけて料理するのも悪くないよな。ぜいたくな時間の使い方だよ。さて、後はタレの中でもうちょっと煮込むだけだ」
 楽しげに鍋をのぞき続けるケントさんを台所に置いて、リビングのソファに横になる。夕焼けがやわらかなオレンジ色に変わり、街が薄く暮れていく。空気の色が暗闇に近づいていく。
 僕には考えなければならないことがたくさんあった。例えば、僕とケントさんの間には、学生と社会人の間には、いったいどんな違いがあるのだろう。大人になっていくために、僕に足りないものは何だろうか。
 夕食の準備ができたとケントさんに呼ばれ、席に着く。ダイニングテーブルで帰宅したやっさんも加わって、三人で角煮チャーハンを食べる。脂が甘く溶け出すようで、うまいうまいと言い合って食べ進める。でも、なんとなく気もそぞろで、
「ちょっと考えてたんですけど」
 と、口火を切る。
「大人って、気づいたらなってるものですか?」
 二人は口を動かしながら、突然の問いに考え込む。うーん、とうなりながら、気づけばやっさんなんて、ほとんど食べ終えようとしている。
「確かに、いつ大人になったのかと言われたら、それがいったいいつなのかわからない。まだ子どもでいるような気さえする」
 と、ケントさんは言う。
「大人はすぐにそういうことを言うんです。いいですか、僕から見れば二人ともいい大人です」
「そりゃあジュンから見たら、おれもケントさんも大人さ。でも、それは相対的に大人ってだけで。大人になるための条件がこれとこれと、って明確に示されているわけでもない。あくまで自分に対して示しているわけだ。自分ってやつを」
 やっさんが缶ビールを取りに、台所に向かう。片手で缶ビールを開けて、立ったまま、ぐびりとのどを鳴らす。そういった行動の、一つひとつが表している。大人というものについて、いくら言葉を尽くしてもかなわない。表情や言葉づかいだったり、ちょっとしたしぐさだったり、その人が取る具体的な行動にはかなわない。
「かなこさんと初めて飲みに行ったときに、成人式の話をしていたら、初恋の人でもいたんじゃないの? ってかなこさんはからかいながらビールを飲んでいて。式の後の同窓会で、カシスオレンジとかカルーアミルクとか、そんなものばっかり注文していた同級生たちが、かなこさんと比べてとても子どもだったように思えて。それは当たり前でしょ、って呆れながら、でも、少し嬉しそうに笑って。笑うと目尻にしわができた。酔いが進むとビールジョッキを両手で抱えて。楽しそうで。僕はこの人を好きになってしまうんだろうな、と思った。まるで、大人という存在に恋をしたみたいだ」
 話し終えて少しの間、沈黙が続く。沈黙の間に、いったいどれほどの思考が巡るのだろう、と想像する。やがて、
「そんなわけないじゃん」
 と、やっさんが言う。
「ジュンからずっと、かなこさんの話を聞いてたけどさ。人って、そのとき一番近くにいた誰かを自然と好きになってしまう、とてもシンプルな生き物だって思う。でも、その人を好きになってよかったって、自分にも相手にも言えるような恋をして。それこそ、また一つ大人になって。ジュンはかなこさんから、そういうものをもらってるんだよ」
 続けて、ケントさんも。
「俺が離婚してるって話は前にしたことあるだろ? うまく言えないんだけどさ、好きになったこと自体は後悔してないんだ。それって変かな。だからジュンにとって、まもなく手放さなければならないものを好きになって、愛してしまうこと。それって不幸なことなのか?」
 僕はこの一年ですっかりおしゃべりになった。ケントさんもやっさんも、ちゃんと受け止めて、ちゃんと答えてくれるからだ。
 ありがたく感じる一方で、気づいていることがある。かなこさんへの想いを言葉にして、誰かに伝えてしまったときから、その想いは失われていく、終わりに向かっていく。そう感じている自分がいる。

 立ちのぼった煙が空に向けて消えてしまうように、感情は、やがて消えてしまうものなのだろうか。
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