5 / 33
五十嵐純と水木夏菜子 5
しおりを挟む
珍しく、平日の夕方にケントさんが台所に立っていて、真剣な面持ちで沸騰した鍋の中をのぞき込んでいる。茹だった肉の匂いが漂っているから、気になって尋ねてみる。
「何をつくってるんですか?」
「豚の角煮だよ。食べるだろ?」
「昼に中華は食べちゃったんですけど」
「いいじゃん、夜も中華で。角煮チャーハンをつくりたいんだ」
夕方の、まだ六時前だ。強烈な夕焼けが窓から差し込み、部屋中に反射する。僕とケントさんはガスコンロの前に並んで、豚のブロック肉が茹でられる様を眺めている。
「あれ、もしかして、今日って休みでした? 部屋着だし」
「そうそう。頼むから有休を取ってくれ、って言われてさ。ずっと寝ちゃってたよ、今日は。さっき起きたんだ」
「疲れてるんですよ」
「そうかな。別に、仕事って苦じゃないんだよ。楽しいもんだよ。変態だね、ってヤスに笑われるけど」
スマートフォンからタイマーが鳴って、豚肉を鍋から取り出す。分厚いやつがいいだろ? と言いながら切り分ける。
「圧力鍋があればな。すぐにできるのに」
「やっさんもほしいって言ってましたよ。レパートリーが増えるのにって」
「女子かよ。でも、こうやってぼーっと時間をかけて料理するのも悪くないよな。ぜいたくな時間の使い方だよ。さて、後はタレの中でもうちょっと煮込むだけだ」
楽しげに鍋をのぞき続けるケントさんを台所に置いて、リビングのソファに横になる。夕焼けがやわらかなオレンジ色に変わり、街が薄く暮れていく。空気の色が暗闇に近づいていく。
僕には考えなければならないことがたくさんあった。例えば、僕とケントさんの間には、学生と社会人の間には、いったいどんな違いがあるのだろう。大人になっていくために、僕に足りないものは何だろうか。
夕食の準備ができたとケントさんに呼ばれ、席に着く。ダイニングテーブルで帰宅したやっさんも加わって、三人で角煮チャーハンを食べる。脂が甘く溶け出すようで、うまいうまいと言い合って食べ進める。でも、なんとなく気もそぞろで、
「ちょっと考えてたんですけど」
と、口火を切る。
「大人って、気づいたらなってるものですか?」
二人は口を動かしながら、突然の問いに考え込む。うーん、とうなりながら、気づけばやっさんなんて、ほとんど食べ終えようとしている。
「確かに、いつ大人になったのかと言われたら、それがいったいいつなのかわからない。まだ子どもでいるような気さえする」
と、ケントさんは言う。
「大人はすぐにそういうことを言うんです。いいですか、僕から見れば二人ともいい大人です」
「そりゃあジュンから見たら、おれもケントさんも大人さ。でも、それは相対的に大人ってだけで。大人になるための条件がこれとこれと、って明確に示されているわけでもない。あくまで自分に対して示しているわけだ。自分ってやつを」
やっさんが缶ビールを取りに、台所に向かう。片手で缶ビールを開けて、立ったまま、ぐびりとのどを鳴らす。そういった行動の、一つひとつが表している。大人というものについて、いくら言葉を尽くしてもかなわない。表情や言葉づかいだったり、ちょっとしたしぐさだったり、その人が取る具体的な行動にはかなわない。
「かなこさんと初めて飲みに行ったときに、成人式の話をしていたら、初恋の人でもいたんじゃないの? ってかなこさんはからかいながらビールを飲んでいて。式の後の同窓会で、カシスオレンジとかカルーアミルクとか、そんなものばっかり注文していた同級生たちが、かなこさんと比べてとても子どもだったように思えて。それは当たり前でしょ、って呆れながら、でも、少し嬉しそうに笑って。笑うと目尻にしわができた。酔いが進むとビールジョッキを両手で抱えて。楽しそうで。僕はこの人を好きになってしまうんだろうな、と思った。まるで、大人という存在に恋をしたみたいだ」
話し終えて少しの間、沈黙が続く。沈黙の間に、いったいどれほどの思考が巡るのだろう、と想像する。やがて、
「そんなわけないじゃん」
と、やっさんが言う。
「ジュンからずっと、かなこさんの話を聞いてたけどさ。人って、そのとき一番近くにいた誰かを自然と好きになってしまう、とてもシンプルな生き物だって思う。でも、その人を好きになってよかったって、自分にも相手にも言えるような恋をして。それこそ、また一つ大人になって。ジュンはかなこさんから、そういうものをもらってるんだよ」
続けて、ケントさんも。
「俺が離婚してるって話は前にしたことあるだろ? うまく言えないんだけどさ、好きになったこと自体は後悔してないんだ。それって変かな。だからジュンにとって、まもなく手放さなければならないものを好きになって、愛してしまうこと。それって不幸なことなのか?」
僕はこの一年ですっかりおしゃべりになった。ケントさんもやっさんも、ちゃんと受け止めて、ちゃんと答えてくれるからだ。
ありがたく感じる一方で、気づいていることがある。かなこさんへの想いを言葉にして、誰かに伝えてしまったときから、その想いは失われていく、終わりに向かっていく。そう感じている自分がいる。
立ちのぼった煙が空に向けて消えてしまうように、感情は、やがて消えてしまうものなのだろうか。
「何をつくってるんですか?」
「豚の角煮だよ。食べるだろ?」
「昼に中華は食べちゃったんですけど」
「いいじゃん、夜も中華で。角煮チャーハンをつくりたいんだ」
夕方の、まだ六時前だ。強烈な夕焼けが窓から差し込み、部屋中に反射する。僕とケントさんはガスコンロの前に並んで、豚のブロック肉が茹でられる様を眺めている。
「あれ、もしかして、今日って休みでした? 部屋着だし」
「そうそう。頼むから有休を取ってくれ、って言われてさ。ずっと寝ちゃってたよ、今日は。さっき起きたんだ」
「疲れてるんですよ」
「そうかな。別に、仕事って苦じゃないんだよ。楽しいもんだよ。変態だね、ってヤスに笑われるけど」
スマートフォンからタイマーが鳴って、豚肉を鍋から取り出す。分厚いやつがいいだろ? と言いながら切り分ける。
「圧力鍋があればな。すぐにできるのに」
「やっさんもほしいって言ってましたよ。レパートリーが増えるのにって」
「女子かよ。でも、こうやってぼーっと時間をかけて料理するのも悪くないよな。ぜいたくな時間の使い方だよ。さて、後はタレの中でもうちょっと煮込むだけだ」
楽しげに鍋をのぞき続けるケントさんを台所に置いて、リビングのソファに横になる。夕焼けがやわらかなオレンジ色に変わり、街が薄く暮れていく。空気の色が暗闇に近づいていく。
僕には考えなければならないことがたくさんあった。例えば、僕とケントさんの間には、学生と社会人の間には、いったいどんな違いがあるのだろう。大人になっていくために、僕に足りないものは何だろうか。
夕食の準備ができたとケントさんに呼ばれ、席に着く。ダイニングテーブルで帰宅したやっさんも加わって、三人で角煮チャーハンを食べる。脂が甘く溶け出すようで、うまいうまいと言い合って食べ進める。でも、なんとなく気もそぞろで、
「ちょっと考えてたんですけど」
と、口火を切る。
「大人って、気づいたらなってるものですか?」
二人は口を動かしながら、突然の問いに考え込む。うーん、とうなりながら、気づけばやっさんなんて、ほとんど食べ終えようとしている。
「確かに、いつ大人になったのかと言われたら、それがいったいいつなのかわからない。まだ子どもでいるような気さえする」
と、ケントさんは言う。
「大人はすぐにそういうことを言うんです。いいですか、僕から見れば二人ともいい大人です」
「そりゃあジュンから見たら、おれもケントさんも大人さ。でも、それは相対的に大人ってだけで。大人になるための条件がこれとこれと、って明確に示されているわけでもない。あくまで自分に対して示しているわけだ。自分ってやつを」
やっさんが缶ビールを取りに、台所に向かう。片手で缶ビールを開けて、立ったまま、ぐびりとのどを鳴らす。そういった行動の、一つひとつが表している。大人というものについて、いくら言葉を尽くしてもかなわない。表情や言葉づかいだったり、ちょっとしたしぐさだったり、その人が取る具体的な行動にはかなわない。
「かなこさんと初めて飲みに行ったときに、成人式の話をしていたら、初恋の人でもいたんじゃないの? ってかなこさんはからかいながらビールを飲んでいて。式の後の同窓会で、カシスオレンジとかカルーアミルクとか、そんなものばっかり注文していた同級生たちが、かなこさんと比べてとても子どもだったように思えて。それは当たり前でしょ、って呆れながら、でも、少し嬉しそうに笑って。笑うと目尻にしわができた。酔いが進むとビールジョッキを両手で抱えて。楽しそうで。僕はこの人を好きになってしまうんだろうな、と思った。まるで、大人という存在に恋をしたみたいだ」
話し終えて少しの間、沈黙が続く。沈黙の間に、いったいどれほどの思考が巡るのだろう、と想像する。やがて、
「そんなわけないじゃん」
と、やっさんが言う。
「ジュンからずっと、かなこさんの話を聞いてたけどさ。人って、そのとき一番近くにいた誰かを自然と好きになってしまう、とてもシンプルな生き物だって思う。でも、その人を好きになってよかったって、自分にも相手にも言えるような恋をして。それこそ、また一つ大人になって。ジュンはかなこさんから、そういうものをもらってるんだよ」
続けて、ケントさんも。
「俺が離婚してるって話は前にしたことあるだろ? うまく言えないんだけどさ、好きになったこと自体は後悔してないんだ。それって変かな。だからジュンにとって、まもなく手放さなければならないものを好きになって、愛してしまうこと。それって不幸なことなのか?」
僕はこの一年ですっかりおしゃべりになった。ケントさんもやっさんも、ちゃんと受け止めて、ちゃんと答えてくれるからだ。
ありがたく感じる一方で、気づいていることがある。かなこさんへの想いを言葉にして、誰かに伝えてしまったときから、その想いは失われていく、終わりに向かっていく。そう感じている自分がいる。
立ちのぼった煙が空に向けて消えてしまうように、感情は、やがて消えてしまうものなのだろうか。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる