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鹿ノ杜

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本田泰久と四ツ橋すみれ 3

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 翌日、オフィスの奥にある会議スペースにこもり、すみれに詳しい説明をしてもらう。
「煙が見えるっていっても、いつでも、誰にでも見えるわけじゃないんです。誰かが強い感情を持ったときに、その人の胸の辺りから、発煙筒の煙みたいに色のついた煙があがるんです。その煙の量も状況によって違っていて、一番すごかった煙は姉が結婚したときの、父の煙でしたね」
「強い感情か」
「だから、それこそジュンくんみたいな人の煙は見えます。誰が誰を好きっていうのはすぐわかっちゃうんですよ」
 ジュンとかなこさんの話はすみれにもしたことがあった。ジュンくんって絶対かなこさんが好きじゃないですか、人妻で背徳的ですね、と興味津々の様子だった。
「昨日の状況から考えるに美紀さんが強い怒りを感じていて、じゃあおれたちは何をしたらいいのかな」
「うーん。見守る、とか?」
「まあ、今のところそれしかないよね」
 おれがそう言うと、すみれはあからさまに肩を落とす。
 すみれは、なついているといっても差し支えがないほど京子さんを慕っていた。かくいうおれも京子さんのことが大好きだ。入社してから指導役になってくれていて、そのまま同じチームのリーダーと部下という関係になっている。とはいえ、社風からか名字ではなく名前で呼び合う関係はケントさんに言わせると部活かサークルのようで、確かに先輩後輩、仲間といった表現がしっくりくる。
 京子さんには女性らしい共感と男性らしい合理的な分析を合わせたような特殊な能力があった。ぐちゃぐちゃになった糸をほどいて、整理して、相手に並べてみせることが得意だった。
 会社の飲み会で、ある女の子が恋人とうまくいっていない近況を笑いの種にした。おもしろおかしく話すものだから周りも彼女自身も笑っていたが、すみれが、そんなに辛そうな顔をして笑わないでください、と泣き出した。すると彼女も泣き始めて、その場にいた誰もが押し黙った。場を収めたのは遅れて合流した京子さんだった。状況を一瞥で理解すると、おれに手伝わせて彼女とすみれを誘導し、四人席をつくり、話を聞き始めた。
「京子さん、聞いてください。私、彼氏と別れそうなんです。仕事が忙しいとかで……私がまだ付き合っていたいなら別れないけど、とかって平気で言うんですよ」
 彼女はその後も言葉を重ね、京子さんは聞き入った。それから彼女の目を見て、こう言った。
「社会人になったばかりの彼が、仕事のことで頭がいっぱいになるのはわかるよ。それは彼の弱さであって。別れたくない、億劫だから、また一から恋愛を始めたくないっていうのはあなたの弱さで。彼のために、彼の弱さをひっくるめて愛してあげたいって思えるかどうかが、あなたの考えるべきことじゃない?」
 京子さんの言葉に彼女は泣きながらうなずき続け、その隣ですみれも泣いた。
 京子さんから紡がれる言葉は、あるいは女性らしい能力でも男性らしい能力でもなくて、彼女が培ってきたものがある一つの形になった、固有のものであるように思えた。
 だから、というわけではないが、京子さんという人はとても優秀な人であるし、京子さんと美紀さんのことにおれやすみれが出ていかなくても京子さんは自身の力でなんとかしそうな気もするが、すみれには言わないでおく。
 気を取り直して背伸びをしながら立ち上がる。
「できることがないのなら、さしあたってやらなきゃいけないことをしよう」
「なんですか?」
「仕事」
 すみれは肩を落としたまま、会議スペースから出ようとする。その背中に、ふと思いついたことを尋ねてみた。
「なあ、おれの煙って見たことある?」
「ヤス先輩の? そういえば、ないですねえ」
 すみれはあっさりと言って出ていく。一人残ったおれは立ち上がったばかりなのにまた座り込んで、自分は何を期待してすみれに尋ねたのだろう、と改めて考えた。
 すると、
「トントン」
 と、言葉とジェスチャーでノックの真似をして、美紀さんが現れた。
「ねえ、今、声かけて大丈夫?」
 気遣うようにこちらを見て、笑ってみせる。彼女が、実は京子さんに怒りを感じているなんて、到底思えないような笑顔だ。
「大丈夫ですよ」
「ねえ、これ。間違って私の方に来てたから。ヤスくんのお客さんでしょ?」
 そう言って、郵便物を手渡してくる。礼を言って受け取ると、宛名が社名だけになっているが、差出人は確かにおれが担当している企業のものだった。
 それだけ、じゃあね、と言って美紀さんは立ち去る。
 おれもようやく腰を上げて会議スペースから出る。オフィスの中では人がうろちょろと動き回っている。端の方からぼんやり眺めていると同僚たちがアクアリウムの魚のようにも見えてくる。フリーアドレスと呼ばれる自席を持たないオフィスだから、思い思いの場所で作業をして、打ち合わせをして、その中でもひと際小柄な美紀さんは小さな熱帯魚のようにちょこまかと泳いでいる。
 人の心なんてやっぱりわからないものだな、とステレオタイプなことを思う。
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