暮雲春樹を胸に秘め

ゆまは なお

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「こんなところにいらしたんですか、敏栄様」
 どすどすと足音が背後から聞こえた。目をつり上げた張康《ジャンカン》がやって来て、敏栄は優雅に扇子を広げて視線をそらした。
「張康、どうした? 梅が盛りで美しいな。お前も見てみろよ」
「どうしたじゃありませんよ。お客様に挨拶もしないで隠れているなんて」
「べつに隠れてないだろ? ただ二階から梅を眺めていただけなのにその言われようはひどくないか?」
「眺めていたのは本当に梅ですか?」
「そう、思惑を秘めた梅だよ」

 張康は敏栄の肩越しにちらりと眼下の庭園に目をやり、ふんと鼻で息をついた。
 敏栄より十歳上の張康は元々は敏栄の母の身の回りの世話をしていた。母が死んで、そのまま敏栄の面倒を見るようになったのだ。
「そんなことより挨拶にいらしてください。さっきから丞相様が探していますよ。きれいな娘さんたちを連れた貴族の方々も」
「やれやれ、面倒な」
「注目の的ですね」
「どうだか。どうせお飾りなんだから挨拶なんてしなくていいのに」
「そんなわけにいかないことくらいわかっているでしょう? ほら早く」
 長年仕えている気安さで張康はぐいぐいと敏栄の背を押して廊下を急がせた。

 仕方なく庭園に出て父のところへ行き、数人の挨拶を受ける。それぞれ美しく装った娘連れで、娘の売り込みに余念がない。
「こんなに立派な若君ならば蘇家も安泰ですな」
「まったくです。敏栄様はかの白雲観で長く修練されていたとか」
 この七年で愛想笑いも多少は身についた。敏栄は扇子を手にゆったり構えてほほ笑んだ。誰に対しても同じ態度で、特に気に入った娘などいないようにふるまう。

「敏栄、紹介しておこう。こちらは虹橋観《ホンチャオカン》の安《アン》道士だ」
 四十半ばの灰色の道服姿の男が敏栄に向かって拱手した。敏栄も扇子をしまって挨拶する。
「白雲観《バイユンカン》にいらした頃から敏栄《ミンロン》様のご高名はかねがね伺っておりました。お目にかかれて光栄です」
「私の名など、よからぬ噂とともに聞いているのではありませんか?」
「いえいえまさか。とても勇猛でしかも公正なお人柄と伺っております」
 背中が痒くなるようなお世辞にも耐性はついたが、どうにもこそばゆい。貴族の社交はこんなものだと思っても、居心地の悪さはどうしようもなかった。

「それからこちらは弟子の李永和《リヨンハ》と申す者。敏栄様とは同年代で話も合うかと連れてきました」
 後ろに控えた男の顔を見て、敏栄は驚いた。つい先ほど脳裏に思い描いていた友が、澄ました顔でそこに立っていた。
 いや、思い描いていた姿とは違う。十代だった少年は成長して凛とした佇まいの青年になっていた。
「お初にお目にかかります。李永和と申します」
 父に向かって言葉少なに挨拶した男は、涼やかな目元をわずかに伏せている。

「ずいぶんとお若いな。その若さで虹橋観入りするとは大したものだ」
「師のご指導のお陰でございます」
 敏栄は日頃から鍛えている平常心で動揺を抑え、相手にほほ笑みかけた。
「久しいな、永和《ヨンハ》」
 二人の目が合って、黒曜石のような深い黒い瞳が敏永をじっと見ていた。その視線に心が震えた。懐かしさで胸がいっぱいになる。
 でもそれを悟られないように、表情を引き締めることも忘れなかった。

「おや、知り合いか?」
 父の声にうなずく。安道士は聞いていたのか柔和な笑顔を崩さない。
「私が白雲観に身を寄せていた頃、ともに修行した仲です」
 七年前に離れるまで、一緒に修行した兄弟分なのだ。
「そうだったか。積もる話もあるだろう。お二方はゆっくり楽しんで下さい」
「ありがとう存じます」
 挨拶を聞きながら、敏栄の意識はずっと永和の澄ました顔に向かっていた。

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