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沈むローマ
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カンナエの戦いから生還できたローマ兵は一万にも満たない。彼らは執政官ヴァッロと共にローマに向かった。その敗残兵の中にプブリウスはいた。
これが戦争だ。何とも言えない脱力感で全身を満たしたプブリウスは、顔を上げることができなかった。
これほどの死者を出すと誰が想像できただろう。ローマ人なら、負けることすら想定外であっただろう。迎えるローマ市民の多くが家族を、友人を、恋人を、隣人を失った。言葉にはできない感情が、帰還兵を覆い尽くしていた。
敗残兵が市内に入ってくると、ローマ市民全員が市内の入口門に集まって帰還した者たちを形式的にせよ称えた。ローマ兵は市民であり、市民の代表である。自分たちの代表として国のために戦った者たちを労うのは当然であったからだ。
敗戦の責任は常に指揮官にある。そう考える彼らにしても、このときばかりは敗軍の将であるヴァッロを非難する声はあがらなかった。短期決戦を望み、彼を選任したのは他ならぬ自分たちだからだろう。短期決戦に対して否定的であった少数の者たちからも非難の言葉はでなかった。それは、仲たがいをしている場合ではない、と考えたからではないか。
この敗戦を受け止めたローマ市民は、悲しんでばかりはいられなかった。カンナエで大勝したハンニバルが、次にはローマを攻撃してくるかもしれないのだ。
カンナエでの戦いには多くの元老院議員が参加していたが、そのほとんどが帰還できなかった。執政官であるアエミリウスは最後まで戦場に踏み止まって戦死し、歩兵を率いていたセルウィリウスも部下と生死を共にした。三百人以上が在籍する元老院議員のおよそ四人に一人がカンナエの地で命を落とした。多くの同胞を失った元老院は、一年という死者の喪に服す期間を特例として三十日に短縮し、戦いがまだ終わっていないことを暗に知らしめた。ローマは悲しみに暮れることも許されない状況であったのだ。ハンニバル率いるカルタゴ軍は依然として健在であり、イタリア本土を自由に動き回ることができた。
数日後、カルタゴ軍の動向を監視している偵察隊からローマに急報がもたらされた。
ハンニバルが南に進路をとる。
カルタゴ軍による直接攻撃の脅威が去ったローマでは、これまで張り詰めていた糸が切れたかのように、人々は亡くなった者たちを悼んで泣き続けた。ローマでは昼夜問わず、どこかしこで人々のすすり泣きが聞こえ、このときばかりは子供たちの笑顔も影をひそめた。まさにローマは悲しみ一色に染まったのだ。
そんなローマをさらなる悲しみと落胆が襲う。パドゥス川流域で蜂起したガリア人を鎮圧するために派遣されていた二個軍団が壊滅したと言うのだ。およそ八千人のローマ兵が戦死したという報せは、カンナエでの敗戦の後で堪えないわけがなかった。
ローマに帰還後、プブリウスはまだテルティアと会っていない。と言うよりも、会うのを避けていたと言ったほうが正確だろう。生き残った兵士らによる軍務処理で彼自身も多忙であったが、時間を見つけて会いに行くぐらいはできたはずだ。
どんな顔で会えばよいのか。アエミリウスは執政官としての職務を全うしたとして、市民感情としては批判よりも賞賛の声が多い。だからといって、名誉の戦死としてそれを誇る気持ちには、パウルス家の人間はならないだろう。死んでしまった人間にはもう会うことができない。一家の大黒柱を失うことは、経済的な面での打撃も大きいが、やはり精神的な面での打撃の方が遥かに大きいだろう。父親を亡くしたテルティアにかける言葉が見つからないプブリウスは、どうしてもパウルス家に足を向けることができないでいた。
さらに、プブリウスの心を重くしたのは、アエミリウスの遺言とも言うべきテルティアとの結婚についてであった。このことは、まだ誰にも打ち明けてはいない。アエミリウスの遺言を知っているのは、プブリウスの他はラエリウスだけだったが、従順な親友がそのことを他言することはないだろう。
プブリウスが黙っていればそれまでの話である。その結婚を彼が望まなければ、黙っていればよいだけである。だが、プブリウスがテルティアに好意を寄せているのは間違いなかった。そのことは自分でもはっきりと意識している。マッシリアで出会ったニーケーに心を惹かれる側面はあるが、ローマの名門貴族である自分とグラエキア商人の養女で、しかも解放奴隷のニーケーとでは、普段身分について関心のないプブリウスでも、結婚に立ちはだかる壁の大きさを意識せずにはいられない。つまり、ニーケーとの結婚は現実的ではなかったのだ。一方、テルティアは同じくローマの名門貴族の家柄で、パウルス家とスピキオ家との親交も深い。政略結婚も多いこの時代、この婚姻は両家にとって手拍子で喜ばれることだろう。特にアエミリウスが亡くなったパウルス家にとって、この婚姻は家を守る上でも大きな意味を持っていた。アエミリウスは単なる思いつきで口走ったことなのか、自分が死んだ後にパウルス家を衰退させないようにと考えてのことなのか、彼がどこまでの考えで言ったのかは今となってはわからないが、プブリウスが自分の遺言を無碍にする薄情者でないことはよくわかっていたに違いない。
父親を亡くしたばかりだというのに、簡単に切り出せる話ではない。プブリウスはしばらくの間テルティアを避けた。ただ、これはテルティアとの結婚に悩んでいるということではなかった。いずれはテルティアと結婚することになる。そうは思うが、それが今なのかと問われれば、はっきりとした答えが見つからなかった。
これが戦争だ。何とも言えない脱力感で全身を満たしたプブリウスは、顔を上げることができなかった。
これほどの死者を出すと誰が想像できただろう。ローマ人なら、負けることすら想定外であっただろう。迎えるローマ市民の多くが家族を、友人を、恋人を、隣人を失った。言葉にはできない感情が、帰還兵を覆い尽くしていた。
敗残兵が市内に入ってくると、ローマ市民全員が市内の入口門に集まって帰還した者たちを形式的にせよ称えた。ローマ兵は市民であり、市民の代表である。自分たちの代表として国のために戦った者たちを労うのは当然であったからだ。
敗戦の責任は常に指揮官にある。そう考える彼らにしても、このときばかりは敗軍の将であるヴァッロを非難する声はあがらなかった。短期決戦を望み、彼を選任したのは他ならぬ自分たちだからだろう。短期決戦に対して否定的であった少数の者たちからも非難の言葉はでなかった。それは、仲たがいをしている場合ではない、と考えたからではないか。
この敗戦を受け止めたローマ市民は、悲しんでばかりはいられなかった。カンナエで大勝したハンニバルが、次にはローマを攻撃してくるかもしれないのだ。
カンナエでの戦いには多くの元老院議員が参加していたが、そのほとんどが帰還できなかった。執政官であるアエミリウスは最後まで戦場に踏み止まって戦死し、歩兵を率いていたセルウィリウスも部下と生死を共にした。三百人以上が在籍する元老院議員のおよそ四人に一人がカンナエの地で命を落とした。多くの同胞を失った元老院は、一年という死者の喪に服す期間を特例として三十日に短縮し、戦いがまだ終わっていないことを暗に知らしめた。ローマは悲しみに暮れることも許されない状況であったのだ。ハンニバル率いるカルタゴ軍は依然として健在であり、イタリア本土を自由に動き回ることができた。
数日後、カルタゴ軍の動向を監視している偵察隊からローマに急報がもたらされた。
ハンニバルが南に進路をとる。
カルタゴ軍による直接攻撃の脅威が去ったローマでは、これまで張り詰めていた糸が切れたかのように、人々は亡くなった者たちを悼んで泣き続けた。ローマでは昼夜問わず、どこかしこで人々のすすり泣きが聞こえ、このときばかりは子供たちの笑顔も影をひそめた。まさにローマは悲しみ一色に染まったのだ。
そんなローマをさらなる悲しみと落胆が襲う。パドゥス川流域で蜂起したガリア人を鎮圧するために派遣されていた二個軍団が壊滅したと言うのだ。およそ八千人のローマ兵が戦死したという報せは、カンナエでの敗戦の後で堪えないわけがなかった。
ローマに帰還後、プブリウスはまだテルティアと会っていない。と言うよりも、会うのを避けていたと言ったほうが正確だろう。生き残った兵士らによる軍務処理で彼自身も多忙であったが、時間を見つけて会いに行くぐらいはできたはずだ。
どんな顔で会えばよいのか。アエミリウスは執政官としての職務を全うしたとして、市民感情としては批判よりも賞賛の声が多い。だからといって、名誉の戦死としてそれを誇る気持ちには、パウルス家の人間はならないだろう。死んでしまった人間にはもう会うことができない。一家の大黒柱を失うことは、経済的な面での打撃も大きいが、やはり精神的な面での打撃の方が遥かに大きいだろう。父親を亡くしたテルティアにかける言葉が見つからないプブリウスは、どうしてもパウルス家に足を向けることができないでいた。
さらに、プブリウスの心を重くしたのは、アエミリウスの遺言とも言うべきテルティアとの結婚についてであった。このことは、まだ誰にも打ち明けてはいない。アエミリウスの遺言を知っているのは、プブリウスの他はラエリウスだけだったが、従順な親友がそのことを他言することはないだろう。
プブリウスが黙っていればそれまでの話である。その結婚を彼が望まなければ、黙っていればよいだけである。だが、プブリウスがテルティアに好意を寄せているのは間違いなかった。そのことは自分でもはっきりと意識している。マッシリアで出会ったニーケーに心を惹かれる側面はあるが、ローマの名門貴族である自分とグラエキア商人の養女で、しかも解放奴隷のニーケーとでは、普段身分について関心のないプブリウスでも、結婚に立ちはだかる壁の大きさを意識せずにはいられない。つまり、ニーケーとの結婚は現実的ではなかったのだ。一方、テルティアは同じくローマの名門貴族の家柄で、パウルス家とスピキオ家との親交も深い。政略結婚も多いこの時代、この婚姻は両家にとって手拍子で喜ばれることだろう。特にアエミリウスが亡くなったパウルス家にとって、この婚姻は家を守る上でも大きな意味を持っていた。アエミリウスは単なる思いつきで口走ったことなのか、自分が死んだ後にパウルス家を衰退させないようにと考えてのことなのか、彼がどこまでの考えで言ったのかは今となってはわからないが、プブリウスが自分の遺言を無碍にする薄情者でないことはよくわかっていたに違いない。
父親を亡くしたばかりだというのに、簡単に切り出せる話ではない。プブリウスはしばらくの間テルティアを避けた。ただ、これはテルティアとの結婚に悩んでいるということではなかった。いずれはテルティアと結婚することになる。そうは思うが、それが今なのかと問われれば、はっきりとした答えが見つからなかった。
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