アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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(72)オメガバース

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アルスメラ
敵国『アルシア』の王子。αだが、性に意志が侵食されるのを嫌っている。

オルヴェール
『ニフェア』騎士。本当はΩだが、αと偽り地位を築いた。

メルフェ
アルスメラのフィアンセであるΩ。見た目は若いが……。

サラセラ
オルヴェールの幼馴染。薬屋を営むΩ。

敵国に送られたΩを助けるべく立ち上がったオルヴェールだったが、アルスメラに敗れ……。
アルスメラ×オルヴェール。自分の性を疎んでいる意識高い系敵国α王子×誇り高い自分の性を偽って努力するΩ騎士。哲学しつつ発情に抗えない甘々ムードが好きです!
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 発情期のΩを多数、敵国に送り込んで攪乱する。その作戦を聞き、俺は頭を抱えた。
 長きに渡りわが国『ニフェア』と敵国『アルシア』との戦いが繰り広げられ、人々の心が疲弊してしまったのは言うまでもない。が、だからと言って、Ωを戦いの道具として使うのは、いくら何でも自棄になり過ぎている。
「そもそも、そんなことをして我が国のΩが敵と番になれば、αの子孫が残せなくなって衰退するのはこの国だぞ?」
『なんでも、前もって飲んでおけば子どもができなくなる薬ってのが開発されたらしくて。それの実験も兼ねてるとか』
「そんな……」
『ちょっとヤバいですよね。ウチの国。でも、オレたち兵隊は上に従うしかないんですよね……』
 若い騎士がため息を吐きながら、その最悪な作戦が行われているであろう敵国を見つめる。しかしながら、その様子は分厚い城壁に遮られているため、見張りを任されている我々には見ることも叶わない。
 久々に国王直々の命が下ったかと思えばこれだ。Ωが敵幹部を陥落させたら突入しろだ? なんという血迷った愚策だろうか。
『でも、オルヴェールさんはαなんだからまだ近づいちゃダメっすよ? 匂いを濃くする薬も飲ませてるらしくて、壁の向こうは今すごいことになってるらしいですから。いくらオルヴェールさんでも、あてられてしまうかも……』
「なるほど。腐ってるな」
『って、ちょ、聞いてます?!』
「すまないが、俺は先に中に入る」
『ま、待ってくださいって……!』
 焦る青年を置いて壁を登る。悠長に待っているほど俺は無慈悲でいられない。Ωが苦しんでいるのなら、この手で助けてやらなければ。


「おい、大丈夫か?」
『ひっ』
 壁を越えた敵国。薄気味悪い街の路地裏で怯える少女に手を伸ばす。
「大丈夫、俺は味方だ」
 大して動かない表情筋にできるだけ力を込めて微笑んで見せる。が、そんなことでは目の前の少女に安心を与えることはできない。
『だ、ダメです! 味方でも、近づいたら、危ない……。匂いに、やられちゃう……』
「他のΩは?」
『みんな、すぐに攫われちゃって、う……』
 少女が苦しそうに身を捩った瞬間、俺でもわかるほどの匂いが辺りに立ち込める。
『こっちからすげー匂いがしたぞ』『ぜってーここら辺にいる!』『早いもん勝ちな!』『いや、見つけたら平等にやろうぜ!』
 匂いにあてられたらしい男たちの声が、慌ただしく駆け巡る。
 このままじゃ見つかるのも時間の問題だ。まずは、この匂いをどうにかしなくては……。
「おい。これを飲め」
『あ……!』
 差し出した薬を見た瞬間、少女の顔に希望の光が差し込む。
 抑制剤。これを飲めば、匂いも少しは落ち着くはずだ。本当は使いたくなかったが、致し方ない。
「いい子だ」
 薬を飲み込んだ少女の頭を撫でてやると、ようやく少女に安堵の表情が浮かぶ。
『あの、ありがとうございま……』
「やっほー。お兄さんたち。こんなとこで何してんの?」
「っ!」
 少女が礼を言い終わらない内に、突然それは現れた。
「あ、驚かせちゃいました? どうもすみません」
「お前は一体なんだ?」
 俺は騎士だ。それなりに力をつけてきたつもりだ。だから、人が近づけば例え背後であろうとも気が付く。嫌でも周囲の気配を探ってしまう。だが、どういうわけかこの少年の気配は全くもって感じ取れなかった。肩を叩かれるその時まで、少年の存在を認識することができなかったのだ。
「そのお嬢さん、大丈夫?」
『……!』
 指さされた少女が悲鳴にならない声を上げ、俺の後ろに隠れる。どうやら、彼女なりにこの男の危険を感じ取ったらしい。
「大丈夫だ。少し気分が悪いだけだろう」
「はは。嘘つくの下手すぎ、っと!」
「ッ!」
 予備動作もなく放たれた少年の斬撃。それをギリギリで受け止め、弾き返す。
「へえ。やるじゃん。でも、これはどうかな?」
「チッ」
 容赦なく向かってくる魔法弾を叩き割る。
 間に合ったか。予想以上の威力に痺れた手で剣を握り直しながら少年を見る。が。
「まだだよ」
「なっ……」
 二つに割れた魔法弾は消えることなく軌道を変え、俺の横をすり抜け、少女を目掛けて飛んでゆく。
『きゃ!』
「クソ!」
 咄嗟に少女を捨て身で庇い、負傷する。読みが甘かった。目の前の得体の知れない少年に油断をし過ぎた。
「ほら、他人を庇ってる暇なんてないですよ」
 少年の手の平で大きな炎が揺れる。あんなのを食らったら一溜まりもない。だが、少女を見捨てる訳には……。
『あ……』
 少女の顔が恐怖で歪む。その瞳に溜まった涙を見て、どうして庇わずにいられるだろうか。
「馬鹿だね~。偽善ぶってちゃ、きっと後悔するよ、っと!」
「っぐああああ!」
 少女を押し退けたところで、炎に身を包まれる。もっと魔術を学ぶべきだったな。まさか、ここまで魔術を使いこなす少年がこの国に潜んでいたとは……。ああ、熱い。痛い。苦しい。こんなところで終わるはずじゃ、なかったんだがな……。こんな少年に負けるなんて……。せっかく、αとして力を認められていたというのに――。



『どうしましょう、旦那様! オルヴェール坊ちゃんが……!』
『どうした。言え』
 俺を置いて部屋を飛び出したメイドが、青い顔をして父親に告げる。
『Ωだったんです……。発情してしまって、それで……』
『チッ、失敗作か……』
 メイドの報告を聞いた父親は、忌々しく吐き捨て、信頼のおける執事を呼び寄せる。
『どういたしますか? 今から名のある貴族に許嫁として売り込むのも良いかと』
『いい。他の子どもたちはαだろうから、奴は殺せ。害が及ぶかもしれん』
 執事の提案を押しのけた父親は、何の躊躇いもなく幼い俺を殺せと言った。
『ですが……』
『あれは私の子ではない。あれはただのゴミだ。優秀でない子は私の子ではないのだ。捨てるのは当たり前だろう?』
 なんだ。俺はゴミだったのか。
 呼吸が苦しいのを我慢しながらドア越しに聞いたやり取り。それに不思議なぐらい納得する。
 道理で、頑張っても頑張っても一向に力が伸びないはずだ。褒めてもらえないはずだ。認められないはずだ。
 ゆらり。揺れる視界の中で、果物ナイフが映る。
 でも。俺はまだ死にたくない。
 ナイフに映った自分の顔が歪む。悪魔のように囁く。
 だったら、どうすればいい?
「そんなの、簡単だ」
 その夜。気付いたら、寝ている父親の胸にナイフを突き立てていた。捨てられるぐらいならば、殺してしまえばいい。認められないのならば、身分を偽って血が滲むほどの努力をすればいい。
 そうして出来上がったのが、騎士オルヴェール。彼は見事に周りを騙し、信頼を得た。今まで失敗などしたことがなかった。それなのに――。



「っは!」
 嫌な夢を見た。そう思い目を開いた瞬間、それが決して夢ではないことに青ざめる。
「やぁ。おはよう」
「何のつもりだ」
 目の前の少年を睨みながら、手足を動かす。
 じゃらり。趣味の悪い鎖が音を立てる。あろうことか俺は、ベッドの上で拘束されて身動きも取れぬまま寝かされている。
「そりゃ、暴れられちゃ困るからね」
 肩を竦めて答える少年に、よっぽど異議を唱えたかったが、頭を冷やして呼吸を落ち着かせる。コイツのペースに乗っていては、良い方向へ流れない。それに、今一番聞くべきは少女の安否だ。
「あの子は、無事なのか?」
「ああ。あの女の子ね。すっかり匂いが治っちゃってさ。使えないから適当に放しといたよ」
「放したって……」
「いいっしょ。どうせ襲われないんだしさ」
 良くはないのだが、匂いが抑えられたのなら、きっと逃げ切れるはずだ。
「他のΩたちは?」
「さてね。心配なの?」
「当たり前だ。こんな非道なことが許されるものか」
「アンタの国がしたことじゃないか」
「……それは」
「まぁ、こんなことしてもΩに傷がつくだけだもんね。一時しのぎで子孫繁栄に支障が出るようじゃ、ねぇ? 如何にも人間らしいけどさ」
「そうだ、これは愚策にもほどがある」
 拳を握りしめ、彼に言われた言葉を噛みしめる。どうして敵国の少年に分かることが、わが国の上層部には分からないのか。避妊できる薬の効果が確かだとしても、Ωの精神的ダメージについては全く考えられていない。誘惑するための道具などと軽んじられていることが腹立たしい。Ωにだって意志はある。相手を選ぶ権利は誰にも平等に与えられるべきだというのに。
「にしても、アンタ結構強かったな。ニフェアの騎士の中でも優秀なはず。Ωなんか庇わないで、とっとと逃げたら良かったのに」
 ま、僕としては強敵を潰せてラッキーなんだけどさ、と呟く少年に再び睨みを利かせる。
「騎士として民を守るのは当然の責務だ。例え、お前に殺されようと、俺は選択を後悔などしない」
「ひゅ~。化石みたいな騎士道精神振りかざすじゃん。でも、僕はそういうの嫌いじゃない。ま、だからってアンタを殺さないわけないけどね」
「っぐ……」
 少年の手がゆっくりと首を締め上げる。呼吸が苦しくなるのと同時に、体温が一気に上がってゆく。
 いや、おかしい。熱い。熱すぎる。熱くて、堪らない。これは、もしかしなくとも……。
「ん……? アンタ、なんか良い匂いがするな。Ωの匂いが移ったのか?」
 首筋に鼻を寄せる少年に、確信を持つ。まずい、抑制剤が切れて……。
「アンタ、あんなΩの近くにいて、よく耐えられたもんだよな。抑制剤飲ませてたみたいだけど、僕が来たときはまだ匂いすごかったし……。いや、αが薬を飲む前のアレに耐えられるわけがない。お前はαじゃないな?」
「……」
 結論に至った少年の瞳が、真っすぐに俺を捉える。
「なぁんだ。アンタ、腕がいいからてっきりαだと思ってたよ。というか、オルヴェールはαだと聞いていたんだけどな」
「何故俺がオルヴェールだと?」
「敵の情報は頭に入ってる。それに、アンタほど顔が整った凄腕騎士は僕でなくとも記憶してる」
「たしかに、俺はαではない。ずっと隠して生きてきたが……、本当の性はβだ」
 とっさに吐いた嘘は俺を凡庸な枠に貶める。が、本当の性がバレるより相当マシだ。
「……なるほど。じゃあアンタがこの辛さをわからなくて当然だ」
「辛さ?」
 絞め殺す気がなくなったらしい手が。首からゆるりと離れてゆく。お喋りに付き合っているほど余裕はないのだが、俺には平静を装う以外の選択はない。
「そうさ。辛いのはΩだけだとでも思ったかい? 凡人君」
「αであることが辛いと?」
 優秀である証のα性が何故辛いと言えるのだろうか。そんな台詞、大衆に届けばすぐに反感を買ってしてしまうだろう。それほどに、人々……βやΩはα性を僻んでいるというのに。
「僕はね、人間の本能に振り回されるのが嫌いだよ。どうして子孫を残す前提で世界は回っているんだ? 僕が生き、死ぬときに死ねばそれで人生は完結するというのに。自分の人生、所詮自分だけのものだ。それなのに、後に何かを残そうなんて。全く意味がわからない。僕のいない世界など知ったことじゃないのに。それに。僕のような人間が子どもを持つなど。生まれてきた子どもが不幸になることは目に見えている。生まれてきた子ども全てがこの世に生を受けたことを喜べるわけじゃない。それを全く理解しないでただ己の性欲に身を任せ、この世に命を作ろうなど。自己中心的営みとしか思えない。それなのに、僕はαだ。周りからは結婚を期待され。己の思想と反する体に悩まされ。こんな性が辛くない訳がない。α性なんて僕は嫌いだ」
「え……?」
 驚いた。この少年からそんな哲学的な話が出てくるなんて思いもしなかった。αが己の性を否定するなんて思いもしなかった。
「少なくとも僕は、この世に生を受けたことを後悔してるよ。だから、子孫なんていらない。命を作るなんて僕には資格がないね。それなのに、αに生まれたばかりに、Ωのあの匂いに惹かれ、欲情してしまう。はっきり言って迷惑だ」
「君は変わってる」
「よく言われるよ」
 おどけてみせる少年の瞳には、確かに愁いがあった。
「αに生まれたのに、どっかで感情がイカレちまったんだよなぁ」
「は。優秀な遺伝子が勿体無いな」
「それも、よく言われる。そんな遺伝子、こっちは望んだ覚えもないってのにさ」
 皮肉をぶつけてやっても、彼は曖昧に笑っていた。どうやら、これは本心らしい。
「αがみんな、お前みたいなのだったらよかったのにな……」
「ん? なんか言ったか?」
「いや」
 ぼそりと呟いた己の言葉に首を振る。そんな感傷に浸っている場合ではない。現に、意志に反して刻一刻と体の熱は高まってゆく。だが、もう少し。もう少しで……。
「アルスメラ様!」
 ばんっ、と扉が開かれると同時に、可愛らしい少年が勢いよく部屋に転がり込む。
「メルフェ。どうした?」
「どうしたもこうしたも! アルスメラ様はまたこんな危険な時に城外へ行かれたでしょう!? って、な、何ですかその男は?!」
 メルフェと呼ばれた少年は、羊のようにふわふわな髪の毛を振り乱しながら叫び、こちらを凝視する。
「ああ、コイツは……」
「ボクに飽きてしまわれたのですか?!」
「メルフェ、話を……」
「ああっ! ボクと番の契りを結んでくれないと思っていたら! アルスメラ様! こんな地味髪根暗トーヘンボクがタイプだったなんて!」
「あ~。これでも女性には好評なのだが?」
「うるさい黙れ! アルスメラ様を惑わす泥棒猫め!」
 声変りをしていない声で喚き散らすメルフェに、少しだけ気持ちが紛れる。よし。邪魔が入った今のうちに……。
「おい、この失礼な子猫ちゃんはなんだ?」
「ああ。僕のフィアンセだよ。メルフェ、コイツは敵国の騎士だ。お前が思っているようなことはしてない」
「じゃあ何故ベッドに縛って!?」
「そりゃ、今からコイツを人質にしてだな……」
「残念だが、それは無理だ」
 ぱきっ。目が覚めてから今までの間、密かに高めていた魔力を一気に鎖に叩き込む。
「しまっ……!」
 アルスメラが動くより先に、鎖を断ち切り、素早くメルフェを盾に取る。
「今回の策は我が国の失態だ。俺は、事を収束させたいと願っている。『アルスメラ』この国の王子の名だ。お前が王子だったとは話が早い」
「僕がアンタの願いを聞くとでも?」
「ああ。嫌でも言うことを聞いてもらう」
「あ、アルスメラ様……」
 靴に仕込んでいたナイフを取り出し、メルフェの首に宛がって見せつける。
「ふ、いいだろう。僕だってこの事態は望ましくないからね」
「アルスメラ様……!」
 愛を選んだアルスメラに、メルフェが溢れんばかりの親しみを瞳に抱く。
 これが愛し合うということなのだろう。これが運命の番というものなんだろう。その薄ら寒い眼差しを見ると、俺には到底理解のできないものだと思った。


 事は上手く動いた。アルスメラが、敵国のΩに触るなという命令をアルシアの民に出した。それと同時にβ兵を動かし、Ωの保護に乗り出した。俺は、そのことを信用できる部下に話し、あらん限りの抑制剤を取りに行かせた。これで収束に向かえばいいのだが……。
「さて。僕らも行こうか、オルヴェールさん」
「脅しておいてなんだが、君は一国の王子だろ? 留守番していた方がいいんじゃないか?」
「少しでも人手の多い方がいいでしょう? それに、敵国の騎士を一人で街中に放ってはおけない」
「それじゃあ適当な者を監視につければいい。わざわざ君と行動する必要はない」
「アンタほど腕の立つ騎士の見張りを、適当な者に果たせるとでも?」
「わかった。好きにすればいい」
 本当はコイツと行動を共にするのは嫌だ。さっきは本当に危なかった。少しでも抑制剤が届くのが遅ければ、きっと……。いや、考えるのもおぞましい。特に今の時期は、極力αの傍にいたくはない。だが、そんなことを言ってはいられないのも事実。こうしている間にも、Ωたちが危険な目に遭っているのだと思うと、言い合いをしている時間も惜しい。
「ね、ここら辺。いるよ」
 鼻を押さえたアルスメラが、嫌そうな顔で呟く。一瞬、なんのことか分からず辺りを見渡すと、彼が指さした方向に幼気な少女が隠れていた。
「僕、αだからさ。匂いでわかる」
「なるほど。犬みたいだな」
「本当にアンタはどうもないみたいだな。羨ましい」
「そりゃどうも」
 言いながら、具合の悪そうな少女に駆け寄り薬を渡す。
「俺はニフェアの騎士だ。もう大丈夫。これを飲め」
「あ……。オルヴェール様……」
 どうやら少女は俺を知っていたらしい。味方と知るなり安堵の表情を浮かべ、大人しく薬を口に含んだ。
「さっすがニフェアの人気騎士。αなのにその分け隔てなく紳士的な振る舞いで女性からめちゃくちゃ慕われてる、っていうもっぱらの噂は本当だったんですね」
 ま、本当はただの凡人だったわけだけど、と少女に聞こえないようこちらに向けて呟くアルスメラを無視して、俺は少女の体を支える。
「にしても。アンタの国の医学は発展してるんだな」
「……いや、これは特注品だ。滅多にない」
「ふ~ん。勿体無い。その技術、是非とも買い取りたいんだけど」
「Ωが苦しもうが君には関係ないだろう?」
「言っただろ、僕も被害者なんだって」
「……どうだか」
 たしかに、アルスメラは今まで出会ったαたちのように、直情的ではないらしい。でも……。
「さぁ、お嬢さん。このまま貴方をニフェアまで飛ばします。目を瞑って」
「えっと……」
「大丈夫だ。信用していい」
 上目遣いでこちらを見た少女を安心させるべく微笑む。信用していいかは正直わからないが、発動している魔法は確かにニフェアまで転移させるものだ。
「はい。一丁上がりっと」
 アルスメラが目を閉じた少女の額に触れた瞬間、少女は跡形もなく消える。距離のある転移は中々高度な魔法だ。それをこうも易々と成功させる彼は底が知れない。それに。
「そんな至近距離でよく正気を保てるものだ」
 抑制剤を飲んだとはいえ、まだ匂いは残っていたはず。普通のαなら暴走してもおかしくない距離だった。それなのに、精神を乱すことなくΩの額に触れ、魔法を成功させた彼は間違いなく他のαとは決定的に何かが違っていた。
「なんだ、お前でも辛いかβくん」
「茶化すな。お前こそ、本当にαか疑いたくなる」
「まぁ、僕は元々の性格が、ね。あとメルフェとの番もなんだかんだ上手くいきそうだからさ」
「なるほど」
「でも、僕だって完全に耐えられるわけじゃない。こんな悪夢、さっさと終わらせるに限る」


 アルスメラと組んでΩたちを救出すること数時間。
「その子を放せ」
『ぐっ』
 匂いに惑わされた馬鹿どもを捻り上げると共に、Ωに薬を渡して飲ませる。
「こいつらは処分していいのか?」
「ああ。国の膿みたいな連中だからな。好きにしてくれ」
『ふざけやがって!』
「おっと。暴れるなよ。崖から落ちたら大変だろうが」
『ぐあああああ!』
 そう言ったアルスメラが、向かってきた男をひらりと躱し、崖下へと突き落とす。
「君は躊躇いがないな」
「いや、寄って集ってΩを襲うような雑魚に生きてる価値なんかないでしょ。コイツら、ただの荒くれ者のβだし?」
『くそ! お前らそっちを狙え!』
 アルスメラの殺気に怯んだ男たちが、一斉に俺目掛けて剣を向ける。
 ああ。随分舐められたものだな。
『や、やめてぇ!』
「っ!」
 ギリギリまで男たちを引きつけて、一気に薙ぎ払おうとしたところ。解放されたばかりのΩが叫びながら目の前に躍り出る。
「うわ、余計なことを。モテるってほんとだったんだな~」
 アルスメラの呟きを聞きながら、俺を庇おうとしたΩの手を思い切り引く。目の前に迫る数多の剣先。その太刀筋を紙一重で躱し、弾き返す。が。
「チッ」
 腰に手を当てる。ない。そこに提げていたはずの袋がなくなっている。
「ひゅ~。さっすが騎士様!」
「おい。真面目にやれ……!」
「はいはい、さてと。これも公務の一環ってことで。命令違反は消えろ」
 アルスメラが男たちに冷たい視線を寄越した刹那、剣が舞う。容赦なく切られた男たちは、それぞれ悲鳴を上げながら、地面の上に崩れ落ちる。
「……大丈夫ですか?」
『すみません! わ、わたし、余計なことを……!』
「いえ。貴方が無事で何よりですよ」
「オルヴェール様……!」
 青ざめたΩに、できる限り優しい声を掛けてやる。すると、Ωの頬は赤く染まり……。
「はいはい。助かったんなら強制送還ね」
 何か言いかけたΩを俺から引き剥がし、白けた顔でアルスメラは転移魔法をΩに掛けた。
 数を重ねるごとに雑になっていくそれを見届けた後、崖の下を見つめる。闇に覆われた先は全く見えず、見ているだけで心までもが闇に侵食されてしまいそうな程不気味だった。
「どうした?」
「いや……」
「さっき落とした男が心配、とか?」
「どう見ても即死だろ。そうじゃなくて、その……。薬の入った袋を、さっきの剣撃で落としてしまって……」
 迂闊だった。まさかあれを落としてしまうだなんて。
「なんだ、そんなことか。僕が転移掛けてやるから、一旦取りに帰ればいいだろ?」
「そうしたいのは山々だかな。……とにかく俺は崖下まで探しに行く。君は引き続きΩの保護に努めてくれ」
「は? 待てって。ちゃんと説明しろ」
 胸倉を掴まれ、アルスメラの顔が迫る。まだ若くきめ細かい肌を見ていると、その生意気な態度も納得できる。大人と子どもの境目に位置する彼は達観しているように見えて、、まだ子どもであることを捨てきれていない。だが、それは俺も同じなのかもしれない。生々しい大人の世界を許すことができない故に、いつまでも自分を偽り、身を守ることしかできない。でも、それでも偽らずにはいられないのだ。
「あの薬は、無理を言って急ぎで作ってもらったんだ。在庫含め、あれで全部だ」
「は? まさか本当にあれだけしかないのか?」
「その薬屋だけの専売特許だと。そもそも、彼じゃないと作れないほど精密なもので、彼もこれだけ作った後じゃ、きっと寝込んでいる」
 そう。だからこそ、もっと大事に扱うべきだった。それなのに、油断して失態を犯したのは俺だ。迷っている暇などない。
「いや、待てってば! この崖の下は危険だぞ。ハウンドやらオークやらがうじゃうじゃいる」
「少ししたら戻るから」
 ふわ。魔力で体を浮かせながら、崖の下へと飛ぶ。
「あ、おい!」


「本当にうじゃうじゃいるな」
 倒してもキリがない。これでは倒しきる前にバテてしまう。それに、もうすぐ……。
 焦って時計を見つめる。が、その隙にハウンドがすぐさま駆けつけ、襲いかかってくる。
「チッ!」
 斬って、投げて、蹴って。熟練の狩人も真っ青になるぐらい数多の獣たちを処理してゆく。だが、それでもハウンドは増え続けて……。
「は……」
 駄目だ、まだ、後少し……。
 目の前の獣に剣を振ろうとするのに、視界がチカチカと明滅を繰り返し……。
 ザッ!
「ぐっ……」
 容赦なくハウンドの爪が腕を裂く。それを合図に、周りのハウンドたちも一斉に飛びかかり――。
 あ、これは、死ぬ……。
「何やってんだ馬鹿!」
「あ」
 どっ、と風が吹き、目の前に迫った獣たちがあっという間に薙ぎ払われてゆく。
「ほら、立てるか?」
「……」
 座り込んだ俺に、アルスメラが手を伸ばす。それはまるでおとぎ話の王子様みたいに輝いて見えた。だが、どう考えても俺はヒロインではないので、その手を静かに払いのける。
「おい。怪我が痛むのか? 見せてみろ」
「っ!」
 ぐい、と無理やり手を引き寄せられた瞬間、泥のように甘ったるい電撃が体中を走り抜ける。
 駄目だ。落ち着け。抑えろ。これは違う。誤魔化さなくては……。
「オルヴェール?」
「っあ……!」
 頬を伝う汗を指で掬われた途端に、自分でも訳が分からないぐらい体が震える。
「は、早く……、薬を、探さないと……」
 そう思うのに、体が熱くて。気を抜いたら、また座り込んでしまいそうで、彼の手が振り払えない。
「え……。なん、だよ、これ……」
 アルスメラが指についた汗を鼻に寄せ、目を丸くする。
「待って。甘い匂い、なんで、アンタから……」
「は、放せ……!」
 アルスメラの手を振り払うと案の定、支えを失くした体は再び地面に座り込む。
「匂い、あま……。な、んか、嗅いでると、ぼーっと、する……」
「くそ。く、来るな……」
 甘い蜜に引き寄せられるように、アルスメラがゆっくりと近づいてくる。早く、逃げなくては。そう思うのに、意識が遠のかないよう堪えるのがやっとで。互いの荒い呼吸だけが冷たい森の中に響く。
「オルヴェール、これ、どういうことだよ……」
「違う、俺は、違う!」
 昔の記憶がふと頭をよぎる。ああ、確かに害があるのだろう。こんな体質、望んで生まれたわけじゃないのに。
「オルヴェール。まさかアンタは……」
「い、うな……。頼むから、言わないでくれ……」
「っ……」
 言葉にされれば、嫌でも思い出してしまう。自分が望まれない存在だったということを。殺されるかもしれないという恐怖を。絶望を。そして殺意を。
「俺は、違う……。俺は……」
「ああ。僕としたことが、失念していたよ。まさか、アンタほどの優秀な騎士がΩだなんて、あるはずがないって……。教えてくれ。アンタはΩなのか?」
 長年自分を騙していた魔法が解けてしまった気がした。認めたくない。絶対に否定しなくてはと思っていたのに、彼の声で紡がれた言葉は、どうしてだか心にストンと落ちてしまった。
「……は。はは。そう、だよ……。みっともないだろ? 君もさっさと逃げた方がいい。君に害が及んでしまう。自分じゃ、これ、抑えられないんだ……。だから……」
「なるほど、アンタも苦しんでたって訳か」
 唇を親指でなぞられる。それだけのことなのに、気持ちが増し、その指を食んでしまいたい衝動に駆られる。
「ん、それ、やめろ……」
「暴れるな。ほら、口、開けろ」
「な……」
 口を開けた瞬間、薬が放り込まれる。それは他でもない、探し求めていた抑制剤だった。
「んぐ。は……。どう、して……」
「アンタがハウンドと戦ってる間に拾った」
 いろいろ言いたいことはあったが、とりあえずの危機は去ったらしい。
「これでちょっとはそれマシになるか?」
「ん。もうしばらくしたら、治まる」
「チッ、まだこの甘ったるいのに耐えなきゃいけねーのかよ」
 そうぼやきながら俺の腕を取ったアルスメラは、丁寧に治癒魔法を掛けてゆく。
「君は、本当に、αなのか……?」
「ん? どういう意味?」
「αなのに、あの匂い耐えるなんて、それこそあり得ない」
「だから言っただろ。僕は特別。てかこれでも死にそうなくらい我慢してんだけど。それに、アンタのは何か、ほんとに意識飛びそうでやばい。なぁ、マジで匂い抑えるとかできねえの?」
「できたらやってる。いつも、薬で抑えてるから、その分、匂いきつくなってるかも。悪い」
「アンタさ、僕じゃなかったらとっくに食われてんぞ」
「それはない。君ほどの腕がなければ斬り殺している」
「はは。多少腕が立ってよかったよ」
「よく言う。ここら一体の国全部含めたって剣の腕で君の右に出る者はいない」
「はは。嬉しいことを。でも、アンタだって、相当有名だろ」
「俺は。俺は、はどうしたって、君のようには、上手くいかない……」
「オルヴェール?」
「っ。いや、すまない。どうも、こうなると、弱気になるというか、感情のタガが外れてしまう。少しの間、どうか距離を置いてはくれないか。逃げはしない。きっとすぐだから」
 小刻みに震える自分の体を抱きしめ、みっともなく頼む。腕の怪我はすっかり魔法で治ったが、体は未だ火照りが冷めきらない。
「……駄目だ」
「え?」
 低く唸るように呟いたアルスメラの腕に抱きしめられる。嫌な予感がした。
「弱いとこ、見せんなよ、馬鹿」
「っ!」
 アルスメラを押しのけようとした途端、体が地面に縫い付けられる。
「あー、くそ。……駄目だ、理性が、持たない、かも。オルヴェール、僕を斬ってでも止めろ」
「い、言われなくとも……」
 剣に手を伸ばす。が、すぐ傍に迫る彼の顔を見て、手が止まる。苦しそうで、必死に耐えていて、それでも滲み出ている欲。それらは飄々としていた彼に人間味を与え、αらしい色気を放っている。
 ああ、彼は今、俺に欲情しているのか。
 自分の姿が映る瞳を見て、一気に頬が熱くなる。
 あれ? 何だろう。吐き気がするような場面なのに。彼に求められるのは、何だか悪い気がしない。それどころかさっきから、妙に……。いや、嘘だ。そんなのは勘違いだ。気づくな。気づいたら……。
「っく……」
「な……。すご、匂いが濃く、ああ、オルヴェール……!」
 アルスメラの瞳が更に熱を帯び、耐える意思を失ったことが手に取るようにわかる。だがそれは、彼だけのことではなく。
「ああ、アルスメラ……」
 高い理性を備えた二人であっても、この運命に逆らうことはできなかった。虚勢が解かれた人間らしい時を、ただただ甘い沼に沈むように過ごし、互いを激しく求め合った。



「オルヴェール」
「……ん」
「朝だ」
 揺り起こされて目を覚ますと、緑に囲まれた美しい森。光の差し込んだその場所は、妖精でも出てきそうな程、幻想的に見えた。そして、目の前にいるのは、やはりおとぎ話に出てくる王子様のような……。
「アルスメラ……」
 喉を押さえながら、記憶を辿る。その枯れた声、そして痛む体は嫌でも昨日のことを思い出し……。
「あ……、俺は……」
 鮮明に蘇った感覚に、思わず自分を抱きしめる。
「悪かった。理性が、持たなかったんだ……」
 悔いるその瞳は、酷くやつれていた。
「もしかして、君は寝ていないんじゃないか?」
「寝れるかよ。偉そうなこと言っといて、結局僕は性欲に負けたんだ。悔しいやら情けないやら。正直、まだ感情を処理しきれてない」
 視線を逸らした彼を見ながら、己の信条を顧みる。情けないのは俺も同じだ。今までΩであることを必死に隠し通してきたというのに、こんなにもあっさりと貞操を奪われてしまうとは。それも、自分よりもずっと年下の男に、だ。
「くそ。Ωを守るつもりが、こんなことになるなんて……」
「ミイラ取りがミイラになっちゃったね」
「冗談言ってる場合じゃ……」
「他のΩならもう粗方ニフェアに送り返してあげたよ」
「え? まさか君、俺が寝ている間に……?」
「はは。これ以上犠牲者を出すわけにはいかないからね」
 乾いた声で笑う彼は、本当に後悔しているようだった。まあ当たり前だ。俺にあんなことをしておいて……。あんな……。ん……?
 頭痛に耐え抜き、記憶を手繰り寄せる。まだ何か、思い出さなければいけないことが……。
「あ……」
 ふと思い当たって、うなじに手を当てる。
「なんだ、やっぱり覚えていたか」
 苦笑しながら自分のうなじを見せたアルスメラに、青ざめる。
「嘘だ……」
 目を見開いてみても、見えるものは変わらない。アルスメラのうなじには、くっきりと番の証である刻印が押されていた。
「どうやら、番になってしまったみたいだ。参ったね」
 俺のうなじを確認したアルスメラが、ため息と共にそう呟く。
「なんてことを……。俺のせいだ……」
「悔やんでも遅いよ、オルヴェール」
 慰めるように頭を撫でるアルスメラの手。それは酷く優しくて、心地良くて。そう感じてしまう自分が怖くて。
「ねえ、アンタがΩだって知られたくないだろ?」
「は。バラす気か?」
「それは、アンタの態度次第かな」
「何が望みだ。悪いが国の情報なんてさほど持ってはいない」
「そんなことじゃないさ。ただ」
 頬を撫で回していた手が、俺の右手に重なる。そして。
「な……」
 静かに手の甲に口づけが落とされる。ただのごっこ遊びのようなその仕草にも、甘い感情が溢れ出すのでいよいよ不味い。
「ただただお前が愛しい。欲しくて堪らない」
「そんなのは、まやかしだ。君もそう言っていた」
「そうなんだよ。わかっているじゃないか」
「なに?」
「これは偽りだ。アンタがΩで僕がαでさえなければ起こり得なかったことだ。僕たちは人間の浅ましい欲に負けたんだ。僕にはフィアンセがいる。こんなことは許されていいことじゃないんだ。だから、オルヴェール。アンタは僕に嫌われろ」
「は?」
「僕に嫌われる努力をしろ。必死でな。もちろん僕もアンタに嫌われる努力をしよう」
「つまり、どうあってもこの番を解除したいと?」
「アンタだってそうだろう?」
「ふ。そうだな。脅されなくともそう努めるさ」
「それは安心した。メルフェを悲しませるわけにはいかないからな。早いところ僕を嫌いになってくれ」
 甘い感情に苦みが加わり、心がぐちゃぐちゃになる。わかっている。これが偽りの感情だってことは。ただΩ性に惑わされているだけだって。だけど。どうしたって、気持ちが悪い。番になったばかりの相手にそんな言葉を掛けられるなんて、偽りでも吐き気がした。



 僕がΩに惑わされるなんて、あっていいことじゃない。今の今まで築いてきた精神が、たった一人のΩによって粉々に打ち砕かれたことに僕は戸惑っていた。
「つまり、どうあってもこの番を解除したいと?」
 オルヴェールが僕を真っすぐに睨みつける。ああ、その強気な瞳を涙で濡らしてやりたい。そんなことを思ってしまう自分に吐き気がする。
「アンタだってそうだろう?」
「ふ。そうだな。脅されなくともそう努めるさ」
 オルヴェールが僕の言葉にあっさり頷く。その瞬間、僕はどういうわけか傷ついた。まるで呪いだ。そっとうなじを撫でると、あの甘い匂いを思い出す。ああ、早くこの呪いを解かなくてはいけない。


 それから僕らは、町はずれにある別荘に着いた。
「とりあえず、メルフェには仕事だと伝えておいたから。時間を気にすることはない」
「は?」
 素直について来たオルヴェールの両手を鎖で繋ぎ、自由を奪う。
「言っただろ。君に嫌われる努力をするって」
 立てかけてあった乗馬の鞭を手に取り、目の前で青ざめるオルヴェールに向かって叩きつける。
「ッ……! 何を……」
「僕だって嫌だけどさ。暴力振るったらアンタ、僕のことが嫌いになるかなって」
「ふざ……痛ッ。本気で……?」
「勿論。早く僕を嫌わないと、体中傷だらけになっちゃうよ?」
「やめろッ!」
「やめない。僕を惑わせたんだ。当然の報いってやつだ」
「ぐっ……」
 オルヴェールの服が破け、ところどころに血が滲む。その色白い肌に触れたい気持ちをかき消すように鞭を振るう。
「なんだアンタ、マゾなのか?」
「馬鹿を、言うな……」
「でもこれ、消えないぞ」
「っ、触るな!」
 うなじに触れた瞬間、彼の顔が赤く染まる。可愛い。そんなことを思ってしまう自分の正気を疑う。
「どうやら他の方法を考えなくちゃいけないみたいだな」
「チッ。その前に、君が俺を嫌えばいい。君だってそのつもりだったはずだ」
「まあね。でもさ、僕がアンタを嫌うにはそのフェロモンが邪魔過ぎる」
「っはぐ……」
 オルヴェールの腹を蹴って床に転がす。ああ。痛みに耐えるその声がなんとも色っぽい。
「ほらね。アンタは僕をその気にさせる」
「は、まさか、君がこんなに暴力男だとは思わなかった。メルフェくんが心配なことだ」
「どうしてメルフェにも暴力を振るうものか」
「気づいていないのか? お前の目、笑っているぞ。それは支配欲だ。弱い者を虐げて喜んでいる糞どもと同じだ」
「……は?」
 言われてみると確かにそうだ。僕は楽しんでいる。彼が傷つくのを見ていたい。もっと傷つけたい。苦しみで歪んだ彼の顔をずっと見つめていたい。……メルフェにはこんなこと思いもしなかったのに。
 そっと彼の口端から流れる血を拭う。それは他でもない、僕が傷つけ、流させた血だ。
「やめろ」
 ぷい、とそっぽを向くオルヴェールに無性に苛立ちを感じる。
「いっ!」
 気づいたら彼の首筋に思い切り噛みついていた。
「痛い?」
「痛いに決まって……、っぐ!」
 涙を浮かべて叫んだ彼の腹を再び殴る。
「ああ、ごめん」
 でも駄目だ。
「っわ、何を……」
 倒れ込んだ彼に近づき、腕を取って手首をべろりと舐めてみる。腹を撫でる。殴ったところをぐいと押す。
「痛い!」
「そうだろうね」
「何がしたいんだ、変態め……。んむっ!」
 ごめん。
 もう一度心の中で謝ってから、口づけを落とす。そこで初めて自分の昂りに気がつくが、もう遅い。自分の手でつけた傷を撫でながら、溢れ出る気持ちに酔い痴れる。
 舌が絡み合う内に、甘い匂いがぶわりと漏れ出す。その香りは薬で抑えられてはいるが、脳を溶かすのには充分過ぎるぐらい甘かった。そのままずっと貪っていたくなるぐらいに僕はその虜になっていた。


「駄目だ。オルヴェール、もう駄目かもしれない」
「……気のせいだ」
 顔を赤らめ、起き上がるオルヴェールを見て確信する。きっと僕はもう駄目だ。
「いいや、確実に僕はアンタを求めている。オルヴェール、僕はアンタの全てが欲しくて堪らない」
「散々好き勝手しといて何を言うか」
「ああ、オルヴェール、アンタは本当に気高いな」
「君こそ、あの自信はどこへ」
「αというのは何とも馬鹿な生き物だよ、全く」
「君にはメルフェがいるだろう? 気を確かに持て」
「皆まで言うな、オルヴェール」
「君と俺は敵同士。ロミオとジュリエットでさえ結ばれなかったというのに、どうして男同士の俺たちが結ばれようか」
「オルヴェールはΩだろう?」
「……俺は、αとして生きてきたんだ。己をΩだと認めたくはない」
「もしかして、まさかとは思うが、今まで誰にも触れさせず生きてきたのか?」
「……悪かったな」
 再びそっぽを向く彼に、今度はどうしようもない喜びを感じる。
「は? ま、待って。いや、確かに初々しい反応だなとは思ったけど……。まさか本当に? Ωなのに一体どうやって切り抜けてきたんだ?」
「発覚してからはずっと薬を服用してたんだよ。知っての通り、俺の友人が作っている薬は完ぺきなんだ。だから、今まで悟られることもなくやってこれた」
「あ~。あ~」
「?」
 額を押さえてその場にへたり込む僕を、彼が不思議そうに見つめる。僕だって自分がどうしてここまで喜べるのか、不思議でならない。けど。
「いや、アンタの最初が僕だったってのがなんか、嬉しくて」
「……毒されすぎでは?」
「いや、そうかも。でももう駄目だ、僕は駄目だ。完全にアンタの毒牙に掛かってしまった。こうなればアンタが僕を嫌うより他はないよな……」
「ああ。言われなくとも……」
「でも。できれば嫌わないでほしいよ」
「……純愛ならフィアンセとしとけ」
 跪き、オルヴェールの手を取るも、すぐさま叩かれてしまう。それでも。
「オルヴェール、僕はメルフェよりアンタがいい。同じΩだというのに、アンタにはこんなに狂う」
「それは俺が今まで抑えてきたものが濃かったからで。本当の愛じゃない。目を覚ませ」
「そうだな。そうかもしれない。でも、この僕をこうも狂わせることのできる者はアンタしかいないだろうな」
「狂いは歪みだ。国を支えたいのなら俺に惑わされるな」
「敵国の君としては願ったり、だろ。それに、僕は別に国を支えたいなんて思っちゃいないさ。ドラ息子なもんで」
「俺には君が分からない」
「それなら知ればいい。全部が僕なんだよ、結局は」
 言ってから、その言葉が自分でも妙に腑に落ちる。どれが本物の自分か、だなんて。他人からすれば全部僕だ。αであることも。王子であることも。後ろめたくとも、僕という存在の一部に過ぎない。そして、僕がオルヴェールと運命の番であることも、僕という存在の証明なのかもしれない、なんて。


「俺はニフェアに帰る」
 別荘で夜を明かしたオルヴェールが、怠そうに体を引き摺りながらぽつりと告げた。
「なんだ。デートはお終い?」
「全てのΩを救ったからな。この国に用はない」
「救った? 本当に? 皆が無事で帰れたわけじゃないのに? ただの自己満足の偽善じゃなく?」
「厳しいな。君は俺に惚れているんじゃないのか」
「知っているだろう。僕はムードも色気もない。リアリストの研究者だ」
「それでこそ君だ」
 苦笑する彼に胸が熱くなる。どうしたって、自分の気持ちが制御できない。
「それでも。僕はアンタに惑わされる。今だって、アンタに触れたくて仕方がない」
「道を間違えるな。お互い距離を置けばきっとその気持ちも消えるはずだ」
「そうか。ならば……」
 それらしい言葉を紡ぐより先に、腕が勝手にオルヴェールを抱きしめる。
「なにをしている?」
「ああ、アンタを送り出そうと思うのに。体がそれを許してはくれない……!」
 オルヴェールの肩に顔を埋めると、いよいよ歯止めが効かなくなる。その首筋に唇を当て、齧り付こうとした瞬間。
「茶番はやめてもらおうか」
 殺気の籠もった声がして、剣が足元に突き刺さる。見ると、どこから現れたのか、フードを被った男がこちらを睨みつけていた。
「サラセラ!」
「あんまりキミが遅いから、迎えにきたよオル。もっと早めに来るべきだったみたいだね」
「お前は何だ」
 無意識に声が低くなる。オルヴェールが見せた安堵の表情が、やけにイラつく。ああ、全てはαの血のせいだ。わかっている。わかっているけれども止められない。
「オルを返してもらおう」
「僕が攫ったとでも?」
 さっきからオルヴェールを馴れ馴れしく呼ぶこの男が許せない。勿論、この男の正体に検討はついている。自分がやるべきこともわかっている。だが。どうしても、理性的に話せない。
「攫おうとしてただろう? 血に惑わされて哀れだよ」
「言わせておけば……!」
「待ってくれ! 俺はサラセラと共に行く。君もメルフェの元に帰るがいい」
 フードの男に掴みかかろうとした僕を、オルヴェールが止める。そして選んだ。僕でない方を。
「なるほど。アンタたちもそういう関係だと?」
「さてね」
「サラセラ!」
 挑発的な笑みを浮かべた男が肩を竦める。それに対し、語気を強めて窘めたオルヴェールのおかげで、僕は剣を抜かずに殺気を抑えることができた。
「王子様。心配しなくとも私は貴方よりもオルを幸せにできる。貴方だって敵国の騎士と番になったんじゃ、幸せになんてなれない」
「……そんなことはわかっている」
 わかっているからこそ抗った。運命なんていうものに、自分を奪われるなど馬鹿げている。でも。それでも……。
「さ。行こう、オル。キミは帰らなくてはいけない」
「オルヴェール……」
「アルスメラ、世話になった」
 弱々しく呟いた僕の声をかき消すように、オルヴェールははっきりと別れを告げた。ああ、なんて強い人だろう。揺らめく瞳の中に、己を律する強い焔が灯っているのが美しく羨ましい。なんて。

「はは。素っ気ないお別れだな」
 一人になった僕は、全ての感情を捨て去るべくからりと笑う。紆余曲折あったものの、やっと本来の目的が近づいた。
「さて、それじゃあ。本来の目的を果たそうか」



「お前、転移魔法もできたんだな」
「まあ、私の魔力は高いから。覚えれば難しい魔法も使えるはずだ」
「だが、それを覚えるよりも薬を作る方が楽しいと?」
「さすがオル。わかってるね。転移は便利だろうからって一応覚えててよかったよ。ま、引きこもりの私にはあまり使い道がないんだけどね」
「勿体ない。お前なら魔法騎士のトップに立てるだろうに」
「私に戦う趣味はないからね」
「わかってる」
 ニフェアの薬屋、私の住処に着いたオルは、遠慮もなくベッドにどっと腰かける。
「これ、飲むといい。傷の治りが速くなる」
「……ありがとう」
 傷の目立つ彼に、薬の入った瓶を放る。ああ。本当に、もう少し早く迎えに行くべきだった。
 オルヴェールは私の幼馴染だった。軟弱な私とは違い、その腕を振るい、民を助けるために正義を貫く誇り高い騎士。オルは私の自慢の親友だった。彼とは別に恋仲ではなく、同じΩ同士、Ωであることを隠して生活している者同士、支え合って生きてきた。謂わば家族のようなものだった。
「……オル。私はもっとちゃんとキミを止めるべきだった。キミが正義のために無茶をすることがわかっていたのに。危険だとわかっていたのに」
「サラセラが気に病むことではない。それに、俺はそこまでダメージを負ったわけでもない」
 そんな言葉で私の気持ちが軽くなるとでも思っているのだろうか。そんなに心も体も傷ついているのに、どうしてそんな嘘を吐くのか。
「とにかく。キミはしばらく大人しくしていろ。その番の印を消す薬、なんとかして私が作ってみせるから」
「そんなもの、俺が奴を嫌いになれば必要ない」
「そのキミが嫌いになりそうにないから作るんだ」
 だてに長い付き合いをしているわけじゃない。彼がまだあの男に、血の呪いに囚われていることが見て取れた。親友がどこぞのαの餌食になったことが許せなかった。Ωの呪いは私たちにとって最も忌むべきものだ。
「絶対にその番を解いてやるから」
「サラセラ……」
 彼がそっとため息を吐くのがわかった。きっと今の私に何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
「大丈夫。私たちは決して弱い存在じゃない。Ωの呪いなど、最新の薬学知識で吹き飛ばしてみせるさ」
「そうだな。お前にならできるのかもしれないな」
 そう呟いた彼の瞳は、どこか遠くを見つめていた。その横顔が、まるで別人のように見えて、私は置いて行かれてしまった子どものような気持ちがした。


 それから、私は躍起になって番を解除するための薬の開発に励んだ。元々、少しずつ研究を進めていた薬ではあったが。正直、完成する見込みがなく途方に暮れていたものだった。「でも。私がやらなくてはいけないんだ。そうでなければ、オルはきっとまたアイツの元へ行ってしまう」
 だから。そうなる前に。貴重な材料を使うことも厭わず研究に没頭する。
「なるほど見たこともない材料がたくさんあるな」
 ふと、背後から声がした。汗が伝う。没頭していたからといって、全く気配を感じさせることなく、ここまで近づけるものだろうか。ここには侵入者用の結界や罠が張ってある。それを全くの無音で片付けられるはずが……。
「うわ。これなんかすごく珍しい」
「何を、しに、来た……?」
 振り返った先にいたアルスメラは、棚の植物を物色しながら微笑んだ。
「なあに。僕はただ、お前の技術を奪いに来たのさ」
「は……?」
「その薬を応用すれば、僕のこの忌々しい体質とおさらばできるはずだ」
「なるほど。お前も自分の性が気に入らないタイプか。α側を抑制する薬が欲しいと?」
「ああ」
「残念だが。私でさえ見ての通り手こずっている。お前に構っている暇などないんだ」
「そりゃ、アンタには無理なんだろうよ。だが、メルフェならば……」
「へえ。立派な研究室だなあ。羨ましい!」
 ばきり、と研究室に仕掛けてあった罠を壊しながら、可愛らしい少年が無邪気に微笑む。
「お前にも与えてあるだろ、メルフェ」
「でも、こんなに立派なのはないでしょ!」
「お前は、なんだ?」
 アルスメラと親し気に話すメルフェと呼ばれた少年に、恐る恐る聞いてみる。
「ボク? ボクはね、オルヴェールのフィアンセだよ」
 赤い瞳が不気味に光るのを見て、私は確信する。
「お前が狂薬のメルか」
「なんだ、ボクのこと知ってんの」
「噂に聞いた。禁忌薬の研究ばかりする年齢不詳の悪魔。その目は不死の薬の副作用とか」
「ふふ、詳しいねえ。一体誰から聞いたんだい」
「お前の食い潰してきたαから散々聞いたさ。お前を抱くと皆体調が悪くなるとかで、はるばるココを頼ってくるんだ」
「薬に頼るなんて軟弱だねえ」
「そっちの王子様は随分タフなんだな」
「あはは。彼は変わっててね」
「メルフェに当てられはしたが、抱いてはいないからな」
「そうそう。中々食いついてくれないんだ。こんなことあるなんてね。しかもαのくせに、衝動を抑えたいとか言うし」
「だからメルフェとこうして研究を続けているんだ」
「お前たちはフィアンセなんだろ?」
「そういう形にしてた方が良い目くらましになるんでね」
「ボクとしては本気で君と番になりたいんだけど?」
「僕だって最近までは割と本気で考えていたさ」
「……やっぱり、あれのせいなんだね?」
「未だに印が消えないあたり、王子様はアンタでなくオルを愛してるんだろ」
 横から口を挟んだ私を、憎悪に染まった赤い目が睨む。
「待て。僕は薬さえ手に入ればメルフェを選ぶさ。研究だって続けたいしね」
「ああ! アルスメラ! ボクは信じているよ!」
「……愛もないのにその薬狂いを嫁にしてしようだなんて。王子様は狂ってらっしゃる」
「あのさぁ。サラセラって言ったっけ? 君、言葉には気をつけなよ?」
「そっちこそ。敵の陣地に来てんだからさ、気ぃ抜くべきじゃあないよね」
 どっ。白衣の下から銃を取り出し、その赤い瞳に向かって撃つ。が。
「マジか。人間業じゃないな……」
 弾は、赤い瞳を穿つことなく真っ二つに割れ、軌道を変える。
「アルスメラ……!」
「メルフェ。下がってろ」
 愛に満ちた瞳を向けられたアルスメラが、剣を払いこちらを睨む。
「さあ。サラセラくん。死にたくなければその研究成果、丸々こちらに渡してもらおうか」
 α特有の圧を感じて勝手に身が竦む。だけど、こんなことで屈するほど柔ではない。
「チッ。こういうのは嫌いなんだけどっ!」
 床に手をつき、魔法陣を呼び覚ます。もしものときのために用意しておいて正解だった。
「召喚魔法か。メルフェ……!」
「下がってろってか? 残念ながら、私の研究所全体が彼の攻撃可能範囲だ。さあ、悪魔よ。侵入者たちを焼き払え!」
 陣から姿を現した悪魔に命令を下す。が、悪魔がその目を開いた次の瞬間。
「ぐあっ!」
 こちらに振り返った悪魔が、私目掛けてその爪を振るった。何故……。刹那、ふいに映った赤い瞳に合点がいく。メルフェの手に握られている紫色の液体。あれは恐らく……。
「あ、気づいちゃった? そう。これは最近になってようやく完成した、相手を操る薬。悪魔にも効くなんて、ボクってほんと天才で困っちゃうよ」
 そうだ。こいつはただのか弱い少年などではない。恐ろしい薬を平気で作り上げる悪魔。他人の命を犠牲にして成り立っている彼は、もはや人間などではない。
「ボク的にはお前なんかさっさと殺したいんだけど、お前の頭には知識が詰め込まれてるからさあ、殺せないんだよ。だから、わかるだろ?」
 手に持った試験管を揺さぶりながら彼は無邪気に笑う。不味い。逃げなくては。そう思った時にはすでに遅く、操られた悪魔の腕が目の前に迫って――。
「なにをしている!」
 凛とした声と共に現れた影が、正確な太刀筋で悪魔を斬り捨てる。こんなに静かで綺麗な剣が振るえるのは、彼しかいない。
「オルヴェール……」
 今までほとんど表情を変えることのなかったアルスメラが、複雑な表情を浮かべて呟いた。しかし、オルはその顔を見ようともせずに、腰を抜かしている私に向かって手を差し伸べる。
「まさか、買い物に行っている間にこんなことになってるとは。いったいこれは何の騒ぎなんだ、サラセラ」
「それは……」
「はっ。出たな、泥棒猫! アルスメラはな、いち早くお前との番を解除して、ボクの番になりたいと言ってるんだよ! そのために、このウスノロの研究成果をボクが引き継いで、とっとと完成させようと……」
「この欲情年増が言ったことは少し事実と違う。アルスメラは薬を応用してαの抑制剤を作ろうとしている。だが勿論、私は己の研究を譲る気はない」
「はっ。どう見たってアンタの力じゃ、いつまで経っても完成しないっての!」
「言わせておけば……!」
「待て。サラセラ、やはりコイツが言う通り、薬は完成しないのか?」
「する! いや、その。完成、してみせるっていうか……」
 オルの鋭い視線にたじろぐ。その瞳を前にして嘘を吐けるほどの度胸は私にはなく。
「……ああ、そうだよ。私は無力だ。現段階では完成する手立てがない」
「そうか。……アルスメラ。ここはひとつ、取引をしようじゃないか」
「聞こう」
 感情を差っ引いたオルの瞳がアルスメラを射る。それを受けたアルスメラは、不敵な笑みを浮かべる。一見すると二人の間に漂うのは不穏な雰囲気。だが、その奥底に微かな揺らぎと甘い感情が宿っていることに私は気づいて、そっとため息を吐いた。


 それから、メルフェと私は協力して研究を進めることになった。アルシアに研究資金を負担して貰う代わりに、私の技術をメルフェと共有する。そして、共に研究を進める。それがオルの提案した“取引”だった。
 確かに資金には困っていたからありがたい。それになにより、メルフェの力。無駄に生きていない。彼の知識と技術には目を見張るものがあった。思いつかなかったことを次々と試し、研究をどんどん進めていった。が。
「やはり駄目か」
 どんなに試行錯誤しようとも、二人の番の印が取れることはなかった。
「これだけやって駄目なんて。αの抑制剤なんて夢のまた夢なんじゃないの?」
 ぼさぼさになった頭を掻きながらメルフェはコーヒーを啜る。幼い見た目に似つかわしくないそれに思わず笑うと、瞬時にメルフェがこちらを睨みつける。
「あ~。つまり、人間の本能には逆らうなってことか」
 疲れているせいで笑いのツボが可笑しくなった私は、取り繕うように台詞を吐き、にやける顔を資料で覆い隠す。
「そんなことは言ってないよ。理なんて、魔法科学の前では無意味だ。単にボクらの頑張りが足りないだけだろう」
 ため息と共に決意を吐き出すメルフェの顔を見て、ようやく笑いが収まった私はコーヒーカップに手を伸ばし、一気に飲み干す。真っ黒い液体に映った自分を見ていると、少しだけ不安な気持ちになったのだ。
「大したご長寿化け物だね。でも、アンタは自分がΩであることを受け入れてる。王子様相手に番になろうとしてる。それは、つまりアンタが理に逆らいきれていない証拠だろう?」
 人間の寿命をとうに超えてしまった目の前の化け物でさえ、抗いきれないとするのなら、果たして私たちに薬を作る術はあるのだろうか。
「ああ。ボクだってびっくりさ。そりゃあ若いうちは惚れた腫れたの大騒ぎもしてたさ。でも、最近は流石に若さを吸いとる以外では、極力大人しくしてたんだけど。まさか今になって本気で番になりたい相手が存在するなんてね。アルスメラは優秀な男だ。それなのに、他のαとは違ってΩを見下すことはない。一緒にいて惚れない訳がないだろ?」
 肩を竦めたメルフェは、やはり瑞々しい少年のような肌をしていた。完璧な若さを手に入れた彼も、運命を手に入れることはできなかった。なんて皮肉なのだろう。いや、きっと彼が本気を出せば、運命すらも曲げられたはずなのに。何故……。
「一つ聞きたい。何故、悪魔を操った薬を使わない? あれを使えば、きっとアルスメラは君の言いなりになるはずだ」
 そう。あれほどの悪魔を操った薬。それを彼に使えば無理やりにでも側におけるはずだ。それに彼が気づいていない訳がない。
「そうだね。ボクだって何度もやろうと思ったよ。でもさ、それで番になったって、ボクはきっと満足できないと思うんだ」
 そう言ってメルフェは、珈琲を啜った。その赤い瞳はいつもの禍々しい光を忘れ、ただ悲しそうに揺れていた。ウサギみたいだな、となんとなく思った。
「化け物のくせに、アンタはやっぱりΩを捨てきれないんだな」
「確かに。ボクはΩの欲求も薬で抑えてるわけじゃない。大昔はそういうもんだと思ってたからね。今更変えられなくて。ボクの命題は若さだもん。性のことは別にそこまで不満に思っちゃいない。やれば解決するし」
「羨ましいな。何の抵抗もなくそういうことができるなんて」
「お前は若いのに大変そうだな。雁字搦めに自分を律して。アルスメラもそうだ。お前たちは生きることを難しく考えすぎていて、時々見ているこちらが苦しくなるよ」
「じじ臭い嘆きをどうも」
 コーヒーカップについたシミを指でなぞりながら少しの間、目を閉じる。確かに、この生き方は相当苦しい。人間のくせに人間の役目から目を背けているんだ。正常に息が吸えるはずがない。だから。羨ましかった。人間になれてしまう彼らのことが。
「サラセラ、お前は賢い男だ。だから気づいているんだろ?」
「アンタが何歳ぐらいかってこと?」
「茶化すな。アルスメラとオルヴェールだ。あの子らは、きっと」
「私たちが作る薬など欲していない、ってことだろ?」
「ああ。あんな“取引”は互いが一緒にいるための口実だ。本人たちは、自分の内情に気づかないで、至って真面目に言ってるんだろうが……」
 監視の名目で何度もアルスメラはここにやってきて、オルヴェールと逢引を果たしている。初めはアルスメラを追い払ったけど、結局は意味がないことだと知り、私はとうとう諦めた。
「ダシにされちゃ面白くないけどね。あれは誰にも止められないでしょ」
「ボクはてっきり、君はオルヴェールに恋をしているんだと思ったけど」
「それはない。私たちは苦楽を共にした戦友みたいなものだ。そんな安っぽい絆と一緒にされたくないね」
「恋が安っぽいと思ってるなんて、如何にも君らしいや」
「心配しなくとも、アルスメラにご執心だった君よりはダメージがないので。というか、君はオルに復讐を企んでいたりしないだろうな?」
「ん~。それがさ。不思議と憎しみとか湧いてこなくてさ。何でだと思う?」
「え?」
 真っすぐぶつけられた質問に首を捻る。確かに大人しくしているな、とは思っていた。でも、内心ではきっと何かを企んでいるのだろうと思っていた。が、どうやら本当にそう言った気持ちがないらしく、その顔つきはすっきりとしている。
「わかった?」
「……わからない。君のような色欲年増が欲望を抑えられるとは思えない」
「相変わらず失礼な言い方をするよね、サラセラは。でも、まあいいや。教えてあげる」
「あ、待て……」
 顔を近づけてきたメルフェに、一つの説がふいに浮かぶ。まさか、私のことが好きになったからって言うんじゃ――。
「だってさ、サラセラと研究すんの楽しくて。アルスメラのこと、正直忘れてた」
「……は?」
 私のすぐ後ろにある薬品を取ったメルフェは、涼しい顔をしてそう言った。
「ぷ。アホ面。もしかして、キスされるかと思った?」
「な……。だ、だって、いや、これは……」
 熱くなった頬を押さえながら、コーヒーカップに口をつける。が、とっくに飲み干してしまったので、勿論喉は潤わない。
「いや……。童貞はこれだから……。ほんとにハマりそうになるから、それやめてね?」
「うるさいな! というか、お前みたいなのが性欲枯れたなんて、信じられるかってんだ!」
「かもね。ボクだって信じられないもん。でもさ。Ωであることを忘れるのもいいのかもって思っちゃったんだよ。研究楽しいし。だからさ、抑制剤、ボクにも頂戴ね」
「……研究進められるんなら、私は万々歳だが」
「じゃ、いいじゃん。仲良く研究しよ?」
「間違っても仲良くするな」
「ほんと、君ってば揶揄い甲斐があるなあ」
「新しいおもちゃを見つけたみたいな顔やめろ」
「だって、もうアルスメラでは遊べないし?」
「本当に未練が無さそうでなにより」
「安心してよ。ボクはあの二人を引き裂こうなんて、もう思っちゃいないよ。アルスメラは今日もボクの顔も見ずにあっちに入り浸ってるし。全く。仕事熱心なボクを見習ってほしいよ」
 何か憎まれ口を叩いてやろうとも思ったが、実際にメルフェは研究熱心なので何も言えなかった。そんな彼のことを次第に信用してしまっていることも、決して口にはしないけれど。



「オルヴェール。今日も君は麗しい」
 サラセラの代わりに薬屋で店番をしていたところに現れたのは言わずもがな。一輪の花を手慣れた手つきでこちらに寄越したアルスメラがまるで舞台俳優のような笑顔を見せる。
「また来たのか? 研究なら進んでいないぞ?」
「いや。今日は君の顔を見に来たんだよ」
「俺じゃなくニフェアの顔色を、だろ?」
 薔薇の花を渋々受け取り、既に数本が差してある花瓶に突っ込む。何度も持ってくるなと釘を刺したのだが、とうとうこちらが折れてしまい、今はもう拒否する気力すら起こらない。
「はは、まあね。顔色窺われてんのは僕の方だけどね」
 軽やかに笑う目の前の王子様は、あれ以来裏で色々と手を回し、わが国に圧を掛けていった。
「お前が掛けた圧力のせいで、ウチのお偉い方はすっかり大人しくなったな」
「いいことでしょ?」
「まあな」
 正直、ニフェアの貴族たちは根本から腐っていた。それを彼が正してくれようとしているのもわかる。いずれ彼がこの領地を制圧するであろうこともわかっていた。俺を含めた国民たちはそれを望んでいる節さえある。だが、変わっていくことが怖くないと言えば嘘になる。
「大丈夫。責任は全部僕が取ってあげる」
 囁いた彼が、俺のうなじを優しく撫でる。そこには未だ番の証である痣がくっきりと残っている。
「馬鹿。アルスメラ一人に背負わせはしないさ」
 彼の手を取り、手の甲に唇を押し当てる。別に、忠誠を誓うわけじゃないけど、彼に手を貸すことがこの国を良くするための最善策だ。
「あ~。それは、プロポーズと取っていいのか……?」
「そんなわけあるか。騎士としてお前に力を貸してやると言っているんだ」
「……なるほど」
 案の定勘違いしたアルスメラが、がっくりと肩を落とす。その様子が少しだけ面白くて、心が跳ねる。
「そんなに俺に執心するな。お前には相手なんて山ほどいるんだろう?」
「あのね。こんな印つけといて、オルヴェール以上に愛せる相手がいると思ってるのか?」
「まあ、いないんだろうな。“運命の番”ってやつだもんな」
「わかってるんなら、あんまり煽るな。僕らにはやらなきゃいけないことがまだ山ほど残ってるんだから」
 そう言って彼は、おもむろに取り出した箱から指輪を取り出し、俺の指にはめた。
「……これは?」
「別に。特に意味なんてないが。なんというか。あ~、協力者の証だ」
 珍しく頬を染めてそっぽを向いた彼の指に、同じ指輪がはめてあるのに気づく。
「それさ、俺にとっては裏切者のいい目印だろ」
「どうせ上からは目をつけられてるじゃん?」
「まあ、君がここに通ってるから全然手出ししてこないけどね」
「もう少ししたら全部片づける。そしたら、メルフェとサラセラも呼んで、僕の城で暮らそう」
「それはプロポーズと取っていいのか?」
「勿論。そういうつもりで言っている」
「……あのな、俺はそんな運命に屈するつもりはないぞ?」
「うん。それでも。覚悟はしといて? 絶対に君を射止めてみせるから」
 自信満々に微笑んだ彼が俺の手を取り、指輪に軽く口づける。射止めるも何も、印がついた時点で心はとっくに動かされているのだが、彼のアピールを躱して己の心臓を落ち着かせる。が、視線を逸らした先にある薔薇の花に頭を抱える。最近じゃ、あれを見る度に彼のことが思い出されて仕方がない。一体あと何本分耐えられるだろうか。
「DV野郎は御免なんだが?」
「それはほんと悪かったって。もう絶対にオルヴェールを傷つけたりしないから」
 良い雰囲気に水を差した俺に、アルスメラは平謝りする。あの時つけられた傷は、サラセラの薬と彼の治癒魔法のおかげですっかり治っていた。残ってるのはうなじの痣ぐらいだ。
「でも、ロミオとジュリエットは結ばれない」
「もうすぐ敵同士じゃなくする予定なんで、ご安心を」
「君はαとしての運命に従うつもりか?」
「僕は君が発情してなくても、君に欲情するんだよね」
「それは番になったからだろ」
「じゃあさ、やっぱり薬の完成を待つしかないね」
「ああ。これさえ解除すれば、きっと君の目も覚める」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、今の僕は君を愛したくて仕方がないんだ。許してくれ」
「馬鹿だな。本当に」
 窓から入ってきた風が、甘い薔薇の匂いを辺りに漂わせる。これが百本までいったら、きっとすごく甘い匂いになるのだろうか。なんて。
「オルヴェール?」
 戸惑う彼の指輪にそっと口づけを落とす。それだけで、うなじが焼けつくように熱くなる。
「薔薇、なるべくたくさん持って来い。こちとら耐えられそうにないんだ」
「なんだ、馬鹿なのはオルヴェールもか」
「一緒にするな」
「一緒になるんだろ?」
「寒気がする」
「それは大変だ。温めてやろう」
 楽しそうに笑うアルスメラに、つられて頬が緩くなる。案外、取引なんて意味がなかったのかもしれない。そう思うほどに、俺たちはすっかり馬鹿正直になっていた。
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