アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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111~120

(120)攻め×攻め 夏休み編

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(76)「攻め×攻め」の番外編。本編から数か月後の夏休みの話。
 夏休みの間、会えないのは嫌だと押しかけた紫音。烈花はそれを拒否するが――。
 付き合い始めて初めての夏。互いの過去が少しだけわかったり、烈花が酒弱いのわかったりする回。酒弱受好定期。あまりエロくないイチャ回。
 敬語とタメ語、苗字と名前ごちゃ混ぜ距離感が好きです……!

秋霜 烈花(あきじも れっか):東秀学院教師。バリタチだったが紫音に抱かれ、なんやかんやで付き合うことに。
山家 紫音(やまいえ しおん):小晴の幼馴染の元番犬。
陽寄 小晴(ひより こはる):かわいこちゃん。紫音と幼馴染。三久と付き合っている。
夏伏 三久(なつふし みく):保険医。烈花と腐れ縁の元セフレ。
ー----------
 終業式の日の午後。仕事を終え、自宅アパートに着いたオレは思い切り顔を顰めた。
「あ、先生。お疲れ様」
「うわ、山家……。なんで居る……?」
 部屋の前で座り込んでいた紫音が、オレを見るなり立ち上がり、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべて手を振る。そのすぐ横には、何故だかボストンバッグが置かれていて……。
「嫌な予感がするんだが……?」
「ご明察。と、いうわけで。今日から夏休みいっぱいお世話になりますね、先生」
「……は?」
 陽寄とオレにしか見せないとびきりの笑顔でそう言うと、紫音は勝手にオレの手から鍵を奪い、ドアを開ける。
「だって。夏休み中、先生と会えないなんてあり得ないですから」
「いや、だからって……。あ、こら。勝手に入ろうとするな! というか、どうやって住所……!」
「ああ。夏伏先生に聞きました。随分と仲の良いご様子だったので、知ってるかなって」
「三久のやつ……」
 せっかく教えないようにしてたのに……。
「酷いですよね。俺は先生の恋人なのに。全然家に招いて貰えない」
「そりゃ、山家に教えたら……」
「こうやって押しかけられる。だから教えてくれなかったんですよね?」
「わかってるじゃねーか!」
 部屋に入られないようにドアの前に立ち塞がりつつ、ご近所迷惑にならない程度に抑えた声量でツッコミを入れる。
「だって……。俺、全然アンタの事知らない……。烈花のこと、恋人としてもっと知りたいのに……」
 項垂れた紫音の頭に、子犬の垂れ下がった耳の幻覚を見て、首を振る。
「う……。でも、オレだってそういう気分じゃないときぐらい……」
「俺、別にそういうつもりで来たわけじゃないのにな……。ただ、烈花と夏休みを過ごしたいだけなんだけどな……」
「うっ……」
 純粋無垢な(に見える)瞳に見つめられ、思わず半歩下がる。
 馬鹿、騙されるな。コイツはオレがそういう態度に弱いと知って、わざとやってるんだから。だから……。
「そう言いつつ、絶対そういう流れになるから……。その、駄目だ、帰れ! シッシッ! ハウスだ馬鹿犬!」
 手を振って追い払おうとするオレの態度に、子犬の皮を脱ぎ捨てた狂犬が意地の悪い笑みを見せる。
「自分がヤリたい時には俺の家に来て甘えるのに?」
「ぐっ……。で、でも、お前だってやめろって言うのに学校で盛るだろーが! それで充分だろ!」
「だから、夏休みはそれができないから困ってんでしょ?」
「いや、オレは夏休みでも休みじゃないから学校にいるし……」
「俺は、学校でヤるのをやめるいい機会だって言ってるんですけど。流石にリスクデカいし、やった気がしないし……」
 確かに学校で何度も致すのは、いくらウチがそういう学校でも問題かもしれない。
「いや待て。それは、お前が学校で盛るのをやめればいい話じゃ……」
「先生。まさか、俺だけ我慢しろなんて言いませんよね?」
 笑顔のまま冷たい視線を突き刺してくる紫音に、また半歩下がる。
「いや、じゃあこうしよう。お前がヤりたいときは電話しろ。オレがお前の家に行ってやる。それでいいだろう?」
「そう連絡しても、疲れてるだのめんどくさいだの理由を捏ねて来てくれなかったのは誰でしたっけ……?」
「うぐ……」
 そう言われてもう半歩下がる。確かに言った。何度か言った。
「いや、だって……。それは、ほら。お前ん家、遠いから……。仕事終わってから行くのはしんどいってか……。休日はお前ん家に行くんだから、いいかなって……」
「だからこうして、アンタがしんどくないように泊まり込もうとしてるんだろ?」
「なんでそうなる!」
「夏休みなんだから、それくらいいいだろ?!」
 睨み合ってから、すぐに面倒くさくなって目を逸らす。
「それじゃあ、オレも夏休みはお前ん家に行くの控えるから。それでお相子だろ?」
「……夏伏先生と浮気する気ですか?」
「ッ……は?」
 ぞくり、とするような声音を聞いて、地雷を踏んでしまったことに気づく。
「聞きましたよ。セフレなんですってね。結局先生は俺じゃなくてもいいんだ」
「ま、待て、そんなこと言ってない! それに、三久とはもう何にもないというか――!」
 慌てて取り繕おうとしたところで、階段を上る音が聞こえてくる。
「まずい、誰か来た。と、とにかく、話は中で……」
 小声で囁き、紫音の背中を押す。
「わかりました」
 素直に頷いた彼は、バッグを持ち上げ、促されるまま敷居を跨ぐ。
「っと。あ、待て。部屋に上げるとは言ってない。話は玄関で……」
「な~んだ。やっぱ部屋には入れてくれないんだ」
 靴を脱ぎ、部屋に上がり込もうとした紫音の腕を引くと、彼はにこりと微笑み、ゆっくりとバッグを玄関に降ろす。
「えっと。その。散らかってるから……」
 言い訳しても無駄だとわかっていながら、愛想よく紫音に向かって微笑み返す。
「はは。可愛い顔。で? そんな顔しとけば誤魔化せるとでも?」
「え、っと……」
 逆効果だったことに冷や汗を掻きつつ、目を泳がせる。
「散らかってる? アンタはそんなの気にする人じゃないだろ?」
「……」
 失礼だな、という言葉を飲み込み、押し黙る。これ以上何を言っても彼を怒らせてしまうだけだろう。
「は~。先生は俺がどんな気持ちで来たかわかってるんですか?」
「ヤリたいんだったら、その、どっかホテルにでも……」
「こっから一番近いとこでも、俺の家より遠いんじゃないですか?」
「……」
「そんなに俺を入れたくない? 俺は結局セフレ以下ってことですか?」
「そうじゃないけど……」
「けど?」
「う。なんて、いうか……」
 注がれた視線に耐え切れなくなって、ネクタイを握りしめる。
「言うまで帰りませんよ?」
「あ~。そのだな……」
「言わないとココで襲いますよ?」
「な、なんでそうなる!」
「ほら早く。本気でやっちゃいますよ? さん~にぃ~い~ち」
「クソ! だーもう! あのなあ! これはお前に限ったことじゃないんだよ!」
 まんまと自棄っぱちに叫んでから、頭をぐしゃぐしゃと掻く。だって、オレに選択肢なんかないじゃないか……! クソったれめ!
「どういうことです?」
「だから、その……。あ~、今までだってこの部屋に誰かを入れたことなんかないんだよ……。ただ単に人を入れたくないだけってやつ……?」
「は? えっと。でも、夏伏先生は住所知って……」
「住所知ってるだけ、だろ? てか東秀学院の教師はみんな知ってる。住所と連絡先一覧がみんなに配られてんの」
「は? なにその個人情報駄々洩れ一覧」
「連絡とか年賀状とか寄越すのに便利なんだろ。ったく。大方、三久も面白がって思わせぶりなこと言ったんだろ。困ったやつだよ」
「え、じゃあ本当に……?」
「は~。オレみたいなのが、変に潔癖って引くだろ? だから言いたくなかったんだよ。面倒くさいだろ?」
「いや、なんていうか……。まあ、意外ですけど……。いや、アンタにそういうとこあるの、なんとなく察してたけど……」
 口元を覆いながらごにょごにょと話す紫音を見て、少しだけ後悔する。気を悪くしただろうか。流石に気持ち悪いと思われただろうか。
「……って、山家?」
「ふふ。あ、はは……」
「え、っと……? もしかして、笑ってんのか?」
「あ、ごめんなさい。でも俺、嬉しくて……」
「嬉しい? 何がだ?」
「なんていうか……。アンタの領域に入った人間、いないんだなって思って……」
「……処女厨みたいなこと言うな、気持ち悪い」
「いや、男ならわかるでしょ?!」
「わからなくはないが……。オレだぞ? てか、そもそもセフレにプライベートまで入られたくないってだけだし……」
「じゃあ、やっぱり俺もセフレ扱いなんだ……」
 せっかく元の調子に戻った紫音から、再び表情が消える。
「や、そうじゃなくて! なんていうか、だから、誰も部屋に入れたことないから、決心がつかないだけっていうか……。いきなりは困るっていうか……」
 慌てて言い訳をしてみたが、どうにも処女臭い台詞になってしまい、頬が変に熱くなる。
「……そっか。じゃあ、俺、帰った方がいいですよね?」
 てっきり揶揄ってくると思ったが、紫音は、わざとらしく肩を落とし、チラチラとこちらの反応を伺ってくる。
「そう言ってるだろ」
 クーン、と項垂れる子犬の幻をすっぱりと切り捨てる。が、子犬の皮を被った狂犬は、そんなことでは怯まない。
「はあ、せっかく来たのに、結局俺はセフレと同等かあ……。悲しいなあ、寂しいなあ……。暑い中、先生が帰ってくるのをずっと待ってたんだけどなあ……。また暑い中、帰らなきゃいけないのかあ……。はぁ……。喉が渇いたなあ……。お腹も空いちゃったなあ……」
「だー。クソ。わかったよ、飯食うぐらいなら……、まあ……」
「ありがとうございます!」
 結局押されて折れた瞬間、泣いていた子犬はすぐに笑い、喜びの抱擁をくれる。
「ほんと、お前特別だからな?」
「はいっ!」
 暑いのにべたべたとくっつき、しっぽを振る子犬の髪を撫でてやると、弾けんばかりの笑顔を食らい、不本意ながらも癒されてしまう。
 あ~、今のコイツを抱いたら、どんなに可愛く鳴くのだろうか。
 抱く側を諦めきれないオレは、理想の紫音ちゃんを想像しながら部屋に入る。
「うわ。先生の部屋、意外と散らかってるし……。ん~。冷蔵庫、冷凍食品以外なんもないんですね」
「って、おい! 人が妄想……いや、ぼーっとしてる隙に、勝手に見るな!」
「あはは。いや~。つい。……でも、本当に浮気の痕跡無くて安心しました」
 やんわりと微笑んだ紫音に、完全に我に返る。油断するな。コイツは狂犬なんだから。
「だから、人は入れてないって言ったろ。それよりお前、これ食ったら帰れよ? オレはお前らと違って明日も学校なんだからさ」
 手洗いうがいを済ませてから、冷凍庫から冷凍ドリアを取り出し、レンジに入れる。
「もしかして、毎日冷凍食品食べてるんですか?」
「ん? これ嫌いか? カップ麺もあるけど?」
「そういうことじゃなく……。普段からこんなんばっか食ってるのかって聞いてるんです」
「いや、流石に飽きるから、弁当買ったりもしてるが?」
「そういうことでもなく……!」
「ああ、食生活的にってことか? お前がンなこと気にするとはな」
「アンタが気にしな過ぎでしょ……。てか、うっわ。ビール買い過ぎ……!」
 冷蔵庫の下の段を引き出してから紫音が呻く。その横から缶を一つ取り出して、軽快な音を立ててプルタブを上げる。
「ん。一学期乗り切った祝いにな。お前も飲む?」
「飲む訳ないでしょ!」
 ビールを掲げて紫音に問うが、マジレスされた上にキレられる。
「はは。冗談だよ。子犬ちゃんは真面目だな」
 水分補給の勢いでごくごくと飲み進めると、すぐにアルコールが体を巡る。
「わっ、頭、ぐしゃぐしゃにするのやめ……!」
「なんでだよ、嬉しいだろ? 子犬ちゃん」
 紫音の髪を撫で繰り回してから、残りのビールを一気に飲み干す。
「ちょっと! 犬じゃないんですから! ほっぺた撫で回すのも駄目ですって!」
「んだよ、これでもオレ、いっつも我慢してんだからな~。お前のこと、撫で繰り回してやりたい~って衝動! ほんと、犬みたいで……。可愛いから……。んふ、流石に牙はないけどな……。あはは!」
「ひょっと! ひゃめろって! ったく。もしかしてアンタ、酔ってるんですか? 酒弱い……?」
 頬を引っ張っていた手を掴まれて、紫音にまじまじ見つめられる。
「ん~。酔ってねえよ。え~っと、そう。こんくらいで酔う訳、ないだろ……?」
 手で顔を扇ぎながら、なんとかまともな受け答えをしようと試みるが……。
「その割にほっぺが真っ赤なんですけど? やっぱ酔ってますよね?」
「酔ってない!」
「酔ってます!」
「……」「……」
 暫しの沈黙を挟み、電子レンジがピーピー、と過熱完了の合図を叫ぶ。
「これ、食う? っと、紫音、ラーメンがいいんだっけ?」
「……烈花は先にそれ、食べといて。自分でお湯、沸かすから」
「ん……」
 レンジから取り出されたドリアを受け取り、大人しく食べ始める。食べ慣れたそれをもくもくと咀嚼していると、目の前に水の注がれたコップが置かれる。
「んで。お酒、苦手なんですか?」
 沸いた湯をカップ麺に注ぎ、紫音がテーブルを挟んだ真正面に座る。
「……どうだと思う?」
「顔、真っ赤なままですよ。弱いんでしょう?」
「っあ~、クッソ。やっぱ駄目か~」
 顔を覆い、張っていた気を緩める。
 そう。お察しの通り、オレはそれなりに酒が苦手だ。今度こそ、一缶ぐらいは平気になっているだろうと思ったが……。いや、今回のは飲み方も良くなかったかもしれない……。
「なんか、意外ですね」
「うっ……。オレだって、カッコ悪いから直そうと思ってだな……」
 これでまた一つ紫音に弱みを握られてしまった。いつの日かコイツを抱くという野望のためにも、完璧でありたいのに。これではどんどんかっこいいオレが遠のいてしまう……。
「カッコ悪い? 可愛いとは思いますけど……。酒の得手不得手なんて、体質だし……」
 ラーメンの蓋を開け、麵を啜りながら紫音は呑気に首を傾げる。
「あ、でも。可愛すぎるので……、人前でお酒を飲むの、禁止にしません?」
「チッ。言われなくともオレだって、らしくない自覚あるから、人前では控えてんだよ……」
「えっ。でもアンタ、バーとか行ってたって……」
「あ~。マスターに酒苦手ってバレてからは、ずっとノンアルで作ってもらってたからな……」
 言ってて情けない気持ちになる。オレがこの件でどれだけ気を遣ってきたことか……。
「う~ん。新たなるギャップ、可愛い……」
「うっさいな。だから、慣れるためにも、こうして一人隠れて飲んでるって訳で……」
「それ、俺の前では飲んでいいんですか?」
「えっ?」
 紫音の質問に一瞬詰まってから、回らない頭で考える。
「いや、そもそも、お前がオレの時間を勝手に邪魔したんだろーが。そりゃ、あわよくばカッコつけようとは思ってたけど……。まぁ、どーせお前には色々と情けないとこ見られてるんだし、今更っていうか……? 緊張を誤魔化す方が優先っていうか……?」
 あれ? オレなんか余計なこと言ってないか……?
「緊張? 可愛いこと言いますね」
「や、お前が考えてるような乙女チックなことじゃないっての。だから、部屋に人を上げてるのが、なんかもうソワソワするってか……。落ち着かないっていうか……」
「今でも落ち着かない?」
「はぁ~。落ち着くわけないだろ。部屋に入れたのだって、ほんと、お前だけなんだからな。わかってんのか? 特別待遇大盤振る舞いだっての!」
「そうですね。ありがたいな。俺が特別だって認めてくれたんですもんね?」
「違ッ……わない、けど……。お前、もうマジでさっさと食って帰れ……!」
「照れてるんですか? 可愛い」
「だ~! 可愛い可愛い言うのやめろ! 頭がバグりそうだ!」
 ドリアを完食し、手持無沙汰になったところで、冷蔵庫を開けてビールを取り出す。
「あれ。自覚無いんですか? 先生はとっても可愛いんですよ?」
「だ~か~ら、オレはカッコいいんであって、可愛いくはないんだって! 可愛いってのは、陽寄のような生き物に使う言葉であって……」
 ぷしゅり、とプルタブを押し上げ、美味しさのわからないそれを無理やり口に流し込む。
「勿論、小晴は超絶可愛い天使であることに変わりはないですけどね。それとは別に、烈花は俺の可愛い黒猫ちゃんなんで……」
「それやめろ! 寒気がするんだよ! 言っとくが、お前の趣味が異常なんだからな?!」
「失礼だな~。俺の恋人の悪口言うの、やめて貰えます?」
「歯が浮く台詞やめろ! オレはお前の趣味を否定してんだよ!」
「だから、それが間接的に貴方を否定してるんじゃないですか」
「あのな、オレは東秀学院新聞によると、抱かれたい男ランキング三年連続一位に輝く男なんだよ! わかるか? “抱きたいじゃなく”、“抱かれたい”、だぞ?!」
「ええ。わかります。秋霜先生はかっこいいですから」
「ふふん。そうだろう? じゃあ、そろそろお前が抱かれる側にだな……」
「でも、俺は先生の可愛さを否定するつもりはありません。そして、貴方がその可愛さを他の誰かに知られるような愚行を犯さないことを祈ってます」
「……こわ」
「先生を抱きたいなんて抜かす輩がいたら、問答無用で殺します。言ってください」
「はは。お前が言うと冗談に聞こえねーや」
「冗談じゃあないですからね」
「っスね……」
 紫音の圧に押され、言葉を濁すためにビールを口に含む。それを数回繰り返すうちに、なんだか頭がぐらぐらふわふわし出して……。

「先生、大丈夫ですか? ベッドまで歩けます?」
「んう……。あ、オレ、寝てた……? ん、やば、風呂……、入らないと……」
 肩を揺すられて、目を擦る。いつの間にか寝てしまっていたらしい。時計を見ると、既に二十三時を回っていて……。
「その状態じゃ無理ですよ」
「んじゃ、紫音が入れてくれ……」
「は?」
 目を開いて驚く紫音が面白くて、その胸に身を預ける。
「だって、朝、ぜって~早起きできないもん。だから、入っとかなきゃじゃん……?」
「いや、でもほら、俺、帰らなきゃですし……?」
 瞼がくっつくのを堪えながら、紫音が納得する答えを探す。
「ん~、じゃ、風呂入れてくれんなら、泊めてやってもい~よ?」
「ま、マジですか……?」
「あ、でも、エロいのは無しだぞ~?」
 ふにゃふにゃと笑ってから、紫音の頬を数回突く。
「ホント、無理……。アルコールの力、怖い……。理性、がんばれ、俺の理性、ファイト……」
「んふふ、なんだそれ。おもしろ~」
「ぐ……。お風呂、入れればいいんですね?」
「そー言ってる」
「も~! ホント、絶対俺以外の人間の前で酒飲まないでくださいよ?!」
「りょ~かい~」
 適当に頷いてから、紫音の髪をわしゃわしゃ撫でる。
「ちょっと!」
「はは、子犬ちゃん可愛い~。な~、一回でいいから抱かせてくれよ~」
「嫌です! ほら、さっさとお風呂行きますよ!」
「ケ~チ!」
 勢いよく立ち上がると、すぐに眩暈がして紫音に抱き留められる。
「全く。性質の悪い酔っ払いだ」


「ん~。きもち~。あったけ~」
「浴槽、洗った甲斐がありましたよ……」
 湯船に浸かりながら、その心地よさに息を吐く。
「普段、浸かんないからさ、感動してる……。男二人は流石に狭いけどな~。あはは!」
「あははじゃないんですよ。こっちは色々堪えてるんですから……。その、あんまり動かないでもらえます?!」
「え~? 気持ちよくないか~?」
「それ、わざと言ってるんですか? ねえ!」
「なに怒ってんだよ。こわ。ったく、ほら。ちゃんとオレの椅子しろって」
「うぐ……」
「ん~。これ、なんかいいな……」
 紫音の胸板に背をつけて、その腕を自分の肩に回させる。後ろから抱きしめられたことにより、彼の鼓動が傍で聞こえてむず痒い。
「ふふ。それに、人に髪やら背中やらを洗ってもらうの、ヤバい。癖になりそ~だ」
「でも、どーせアンタはこういうの、ラブホでしょっちゅうやってたんでしょ?」
「は~? 何でだ?」
「何でって……。ああ、される側じゃなくてする側だったってことですか?」
「や、オレ、フツーは他人と風呂なんか入んないし~。そんなサービス、このオレがするわけないだろ?」
「え、それ本当ですか?」
「嘘ついてなんになるんだって」
「……アンタ、本当に変なところで潔癖ですよね」
「オレが潔癖~? はは、違う違う。他人に踏み込まれんのがめんどいし、しんどいだけだってば」
「……俺はいいんですか?」
「言っただろ~、お前はもうなんか、いいやって~」
 ケタケタと笑ってから、お湯を掬う。透明でいて無臭のそれを手から零し、今度入浴剤を買って来ようかな、なんてぼんやりと考える。
「なんかって……」
「んだよ、もっと喜べよな~。大体、お前はさあ、オレの恋人第一号なんだからさあ」
「……は?!」
 突然真後ろで叫ぶ紫音に、思わず耳を塞ぎ、視線を送る。
「んだよ。いきなり……」
「聞いてない。どういうことですか? え?」
「どうって……?」
「だから、恋人第一号って……。いや、アンタに恋人がいなかった訳ないしな……。今付き合ってるのが一人とか、そういう……」
「第一号は第一号だっての~。オレ、セフレしか作ったことねーもん。だから、恋人って呼べる関係は、お前が初めてっていうか……?」
「いや、なんですかそれ……。俺だけ特別扱い……?」
「んわ。はは、くすぐったい……!」
 オレの腹に手を回した紫音が、肩口に顔を埋めてもぞもぞ喋る。
「嬉しい……。俺、烈花の一番なんだ……。ちゃんと恋人にしてくれるの、俺だけなんだ……」
「ん。だって、紫音とはなんか、恋人でいたかったから……」
「は~。可愛い……。さっきから何? 俺のコト試してるんですか……?」
「試す……? なんで……?」
 ふわふわする頭で考えようとしたけど、よくわかんなくなって首を傾げる。
「……ありがとう、アルコール」
「なんだよ、オレが酔ってるって言いたいのかよ」
「んんん……! は~。やばい。可愛い怒り方しないでくださいよ、ほんと……。愛おしい……。俺、多分、今が一番幸せかも……」
「ふっ、大袈裟だな。でもまあ、オレも、そうかも……?」
「ッ~! 急なデレ、やめてください……。死ぬ……」
 酒やら風呂やら紫音の体温と言葉やらで逆上せそうになる気持ちが振り切れて、ふと幸せのその先が頭を過る。
「ま、でも。お前との関係も、どーせすぐ駄目になるだろーけどさ……」
 突然襲ってくる不安に為す術もなく、体を縮めて口をお湯に沈め、目を瞑る。その時が来るのが怖いだなんて。我ながら随分と根が暗い。
「……は?」
 急に低くなった紫音の声が、ぼそりと呟いたオレの言葉を追いかける。
「え?」
 あからさまに機嫌の悪くなった紫音に、びくりと体が強張る。
「なんで、いきなりそんなこと言うんですか?」
「は、え? あれ、オレ、なんか余計なコト、喋ってる……?」
「もしかして、今の俺に不満があるとかですか?」
「え、いや。えっと。不満とか、そういうんじゃなくて……」
 これは多分、いや絶対、紫音を怒らせてしまったやつだ……。どうにか誤解を解かなければ、と焦る割に、相変わらず頭は上手く動かない。
「じゃあ、どうして。なんですぐ駄目になるなんて――」
「ん、ちょっと待て、し、おん、なんか、熱い……。逆上せた、かも……。も、上がんないと……」
 紫音に嫌われるのは嫌だ……。けど、どうしても、頭が、ぼーっとして……。熱い……。あ、これ、駄目なやつだ……。
「え、あ、烈花――?!」



「先生、起きてくださいってば! 遅刻しちゃいますよ?」
「ッ! ヤバい! うお、痛って!」
 勢いよく起き上がると、頭が割れるような痛みを訴える。いつの間に朝になったのだろうか。
「スポドリ買ってきましたから。後で飲んでください」
「え、助かる」
 冷蔵庫からペットボトルを取り出した紫音が、それを通勤用鞄の中に入れる。
「はい、これ着替え」
「あ、ありがとう」
 流れるように手渡されたシャツを受け取り、訳も分からないままジャージを脱ぐ。……というか、いつの間に着替えたんだ、これ。
「朝食は……食べてる時間なさそうですね。これ。朝食用のパンと昼食用の弁当。持って行ってください」
「えっと。サンキュ」
 もぞもぞと着替えを済ませ、歯磨きをしながら首を傾げる。
「山家、つかぬ事を聞いてもいいか……?」
「ええ、どうぞ」
「え~と、お前なんでウチに……、や、オレが泊めたんだっけ? あれ……?」
「何でもいいじゃないですか」
「……?」
「とにかく今は急いだ方がいいですよ?」
 紫音の態度に違和感を覚えたが、支度を済ませて時計を見てから、それどころではないことに気づく。
「お前、早く家に帰れよ、鍵は、えっと……」
「先生、本当に遅刻しちゃいますよ? 心配しなくても、先生が帰ってくるまではここに居ますから」
「いや、でも……」
「ね?」
 弁当諸々が入った鞄を笑顔で押し付けられ、渋々鍵の捜索を中断する。
 鍵が見つかる様子もない……。不本意ではあるが、紫音の言葉に甘える以外、道はなさそうだ……。
「クソ、行ってくる! なるべく早く帰るから……!」
「いってらっしゃ~い」
 手を振る紫音に見送られながら、自室に見られてマズイ物がなかったか思い出す。
 いや、それも大事だが、昨日のことを思い出す方が……。
「痛てて……」
 記憶を辿ろうとした矢先、痛みを覚えて頭を振るう。
「こりゃ、二日酔いを治す方が先決かもしれんな……。とにかく今は学校……!」
 ため息を吐き、頭痛に顔を顰めながら走り出す。こんなことなら、見栄張って飲むんじゃなかったな……。



「うわ、愛妻弁当だ~! ヒュ~!」
「……」
 昼食時間。隣のデスクからひょっこり覗き込んできた同僚から弁当を隠す。
「番犬くん、料理も出来るんだ~。ポイント高~!」
 見覚えのない真新しい弁当箱に詰まった手作りの料理たちを見て、わざわざ夜中に買い物をして料理を作ったのかと嘆息する。
 オレは確か、酔い潰れて……。それで、一度紫音に起こされて……。確か、二十三時だったよな……? それから出かけるなんて、不用心だ……。馬鹿力持ちの狂犬だとしても、アイツは高校生なんだぞ……? それに、料理まで作るとか……。というか、オレ、いつの間に風呂入ったっけ……? んん、もしかして、一緒に入った……?
「痛って……」
 昨日の記憶が微かにチラついたところで、頭がズキリと痛む。
「えっと。やっぱ昨日はお楽しみだったんだね。ンフフ。薬、あげようか……?」
「いや、そういうんじゃねーよ! ……ねーよな……?」
 自分で言ってて不安になったが、流石にそんな記憶も痕跡もないので、紫音に失礼だと思い直して首を振る。
「てか、三久。お前またアイツに余計なこと言っただろ」
「余計なことって~?」
「住所だよ! お前のせいで押しかけられたんだからな! この悪魔め!」
「悪魔だなんて、酷いな~! むしろ、恋のキューピッドと呼んでほしいんですけど!」
「どこがだ!」
 菓子パンを頬張りながら、額の上でピースを作り、ウインクをしてみせる三久にツッコミを入れる。
「え~? 僕、ずっと応援してるじゃ~ん」
「言っとくけど、オレは未だにお前が約束すっぽかしたこと根に持ってんだからな」
「約束……? 何のことだっけ?」
「……保健室に馬鹿犬をおびき寄せて二人でふん縛る約束。忘れたとは言わせねーぞ?」
「え~っ。そんな昔のコト、根に持ってんの?! なんで~? 烈花、いつもは僕が何してもすぐ許してくれるのに~!」
「なんでって……。お前なぁ……。あのとき上手くいってりゃ、俺は抱かれる側なんて……」
 思い出してから、改めてあそこが分岐点だったと頭を痛める。もしあの日、計画通りに事が進めていたら……。
「そりゃ、約束忘れてたのは悪かったけど! い~じゃん。ネコだって! きもち~んだしさ。てか、卵焼きちょーだい!」
「誰がやるか!」
 伸びてきた手を叩き落とし、コイツに“もしも”を語っても意味がないと悟る。
 いや……。もしかしたら……。そもそも前提が間違っているかもしれない……。“もしも”なんて最初からなかったんだとしたら……?
 ふと、今まで積み重なってきた違和感が一つの答えを導き出す。
 だって三久の奴、前は「急用ができたから」と言っていたじゃないか。「約束を忘れていた」とは言ってない。この矛盾をただの言い間違いだと片付けるのはどうにも納得がいかない。
 それに、いくら非常識なコイツでも、自分に非があるときは必ずコーヒーを奢ってくれる。それが習慣、暗黙の了解になっているはずなのに、この件ではそれがなかった。つまり……。
「え~! 欲しいよ~! 他人の彼氏が作った愛情たっぷりの卵焼き~!」
 考え込んでいると、三久が叩かれた手を擦りながら恨みがましい声で訴える。
「お前なぁ……。ンなこと言ってると、陽寄にチクるぞ?」
「エッ?! えと、なんで……?!」
 陽寄の名を口にした途端、あからさまに動揺し始めた三久に笑いを噛み殺す。
「やっぱりそうか。お前の好きそうなタイプだもんな、小晴ちゃん。まさかお前の性癖に対応できるヤベー奴だったとは驚きだが。……で? なんで可愛い小晴ちゃんは、オレたちを無理やりくっつけようと画策してたのかな?」
「えっと……。ナンノコトデショウカネェ~」
 睨まれた三久は視線を彷徨わせて惚けるが、それは小晴ちゃん小悪魔説を肯定したのと同義だ。
「陽寄はお前と付き合うために番犬を自分から引き剝がしたかった……?」
「……いや、僕の為っていうのは言い過ぎっていうか~」
「ふ~ん?」
 誤魔化すのは無理だと早々に悟ったらしい三久が、ここぞと惚気る構えに入る。
「いや~、だってさ。小晴くんはほら、抱きたい側だったみたいでさ~。それなのに番犬くんが周りをワンワンパトロールしてたら、僕みたいな可愛い子がハントできないでしょ?」
「僕みたいな可愛い子、ね」
「小晴くんはそう言ってくれるもん! それにそれに――!」
「ハイハイ。惚気ご馳走様」
「あっ、酷い! カマ掛けた癖に僕の惚気は受け流すなんて! 烈花のイジワル! バカ! ヒトデナシ!」
 もっと惚気るつもりだったらしい三久が可愛い雑言を並べ立てるが、オレは涼しい顔で卵焼きを口に運ぶ。
 うわ、美味い……。ん、こっちのハンバーグもソースがちゃんと作ってあって……。
「わ~ん! 聞いてないし~! 烈花のアクマ~!」
「どっちが! あのなぁ、オレらは相当陽寄の悪だくみに身をやつしたはずだ。……陰で色々とやってくれたんだろ? 話に乗ったお前も重罪なんだからな?」
「え、え~? ナンノコト~?」
 再び三久の目線が泳ぐ。これで三久の罪も確定した。
 三久と陽寄が繋がっていたのだとしたら、今までの偶然にも大方説明がつく。三久が愛しの彼氏に協力しない訳がないしな。
「全く、してやられた。こうして何事もなく友達やってんだから、感謝してほしいぐらいだ」
「ぐぅ~。勘のいいイケメンめ……。知った上で友達でいてくれるの、ほんと好き……」
「褒めてくれてどーも。そういう訳だから、蹴られたくなけりゃ小晴ちゃんのことだけ見てな」
「むむぅ……。烈花の真面目ェ……。愛妻家ァ……」
 恨み節を聞き流し、野菜炒めを口に運ぶ。ん、これも味がしっかりついてて美味いな……。アイツ、もしかしなくても料理上手かよ……。
「マジでポイント高いな」
 ぼそりと呟いてから、はっとする。いや、悠長に惚気てる場合じゃなくて……。昨日のことを思い出さなければ……。なんか、どうにもよくないことを言った気がするんだよな……。



「あ、先生。おかえりなさい!」
 鍵のかかっていないドアを開け、重い足取りで部屋に上がると、当然のように紫音がオレを出迎える。
「えっと、山家。帰ってきて早々で悪いんだが、」
「お腹空いたでしょう?」
「えっ、と……」
 言葉を途中で遮ってきた紫音に押されてはいけないと、腹に力を入れる。
「悪いけど、帰れと言って……」
「今日は先生の大好きなカレーを作ってみました~! 夏野菜たっぷり入ってますよ~!」
「は? なんでカレーが好きだって知ってるんだ?」
「夏伏先生から聞きました。大学のときにいっつも学食でカレー食べてたって。本当に仲がいいんですね」
「お前、もしかして、三久に嫉妬してるのか?」
 不貞腐れた顔で棘のある声を出す紫音に、目を見開く。
「そりゃあするでしょ。正直、アンタって俺といるより夏伏先生といる方が気楽そうだし……。俺は所詮子どもだし……」
「なんだそれ。オレの彼氏はお前だし、三久とはとっくにそういう関係は止めてるって言ったろ?」
「……まあ、取りあえず続きは食べながら話しません? 折角温めたカレーが冷めちゃいますから、ね?」
「いや、でも……。あれだ、お前、そろそろ家に帰らないとさ……」
「ね?」
「……うぐ、食べたらちゃんと帰れよ?」
 紫音の圧と、帰ってきた時から漂っていたカレーの良い匂いと、作ってもらったのにすぐ追い出すのは気が引けるのとで、結局折れる。それが良くない結果を招くとわかっていても、空腹には叶わなかった。


「はい、ビールどうぞ」
「いや、今日は要らな……」
 冷蔵庫から取り出されたビールを押し返そうとするが、紫音はそれを拒否して目の前にコップを置く。
「でも、今日も飲むつもりだったんじゃないんですか? まだたくさん余ってるし」
「それは、そうだけど……」
「渋ってたらいつまで経っても慣れませんよ? ハイ」
「あ、こら」
 ぱっと缶を取ったかと思うと、紫音は素早くプルタブを上げ、勝手に注ぎ始める。
「さ。食べましょ。俺もお腹ペコペコです」
「お前な……」
 いただきます、と手を合わせてからカレーを口に運んだ紫音を見て口を噤む。確かに、これ以上口論しても時間が惜しいし腹が減るだけだ。
「お肉はささみにしました。先生、好きなんでしょう?」
「あ、ああ……」
 それはどこ情報だ、と聞く勇気もなく、ビールを一口飲んでカレーを掬う。
「うわ、美味い……。お前ホント料理上手いな。あ、弁当も美味かった……! 時間掛かったろ? その……、ありがとな」
「喜んで貰えてよかったです。俺、高校入る前から一人でいること多かったんで。自然と料理が上手くなっちゃって。今じゃ趣味みたいなとこあるんで、気にしないでください」
「え、高校入る前からって……。親はどうしたんだよ。その頃はまだ両親と同居してたんじゃ……?」
 紫音の両親は、彼の高校入学をきっかけに仕事のため、揃って海外へ渡ったと聞いていたが……。
「あの人たち、俺が小学生の頃からずっと仕事ばっかりなんだよね。だから、一緒に暮らしてるって言っても、ほぼ一人ぼっちだったし」
「え、っと。それは、辛かったよな……」
「いえ、別に。確かに昔は寂しかったですけど……。今じゃ、あんな仕事馬鹿両親と暮らす方が嫌ですよ」
「そういうものなのか……」
「ええ。それに、俺には小晴が居たんで。そこまで寂しくなかったし」
「……」
 なんて答えればいいのかわからず、ビールを口に含んでやり過ごす。
「小晴のとこは早くに父親を亡くしてるみたいで。その分、母親も仕事が忙しかったみたいです。だから、小晴もその頃から一人きりが多くて。同じ境遇同士親近感湧いちゃって。んで、よく小晴と一緒にご飯食べたり遊んだりして……」
「一緒に居るうちに惚れてしまった、と」
「そういうことです。あんな可愛い子とずっと親しくしといて惚れない訳ないでしょう?」
「まあ、そうかもな……」
 肩を竦める紫音から目を逸らして、コップの淵をなぞる。
「お代わり、どうぞ」
「ん? ああ、ありがとう」
 有無を言わせずビールを開けた紫音に勧められて、思わずコップを差し出す。
「で。先生と夏伏先生の出会いは?」
「んぐ、え?」
 なみなみと注がれたビールを飲み込み、聞き返す。
「だって、俺も知りたいですから。先生の過去」
 コイツ、最初からそのつもりで自分の過去を明かしたな……。とはいえ、聞いてしまったからには、話さないとフェアじゃない、か。
「出会いって言っても、別にお前たち程良い関係じゃないぞ?」
「セフレですもんね」
「元、な。ええと、三久とは大学のサークルが一緒で……。その飲み会の時、お互い求めてることが一致してることを知って……。そっからつかず離れずズルズルと……」
「ふ~ん?」
「つっても、お互い都合のいい関係っていうか……。本気になったことないし……。結局は完全に満足できる訳じゃなくて……、その場しのぎの遊びっていうか……」
 紫音の視線に耐えられず、目を泳がせながら汗を拭う。カレーが辛かったせいか、酔いが回ってきたせいか……、熱くて仕方がない。
 ……一体どうしてオレがこんな言い訳をしなくてはいけないのだろうか。
「ま、過去のことをあれこれ言っても仕方ないですもんね。お互い様だし」
「はぁ? お前のはガチ惚れだろうが」
「先生こそ、やることやってる分、俺よか質が悪いっての」
「童貞の考え方やめろ」
「ふん。どうせアンタが初めてですよ~だ!」
「オレだって、好きになったの、お前が初めてなのに……。クソ、なんだよ……。オレの特別はお前しかいないってのに……」
 視界が歪みだし、慌てて目を擦る。酒のせいで、涙腺が脆くなってるな……。
「じゃあ、なんで俺との関係がすぐ駄目になるなんて言ったんですか?」
「え?」
「覚えてない? 昨日、そう零したのは貴方ですよ?」
「……そういえば……言った、かも?」
「ね、なんでそんな悲しいことを貴方は俺に突きつけるんですか? 俺のどこがいけないの? 言ってくれたら直すからさ。だから……」
「ま、待て……。落ち着け、紫音! オレ、そういう意味で言ったんじゃ……」
 オレの手を強く握る紫音の思いつめた表情を見て、ぎょっとする。
「じゃあ、どういう意味だって言うんですか?」
「……それは」
「それは?」
 ここで誤魔化すのは無しだと悟り、肩の力を抜く。常々思っていたことを酔って零してしまったオレが悪い。
「だって、さ。お前、高校生じゃん……。良い出会いなんか、これから死ぬほどあるだろうし……」
「俺が目移りするかも、って言いたいんですか?」
「ん……。だって、そうだろ……?」
 大学なんてここよりたくさんの人間と出会う。その先だって……。その中でオレより気の合う奴だっているだろうし……。そもそも、コイツは大好きな小晴ちゃんからオレに乗り換えてるわけだし……。
「俺は烈花をこんなに好きなのに?」
「お前、若いからンなこと言うんだよ……。だから……」
「だから、帰れって? 完全には許してくれないってことですか? 俺は特別じゃなかったんですか?」
「……充分過ぎるくらい特別なんだよ、オレの中じゃ。でも、それ以上は怖い」
「怖いって……」
「この部屋に、お前との思い出が染みつくのが怖いんだよ……」
「は?」
 予想通りのきょとん顔に頬を掻く。オレだってこんな女々しい理由、言いたくなかったっての。
「あ~、その。一人になった時、きっと嫌でも思い出して寂しくなる……。から、だから……」
 言っててどんどん自分が面倒臭くなる。まさかこのオレがこんなにも束縛メンヘラ女みたいな台詞ばっかり吐くことになるなんて……。馬鹿々々し過ぎる……。先のことなんか考えても無駄だし……。こんなこと言われたって、どうすることもできないだろ……。ああ、ほんと、酒なんか飲むんじゃなかった……。
「烈花は俺を見くびってる。取り敢えず、そんな可愛いこと考えてる暇ないくらい、愛してやればいいですかね」
「えっ。いや、お前、オレの話聞いてたか?」
 てっきり引かれるか茶化されるかのどちらかだと思っていたので、真面目な顔で迫った紫音に慌てて距離を取る。
「聞いてたからムカついてるんでしょ?」
「あ~。それが若いって言って……」
「ぐちゃぐちゃうるさいな。この先だって俺がアンタを離すわけないだろ!」
「ッ……」
「あ、ときめいた? その顔いいね、好き」
「ッ~! クッソ……。お前、ほんと……ッ!」
 色んな感情がせり上がってきて言葉が閊える。
 想い人に真正面からそんなこと言われて、ときめかないわけあるか馬鹿。ふざけやがって。コイツ、ほんと……。本当に……!
「はぁ……。もう、お前ホントやめろ……。オレにそういうこと、言うなよ……。マジで頭バグる……」
「烈花、可愛い」
 熱さを少しでも冷ますために頬に当てていた手を取られ、引き寄せられる。
「や、駄目だって」
 近づいてきた紫音の唇を掌で押し返し、身を捩る。
「駄目なんですか……?」
「いや、だから……。そういうの、ココでは……」
「大丈夫。烈花が寂しくなったら、すぐに飛んでくるから。だから、俺を許して?」
「っ、その顔は狡いだろ……」
「お互い様じゃないですか?」
「は? なんでだよ」
「いや、だって。顔真っ赤だし、目はうるうるだし……。俺の言葉にいちいちときめいてくれるし……」
「どわ~! いちいち説明せんでいい!」
「アンタが聞いたんでしょうが。可愛い子猫ちゃんめ」
「あー、ほんとお前、厄介だな!」
「嫌いになりましたか?」
「嫌いになれないから困ってんだろうが!」
「良かった」
「よくない!」
「本当に駄目? 俺、浮気なんか絶対しませんよ?」
「……うう」
「素直になった方がいいですよ? ね?」
 頬を撫でる紫音の手が心地よくて、目を瞑る。ああ、これじゃ本当に猫みたいだな、オレ。
「んん……。まあ、高校卒業まではお前のこと、意地でも惹きつけといてやるつもりだし……。時間はまだたっぷりあるし……。先のこと考えるより、今を楽しむ方がオレらしいよな……。うん……」
 ふわふわする頭で考え込んで結論を出す。紫音が卒業して疎遠になったら、面倒だが引っ越しでもすれば、まあ多少は……。
「そうそう。今は目先の欲に素直でいましょ?」
「ん……」
 確かに、今が気持ちよければそれでいいのかもしれない。今までだってそうして来たわけだし……。今はまだ、考えなくていい。考えたってどうしようもない。
「可愛い子猫ちゃん。今日はいっぱい甘えていいですからね」
 口づけを受け止めながら縺れ合い、ベッドへと辿り着く。
「偉そうにしやがって。ムカつく」
「酔っても憎まれ口は相変わらずですね。さ、もう少し詰めて。ベッドから落ちちゃいますよ?」
「……ん。今度、もっと広いベッド、買っとくかな、なんて」
「……! 是非そうしてください。というか、明日にでも買いに行きましょう?」
 ぽつりと零した言葉に食いついた紫音が、勢いよくオレの両手を握りしめる。
「は? 明日……?」
「明日、休みでしょ? だったら、善は急げですよ」
「お前まさか、夏休み中居座るつもりだったり……?」
「します。何ですか? 先生は俺に一人で寂しくウチで過ごせと?」
「……わかったよ。明日、買いに行こう。んで、その後にでもデートするか」
「ッ……! いいんですか?!」
「いいに決まってる。なんせ、お前は特別だからな」
 意地の悪い顔で笑ってやると、紫音の口がぽかりと間抜けに開く。
「え……っと。その言葉、明日には覚えてないってオチだったり……?」
「しない。……多分」
「多分て! も~! お酒飲んで素直なのはいいですけど! 覚えてないのはちょっと困ります!」
「む……。昨日ほど酔ってないから、多分覚えてられるし……。ん~、じゃあさ、忘れてたら思い出させてくれよ、ダーリン」
「ッ……! コノヤロ~、言いましたね!」
「んわっ」
 茶目っ気たっぷりにキスしてやると、一瞬赤面して固まった紫音が、すぐにオレに飛びついてお返しのがっついたキスをくれる。
「んふふ、待てもできないのか、馬鹿犬め」
「あんまり煽らない方がいいですよ、子猫ちゃん」
 笑いあった後、もう一度キスをして体を重ね合う。身を震わす程の幸福を大切に噛みしめながら――。



「んで、やっぱりすっかり忘れてると?」
「痛てて。うう、すっかりってことはないが……。広いベッドなんて買ったら……、マジでお前のこと認めてるみたいだろ……」
「何を今更。充分過ぎるくらい特別、なんでしょ?」
「……もしかしてそれ、オレが言ったとか?」
「覚えてないんですか?」
「うう……。いやでもほら、お前そんなん買ったら入り浸るだろ」
「駄目なんですか?」
「不健全だろ?」
「アンタが言うな」
「……本気か?」
「本気です。可愛い恋人のお願いでしょ?」
「可愛い恋人……」
「それとも、なんです? お仕置きをご所望で?」
「……オーケー、買いに行こう」
「そうこなくっちゃ!」
 なんだかどんどん紫音のペースにハマっているような気がするが……。それもまた一興、なんて思ってるオレは相当コイツに毒されているんだろうな……。
「家具屋さんの後はどこ行きます? 映画? 水族館? 遊園地?」
「んん……。お前の好きなとこでいいよ」
「え~? じゃあ猫カフェ?」
「浮気は無しだろ?」
「ふふ。そうですね、俺の可愛い子猫ちゃんは一人で充分ですからね!」
「ドッグカフェなら行ってもいいけどな」
「浮気は無しですよ」
「はいはい。オレの可愛い狂犬ちゃん」
「そこは子犬ちゃんにしてくださいよ」
「お前は狂犬か番犬って言葉のがしっくりくる」
「え~?! せめて忠犬とか……!」
「忠犬、ねぇ……。ご主人様の家の鍵を隠しといてよく言うよ。で、どこにやったんだ?」
「なんのことですか~?」
「鍵がないと出掛けられないぞ?」
「……はいどうぞワン」
「はい。よくできました」
 己のバッグからウチの鍵を取り出した紫音の頭を撫でてやる。全く、見つからない訳だ。
「うう~。怒らないんですか?」
「そんな可愛い悪戯で怒ってたら、駄犬の飼い主は務まらないだろ?」
「駄犬……。まあ、甘やかして貰えるなら駄犬でもいいか……」
「ば~か。お前は犬じゃなくてオレの恋人だって言っただろう。ほら、準備してとっととデートに行くぞ」
「……はい!」
 元気よく返事した紫音に怠さも吹き飛ぶ。今年の夏は随分と長くなりそうだ。
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