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高配当
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競艇に関する最初の記憶はボートに向かって暴言を吐く醜い男たちだった。爪の中まで汚い男たちが、ゴールラインを通過したボートに向かって「死ね」だの「殺す」だのと喚き散らし、無効となった舟券を投げ捨て、唾を吐く。ここはクズが集まる場所なのだと五歳の西村瑠衣は思った。こんなところに息子を連れて行く自分の父は、ドクズだ。
「なんやテメエっ、なめとんのかっ!」
男の蹴り上げた足が、ガッと勢いよく瑠衣の腹部に入った。薄い体が衝撃で跳ねる。ケホケホと咳き込む間にも、二発、三発、と蹴りが入る。羽交い締めにされているから、逃げることはできない。
クズが。
攻撃的な目で相手を睨みつける。周囲には人だかりができていた。ニヤニヤとこの状況を楽しむ野次馬にも腹が立つ。どうして兄が、こんな連中に罵倒されなければならないのか。どうして誰も、転覆した兄の心配をしないのか。
瑠衣の兄、芹沢凛義はボートレーサーで、この日は一般戦の最終日だった。最終レースで4号艇の妨害接触があり、1号艇に乗っていた兄は転覆した。
思わず小さな悲鳴を漏らした瑠衣の耳に飛び込んできたのは、信じられない罵詈雑言だった。
『芹沢なめとんのかっ! ぶち殺すぞっ!』
『下手くそがっ!』
これまでも着順を落とした兄への暴言はあったし、その度に瑠衣は腹が煮えるような怒りを覚えた。でも、我慢ならずに殴りかかったのはこの日が初めてだった。
「その辺にしときい。なんや、まだガキやんけ。いい大人がよってたかって恥ずかしないんか」
ぺっと血反吐を吐いた時、大儀そうな男の声がした。
まだガキ、という単語に胸の中で反発する。瑠衣は大学三年生で、一人暮らしは五年と長い。学費も生活費も親を頼らず自分で稼いでいる。周りの大学生と比べると、自分は精神的に成熟していると瑠衣は思う。まず育った環境が違う。親が離婚し母親に引き取られてからは毎日がサバイバルだった。そこら辺の何も考えていない大学生と一緒にされては困る。自分は返済不要の奨学金を勝ち得て京都の有名私大に通っている。ここにいる誰よりも優秀で、将来性があることを疑う余地はない。
「はい、お疲れさん。ガキ相手にムキになってどないすんねん。終了終了」
間に入ってきた男は、慣れた様子で瑠衣から男たちを引き剥がす。手足が長く、癖の強い黒髪は肩につくほど長い。顔のパーツがハッキリとしている割に親近感を覚えるのは、目尻が垂れているからだろう。日焼けした褐色の肌と相まって、南国やラテンの風土を思わせる。
男たちは口々に文句を言ったが、「まあまあ」と褐色の男に宥められると、これ以上絡んでも意味がないと気づいたのか、つならなそうに去っていった。
羽交い締めが解け、瑠衣はその場に倒れ込む。汚れたスニーカーが目線の先に近づいてきた。
「ああいう時はな、その気がなくても謝るのが利口やで」
瑠衣は男の言葉を無視して両手を突き立てた。けれど全然力が入らない。すると男の手が伸びてきて、グッと体ごと引き上げられた。くすんだカーキ色のジャケットからタバコの臭いがして、思わず男を突き放す。そのまま行こうと一歩を踏み出すと、ガクッと膝が折れた。
「おとなしく大人を頼りい。ほら、腕回す」
男は隣にしゃがむと、瑠衣の腕を勝手に自分の肩に回した。おとな、と言うが、彼だって瑠衣と同じくらいに見える。
「……タバコくさい」
「そこはおおきにや」
「別に頼んでない」
「可愛い坊ややな」
男は呆れたように言った。でも腕を離すつもりはないらしい。立ち上がり、並んで入場ゲートを目指す。秋の夜風は生ぬるかった。どこを見ても項垂れた人間が目に入る。ぶつぶつと恨み言が聞こえてきて、瑠衣は声のした方をキッと睨んだ。
「なにをガンとばしとんねん」
無視した。
「なにが気に食わんねん。あんなの日常茶飯事やろ。それともあれか。自分、芹沢のガチ恋ファンか」
「なっ! 違うっ!」
声を荒げると、男は驚いたようにこちらを見た。その目が更に見開かれる。
「なんや、自分、血統書付きの猫みたいな顔しとんな。競艇の客層も変わったもんや」
しげしげと顔を見られ、瑠衣はフイっとそっぽを向いた。
「あー、自分、芹沢の身内か」
頬が引き攣った。咄嗟に否定できないのはブラコンの性だ。
「あー、はいはい。そーいう……ほな、メシ奢ってくれへん?」
なぜそうなる? 目だけで問うと、男は無造作にポケットから何かを取り出した。それは、芹沢凛義を軸とした三連単。たった二千円分の舟券だった。
「俺も負けてん。おかげで財布はすっからかんや」
「知らないよ。負けることも含めてギャンブルだろ。だいたいどうして誰も兄さんの心配をしないんだ。あんな……」
コースアウトしていく1号艇を思い出し、キュッと胸が締め付けられた。スマホを見るが、兄からの返信はない。
「……大丈夫かな」
「平気やろ。救助艇に自分から乗り込んどったで」
「本当っ!?」
「ほんま。せやから心配せんと大丈夫や」
よかった。瑠衣はホッと胸を撫で下ろした。安心すると、食事くらい恵んでやってもいい気がしてきた。この男が助けてくれなければ、自分は大怪我をしていたかもしれないのだ。
男は拓也と名乗った。歳は二十歳。住居不定で、普段はドヤ街と呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりしていて、日雇い労働で日銭を稼いでいるらしい。
拓也のリクエストで鉄板焼き屋へ行った。奢ってやると言っているのに、連れられたのは随分と大衆的な店だった。
「にしても荒れたなあ」
お好み焼きを調理しながら、拓也は言った。瑠衣はギャンブル談義に付き合うつもりはないので、当然無視する。
「三連単、いくらついやんやろな。恐ろしうて見られへんわ」
「なんで」
「そら自分が買うてへんからや。他人の万舟券ほどムカつくもんはないで」
瑠衣はスマホを操作した。ボートレース住之江の結果を見る。単純にいくらついたのか興味があった。
「うわっ」
画面に表示された配当額に、思わず声が出た。三連単十二万七千円という高配当は、初めて見る数字だった。
「なんやっ、結果見とんのかっ……」
「十二万七千円だって……すごい。こんな数字、初めて見た」
「十二万っ?」
拓也が目を見開く。手元を見ずにお好み焼きをひっくり返した。
「ほんまか?」
お好み焼きの周りを固めながら言う。
「本当。すごいな……」
こんなの買っていたら、確かにのめり込んでしまいそうだ。
「十二万……十二万か……十二万?」
拓也はぶつぶつと言う。
「残念だったね」
瑠衣はせせら笑った。
「ほんまに十二万か?」
「ほら」とスマホ画面を突き出すと、拓也は身を乗り出して画面を覗き込んだ。「ほんまや……」と目を見開く。
拓也はヘラを置き、ソースとマヨネーズをかける。ヘラで二分割したものを皿に乗せ、「おまち」と瑠衣の前に置いた。
キャベツと小麦粉が主成分の料理など好んで食べたいとは思わないが、こうして目の前に出されると食欲がそそった。
「いただきます」
「おう、たくさん食って肉つけや」
「ここの支払い、僕だよね?」
「あたり前や。いまさら何言うてんねん」
瑠衣は箸をつけた。一口食べる。久しぶりに食べたお好み焼きは驚くほど美味しい。顔に出ないよう、黙々と口へと運ぶ。
ふと目の前の男が気になった。
「……食べないの?」
できたてのお好み焼きを前に、拓也はスマホをいじっている。
「おう、これも食うか?」
「ち、違うっ! お腹、空いてるんでしょ? どうして食べないのかなって気になっただけ」
「んー、せやなあ」
「さっきから何を見てるの?」
「レース結果や」
「終わったレースがそんなに気になる?」
瑠衣は呆れて言った。
「オッズが歪んどるんや」
オッズとは、配当金が購入金額の何倍になるかを示した数値のことで、その時の舟券の売り上げに応じて変動する。
「歪んでる?」
「グレードレース常連の奥と連勝中の芹沢が飛んだんやで? ほんで、1着に来たんが崖っぷちの井岡や。三連単十二万は滅多に見ない高配当やけど、本来はもっとついてもええ。百万もあり得る大穴や」
「大穴に高額投入した人がいたってことでしょ?」
「勘の悪いやっちゃのう」
「はあ?」
「大穴に高額投入。確かにないことはない。せやけど思い出してみ、あのレース、不自然やなかったか」
拓也の言わんとすることを察し、胸が跳ねた。
「まず第1ターンマーク。4号艇の奥は1号艇と2号艇の間に差し込んだ。あそこは3号艇ごとまくった方が絶対にええ。それが奥の戦い方や。せやのに奥はあえて2号艇と3号艇を生かした」
奥秀人はA1レーサーだ。勝率は驚異の8・07。着順点は1着10点、2着8点、3着6点なので、彼は今シーズン、3着以下をほとんど取っていないということになる。
「……勝ちを取りに行ってない?」
瑠衣は恐る恐る聞いた。
「せや。このレース、単勝1番人気は芹沢、次が4号艇の奥や。つまりこの二人が4着以下に沈むだけで配当金はグッと上がる。奥は芹沢を潰しつつ、自分もええ感じに4着以下になるよう第1ターンマークで調整したんや」
「……まさか」
「おかしいおもてん。なんであそこで差すんやって。そやけど奥に勝つ気がなかったんやったら辻褄が合う。あそこでまくったら2号艇、3号艇も置き去りにしてまうからな。芹沢との接触も、着順を落とすためにわざとやったのかもしれへん」
「それ、本当?」
声が震えた。あれがわざとだとしたら、許せない。一歩間違えば大事故に繋がっていたかもしれないのだ。
「可能性の話や。ただ、八百長は確実やろな。このオッズといい、奥の動きといい、今回のレースは不自然な点が多い」
「八百長……」
あっさり決めつけたので驚いた。拓也は続ける。
「考えてもみぃ。競艇はたったの6艇のレースや。三連単を全通り買ったとしても120通りしかないんやで。1艇除外するだけで買目は半分の60まで減らせるから、回収率は間違いなく百パーセントを上回る」
「……つまり、一人でも八百長が成り立つ」
「せや。これは出走数の少ない競艇だから成り立つんや。オートの8車だと、一人抜けたとしても7車……210通りも買っとったら、利益を出すところまでいかん。その点、競艇は一人除外すれば買目60点。その上、除外すんのがトップレーサーの奥やったらボロ儲け間違いなしや」
「奥は、4着以下になろうとしていた」
「せや。芹沢を潰すことまで折り込み済みなら、買目はグッと減らせる。大穴に高額投入することも可能や」
「だから、オッズが歪んだ。奥が4着以下になることを知っていた人物が、人気のない舟券に高額投入したから……」
「そういうことや」
拓也はそう言って、やっとお好み焼きに手をつけた。
瑠衣は怒りでそれどころではない。奥秀人のせいで、兄は完走することもできなかったのだ。
「それ、競走会にリークしたら、奥秀人はどうなる?」
「んまあ、口頭注意止まりやろな。奥はトップレーサーや。競走会が簡単に手放すとは思われへんわ」
「そんなっ……」
「奥の人気なら自分も知っとるやろ。今や新人ボートレーサーの二人に一人が『奥秀人に憧れて』って答えるらしいで」
「人気があるからって……八百長はダメだろ」
「そうは言っても疑惑やからな。オッズの歪みだけじゃ証拠にならへんし、競走会も見てみぬフリや」
その時、兄からメッセージが届いた。『来てくれてたのか? みっともない姿見せて悪かったな。軽い怪我で済んだから大丈夫。心配いらないよ』
軽い怪我、という単語に胸がきゅんとした。無傷ではないのだ。
「せやけど俺らにとっちゃ有益な情報やで」
瑠衣は顔を上げた。
「有益?」
「奥が八百長を行うレースを特定できれば、俺らも利益を上げられる」
拓也はニヤリと笑った。瑠衣は絶句した。この男……クズだ。八百長に便乗して儲けようだなんて。
しかし一方で、八百長を行うレースを特定できれば、八百長の証拠を掴めるのではないかと瑠衣は思った。
でも、証拠ってなんだ。本人が認める以上の証拠など、あるのだろうか。
なんにせよ、奥の動向を追わない理由はない。兄が転覆したレースで、奥は不正に金を稼いだのだ。観客たちの理不尽な罵倒を思い出し、瑠衣はきつく歯噛みした。奥が正々堂々と勝負していれば、兄は転覆することも、罵倒されることもなかったのだ。
「なんやテメエっ、なめとんのかっ!」
男の蹴り上げた足が、ガッと勢いよく瑠衣の腹部に入った。薄い体が衝撃で跳ねる。ケホケホと咳き込む間にも、二発、三発、と蹴りが入る。羽交い締めにされているから、逃げることはできない。
クズが。
攻撃的な目で相手を睨みつける。周囲には人だかりができていた。ニヤニヤとこの状況を楽しむ野次馬にも腹が立つ。どうして兄が、こんな連中に罵倒されなければならないのか。どうして誰も、転覆した兄の心配をしないのか。
瑠衣の兄、芹沢凛義はボートレーサーで、この日は一般戦の最終日だった。最終レースで4号艇の妨害接触があり、1号艇に乗っていた兄は転覆した。
思わず小さな悲鳴を漏らした瑠衣の耳に飛び込んできたのは、信じられない罵詈雑言だった。
『芹沢なめとんのかっ! ぶち殺すぞっ!』
『下手くそがっ!』
これまでも着順を落とした兄への暴言はあったし、その度に瑠衣は腹が煮えるような怒りを覚えた。でも、我慢ならずに殴りかかったのはこの日が初めてだった。
「その辺にしときい。なんや、まだガキやんけ。いい大人がよってたかって恥ずかしないんか」
ぺっと血反吐を吐いた時、大儀そうな男の声がした。
まだガキ、という単語に胸の中で反発する。瑠衣は大学三年生で、一人暮らしは五年と長い。学費も生活費も親を頼らず自分で稼いでいる。周りの大学生と比べると、自分は精神的に成熟していると瑠衣は思う。まず育った環境が違う。親が離婚し母親に引き取られてからは毎日がサバイバルだった。そこら辺の何も考えていない大学生と一緒にされては困る。自分は返済不要の奨学金を勝ち得て京都の有名私大に通っている。ここにいる誰よりも優秀で、将来性があることを疑う余地はない。
「はい、お疲れさん。ガキ相手にムキになってどないすんねん。終了終了」
間に入ってきた男は、慣れた様子で瑠衣から男たちを引き剥がす。手足が長く、癖の強い黒髪は肩につくほど長い。顔のパーツがハッキリとしている割に親近感を覚えるのは、目尻が垂れているからだろう。日焼けした褐色の肌と相まって、南国やラテンの風土を思わせる。
男たちは口々に文句を言ったが、「まあまあ」と褐色の男に宥められると、これ以上絡んでも意味がないと気づいたのか、つならなそうに去っていった。
羽交い締めが解け、瑠衣はその場に倒れ込む。汚れたスニーカーが目線の先に近づいてきた。
「ああいう時はな、その気がなくても謝るのが利口やで」
瑠衣は男の言葉を無視して両手を突き立てた。けれど全然力が入らない。すると男の手が伸びてきて、グッと体ごと引き上げられた。くすんだカーキ色のジャケットからタバコの臭いがして、思わず男を突き放す。そのまま行こうと一歩を踏み出すと、ガクッと膝が折れた。
「おとなしく大人を頼りい。ほら、腕回す」
男は隣にしゃがむと、瑠衣の腕を勝手に自分の肩に回した。おとな、と言うが、彼だって瑠衣と同じくらいに見える。
「……タバコくさい」
「そこはおおきにや」
「別に頼んでない」
「可愛い坊ややな」
男は呆れたように言った。でも腕を離すつもりはないらしい。立ち上がり、並んで入場ゲートを目指す。秋の夜風は生ぬるかった。どこを見ても項垂れた人間が目に入る。ぶつぶつと恨み言が聞こえてきて、瑠衣は声のした方をキッと睨んだ。
「なにをガンとばしとんねん」
無視した。
「なにが気に食わんねん。あんなの日常茶飯事やろ。それともあれか。自分、芹沢のガチ恋ファンか」
「なっ! 違うっ!」
声を荒げると、男は驚いたようにこちらを見た。その目が更に見開かれる。
「なんや、自分、血統書付きの猫みたいな顔しとんな。競艇の客層も変わったもんや」
しげしげと顔を見られ、瑠衣はフイっとそっぽを向いた。
「あー、自分、芹沢の身内か」
頬が引き攣った。咄嗟に否定できないのはブラコンの性だ。
「あー、はいはい。そーいう……ほな、メシ奢ってくれへん?」
なぜそうなる? 目だけで問うと、男は無造作にポケットから何かを取り出した。それは、芹沢凛義を軸とした三連単。たった二千円分の舟券だった。
「俺も負けてん。おかげで財布はすっからかんや」
「知らないよ。負けることも含めてギャンブルだろ。だいたいどうして誰も兄さんの心配をしないんだ。あんな……」
コースアウトしていく1号艇を思い出し、キュッと胸が締め付けられた。スマホを見るが、兄からの返信はない。
「……大丈夫かな」
「平気やろ。救助艇に自分から乗り込んどったで」
「本当っ!?」
「ほんま。せやから心配せんと大丈夫や」
よかった。瑠衣はホッと胸を撫で下ろした。安心すると、食事くらい恵んでやってもいい気がしてきた。この男が助けてくれなければ、自分は大怪我をしていたかもしれないのだ。
男は拓也と名乗った。歳は二十歳。住居不定で、普段はドヤ街と呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりしていて、日雇い労働で日銭を稼いでいるらしい。
拓也のリクエストで鉄板焼き屋へ行った。奢ってやると言っているのに、連れられたのは随分と大衆的な店だった。
「にしても荒れたなあ」
お好み焼きを調理しながら、拓也は言った。瑠衣はギャンブル談義に付き合うつもりはないので、当然無視する。
「三連単、いくらついやんやろな。恐ろしうて見られへんわ」
「なんで」
「そら自分が買うてへんからや。他人の万舟券ほどムカつくもんはないで」
瑠衣はスマホを操作した。ボートレース住之江の結果を見る。単純にいくらついたのか興味があった。
「うわっ」
画面に表示された配当額に、思わず声が出た。三連単十二万七千円という高配当は、初めて見る数字だった。
「なんやっ、結果見とんのかっ……」
「十二万七千円だって……すごい。こんな数字、初めて見た」
「十二万っ?」
拓也が目を見開く。手元を見ずにお好み焼きをひっくり返した。
「ほんまか?」
お好み焼きの周りを固めながら言う。
「本当。すごいな……」
こんなの買っていたら、確かにのめり込んでしまいそうだ。
「十二万……十二万か……十二万?」
拓也はぶつぶつと言う。
「残念だったね」
瑠衣はせせら笑った。
「ほんまに十二万か?」
「ほら」とスマホ画面を突き出すと、拓也は身を乗り出して画面を覗き込んだ。「ほんまや……」と目を見開く。
拓也はヘラを置き、ソースとマヨネーズをかける。ヘラで二分割したものを皿に乗せ、「おまち」と瑠衣の前に置いた。
キャベツと小麦粉が主成分の料理など好んで食べたいとは思わないが、こうして目の前に出されると食欲がそそった。
「いただきます」
「おう、たくさん食って肉つけや」
「ここの支払い、僕だよね?」
「あたり前や。いまさら何言うてんねん」
瑠衣は箸をつけた。一口食べる。久しぶりに食べたお好み焼きは驚くほど美味しい。顔に出ないよう、黙々と口へと運ぶ。
ふと目の前の男が気になった。
「……食べないの?」
できたてのお好み焼きを前に、拓也はスマホをいじっている。
「おう、これも食うか?」
「ち、違うっ! お腹、空いてるんでしょ? どうして食べないのかなって気になっただけ」
「んー、せやなあ」
「さっきから何を見てるの?」
「レース結果や」
「終わったレースがそんなに気になる?」
瑠衣は呆れて言った。
「オッズが歪んどるんや」
オッズとは、配当金が購入金額の何倍になるかを示した数値のことで、その時の舟券の売り上げに応じて変動する。
「歪んでる?」
「グレードレース常連の奥と連勝中の芹沢が飛んだんやで? ほんで、1着に来たんが崖っぷちの井岡や。三連単十二万は滅多に見ない高配当やけど、本来はもっとついてもええ。百万もあり得る大穴や」
「大穴に高額投入した人がいたってことでしょ?」
「勘の悪いやっちゃのう」
「はあ?」
「大穴に高額投入。確かにないことはない。せやけど思い出してみ、あのレース、不自然やなかったか」
拓也の言わんとすることを察し、胸が跳ねた。
「まず第1ターンマーク。4号艇の奥は1号艇と2号艇の間に差し込んだ。あそこは3号艇ごとまくった方が絶対にええ。それが奥の戦い方や。せやのに奥はあえて2号艇と3号艇を生かした」
奥秀人はA1レーサーだ。勝率は驚異の8・07。着順点は1着10点、2着8点、3着6点なので、彼は今シーズン、3着以下をほとんど取っていないということになる。
「……勝ちを取りに行ってない?」
瑠衣は恐る恐る聞いた。
「せや。このレース、単勝1番人気は芹沢、次が4号艇の奥や。つまりこの二人が4着以下に沈むだけで配当金はグッと上がる。奥は芹沢を潰しつつ、自分もええ感じに4着以下になるよう第1ターンマークで調整したんや」
「……まさか」
「おかしいおもてん。なんであそこで差すんやって。そやけど奥に勝つ気がなかったんやったら辻褄が合う。あそこでまくったら2号艇、3号艇も置き去りにしてまうからな。芹沢との接触も、着順を落とすためにわざとやったのかもしれへん」
「それ、本当?」
声が震えた。あれがわざとだとしたら、許せない。一歩間違えば大事故に繋がっていたかもしれないのだ。
「可能性の話や。ただ、八百長は確実やろな。このオッズといい、奥の動きといい、今回のレースは不自然な点が多い」
「八百長……」
あっさり決めつけたので驚いた。拓也は続ける。
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「……つまり、一人でも八百長が成り立つ」
「せや。これは出走数の少ない競艇だから成り立つんや。オートの8車だと、一人抜けたとしても7車……210通りも買っとったら、利益を出すところまでいかん。その点、競艇は一人除外すれば買目60点。その上、除外すんのがトップレーサーの奥やったらボロ儲け間違いなしや」
「奥は、4着以下になろうとしていた」
「せや。芹沢を潰すことまで折り込み済みなら、買目はグッと減らせる。大穴に高額投入することも可能や」
「だから、オッズが歪んだ。奥が4着以下になることを知っていた人物が、人気のない舟券に高額投入したから……」
「そういうことや」
拓也はそう言って、やっとお好み焼きに手をつけた。
瑠衣は怒りでそれどころではない。奥秀人のせいで、兄は完走することもできなかったのだ。
「それ、競走会にリークしたら、奥秀人はどうなる?」
「んまあ、口頭注意止まりやろな。奥はトップレーサーや。競走会が簡単に手放すとは思われへんわ」
「そんなっ……」
「奥の人気なら自分も知っとるやろ。今や新人ボートレーサーの二人に一人が『奥秀人に憧れて』って答えるらしいで」
「人気があるからって……八百長はダメだろ」
「そうは言っても疑惑やからな。オッズの歪みだけじゃ証拠にならへんし、競走会も見てみぬフリや」
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軽い怪我、という単語に胸がきゅんとした。無傷ではないのだ。
「せやけど俺らにとっちゃ有益な情報やで」
瑠衣は顔を上げた。
「有益?」
「奥が八百長を行うレースを特定できれば、俺らも利益を上げられる」
拓也はニヤリと笑った。瑠衣は絶句した。この男……クズだ。八百長に便乗して儲けようだなんて。
しかし一方で、八百長を行うレースを特定できれば、八百長の証拠を掴めるのではないかと瑠衣は思った。
でも、証拠ってなんだ。本人が認める以上の証拠など、あるのだろうか。
なんにせよ、奥の動向を追わない理由はない。兄が転覆したレースで、奥は不正に金を稼いだのだ。観客たちの理不尽な罵倒を思い出し、瑠衣はきつく歯噛みした。奥が正々堂々と勝負していれば、兄は転覆することも、罵倒されることもなかったのだ。
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