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ショーケースに並んだ腕時計はどれも十万円を超えている。予算は十万円だが、芹沢凛義の目に留まったのは十七万円の腕時計だった。
「お試しになられますか?」
ロマンスグレーの髪をシチサンに分けた店員が、鷹揚な動作でショーケースから腕時計を取り出した。トレーに乗せて、目の前に出される。「試着はトレーの上で」とネットに書いてあったことを思い出し、凛義はトレーの上に左腕を伸ばした。
「失礼致します」
白手袋をはめた店員が、銀ベルトの腕時計を凛義の左腕に巻きつけた。丁寧な接客に凛義は緊張しっぱなしだ。自分は場違いではないか……視線を走らせる。Tシャツにジーンズというラフな格好の男や、就職祝い風の親子が目に入った。「好きなものを選びなさい」と、父親が目尻を下げて娘に言う。凛義の目には、微笑ましい光景がどこか作り物めいて映った。
凛義の父はギャンブル狂いのクズだった。常に金がなく、酒臭い息を撒き散らし、機嫌の悪い時は凛義を殴った。動物園や遊園地に連れて行ってくれたことは一度もなく、行くのは決まって近所の競艇場だった。こっちは付き合わされているだけなのに、父は息子も楽しんでいると思い込んでいた。それを不快に思いながらも、「競艇なんか嫌い」と言い出す勇気は凛義にはなく、気づけば将来の夢もボートレーサーに定められていた。
凛義は中学卒業と同時に福岡のボートレーサー養成所に入所した。倍率40倍の狭き門を突破して、全国から集まったのは42人。身体能力の差はあれど、ボートは皆未経験。自ずと助け合い、仲間意識が芽生えていった。
最年少の凛義は皆に可愛がられた。小、中と、除け者にされ続けた凛義は、自分を輪の中心に据えようとしてくれる周囲の気遣いがありがたかった。
なんていい人たちなんだろう。この人たちと一緒にボートレーサーになりたい。入所して一ヶ月が経った頃、凛義は心からそう思うようになった。だから適正なしと判断され、一人、また一人と帰郷するたびに、周囲が引くほど号泣した。
過酷な訓練は卒業までに12人の訓練生をふるい落とし、プロデビュー後は2人が怪我と成績不振で引退した。
十六歳でデビューしてから二年が経ち、凛義はA2昇格まであと一歩というところにきた。昇格できたら同期最速、トップルーキー選出は間違いなしだ。半ば強制されたボートレーサーという職業だったが、今ではこの道に進んで本当に良かったと凛義は思う。ボートレーサーは天職だ。テクニックはもちろん大事だが、結局、ものを云うのは負けん気と度胸だ。スピードを緩めることなく、全速力でターンできる人間が一番強い。
「よくお似合いですね」
店員が言う。
「こちらは何かご覧になられたのですか?」
「えっと……何か見たとかじゃなくて……普通に、ここで買ってみたくて」
答えると、かあっと頬が熱くなった。三桁の月収がありながら、育ちが悪いという後ろめたさは、レーシングスーツを脱いだ凛義をたちまち臆病者にする。
場違いな客だと思われているような気がして、凛義は逃げ出したくなった。試着した腕時計を外そうとベルトに手を掛ける。
「あ、外しますね」
店員がすかさず手を伸ばしてきた。
「……すみません」
無意識のうちに腕がトレーの上からはみ出していた。慌ててトレーに戻す。
「こ、これにします」
凛義が言うと、店員は驚いたように目を丸くし、優しく微笑んだ。
「せっかくですので、他もご覧になられてください。試着だけでも構いませんので」
買う意思を伝えたのに、店員はショーケースからいくつか腕時計を取り出し、トレーに並べた。ピックアップされたものは、スポーツタイプからクラシックタイプまで幅広く、どれも凛義の心をくすぐった。
「こちらは若い方に人気の商品です」
並べられた商品をまじまじと見つめる凛義を、店員の優しい眼差しが見守る。
「これ……つけてみていいですか?」
「もちろん」
店員が凛義の手首に腕時計を巻く。文字盤が青く、水面のようで美しかった。
「いいな……これ。海みたいだ」
「海がお好きなんですか?」
聞かれ、凛義は戸惑った。海水を利用した競艇場にはよく行くが、いわゆる海水浴は経験がない。砂浜付きの海を眺めるよりも、センタープールの水を近くで見ていたい。自分は海が好きなわけではないと思う。自分が好きなのは……
「水が……好きなんです」
ボートの走りによって形を変える水面が好きだ。荒れやすい江戸川の河川も、浜名湖の汽水も、びわこの硬い淡水も、東京湾とつながる平和島の海水も、全部好きだ。
「水……でございますか」
変なやつ、と思われるのが嫌で、補足する。
「俺……ボート乗ってて……それで、水飛沫とか、波とか……なんか好きで……」
「ほう、ボートに乗られるのですか」
感心したような口調に、しまったと思った。クルーザーとか、ヨットとか、金持ちの道楽と思われたら、もっと高価な時計を勧められてしまうかもしれない。
「あ……違うんです。俺、ボートレーサーで……」
「ボートレーサーっ?」
店員の声がひっくり返る。
「あっ……でも、全然、まだまだこれからで……だから今日は、モチベーションを上げるためっていうか……鼓舞? に、ちょっと良い時計買おうかなって……」
「さようでございましたか」
店員が眩しいものでも見るように目を細めた。すると「少々お待ちくださいね」と言って、どこかへ行ってしまった。
やがて戻ってきた店員の手には、黒色のトランクがあった。それを、ショーケースの上に置く。開くと、八本の腕時計が収納されていた。
「かなり、高級ラインになりますが、きっとこちらもお好きだと思います」
「こんな高そうなの、買えま……」
語尾が、一本の腕時計を見た瞬間、消えた。
「試着だけしてみませんか? こちらは百五十万円もしますから、みなさん悩まれます」
「百……五十万……」
それは、文字盤が深い青色の腕時計だった。波をモチーフにしているのだろう、さざ波のように文字盤に表情がある。
「水面ダイヤル。長野県の諏訪湖を表現しています。グランドセイコーのスプリングドライブを組み立てている工房が、諏訪湖の近くにあることから、このモデルが誕生しました」
「……つけてみても良いですか?」
「もちろん」
装着したそれは、驚くほど肌馴染みが良かった。まるで今にも動き出しそうな水面の文字盤を食い入るように見つめる。これが欲しい、と強く思った。
「これ……変じゃないですか?」
質問の意図を図りかねた店員が、小首をかしげる。
「こんないいの、俺がつけてて、変じゃないですか?」
言いながら自分が嫌になった。どうしてこんな馬鹿みたいな喋り方しかできないんだろう。十八歳になったのに、自分は全く成長していない。
「とてもお似合いですよ」
店員が微笑む。
「ほんとですか?」
「はい。お客様は、本当の水面を眺めているようにお見受けします。それは、その腕時計の魅力をお客様が引き立てているということです。私がつけても、ただの腕時計を纏っているようにしか見えないでしょう」
嬉しかった。予算を大幅に超えてしまうが、そもそも高級腕時計を買おうと思い立ったのは、自信をつけるためなのだ。高いに越したことはない、と言い訳する。
「じゃあ、これにします」
人生で一番高い買い物に怯みつつ、そう言うと、胸にスッと風が通った気がした。
「お試しになられますか?」
ロマンスグレーの髪をシチサンに分けた店員が、鷹揚な動作でショーケースから腕時計を取り出した。トレーに乗せて、目の前に出される。「試着はトレーの上で」とネットに書いてあったことを思い出し、凛義はトレーの上に左腕を伸ばした。
「失礼致します」
白手袋をはめた店員が、銀ベルトの腕時計を凛義の左腕に巻きつけた。丁寧な接客に凛義は緊張しっぱなしだ。自分は場違いではないか……視線を走らせる。Tシャツにジーンズというラフな格好の男や、就職祝い風の親子が目に入った。「好きなものを選びなさい」と、父親が目尻を下げて娘に言う。凛義の目には、微笑ましい光景がどこか作り物めいて映った。
凛義の父はギャンブル狂いのクズだった。常に金がなく、酒臭い息を撒き散らし、機嫌の悪い時は凛義を殴った。動物園や遊園地に連れて行ってくれたことは一度もなく、行くのは決まって近所の競艇場だった。こっちは付き合わされているだけなのに、父は息子も楽しんでいると思い込んでいた。それを不快に思いながらも、「競艇なんか嫌い」と言い出す勇気は凛義にはなく、気づけば将来の夢もボートレーサーに定められていた。
凛義は中学卒業と同時に福岡のボートレーサー養成所に入所した。倍率40倍の狭き門を突破して、全国から集まったのは42人。身体能力の差はあれど、ボートは皆未経験。自ずと助け合い、仲間意識が芽生えていった。
最年少の凛義は皆に可愛がられた。小、中と、除け者にされ続けた凛義は、自分を輪の中心に据えようとしてくれる周囲の気遣いがありがたかった。
なんていい人たちなんだろう。この人たちと一緒にボートレーサーになりたい。入所して一ヶ月が経った頃、凛義は心からそう思うようになった。だから適正なしと判断され、一人、また一人と帰郷するたびに、周囲が引くほど号泣した。
過酷な訓練は卒業までに12人の訓練生をふるい落とし、プロデビュー後は2人が怪我と成績不振で引退した。
十六歳でデビューしてから二年が経ち、凛義はA2昇格まであと一歩というところにきた。昇格できたら同期最速、トップルーキー選出は間違いなしだ。半ば強制されたボートレーサーという職業だったが、今ではこの道に進んで本当に良かったと凛義は思う。ボートレーサーは天職だ。テクニックはもちろん大事だが、結局、ものを云うのは負けん気と度胸だ。スピードを緩めることなく、全速力でターンできる人間が一番強い。
「よくお似合いですね」
店員が言う。
「こちらは何かご覧になられたのですか?」
「えっと……何か見たとかじゃなくて……普通に、ここで買ってみたくて」
答えると、かあっと頬が熱くなった。三桁の月収がありながら、育ちが悪いという後ろめたさは、レーシングスーツを脱いだ凛義をたちまち臆病者にする。
場違いな客だと思われているような気がして、凛義は逃げ出したくなった。試着した腕時計を外そうとベルトに手を掛ける。
「あ、外しますね」
店員がすかさず手を伸ばしてきた。
「……すみません」
無意識のうちに腕がトレーの上からはみ出していた。慌ててトレーに戻す。
「こ、これにします」
凛義が言うと、店員は驚いたように目を丸くし、優しく微笑んだ。
「せっかくですので、他もご覧になられてください。試着だけでも構いませんので」
買う意思を伝えたのに、店員はショーケースからいくつか腕時計を取り出し、トレーに並べた。ピックアップされたものは、スポーツタイプからクラシックタイプまで幅広く、どれも凛義の心をくすぐった。
「こちらは若い方に人気の商品です」
並べられた商品をまじまじと見つめる凛義を、店員の優しい眼差しが見守る。
「これ……つけてみていいですか?」
「もちろん」
店員が凛義の手首に腕時計を巻く。文字盤が青く、水面のようで美しかった。
「いいな……これ。海みたいだ」
「海がお好きなんですか?」
聞かれ、凛義は戸惑った。海水を利用した競艇場にはよく行くが、いわゆる海水浴は経験がない。砂浜付きの海を眺めるよりも、センタープールの水を近くで見ていたい。自分は海が好きなわけではないと思う。自分が好きなのは……
「水が……好きなんです」
ボートの走りによって形を変える水面が好きだ。荒れやすい江戸川の河川も、浜名湖の汽水も、びわこの硬い淡水も、東京湾とつながる平和島の海水も、全部好きだ。
「水……でございますか」
変なやつ、と思われるのが嫌で、補足する。
「俺……ボート乗ってて……それで、水飛沫とか、波とか……なんか好きで……」
「ほう、ボートに乗られるのですか」
感心したような口調に、しまったと思った。クルーザーとか、ヨットとか、金持ちの道楽と思われたら、もっと高価な時計を勧められてしまうかもしれない。
「あ……違うんです。俺、ボートレーサーで……」
「ボートレーサーっ?」
店員の声がひっくり返る。
「あっ……でも、全然、まだまだこれからで……だから今日は、モチベーションを上げるためっていうか……鼓舞? に、ちょっと良い時計買おうかなって……」
「さようでございましたか」
店員が眩しいものでも見るように目を細めた。すると「少々お待ちくださいね」と言って、どこかへ行ってしまった。
やがて戻ってきた店員の手には、黒色のトランクがあった。それを、ショーケースの上に置く。開くと、八本の腕時計が収納されていた。
「かなり、高級ラインになりますが、きっとこちらもお好きだと思います」
「こんな高そうなの、買えま……」
語尾が、一本の腕時計を見た瞬間、消えた。
「試着だけしてみませんか? こちらは百五十万円もしますから、みなさん悩まれます」
「百……五十万……」
それは、文字盤が深い青色の腕時計だった。波をモチーフにしているのだろう、さざ波のように文字盤に表情がある。
「水面ダイヤル。長野県の諏訪湖を表現しています。グランドセイコーのスプリングドライブを組み立てている工房が、諏訪湖の近くにあることから、このモデルが誕生しました」
「……つけてみても良いですか?」
「もちろん」
装着したそれは、驚くほど肌馴染みが良かった。まるで今にも動き出しそうな水面の文字盤を食い入るように見つめる。これが欲しい、と強く思った。
「これ……変じゃないですか?」
質問の意図を図りかねた店員が、小首をかしげる。
「こんないいの、俺がつけてて、変じゃないですか?」
言いながら自分が嫌になった。どうしてこんな馬鹿みたいな喋り方しかできないんだろう。十八歳になったのに、自分は全く成長していない。
「とてもお似合いですよ」
店員が微笑む。
「ほんとですか?」
「はい。お客様は、本当の水面を眺めているようにお見受けします。それは、その腕時計の魅力をお客様が引き立てているということです。私がつけても、ただの腕時計を纏っているようにしか見えないでしょう」
嬉しかった。予算を大幅に超えてしまうが、そもそも高級腕時計を買おうと思い立ったのは、自信をつけるためなのだ。高いに越したことはない、と言い訳する。
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