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凛義が運び込まれたのは、桐生競艇場から程近い総合病院だった。
ブラウン系で統一された個室は南向きで、窓からは中庭で遊ぶ子供たちが見える。
全身打撲、右肩を十二針縫う重傷だったが、命に別状はなく、二ヶ月ほどで元の生活に戻れると医者は言った。あと数センチズレていたら首筋を切り、あわや死亡事故という大惨事だった。
「兄さんっ……」
昼食時にやってきた弟の瑠衣は、フルーツの盛り合わせやクッキー缶、暇つぶしにと、雑誌や小説を持ってきた。
十二年前に両親が離婚し、凛義は父に、弟は母に引き取られ、それからは離れて暮らしている。三つ下の弟は十八歳で、この春から京都の大学に通ってる。別にこちらも聞かないし、弟もわざわざ言わないが、きっとパトロンがいるのだろうと凛義は思っている。大学生のくせに、金に困っている様子はなく、着ているものも百貨店に入っているようなブランドだからだ。
弟は色白で、可愛らしい顔をしていた。パトロンの指示なのか、サラサラの黒髪は女の子のようなショートカットで、小さな顔をいっそう小さく見せている。
「悪いな。こんなところまで来てもらって……大学は大丈夫なのか?」
「そんなの平気だよ……それより、兄さんは大丈夫なの……?」
「まあ、大丈夫だよ。あとに引きずるような怪我じゃないし、リハビリすればまた元の生活に戻れるってさ」
「そう……よかった。……何か欲しいものとかある? 買ってくるよ」
「大丈夫。ありがとう」
ベッドの横には丸椅子がある。「そこ座れよ」と言うと、弟はホッとしたように腰を下ろした。
ポツポツと近況を教え合う。弟はテニスサークルに入ったが、そこは遊びがメインで全然馴染めないこと、目当てのゼミに入るには、一年時から教授に媚を売らなければならないことをぼやいていた。
凛義は「そうなんだ」以外に返せなかった。大学はおろか、高校すら経験していない。
「でも兄さん、すごいね。今回の事故は残念だったけど、それまでは二番手と四艇身も差があった。ダントツ一位だったよ」
「まあ……モーターの調子も良かったからな」
自分は競艇の話しかできない。レーサー仲間とならいくらでも話せるし、楽しいし、万能感すら覚えるのに、弟と話していると、自分の世界はなんて狭いのだろうと気分が沈む。
満足できていたものに、水を差すような存在の弟が、少しだけ鬱陶しい。被害妄想だと分かってはいるが、鬱陶しいものは鬱陶しい。かといって、何も悪くない弟を突き放すこともできない。弟は自分に懐いている。兄として特別可愛がった記憶もないのに、兄さん兄さんと慕ってくれる。少ない愛情でこれだけ慕ってくれるのだから、母だって可愛いに決まっている。母が家を出た日、家には自分もいたのに、母は弟だけを連れて出て行った。
復帰戦はホームプールの平和島で、凛義は順当に勝ち進み、優勝戦に出場した。
休養明けということもあって、前半、凛義の舟券は人気薄だったが、優勝戦では4号艇1番人気だった。平和島のコースが、4コースに有利という特徴も関係しているだろう。
水面はやや荒れ気味だ。ボートに入る。
ファンファーレとともに、6艇のボートが一斉にピットを離れ、コースを回ってスタート位置につく。一般戦だが観客は多い。あちらこちらから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「頼むぞーっ! 芹沢ぁーっ!」
「芹沢軸にして買ったぞーっ」
「今度はひっくり返るなよーっ!」
不思議だった。あれほど嬉しかった歓声が、今は全然嬉しくない。むしろ不快なくらいだった。
波が激しく、ボートはその場に留まるのも難しい。大時計の12秒針が動き出し、12秒前となった。凛義は右手でハンドルを、左手でスロットルレバー握る。その腕に時計はない。あの事故で水没し、壊れたのだ。
スロットルを上げていく。スタートラインを6艇が一斉に通過した。凛義の4号艇が前に出る。他の艇は波を気にして、第1ターンマークが近づくと減速した。レバーを緩めず全速ターンを決めたのは、凛義ただ一人だった。
「わりゃ、わざと負けたじゃろ」
レース終了後、ボートの並んだ装着場で耳打ちされた。
「っ……」
凛義は飛び退くようにして振り返った。
「甲斐……さん……」
肩にかかるほどの長い銀髪、吊り目がちの蛇顔。広島支部の甲斐宗吾だった。二十六歳。凛義がデビューした時にはすでにA1レーサーで、SG出場、G1優勝経験もある実力者だ。
「あんなんバレバレじゃ。やるならもっと上手うやり」
「俺……わざとじゃ……」
最終レース、凛義はわざと着順を落とした。ほんの出来心だった。自分が絡んだ舟券を、全て無効にしたかった。
「そがいに怖がりなさんなや。三ヶ月も休んどったんじゃろ? そら八十万の賞金じゃ足りんわな」
「……賞金?」
凛義は眉根を寄せた。この人は一体何の話をしているんだ。
凛義の疑問を見抜いたのか、甲斐は余白の多い、切れ長の目をニヤリと細めた。
「なんじゃ、八百長したんやないんか」
「っ……」
この人はやっているのだ、と凛義は即座に確信した。無意識に一歩、後退る。
「そがいに驚きなさんなや」
凛義はぎこちなく頭を下げ、踵を返した。大きな一歩を踏み出す。
「明日、丸亀の最終レース、蒲生が飛ぶで」
甲斐が隣に並び、言った。おそらく甲斐は、「4着以下になる」という意味で、「飛ぶ」を使った。
「えっ……」
蒲生と言えば、獲得賞金ランキングにも名を連ねる超トップレーサーだ。凛義はまんまと足を止めてしまったが、甲斐はそのまま通り過ぎていった。
六日間に及ぶレースが終わり、一週間振りに自宅アパートに帰ったのに、凛義はその夜眠れなかった。わざと負けたことが競艇ファンにバレていないか、普段は寄り付かない匿名掲示板を徘徊し、自分を非難する書き込みを見つけてしまったからだ。
『芹沢糞ポンコツ。マジで辞めて欲しい!』
『芹沢凛義は終わりました。事故の後遺症でまともなレースはできません。ゴミレーサーお疲れ様でした』
『実力と階級が見合わないレーサーナンバーワン』
胸がざわつく。まに受けるな、こんなの。スマホの電源を切っても、またすぐ気になって再起動してしまう。
『今日のレース意味不明。2周目までトップ独走しててなんで4着フィニッシュなんだよ』
『下手くそだから』
『平和島に嫌われてるから』
八百長という単語は、どこにもない。いや自分はわざと負けただけで、八百長したわけではないのだが。
明日、丸亀の最終レース、蒲生が飛ぶで。
甲斐の言葉を思い出し、ぞくりと背筋が震えた。
「……まさかな」
凛義は呟き、苦笑した。きっと自分はからかわれたのだ。足切り対象の選手ならともかく、獲得賞金一億超えのトップレーサーが、そんなリスクを犯すわけがない。
「逆や逆。八百長はトップレーサーやないと成立せん。ボートは大穴狙いが基本じゃ。雑魚が飛んだってしゃーないわ」
復帰戦から四ヶ月後のG2戦で、凛義は再び甲斐と会った。
レース期間中、選手は競艇場に隣接された宿舎に泊まる。食堂、大浴場、ジムなどの共用スペースで、甲斐を見かけるたびに、凛義の視線は吸い寄せられるように彼に向かった。
聞きたかった。本当に蒲生はわざと負けたのかと。
けれど甲斐は同郷の選手と常に行動していて、なかなか一人にならない。声を掛けることができたのは三日目だった。「サウナ行こうや」と言われ、今に至る。定員十名のサウナ室に、凛義と甲斐は離れて座っている。
「でも……金ならたくさん稼いでいるじゃないですか。八百長なんかしなくても……」
「ビッグタイトルを一回獲ってみればわかる。何千万クラスの賞金をボンと手にするとな、税金がきついんよ。グランプリなんて獲ってみ。翌年の税金どうすんじゃ。またグランプリ獲ろうったってきついじゃろ」
賞金王決定戦、通称グランプリは、すべてのボートレーサーが目標とする最高峰のSGレースだ。十二月に開催され、優勝賞金は一億一千万円。1レースの所要時間は概ね1分50秒。四日間に及ぶ予選があるが、それを抜きに単純計算すれば、1秒の稼ぎが100万円ということになる。
「フライング一発で三十日間の出場停止。G1が重なったら最悪じゃ。前年の稼ぎに届かないとなれば、ずる賢い奴はこう考える。『百万円以下の一般戦で真面目に走るなんて馬鹿らしい』ってな……アチい、出るか」
甲斐は立ち上がり、ドアへ向かった。左肩から腕にかけて、亀裂のような縫い目があった。
「それ、どうしたんですか」
「あ? ……ああ、これな、かっこええじゃろ。東京でやったんよ」
そう言って笑った甲斐の横顔は、普段のミステリアスな雰囲気と違って幼く見えた。かっこいい、という言葉を使うところもなんだか可愛い。
「わりゃのそれもなかなかええやん。勲章はほんそにしいや」
甲斐の細い目が凛義の右肩を捉えた。
「ほんそ?」
凛義が問うと、甲斐はわずかに首を傾げ、にっこり微笑みながら言った。
「大事に」
自分と違うイントネーションに、なぜか猛烈に惹かれた。
ジワリと顔に熱がたまる。右肩の傷はどう見ても醜く、目に入るだけで気が滅入る。からりとした甲斐の言葉に、凛義は救われる思いがした。
軽く体を洗い長し、脱衣所に出た。脱衣所には談笑している選手の姿があった。甲斐は「ジム」とだけ言って、凛義のそばを離れていく。
ジムで落ち合おうという意味だろう。凛義は着替えるなりジムへ向かった。トレーニングマシーンが一種類ずつの簡素なジムで、他には誰もいない。
「お利口さんじゃのう」
後からやってきた甲斐は、凛義を見るなり言った。
「浮気したら師匠に怒られるで」
「甲斐さんの指導を受けるつもりはありません」
「八百長レーサーを軽蔑するん?」
余白の多い三白眼に向かって、はい、と答える勇気はなかった。
わざと負けた復帰戦から、凛義の心境は変わりつつあった。自分は今まで1着になることだけを考えてきた。でも、必ずしも1着を目指さなくても良いのではないか。負けることを目標とすることも、自由なのではないか。
それに、凛義には気になることがあった。
「……バレないんですか」
掲示板の隅々に目を通す間、凛義は不安に駆られていた。わざとだと気付かれていないか、八百長と騒ぎになっていないか、
どうして、甲斐や蒲生はバレずにそれができるのか。
「わしを誰やと思っとるんじゃ。上手うやっとるよ」
甲斐の薄い唇が引き上がる。
「なんや、興味あるやんけ」
凛義は目を逸らした。人間味のない甲斐の瞳は独特で、不思議な魅力があった。
「……俺は、3回もやれば勘付かれると思います」
実際、競艇ファンにはバレなかったが、甲斐にはすぐに見抜かれた。
「あれじゃあいけんまー」
「蒲生さんや甲斐さんは、どうやっているんですか?」
甲斐は自販機へと向かった。声は届くので、凛義はその場で待つ。
「真横を走るんよ」
「……え?」
「ピッタリくっついとったら、減速しても誰もわざとやと思わん。観客は競り合いに負けたと思い込む」
「ああ……」
凛義は納得すると同時に、空恐ろしくなった。相手は競り合いに勝ったつもりでも、実際は不正を誤魔化すのに利用されただけなのだ。
「そんで、くっつくのは弱っちいレーサーじゃ。ターンマーク手前でええ感じに艇を切り返してやれば、弱っちいのでもスピードに乗って前に出る。そうやってアシストしてやって、弱っちいのを勝たせてやるんじゃ」
凛義は息をのんだ。それは、己が1着を狙うよりも高度なテクニックを必要とするのではないか。
「八百長は飛ぶだけが全てやない。どうせなら大きく儲けたいじゃろ。よわっちい選手をアシストすることも、強い選手を弾き飛ばすことも、水の上じゃ自由じゃ」
鼓動が高鳴っていくのがわかる。復帰後、レースへの情熱を失いかけていた凛義の胸に、さざなみのように情熱が戻ってきた。
やってみたい。ただ勝つだけでなく、負けるだけでなく、レースを牛耳る。こっちの思惑も知らず、舟券を握りしめてレースに熱狂するギャンブラーの、上に立つ。そうすれば、もう罵倒されたって傷つかない。
缶コーヒーをふたつ持って、甲斐が戻ってくる。
「優出しな」
無糖コーヒーをひとつ凛義に差し出した。
「そんで、優勝戦でわしと組もうや」
サラリと言って、甲斐はフタを開け、コーヒーを飲んだ。前髪をオールバックにかきあげる。すべての動作が格好よかった。
気づけば「いただきます」と上擦った声で言い、凛義は苦手なコーヒーを一気に飲み干していた。
ブラウン系で統一された個室は南向きで、窓からは中庭で遊ぶ子供たちが見える。
全身打撲、右肩を十二針縫う重傷だったが、命に別状はなく、二ヶ月ほどで元の生活に戻れると医者は言った。あと数センチズレていたら首筋を切り、あわや死亡事故という大惨事だった。
「兄さんっ……」
昼食時にやってきた弟の瑠衣は、フルーツの盛り合わせやクッキー缶、暇つぶしにと、雑誌や小説を持ってきた。
十二年前に両親が離婚し、凛義は父に、弟は母に引き取られ、それからは離れて暮らしている。三つ下の弟は十八歳で、この春から京都の大学に通ってる。別にこちらも聞かないし、弟もわざわざ言わないが、きっとパトロンがいるのだろうと凛義は思っている。大学生のくせに、金に困っている様子はなく、着ているものも百貨店に入っているようなブランドだからだ。
弟は色白で、可愛らしい顔をしていた。パトロンの指示なのか、サラサラの黒髪は女の子のようなショートカットで、小さな顔をいっそう小さく見せている。
「悪いな。こんなところまで来てもらって……大学は大丈夫なのか?」
「そんなの平気だよ……それより、兄さんは大丈夫なの……?」
「まあ、大丈夫だよ。あとに引きずるような怪我じゃないし、リハビリすればまた元の生活に戻れるってさ」
「そう……よかった。……何か欲しいものとかある? 買ってくるよ」
「大丈夫。ありがとう」
ベッドの横には丸椅子がある。「そこ座れよ」と言うと、弟はホッとしたように腰を下ろした。
ポツポツと近況を教え合う。弟はテニスサークルに入ったが、そこは遊びがメインで全然馴染めないこと、目当てのゼミに入るには、一年時から教授に媚を売らなければならないことをぼやいていた。
凛義は「そうなんだ」以外に返せなかった。大学はおろか、高校すら経験していない。
「でも兄さん、すごいね。今回の事故は残念だったけど、それまでは二番手と四艇身も差があった。ダントツ一位だったよ」
「まあ……モーターの調子も良かったからな」
自分は競艇の話しかできない。レーサー仲間とならいくらでも話せるし、楽しいし、万能感すら覚えるのに、弟と話していると、自分の世界はなんて狭いのだろうと気分が沈む。
満足できていたものに、水を差すような存在の弟が、少しだけ鬱陶しい。被害妄想だと分かってはいるが、鬱陶しいものは鬱陶しい。かといって、何も悪くない弟を突き放すこともできない。弟は自分に懐いている。兄として特別可愛がった記憶もないのに、兄さん兄さんと慕ってくれる。少ない愛情でこれだけ慕ってくれるのだから、母だって可愛いに決まっている。母が家を出た日、家には自分もいたのに、母は弟だけを連れて出て行った。
復帰戦はホームプールの平和島で、凛義は順当に勝ち進み、優勝戦に出場した。
休養明けということもあって、前半、凛義の舟券は人気薄だったが、優勝戦では4号艇1番人気だった。平和島のコースが、4コースに有利という特徴も関係しているだろう。
水面はやや荒れ気味だ。ボートに入る。
ファンファーレとともに、6艇のボートが一斉にピットを離れ、コースを回ってスタート位置につく。一般戦だが観客は多い。あちらこちらから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「頼むぞーっ! 芹沢ぁーっ!」
「芹沢軸にして買ったぞーっ」
「今度はひっくり返るなよーっ!」
不思議だった。あれほど嬉しかった歓声が、今は全然嬉しくない。むしろ不快なくらいだった。
波が激しく、ボートはその場に留まるのも難しい。大時計の12秒針が動き出し、12秒前となった。凛義は右手でハンドルを、左手でスロットルレバー握る。その腕に時計はない。あの事故で水没し、壊れたのだ。
スロットルを上げていく。スタートラインを6艇が一斉に通過した。凛義の4号艇が前に出る。他の艇は波を気にして、第1ターンマークが近づくと減速した。レバーを緩めず全速ターンを決めたのは、凛義ただ一人だった。
「わりゃ、わざと負けたじゃろ」
レース終了後、ボートの並んだ装着場で耳打ちされた。
「っ……」
凛義は飛び退くようにして振り返った。
「甲斐……さん……」
肩にかかるほどの長い銀髪、吊り目がちの蛇顔。広島支部の甲斐宗吾だった。二十六歳。凛義がデビューした時にはすでにA1レーサーで、SG出場、G1優勝経験もある実力者だ。
「あんなんバレバレじゃ。やるならもっと上手うやり」
「俺……わざとじゃ……」
最終レース、凛義はわざと着順を落とした。ほんの出来心だった。自分が絡んだ舟券を、全て無効にしたかった。
「そがいに怖がりなさんなや。三ヶ月も休んどったんじゃろ? そら八十万の賞金じゃ足りんわな」
「……賞金?」
凛義は眉根を寄せた。この人は一体何の話をしているんだ。
凛義の疑問を見抜いたのか、甲斐は余白の多い、切れ長の目をニヤリと細めた。
「なんじゃ、八百長したんやないんか」
「っ……」
この人はやっているのだ、と凛義は即座に確信した。無意識に一歩、後退る。
「そがいに驚きなさんなや」
凛義はぎこちなく頭を下げ、踵を返した。大きな一歩を踏み出す。
「明日、丸亀の最終レース、蒲生が飛ぶで」
甲斐が隣に並び、言った。おそらく甲斐は、「4着以下になる」という意味で、「飛ぶ」を使った。
「えっ……」
蒲生と言えば、獲得賞金ランキングにも名を連ねる超トップレーサーだ。凛義はまんまと足を止めてしまったが、甲斐はそのまま通り過ぎていった。
六日間に及ぶレースが終わり、一週間振りに自宅アパートに帰ったのに、凛義はその夜眠れなかった。わざと負けたことが競艇ファンにバレていないか、普段は寄り付かない匿名掲示板を徘徊し、自分を非難する書き込みを見つけてしまったからだ。
『芹沢糞ポンコツ。マジで辞めて欲しい!』
『芹沢凛義は終わりました。事故の後遺症でまともなレースはできません。ゴミレーサーお疲れ様でした』
『実力と階級が見合わないレーサーナンバーワン』
胸がざわつく。まに受けるな、こんなの。スマホの電源を切っても、またすぐ気になって再起動してしまう。
『今日のレース意味不明。2周目までトップ独走しててなんで4着フィニッシュなんだよ』
『下手くそだから』
『平和島に嫌われてるから』
八百長という単語は、どこにもない。いや自分はわざと負けただけで、八百長したわけではないのだが。
明日、丸亀の最終レース、蒲生が飛ぶで。
甲斐の言葉を思い出し、ぞくりと背筋が震えた。
「……まさかな」
凛義は呟き、苦笑した。きっと自分はからかわれたのだ。足切り対象の選手ならともかく、獲得賞金一億超えのトップレーサーが、そんなリスクを犯すわけがない。
「逆や逆。八百長はトップレーサーやないと成立せん。ボートは大穴狙いが基本じゃ。雑魚が飛んだってしゃーないわ」
復帰戦から四ヶ月後のG2戦で、凛義は再び甲斐と会った。
レース期間中、選手は競艇場に隣接された宿舎に泊まる。食堂、大浴場、ジムなどの共用スペースで、甲斐を見かけるたびに、凛義の視線は吸い寄せられるように彼に向かった。
聞きたかった。本当に蒲生はわざと負けたのかと。
けれど甲斐は同郷の選手と常に行動していて、なかなか一人にならない。声を掛けることができたのは三日目だった。「サウナ行こうや」と言われ、今に至る。定員十名のサウナ室に、凛義と甲斐は離れて座っている。
「でも……金ならたくさん稼いでいるじゃないですか。八百長なんかしなくても……」
「ビッグタイトルを一回獲ってみればわかる。何千万クラスの賞金をボンと手にするとな、税金がきついんよ。グランプリなんて獲ってみ。翌年の税金どうすんじゃ。またグランプリ獲ろうったってきついじゃろ」
賞金王決定戦、通称グランプリは、すべてのボートレーサーが目標とする最高峰のSGレースだ。十二月に開催され、優勝賞金は一億一千万円。1レースの所要時間は概ね1分50秒。四日間に及ぶ予選があるが、それを抜きに単純計算すれば、1秒の稼ぎが100万円ということになる。
「フライング一発で三十日間の出場停止。G1が重なったら最悪じゃ。前年の稼ぎに届かないとなれば、ずる賢い奴はこう考える。『百万円以下の一般戦で真面目に走るなんて馬鹿らしい』ってな……アチい、出るか」
甲斐は立ち上がり、ドアへ向かった。左肩から腕にかけて、亀裂のような縫い目があった。
「それ、どうしたんですか」
「あ? ……ああ、これな、かっこええじゃろ。東京でやったんよ」
そう言って笑った甲斐の横顔は、普段のミステリアスな雰囲気と違って幼く見えた。かっこいい、という言葉を使うところもなんだか可愛い。
「わりゃのそれもなかなかええやん。勲章はほんそにしいや」
甲斐の細い目が凛義の右肩を捉えた。
「ほんそ?」
凛義が問うと、甲斐はわずかに首を傾げ、にっこり微笑みながら言った。
「大事に」
自分と違うイントネーションに、なぜか猛烈に惹かれた。
ジワリと顔に熱がたまる。右肩の傷はどう見ても醜く、目に入るだけで気が滅入る。からりとした甲斐の言葉に、凛義は救われる思いがした。
軽く体を洗い長し、脱衣所に出た。脱衣所には談笑している選手の姿があった。甲斐は「ジム」とだけ言って、凛義のそばを離れていく。
ジムで落ち合おうという意味だろう。凛義は着替えるなりジムへ向かった。トレーニングマシーンが一種類ずつの簡素なジムで、他には誰もいない。
「お利口さんじゃのう」
後からやってきた甲斐は、凛義を見るなり言った。
「浮気したら師匠に怒られるで」
「甲斐さんの指導を受けるつもりはありません」
「八百長レーサーを軽蔑するん?」
余白の多い三白眼に向かって、はい、と答える勇気はなかった。
わざと負けた復帰戦から、凛義の心境は変わりつつあった。自分は今まで1着になることだけを考えてきた。でも、必ずしも1着を目指さなくても良いのではないか。負けることを目標とすることも、自由なのではないか。
それに、凛義には気になることがあった。
「……バレないんですか」
掲示板の隅々に目を通す間、凛義は不安に駆られていた。わざとだと気付かれていないか、八百長と騒ぎになっていないか、
どうして、甲斐や蒲生はバレずにそれができるのか。
「わしを誰やと思っとるんじゃ。上手うやっとるよ」
甲斐の薄い唇が引き上がる。
「なんや、興味あるやんけ」
凛義は目を逸らした。人間味のない甲斐の瞳は独特で、不思議な魅力があった。
「……俺は、3回もやれば勘付かれると思います」
実際、競艇ファンにはバレなかったが、甲斐にはすぐに見抜かれた。
「あれじゃあいけんまー」
「蒲生さんや甲斐さんは、どうやっているんですか?」
甲斐は自販機へと向かった。声は届くので、凛義はその場で待つ。
「真横を走るんよ」
「……え?」
「ピッタリくっついとったら、減速しても誰もわざとやと思わん。観客は競り合いに負けたと思い込む」
「ああ……」
凛義は納得すると同時に、空恐ろしくなった。相手は競り合いに勝ったつもりでも、実際は不正を誤魔化すのに利用されただけなのだ。
「そんで、くっつくのは弱っちいレーサーじゃ。ターンマーク手前でええ感じに艇を切り返してやれば、弱っちいのでもスピードに乗って前に出る。そうやってアシストしてやって、弱っちいのを勝たせてやるんじゃ」
凛義は息をのんだ。それは、己が1着を狙うよりも高度なテクニックを必要とするのではないか。
「八百長は飛ぶだけが全てやない。どうせなら大きく儲けたいじゃろ。よわっちい選手をアシストすることも、強い選手を弾き飛ばすことも、水の上じゃ自由じゃ」
鼓動が高鳴っていくのがわかる。復帰後、レースへの情熱を失いかけていた凛義の胸に、さざなみのように情熱が戻ってきた。
やってみたい。ただ勝つだけでなく、負けるだけでなく、レースを牛耳る。こっちの思惑も知らず、舟券を握りしめてレースに熱狂するギャンブラーの、上に立つ。そうすれば、もう罵倒されたって傷つかない。
缶コーヒーをふたつ持って、甲斐が戻ってくる。
「優出しな」
無糖コーヒーをひとつ凛義に差し出した。
「そんで、優勝戦でわしと組もうや」
サラリと言って、甲斐はフタを開け、コーヒーを飲んだ。前髪をオールバックにかきあげる。すべての動作が格好よかった。
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