オッズ

兵馬俑

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オッズ(3)

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 最終レースが終わり、管理解除となった。選手登録手帳と賞金明細を受け取り、芹沢凛義はレース場を後にした。

 東京駅までタクシーで行き、広島行きの新幹線に乗る。甲斐は明後日からレース期間に入るため、明日の朝には競艇場に入ってしまう。直接会うなら今夜しかない。

 この一ヶ月、凛義は不安に駆られていた。トドメは『もう八百長はやらなくていい』と甲斐からメッセージが来たことだ。頭が真っ白になった。

 広島駅を出て、タクシー乗り場へと急ぐ。ここから甲斐のマンションまでは車で二十分ほど。腕時計を見る。23時前には着きそうだ。

「芹沢さんですか」

 関西のイントネーションで名前を呼ばれ、足を止めた。

「そんなに急いで、どこ行きはるおつもりですか」

 長身の若い男だった。やや癖のある髪、日に焼けた肌、目鼻立ちのはっきりとした男前だ。体つきからしてボートレーサーではないとわかる。

 凛義が怪訝に目を細めると、男は気さくに笑った。

「八百長仲間のところですか」

「っ……」

「俺も連れて行ってくれませんか」

「……」

 男は長い足を振って詰め寄ると、ポケットから何かを取り出し、凛義の耳元にひょいと近づけた。

『八百長だよ』

 耳に聞こえたのは、自分の声だった。

『ザコが飛んだところで大した利益にはならないけど、俺はインコースの勝率が9割ある。飛べば高配当がつく』

 男を見る。男はスッと目を細め、片頬を歪ませるようにして笑った。

「初めまして。五十嵐拓也というもんです。あなたの弟さんと仲良くさせてもろてます」

「瑠衣と……」

 思考がうまく働かない。

「勘違いしないでくださいね。あなたの八百長に気づいたのは俺です。最初は奥さんやと思ったんやけど、実際はあんたやった。驚きましたわ。まあ、奥さんやないことは、トークショーの返しで気づいたんですけどね」

「まさか……」

「ええ、奥さんに質問したんは俺です」

「っ……」

「でも、あの人は違った。となると次に怪しいのはあんたです。試しに瑠衣のカバンにボイレコ仕込んだらビンゴ。まさかこんなにガッツリ撮れるとは驚きましたわ。あんた、ワキ甘いんとちゃいます?」

「……わかった。お前も仲間に入れてやる」

 それが目的だろうと思ったのに、拓也と名乗った男は目尻を吊り上げた。

「ほんまにアホな兄貴やな。瑠衣に断られたんちゃうんか。もうやめえや」

「じゃあ何が目的だ? 告発か? ……ああわかった。お前、ギャンブル狂いなんだろ。予想するのに俺みたいな駒がいると厄介なんだ」

 拓也は苦虫でも噛み潰したような顔をした。

「……まあええわ。甲斐の家に行くんやろ。俺も行くで」

「っ……」

 拓也はタクシー乗り場へと歩き出す。

「ちょっと待てっ……甲斐さんは関係ないっ!」

「庇ったって無駄や。あんたは甲斐の指示に従っとった。こっちは裏取れとんねん」

「違うっ! 全部俺が自分の意思でやったことだっ!」

「それならそれでええ。とにかく俺は甲斐に用がある」

 腕を掴まれ、タクシー乗り場へと強制的に連れられる。

「お前っ……一体なんなんだっ! 八百長が許せないなら俺を警察に突き出せばいいだろうっ!」

「なんや、あんた、ボートレーサーに未練ないんか」

「ねえよっ! あんなゴミに向けた商売っ、いつだってやめてやるよっ!」

 大きな声が出て、通行人がチラとこちらを見た。

 拓也が足を止めた。

「ほんま……どうしようもない兄貴やな」

 そう言って、体ごとこちらを向く。

「ゴミに向けた商売? ちゃうやろ。瑠衣はあんたのレースを楽しみにしとったんやで。瑠衣だってな、ほんまはギャンブル嫌いやねん。せやけどあそこに行けばあんたを見れるからって嫌いな競艇場に足運んどったんや。なんで瑠衣の気持ち蔑ろにすんねんボケ」

 拓也は手に握ったままのボイスレコーダーを操作した。凛義の声が流れる。

『俺も、お前が売春していること忘れてやるから。……気づかれてないと思ってたのか?』

 自分はこんなに冷たい声をしていたのかと、内心驚く。

「なんやねんこれ。なんでこんなムゴイこと言えんねん。瑠衣はあんたのために袋叩きにされたんやぞ」

「え?」

「あんたが転覆しとんのに、下手くそだの金返せだの騒ぐ連中にカチンときて、立ち向かったんや」

「っ……」

 初耳だった。だってそんなこと、弟は一言も口にしなかった。

「あの日だってな、あいつはあんたに賭けとったんや。稼ぐためやない。あんたを勝たせたいから買っとったんや。なのにあんたはわざと負けた。……ありえへんやろ」

 凛義が黙り込んでいると、拓也は呆れたように鼻息を吐いた。

「甲斐んとこ、行くで」

 歩き出し、タクシー乗り場へと向かう。抵抗したところで自分に勝ち目はないだろう。これ以上時間をロスしたくない。凛義は大人しくタクシーに乗り込み、運転手に甲斐のマンションを告げた。

 運転手の前で八百長の話はできない。到着地まで車内は無言だった。

「八百長レーサーはええとこ住んどるんやな」

 タクシーを降りるなり、拓也は嫌味ったらしく言った。

 甲斐のマンションは新築で、隣接された専用駐車場には高級車ばかりが並んでいる。

 凛義はマンションを見上げる。甲斐の部屋はとりあえず明るい。さっきからメッセージを送っているが、返信はない。

「不審な男がくっついてきたって教えてやった?」

「送ったけど、返事はない」

「……警戒しとるんかな」

「そういうわけじゃない」

 沈んだ声が出た。単純に拒絶されているだけだ。

 オッズの歪みを伝えたあの日、甲斐の中で何かが変わったのだ。自分は地雷を踏んだのだ。

 二人でマンションに入る。エントランスには呼び出し装置があり、まずは訪問先の部屋番号を押す。

『はい』

 甲斐の声に胸が弾んだ。

「甲斐さんっ! 俺で」

『帰り』

 サッと血の気が引いた。

「き、気分を害してしまったのなら謝りますっ」

「どきや」

 拓也に押し退けられ、よろけた。

「初めまして。五十嵐拓也と申します。父ちゃんを知っとりますね? 五十嵐栖です」

 拓也が言うと、自動ドアが開いた。

「なんで……」

 凛義はますます混乱した。だがぼうっとしている暇はない。拓也に続いて中へ行く。

 エレベーターで5階に上がり、突き当たりの甲斐の部屋を目指す。向かう途中で、突き当たりの部屋がガチャリと開いた。

「甲斐さんっ」

 現れた甲斐は、まるで凛義など存在しないかのように、背後の男に釘付けだった。

「拓也……くん?」

 拓也はニコリと微笑み、大股で甲斐に歩んだ。友好的な微笑みと、踏み鳴らすような足取りがどうも一致しない。遠ざかる背中からは殺気のようなものを感じた。

 胸騒ぎがし、凛義は慌ててその背中を追った。

 拓也は甲斐の胸を押すようにして部屋の中へと押し入る。

「っ……おいっ!」

 閉まりかけたドアを開け、中へ入った。甲斐は壁に追いやられていた。

 いきなり男に押し入られたというのに、甲斐の表情は無防備だった。しかもそれは、凛義の知らない表情だ。

「やっと見つけた……」

 拓也の口角がクインと引き上がる。

「へえ……写真より綺麗な顔しとるやん。あの人こういう顔が好きやったんやな」

 舐め回すような目つきと、侮蔑的な物言いに、凛義はカッとなった。

「おいっ! お前っ! 甲斐さんから離れろっ!」

 男に掴みかかる。けれど喧嘩とは無縁の生活だ。男が足を払っただけで、凛義はその場に倒れ込んだ。頭を軽く床に打ち付ける。するとやにわに怒りが引き、代わりにこの状況にふさわしい疑問が湧いた。

 この男は何者だ。五十嵐栖とは誰だ。

 ……考えるまでもない。ずっと疑問に思っていたことの、答えじゃないか。

 舟券の購入者であり、甲斐の本命。

 ではこの五十嵐拓也という男は、自分の救世主なのではないか。

 態度からして、拓也は甲斐と五十嵐栖との関係を快く思っていない。当然だ。五十嵐栖は父親なのだから。

 拓也が甲斐と五十嵐栖を引き離してくれたら、自分は甲斐の本命になれる。

「部外者は黙っとき。俺の父ちゃんはな、こいつに殺されたようなもんなんや」

 けれど、拓也は予想外のことを言った。

 甲斐も驚いたように目を見開く。

「なんや、自覚ないんか。あんたと関わったばっかりに、俺の父ちゃんはヤクザに目えつけられて殺されたんやっ……」

「……嘘じゃ」

「嘘やないっ! 俺の父ちゃんはなっ、日本一真面目な人やってん! それやのにあんたにそそのかされて、八百長で大金手にするようになって、ヤクザに目えつけられて殺されたんやっ!」

「嘘じゃ……」

「ええ加減にせえよっ!」

「五十嵐さんは……だってえ……生きとるもん……」

「はあ?」

 拓也のこめかみに青筋が立つ。

「さっきから……何言っとるん……五十嵐さん、まだ生きてんで? なあ……凛義?」

 問われ、凛義の胸がズンと重くなる。

 だってわかってしまった。甲斐が八百長を続ける理由……死者をこの世に繋ぎ止めるためであることを。

 八百長をすれば、奥が気づく。奥に問い詰められるたび、甲斐は死者がこの世に存在しているような錯覚を覚えたのではないか。「まだアイツと付き合っているのか」そんな言葉をかけられるとホッとしたのではないか。

 自分はなぜ八百長に誘われた?

 凛義がひとつの可能性に行き着くのに、そう時間は掛からなかった。

 甲斐は俺がゲイであると見抜き、恋愛関係に発展させられると踏んだ。けれど2番目であることを強調し、本命の存在を匂わせた。俺が嫉妬すればするほど、甲斐は死者の存在を強く感じることができた……

 ただの妄想だ。でもそんな気がしてならなかった。奥の言葉が頭を過ぎる。

『利用されているだけなのに、健気なもんだな』

 俺は、なんて答えたらいい?

「五十嵐さんは、生きとるよな? オッズ歪んどったもんな?」

「何言うてんねん……父ちゃんは五年前に死んだんやっ! 生きとる言うんやったら会わせてえやっ! あんた、父ちゃんとねんごろやったんやろっ!」

「もうやめろっ!」

 凛義は立ち上がり、拓也の肩を掴んだ。こちらを見た五十嵐が、よこしまな笑いをして見せる。

「はっ、なんや庇うんか。こいつは人の家庭ぶち壊したんやで。確かに父ちゃんも父ちゃんや。嫁も子供もおんのに男に尻尾振りよって……でも悪いのはこいつや。八百長なんか覚えさせて父ちゃんを狂わせた。父ちゃんが死んでも、懲りずにまだ八百長やっとる。ほんまもんのクズや」

 拓也はそう言って、甲斐の頬を引っ叩いた。ぱん、と乾いた音があたりに響く。

「でももうあんたは終わりや。俺はあんたの八百長を告発する」

 凛義は廊下を走ってリビングへ行く。リビングの隅には無造作に置かれたトロフィーがある。両手で抱え上げ、凛義は身震いした。自分は一体何をするつもりか。ダメだろ絶対……最後の理性を黙らせ、玄関へと引き返した。
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