オッズ

兵馬俑

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オッズ(2)

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 口元を塞がれた状態で、何度も腹の奥を突かれる。酸素を封じられて苦しいのに、それが五十嵐の手であるということにどうしようもなく興奮する。

「そんなことがあったのか。お母さんはなんて? ……どうして言わない? 別に気にする必要はないと思うがな」

 五十嵐はいつも、飴と鞭をいっぺんに与えてくる。

 ひときわ深く突き上げられ、宗吾の体がビクビクと跳ねる。ただし五十嵐が寄り添うようにして密着しているため、宗吾の動きは最低限に留まる。それがまた苦しい。首を横にふりたくると、汗みずくの銀髪から大量に汗が散った。

「それは拓也の好きにすれば良い。拓也の人生だ。だがお母さんを困らせるために留学するのはダメだ」

 この日も五十嵐の元には十四歳の息子から電話が掛かってきた。

 飛びそうな意識を、必死に繋ぎ止める。五十嵐の父親面なんて見たくないのに、息子にかける言葉を聞かずにはいられない。聞いていたい。五十嵐が優しい父親であることは苦しいけれど、ある意味で嬉しい。もっとも家族がありながらヨソの男を抱いている時点で優しい父親とは言えないのかもしれないが。

「ああ、二日に帰る。その時にまた話をしような」

「ふはっ……」

 口から手が離れ、宗吾は大きく息を吸った。一旦中から五十嵐が出ていく。

 五十嵐は宗吾の体をひっくり返し、ほとんど感覚のない両足を割り開いた。

 正面からグッと押し入られ、全身がのけ反る。そうしてできたシーツとの隙間に五十嵐は両手を差し込むと、ぎゅうっと宗吾の体を抱き締めた。

「んっ、あっ……あっ……」

 薄目を開けて、宗吾は五十嵐の顔を見る。余裕のない表情がたまらなかった。「あんたさ」と上擦った声で言い、五十嵐の頬に手を伸ばす。

 五十嵐は動きを止めた。汗が目に入ったのか、片目を閉じる。

「わしのこと、好きじゃろ」

 五十嵐は困ったように微笑んだ。その表情に、宗吾の思い込みはますます強くなる。これでわしのこと好きやないならなんやねん、と思う。

 五十嵐の顔が迫る。ペニスが奥へと入り込み、宗吾の喉が震えた。両手で頬を挟まれ、キスされる。舌を絡める濃厚なやつだった。

「はんっ……」

 唇が離れていく。引き戻す方法を宗吾は心得ていた。

「悪いパパさんやなあ」

 笑いかけると、口封じにまたキスされた。



『コンマ05のトップタイミングから2号艇甲斐が1マークを先制っ! しかし5号艇宮内が全速でまくりにいくっ! バックストレッチは一騎打ちだっ! さあ勝負の1周2マーク! 宮内が先制っ! 甲斐を突き放して安全圏に突入っ! そのまま1位でフィニッシュっ! トーキョー・ベイ・カップを制したのは5号艇宮内っ!』

 ボートを降りるなり、宗吾は電光掲示板を振り返った。確定順位を見て、ヘルメットの中でほくそ笑む。

 4着以下に沈むだけの単純な八百長はもう終わりだ。自分なら、他のレーサーを巻き込んで、より精度の高い八百長を実現することができる。それはすなわち、五十嵐にとって使い勝手のいい駒だということ。もう手放すことはできないだろう。

 不正に手を染める疾しさは、五十嵐に手綱を握られる喜びの前では無いも同然だった。

 スーツに着替え、七日間過ごした宿舎を出る。タクシーの中でスマホを見ると、五十嵐から「今日は会えなくなった。ホテルには一人で泊まってくれ。宿泊者名はイトウユウキだ」というメッセージが入っていた。

 途端、気持ちが沈んだ。ため息をつき、シートに深くもたれる。

 せっかく東京に来たのだし、奥を誘ってみようか。

 軽い気持ちでメッセージを打ち込み、苦笑した。惚れていた頃と大違いだ。奥への気持ちがすっかりなくなったのだと思い知る。惚れていた頃は、誘うタイミングや口実、文章の細部にまで気を払って無駄にエネルギーを消耗していた。恋愛感情がなくなると、こんなにも楽なのかと宗吾はおかしくなった。

 せっかくだし、ホテルに呼ぼうか。五十嵐が取ったのは日本橋の外資系ホテルで、露天風呂付きのスイートだ。一人で過ごすのは勿体無い。

 奥はあっさりとホテルにやってきた。さすが坊ちゃん。豪華なエントランスに圧倒する様子もなく、「甲斐」と笑顔で駆け寄ってきた。

「なんじゃわりゃあ、もっと驚けや」

「驚いた。お前から誘われるの、初めてだったから」

「そっちちゃうわ。この豪華なエントランスに驚けやて言っとんよ」

 キョトンとする奥を、「この坊ちゃんめ」と小突く。

「坊ちゃん言うな」

 ムッとする彼に笑いかけ、「行こう」と腕を掴んだ時だった。

「宗吾」

「あっ……」

 一時間前、自分をがっかりさせた男が、大股で近づいてきた。奥を見て、眉根を寄せる。宗吾は慌てて掴んだ手を離した。

「ルームキー」

 五十嵐が手を出す。

「すみません……五十嵐さん……」

「早く出せ」

 ポケットからルームキーを取り出し、差し出す。素早くそれを取り上げると、五十嵐は突き放すような足取りでエレベーターホールへと歩き出した。

 部屋には宗吾の荷物がある。

「悪い、奥……ちょっと、待っとって。財布とか全部部屋なんよ。取ってくるわ……ほんまごめん」

「今のは誰だ?」

 奥が怪訝に聞く。

「それも後で説明する……ごめん、行くわ……」

 頭の中は恐慌状態だった。五十嵐を追いかけ、同じエレベーターになんとか乗り込む。

「すみません、五十嵐さん……でもあいつとはそういう関係じゃなくて……今日はよいよ、飲むためだけに」

「部屋に荷物があるのか」

「は、はい……」

「取りには行かせてやる。ただし一分で出ろ」

 冷たい声にゾッとした。

「すみませんっ……よいよ、わし、調子乗っとりました。もう二度としません……すみませんっ……」

 エレベーターが止まり、五十嵐は無言で出ていく。怒りのオーラがメラメラと立ち昇っているようだった。

「でもよいよ……何かしようとか、やましいことは考えとらんくて……」

 五十嵐は足早に廊下を進む。

 客室についた。五十嵐は解錠すると、ドアを大きく開け、宗吾に中に入るよう顎をしゃくった。

 宗吾は部屋に入り、荷物の置かれたソファへ向かった。大きなボストンバッグの持ち手を握ると、じわりと涙が込み上げた。

「何をしている。早く行け」

「すみません……五十嵐さん……」

「早く行けっ!」

 動けずにいると、五十嵐が近づいてきた。

 ボストンバッグを持ち上げ、宗吾の腕をグイッと引っ張る。

「五十嵐さんっ……すみません……もうしませんっ……あいつとも縁を切りますっ」

「そんなことしなくていい」

 そっけない言葉に焦りが募る。あっという間にドアの前につく。

「じゃ……じゃあ、どうしたら許してくれますか……」

 震える声で問うと、やっとこちらを見てくれた。でも冷たい目を直視するのが恐ろしく、宗吾は咄嗟に俯いた。

 ボストンバッグが床に落とされる。次の瞬間、抱きしめられた。

「怒ってないから、そんな顔をするな」

 息子に使うような優しい声音に、胸が押しつぶされそうになった。

「じゃ、じゃあ……ここにいても良いですか……」

「ダメだ。さっき一緒にいた子と飲みに行け」

「わし、あいつとはよいよ、何もないんです」

「わかっている」

 五十嵐はクスリと笑い、体をわずかに離すと宗吾の顎をつまみ上げた。自分を見る目は予想に反して優しい。

「悪いな。ホテルに一人で泊まれと言ったのに、追い出すような真似をして。お前は何も悪くない。これは俺の問題で、謝らなきゃいけないのは俺の方だ」

 五十嵐の親指が宗吾の目元を拭う。

「さっきは苛立って、冷たい態度を取ってしまった。お前たちがあんまりお似合いだったんでな。嫉妬したんだ」

 五十嵐らしからぬ冗談だった。

「この埋め合わせは必ずする。今日はすまないが違う場所に泊まってくれ」

 何か事情があるのだろうと察し、宗吾は力なく頷いた。ボストンバッグを拾い上げ、ドアに手をかける。

「宗吾」

 振り返るとキスされた。五十嵐は優しく微笑むと、「抱かれるなよ」とからかうように言って、宗吾を送り出した。



 エレベーターが一階に到着する。四機向かい合うように並んだエレベーターホールには、外国人観光客の他に二人組の男がいた。二人組の男は向かい側のエレベーターの前にいて、背中しか見えないが、カタギではないと一目でわかった。

 二人組の男が振り返った。近づいてくる。宗吾はエレベーターを閉めようとしたが、男の足の方が早かった。

 男は入るなり、五十嵐のいる23階のボタンを押した。嫌な予感が膨らむ。

 宗吾は押せるだけボタンを押した。時間稼ぎだ。

「なにしとんじゃっ!」

 男がいきなり胸ぐらを掴んできた。エレベーターが閉まり、ゆっくりと上昇し始める。「おい……そいつ甲斐とちゃうか」

 もう一人の男が言う。『2階です』と女の自動音声が流れ、ドアが開いた。

 宗吾はボストンバッグで男を押し退け、エレベーターを飛び出した。ドアが閉まるのを確認し、上昇ボタンを押す。

 そいつ甲斐とちゃうか。

 ボートレーサーとしてはまだ無名。男が自分を知っているのは五十嵐絡みで間違いない。

 到着したエレベーターに乗り込み、宗吾はスマホを取り出した。発信すると、五十嵐は3コールで出た。

「五十嵐さんっ! 二人組の男があなたを探してるっ! 23階に」

 言いかけ、ギョッとした。開いたドアから二人組の片割れが入ってきた。

「誰にかけとんじゃっ!」

 詰め寄られ、ガッと腹を蹴られた。背を壁にぶつけ、床に崩れ落ちる。

『宗吾っ』

 五十嵐の声は、男がスマホを取り上げたことで遠ざかってしまった。

 胸ぐらを掴まれ、顔面を二度殴られた。

「若頭さんよお。ええ加減にしいや。俺らはトカゲの尻尾じゃねえんだよ。用が済んだらハイサヨナラなんてあんまりじゃねえか。今から連れがあんたんところ行くから待っとき!」

 男はスーツの内ポケットから細い何かを取り出すと、躊躇なくそれを宗吾の肩に突き立てた。

「うぁっ」

 痛みと滲み出す血液で、男の手に握られたものが鋭利な刃物だとわかった。

「待っときや。でなきゃあんたの女、殺すで」

 皮膚に深く突き刺したそれを、男はゆっくりと動かす。苛烈な痛みに思わず金切り声が出た。五十嵐に聞かせまいと手で口を塞ぐ。

「わかったなっ!」

 男がスマホに向かって怒鳴る。エレベーターが23階で停まり、開いた。

 男が駆け出す。宗吾も必死にその後を追いかけた。痛めつけられた傷口から血液がダラダラと腕を伝って床に染みを作る。

「待てやっ!」

 宗吾は怒鳴った。腕を伸ばし、客室の前で男の襟首を掴む。振り返った男が強烈なパンチを繰り出し、喉仏に当たった。

「邪魔すんなやっ!」

「かっ……うぇっ」

 膝から崩れ落ち、腹部を払うようにして蹴られ、その場にうずくまる。男がドアノブに飛びついたのと同時、中から

 パン、

 と銃声が響いた。

 男がドアを開け、中へと飛び込む。

 パン、パン、と立て続けに二度、銃声が聞こえ、宗吾は戦慄した。立ち上がることができず、這うようにして客室へ向かう。ドアが開いたままなのは、うつ伏せに倒れた男がストッパーとなっていたからだ。男の腹のあたりから、鮮血が床を染めていく。

「宗吾っ」

 男に気を取られていた宗吾は顔を上げ、五十嵐の無事を確認した。

「五十嵐さんっ……」

「宗吾……ああ……可哀想に。他は……どこをやられた? 立てるか?」

 五十嵐は駆け寄ると、膝をついた。

「わ、わしは平気です……五十嵐さんは……?」

「心配いらない」

 五十嵐はネクタイを外し、宗吾の腕にキツく巻きつけた。

「じきに警察か、こいつらの仲間が来る。行くぞ」

 宗吾は五十嵐に支えられながら、シンと静まり返った廊下を進んだ。エレベーターホールを通り過ぎ、非常階段に通じるドアを開ける。

 廊下と違い、非常階段は無機質な空間だった。蛍光灯には蜘蛛の巣がかかっている。

「悪いが病院には自分で行ってくれ。喧嘩とか適当に嘘をついて。絶対にここで被害に遭ったとは言うな」

「五十嵐さんは……これからどうするんですか?」

「安全が確認できるまで上で待つ」

「ならわしもっ……」

「ダメだ。治療を優先しろ」

「わし……」

「宗吾……」

 五十嵐は宗吾の頬をそろりと撫でた。

「俺のもんになるか」

 胸がチクリと痛んだ。望んでいたはずなのに嬉しくない。五十嵐には男よりも家族を優先してほしい。

「……パパがそがいなこと言うたらあかんで」

「嘘をついていた」

 目で先を促す。

「妻も、息子も本当はいない。姉に頼まれて父親を演じていただけだ」

「え……」

 節操がない心はまんまと弾んだ。

「じゃあ……わしだけだったん……抱いてたん」

「ああ」

「でも……あんたが父親放棄したら、拓也くんが可哀想やわ」

「姉には『まともな父親』を頼まれていた。だから一緒に住むこともできないし、たくさん嘘をついている。拓也は賢い子だ。そのうち不信を抱く。俺は身を引いた方がいい」

 五十嵐の呼吸がやや乱れていることに、宗吾は気づいた。視線を落とす。腹部を押さえた五十嵐の手が、真っ赤に染まっていた。



 五十嵐とはそれきりだった。連絡がつかなくなって丸五年が経つ。

 ただしメールの送信はできるため、宗吾は八百長を続け、その内容を毎回五十嵐に送っていた。八百長は五十嵐との繋がりだった。返信がなくても、きっと五十嵐は文面を見て舟券を買い、利益をあげているに違いない。自分は役に立っている。やめるわけにはいかなかった。

『奥さんから聞きました。甲斐さん、ヤクザと繋がっているんですよね? その人、信用しない方がいいと思います』

 スマホ越しに、芹沢凛義は焦っていた。

『オッズが歪んでいます。その人、欲張って、捨て金も全部投入したんじゃないですか? そんな人と組んでいたら足元掬われますよ。不正がバレたら、俺たちの選手生命は終わるんですから、付き合う人間は』

 ドキッとした。スマホを握る手に力がこもる。

「なんて?」

『付き合う人間は選ばないと』

「ちゃう、その前……オッズが歪んでるって、ほんま?」

『はい。明らかにおかしいです。奥さんが八百長を疑われたのも、そのせいだと思います』

「……マジか」

 目の前の景色が開けたような気がした。

『ヤクザとは縁を切ってください。俺が、信頼できる協力者を見つけます』

 広がった景色が涙で滲んだ。

『甲斐さん、聞いてますか?』

 あの日……住之江の最終レースで八百長をすると芹沢から連絡を受けたあの日、宗吾は五十嵐にその旨を伝えた。

 芹沢は連勝中で、1号艇であのレースを迎えた。そして4号艇には勝率8超えの奥がいた。あのメンツで、井岡を軸に3連単を買う人間がいるとは思えない。

 いや、もちろんゼロではないだろうが、オッズが歪むほどの高額を投入する人間などいるわけがない。金をドブに捨てるようなものだ。

 それができるのは、八百長を知っていた人間。……五十嵐だけだ。

『甲斐さん?』

 五十嵐はオッズの歪みを気にしていた。でも、五十嵐だって失敗することはある。それに出走者は自分ではなく芹沢だ。バレたところで捜査の手が伸びることはないと考えて、大胆に張ったのかもしれない。

『新しい協力者、探しておきますからね』

 スマホが手から抜け落ちた。

『……甲斐さん? どうしたんですか?』

 ほら……

 浅い呼吸を繰り返すうちに、口角が上がった。

 ほらな。

「やっぱ生きとったやん……」
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