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兵馬俑

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 ドライバーつき……といってもチンピラ風の若者が運転する車で乗り付けたのは、敷居の高そうな料亭だった。入り口へと続く踏み石の周りには玉砂利が敷き詰められており、どこからかししおどしの清々しい水の音がする。

 女給に通されたのは、二人で食事をするには広すぎる和室だった。向かい合って座る。五十嵐は胡座をかいても品があった。ネクタイを緩める動作もいちいち格好いい。

「八百長か」

 料理が揃うと、五十嵐は言った。狼狽える宗吾を見て、唇だけで笑う。

「デビュー二ヶ月。賞レースで勝ったとしても賞金が入るのは当分先だろう。お前がいくら筋の良いレーサーでも、二百万なんて大金は払えまい」

「……」

 五十嵐は杯を差し出したが、宗吾が受け取る余裕もないと見ると苦笑し、「未成年だったな」と言って引っ込めた。

 反射的に反発心が湧いた。宗吾はひったくるようにして杯を受け取り、一気に飲み干した。机に置こうとすると、

「返すのが礼儀だ」

 と五十嵐が言う。そういうものかと、宗吾は杯を返した。

「次はお前の番だ」

 五十嵐に銚子を差し出され、受け取る。彼が持った杯に酒を注いだ。

「いくら賭けた? 二百万というのは純利益だろう。唐津最終日の12レース。お前はデビュー二ヶ月目の新人でありながら、2番人気だった」

 銚子に添えた指がぴくりと跳ねた。引っ込めようとすると、「まだだ」と言われ、いっぱいまで注いだ。

「答えろ」

 五十嵐は杯を口元へ運んだ。宗吾を睨んだまま、一気に飲み干す。

 五十嵐は八百長を確信している。誤魔化すことはできないと観念し、宗吾は答えた。

「……四十万……わし……オレの金、全部です」

「四十万が二百万か……」

 五十嵐は宗吾の手から銚子を取り上げると、自ら杯に注ぎ、また一気に飲み干した。すでに宗吾の喉は焼けるように熱い。まるで水のように酒を飲み干す男が信じられなかった。

「俺は競艇には詳しくないんだが、だいたい1レースの売り上げはどれくらいなんだ」

「え……っと」

 パッと頭に浮かんだのは、数年前の賞金王決定戦、グランプリでの悲劇だった。1艇が転覆し、後続艇が3艇それに巻き込まれた。完走したのは2艇だけとなり、3連単・3連複が不成立となってしまい、売上金四十二億のうち、四十一億が返還となった。ボートレース史上に残る返還額のため、よく覚えている。

「一番大きなレースで、四十億……とか」

 五十嵐はクスッと笑った。

「それはすごい。だが俺が聞いているのは一般戦だ」

「それは……わかりません。すみません」

「八百長をやってみて、どう思った。たとえば他のレーサーもやっていると思うか」

 次々と質問を投げかけられ、宗吾は必死に頭を巡らせる。

「やっていると思います」

「どうしてそう思った」

「競艇は6艇の勝負です。ひとりが飛ぶだけで、3連単の買目は半分の60通りになる。そりゃ……よっぽど弱いレーサーじゃ飛んだところで利益は出ませんけど、そこそこ実力があれば、確実に利益を出すことができる。確実にできることを、誰もやらないわけがない」

 五十嵐は納得したように頷いた。

「その推察は正しいな。俺もそう思う」

 八百長という、レーサー仲間と語れないタブーだからか、宗吾はどこかこの会話を楽しんでいた。

 利益を見た時、恐怖を覚えつつも、本当はもっと知りたかった。これっておかしいよな、と誰かと語りたかった。

「だが、それは施行者も承知のはず。不審なレーサーがマークされるということはないのか? まさか野放しということはないだろう」

「……そこまではわかりません。オレはまだ新人です。八百長があることすら疑ったらダメやと思います」

 五十嵐は思案するように黙り込んだ。その端正な顔を窺いながら、きっと自分はこの男に利用されるのだなと宗吾は悟った。不思議と抗う気持ちは湧かなかった。それどころか安堵すら覚える。八百長をやると決めた時の、張り裂けそうな胸の痛みはまだ癒えない。けれどこの男に隷属すれば、あの選択も強制されたものだと自分を騙せるような気がした。

 自分はあの選択を、誰かに押し付けたいのだ。八百長を行ったという疾しさを一人で抱えたくないのだ。

「三年」

 長い沈黙を経て、五十嵐は言った。

「三年で、お前はどこまでいけそうだ? ボートレーサーには階級があるだろう」

「一番上のA1には、三年もあればいけると思います」

 五十嵐は笑った。笑うとガラリと印象が和らぐのは、もともとの顔立ちが柔らかいからだろう。

「その自信はどこからくるんだ」

「わ……オレは同期38人中、2位の成績で訓練を終えました。今、オレの上にいるのは、先輩ではあるけれど、卒業時には3位以下のレーサーばかりです。彼らを出し抜くことが、そこまで難しいとは思えない」

「なるほど」

 五十嵐は愉快そうに言った。

「お前がA1レーサーになったら、俺はお前を利用する」

「……それまでは、オレを利用しないというわけですか」

 五十嵐は、言葉の他意を見抜こうとするかのように、ジッと宗吾の顔を見た。

「使い勝手の悪い拳銃は嫌いなんでね。中国製が出回っても、俺は絶対に手を出さない。暴発して、弾が自分に飛んでくるなんてこともあるからな」

 闇金事務所での会話を思い出す。五十嵐は警察を警戒していた。八百長も安全でなければ手を出さないということだろう。

「じゃあ、何製が好きなんですか」

 宗吾が聞くと、五十嵐はおかしそうに肩を揺すった。首を傾げ、宗吾を見つめる。五十嵐に見つめられるとなんだかそわそわしてしまう。出身は、年齢は、他にも聞きたいことが次々と浮かぶ。

「イタリア製。ベレッタAPXが、俺は好きかな」

 使い勝手のいい駒になれば、この人は自分にも好きと言ってくれるのだろうか。

 五十嵐が目を細める。まつ毛の一本一本が長くて太い。自分はやっぱり男が好きなのだなと、宗吾は確信した。



「トップルーキー」と呼ばれる育成制度がある。毎年、選手登録六年未満の上位十五名が選出され、選出された若手有望株は、グレードの高いレースに斡旋されたり、特別訓練を受けたりと、さまざまな形で優遇される。

 宗吾は三年目、二十歳でトップルーキーに選出された。

 十二月上旬、トップルーキーに選ばれた十五名の選手は、東京の競走会本部に呼び出された。メディア対応や、今後のスケジュールについての説明を受けるためだ。

「奥」

 振り返った奥が、驚いたように目を丸くした。

「甲斐っ?」

「いつもわりゃはわしの前におったけん、やっと追いついた。ま、欲を言えば出し抜きたかったんやけど」

「髪、どうしたんだ……」

「どうしたって、脱色して、染めたんよ。なかなか似合っとるじゃろ?」

 宗吾は伸ばした髪に手を突っ込んだ。脱色を繰り返した髪は、犬の毛のようにパサついている。

「雰囲気、変わったな」

 まじまじと顔を見つめられ、どきりとした。

「そら変わるじゃろー、こんだけ変えたら」

 半年前から、宗吾は五十嵐の指示で再び八百長に手を染めていた。大胆なイメチェンは、不正によって変わったかもしれない雰囲気を誤魔化すためのカムフラージュだ。

「恋人でもできたか?」

 大真面目な顔で問われ、宗吾は吹き出した。

「んなわけあるか。訓練訓練、色気のない毎日よ」

 奥は納得いかないというふうに、宗吾の顔を見つめる。

「とうとう人妻に手を出したのかと思った」

「はあ?」

「広島支部の本郷さんから聞いたぞ。お前が一回り年上の人妻に惚れ込んでるって」

「う……わ」

 あの時だろうとすぐに察しがついた。五十嵐に妻と子供がいると知った日、ちょうど先輩レーサーに誘われ、飲み会に参加したのだ。「お前、女はいねえのか」と問われてつい、「好きな人ならいる」と答えてしまった。「でも、子持ちなんです」とも。

「で、子持ちはやめとけって?」

 挑発するように問う。

「相手を知らないからなんとも言えない」

「ははっ、わりゃ、やっぱおもろい……いや別に、言うてることは確かにその通りやけん……なんかわりゃが言うとおもろいんよ」

「今度会わせてくれ」

 さすがに驚き、激しく瞬きした。

「えっと……冗談?」

「本気だ。お前がどんな女性を好きになるのか興味がある」

 冗談で言っているようには見えない。人の気も知らないで、とわずかに怒りを覚えた。

 宗吾は顔から笑みを引く。首を伸ばし、奥の耳に囁いた。

「わし、男が好きなんよ」

 奥の反応に満足し、宗吾は奥から離れた。

 ちょうど集合の合図がかかった。

『BOATRACE』の文字がプリントされた壁を背に、十五人の選手が二列に並ぶ。

「今年もトップルーキー十五名が選出されました。彼らは一年間、さまざまな形でプッシュされ、グレードの高いレースにも優先的に斡旋されます。また、ステータス向上を目的に、特別仕様のレーシングスーツが配られます。今年のデザインはブルーを基調としたこちらです」

 レポーターが手で示した先には、ブルーのレーシングスーツを着たマネキンが立っている。奥が似合いそうなデザインだなと宗吾は思った。自分はどうだろう。

 1着を取ることよりも、五十嵐の期待に応えることにやりがいを見出した自分は、あの色を纏えるだろうか。
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