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兵馬俑

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 レースを終え、宗吾は父が入院している病院へと直行した。デビューと同時に契約したアパートには二月近く帰っていない。

「おお、宗吾」

 一命を取り留めたものの、父の容体は深刻だった。首を強く打ったことで下半身に麻痺が残り、退院後は車椅子生活になるという。

「あ、こんにちは」

 ベッドのそばにいた看護師が宗吾に笑いかける。

「マユミちゃん。かわええじゃろう。わしゃやねこいけん、マユミちゃんに毎日元気もらっとるんよ。じゃけえ心配せんでええがよ」

「別に心配はしとらんよ」

 母の死後、宗吾は父の病室を個室に変えた。入院費は高くなったが、同室の入院患者に会話を聞かれるよりはいい。

「すんません、父ちゃんと二人きりにさせてもらえますか」

「なんやつれない。こんな美人を前に何気取っとるん。男なら連絡先くらい聞き! なあ?」

 父が看護師に同意を求める。看護師は困ったような笑みで宗吾を見たが、なんとなく馴れ馴れしいものを感じ、宗吾は不愉快になった。

「出てってください。わしは父ちゃんと話がしたいんです」

 そっけなく言うと、看護師はムッと目尻を吊り上げた。

「マユミちゃん、ごめんなあ。こんな、緊張しとるみたいやわ」

 看護師はぎこちない笑みで返すと、さっさと病室を出ていった。

「あれはないで」

 看護師が出ていったドアを眺めながら、父が口惜しそうに言う。母の死後、父は変わった。明るくなった。今日、特に明るいのは、八百長が成功したからだろう。

「父ちゃん、上手うやれた?」

 宗吾が聞くと、父は「おう!」と得意げに言った。

「言われた通り、わりゃを抜いた3連単、60通り! 40万注ぎ込んで、純利益」

「そがいに、でかい声で言うなや」

 宗吾は父の言葉を遮った。個室とはいえ、大きな声で話せば廊下に聞こえる。

「スマホ、見して」

 促し、配当金を画面で確認する。たかがB2レーサーが一人飛んだだけ。それでも二百万円近くついていて、宗吾は恐ろしくなった。レースのグレードにもよるが、これでは優勝するより、手を抜いて走った方が稼げてしまう。そしてこの方法は強いレーサーほど効果的。だが真剣勝負を放棄し、金を選んだレーサーに未来はないだろう。たとえ一回きりだとしても。

「すごいじゃろ」

 イタズラを思いついたような父の声に、カチンときた。

「どこがや」

「……すまん。確かに、もっと上手う賭けとったら、こんなもんやなかったよなあ。せっかく宗吾が飛ぶて教えてくれたのに、わしゃあ情けないわ。次は」

「次っ!?」

 はらわたが煮えくりかえるとはこのことかと思った。病床の父の胸ぐらを掴んで揺さぶる。

「次なんかない! これきりじゃっ! わしのレース見とったろっ! なんで転覆したかわかるかっ! 減速すんが、どうしても嫌やったからじゃ! 手え抜いて負けんのが、死ぬほど嫌やったからじゃ! じゃけえ無理な旋回で転覆狙ったんじゃっ! 4回成功してっ、トップ走っとって、なんでこれで負けなあかん思いながら、死ぬ気でターンマーク突っ込んで転覆したんじゃっ!」

「す、すまん……わしが悪かったわ……」

 弱々しく言われると、怒りよりも悲しみに襲われた。

「すまん……よいよ、よいよすまん……そうじゃな。こんなんバレたら、宗吾、大変なことになるもんな。わしゃ、考え甘かったわ。せっかくレーサーなれたのに、わしが足引っ張ったらいかんよな」

 宗吾は荒い息を吐いた。

「……わしも言いすぎたわ」

 胸ぐらを掴む手を離した。

「……金、下ろして、闇金行ってくるわ」

 宗吾は父に委任状を書かせ、銀行へと向かった。窓口で全額引き出す。借金は五百万だが、とりあえずはこの金で闇金の取り立ても落ち着くだろう。



 パブやヘルスの入った雑居ビルの五階が闇金事務所だった。事務机が並んだ室内はどこにでもあるような中小企業の趣だが、男たちはゴロツキだ。肌に彫んだ刺青を隠そうともしない。

 でも今、この空間で最も異質な存在は、全裸にされた上で、シャッターを浴びている自分に違いなかった。

「ええ体しとんな。レーサーさんは」

 宗吾に「脱げ」と命じた男が立ち上がり、ゆっくりと机を回って宗吾の元へ歩いてきた。油ぎった顔の中年男で、眉間には深い皺がある。

「尻は引き締まっとるし肌はぴちぴちじゃ。お袋さんとえらい違いやな」

 尻を鷲掴みされ、総毛立った。振り払いたいのを懸命に堪え、宗吾はまっすぐ前を見つめる。それを忍耐と思ったのか、男は「さすがやなあ」と感心した。

「あの父親の息子なだけはあるわ。わしやったら殺しとるで、あんなドクズ。お袋さんも苦労して苦労して最後は飛び降り自殺て、よいよ気の毒やわ」

「母ちゃんが死んだんは、あんたらが執拗に取り立てしたからやないですか」

 宗吾は毅然とした声で言った。部屋にいる数人の部下たちが一斉に笑った。

「何がおかしいんです。母ちゃんにも同じことしたんでしょう。あんたら鬼ですわ」

 また笑いが生まれ、ますます惨めな気持ちになった。

「なんや、勘違いしとるみたいやな」

 男はポリポリとスキンヘッドの頭をかいた。

「わりゃのお袋さんはな、わりゃの親父に言われて服脱ぎよったんじゃ。わしが要求したんはたった五万円の利息じゃ。それも払えんてどういうことやて責めたら、あのドクズ、今度は女房連れてきよった。これで勘弁してくださいて、ここ」

 男はタバコをにじり潰すように、床を足でこすった。

「ここに頭ひっつけて、土下座しよったわ。それはそれは見事な土下座やった。なあ?」

 男が部下を見回すと、部下たちはウンウンと頷いた。

「鬼やおもたわ。女房の体、土下座して突き出したんじゃ。普通逆やろ。こいつには手え出さないでくれ言うんが男とちゃうんか」

「……嘘じゃ」

「嘘やない。お前の親父はな、殊勝な鬼なんよ」

 男に足をはらわれ、宗吾はストンとその場に崩れ落ちた。

「そこで這いつくばってろ。お袋さんと同じ目え、合わせたるわ」

 宗吾の背中に男が跨がる。唾液で濡らした指を尻の間に突っ込まれ、毛穴という毛穴から汗が噴き出した。

「お袋さんが死んだんは、わりゃのせいとちゃうんか」

「ぅっ……ひっ……」

 ガサついた太い指が、にゅるりと体内に入り込んでくる。

「わりゃ、調子ええことばっか言いよる親父の方が好きなんやろ。わかるでえ。ヘラヘラヘラヘラ眉尻下げて、憎めないもんなあ」

 探るように、体内を異物が動き回る。不快感で体が悪寒のように震えた。

「お袋さんが気の毒でならんわ。なんで引き止めてやらなかったん。まさかよいよ落っこちると思わなかったんか。そら甘いわ。お袋さんの腹にはな、この中の誰かの子供がおったんよ」

「んっ……うっ、んぅ……」

 ひときわ深く埋め込んだ指で、内側を圧迫される。圧をかけたまま、ずうっと浅いところまで指が這い、ある一点で全身が突っ張った。

「ひ、ああっ」

「ここか。えーがいにしたるげえ、じっとし」

 いやいやと首を振る。

 屈辱で神経が焼き切れそうなのに、いまだ味わったことのない快感に宗吾は翻弄されていた。床に擦れたペニスは硬くなりつつある。

「あっ……んっ……」

 耳に入る自分の声がまるで別人のようだった。歯を食いしばっても、喉ごとこじ開けられるような刺激に抗えない。

「あっ、あっ、ひ……あっ……」

「えらい可愛い声で鳴くのう。レーサーさんは」

 囁き声の直後だった。男は「ぎゃっ」と叫び、床に転がった。

「なんじゃ……」

 宗吾の横に倒れ込んだ男は、顔を上げて血色を失う。唇を戦慄かせ、「い、五十嵐さん……」と震えた声で言った。

 宗吾も顔を上げた。細身のスーツを着た男と目が合う。ゴロツキのような他の男たちとは違い、こちらはエリートサラリーマンのような出で立ちだ。シュッとした顎には髭一本生えていない。

 五十嵐と呼ばれた男はしばらく宗吾を見た後、ゆっくりと隣に目をやった。

 隣の、それまで宗吾の体を弄んでいた中年男が弾かれたように立ち上がる。事務机に飛びつき、引き出しを開けた。中から分厚い封筒をいくつか取り出すと、男は五十嵐の元へと駆け寄った。

 重ねた封筒を差し出す。五十嵐は二十代後半か、三十代前半ほどに見えるが、立場は中年男よりも上のようだ。

「甲斐美奈の件で警察に何か言われたか」

 受け取った封筒の中身を確認しながら、五十嵐は冷たい声で言った。

 五十嵐の口から母の名前が出たことに、宗吾は驚く。

「いや……特に何も……状況から、我々が疑われるようなことはないかと」

「腹に子がいたんだろう?」

「あ、いやっ……さっきのは冗談で……」

「冗談? どこからだ?」

「えっと……その……」

「甲斐美奈をここで脱がせたのか?」

「い、いえっ……なにも……我々は何もしとりません……っ」

「ならいい。坊主、服を着ろ」

 自分のことだと思い、宗吾はむくりと起き上がった。床に放ったままの服をかき集め、視線を浴びながら身につけていく。

「恨みを買うような出鱈目を言うんじゃない。こいつが警察に駆け込んだらどうすんだ」

 五十嵐が中年男をギロリと睨む。

「は、はいっ……すみません……」

「香典を持ってきたのか」

 封筒を確認した五十嵐が、宗吾に問いかけた。よく見ると男の顔は端正だった。スーツは細身だが、体は筋肉質だ。上背もかなりあった。やや下がった目尻は物憂げで雰囲気がある。

「わ……オレの、給料です」

 香典は葬儀代にも満たなかった。

「確かボートレーサーだったな」

「はい……だからあの、借りた金は、ちゃんと返しますんで……」

 五十嵐はスッと目を細め、わずかに口角を引き上げた。妖しい色気を纏った笑みに、宗吾は思わず見入ってしまう。

「飯、食い行くか」

「えっ……」

 五十嵐は踵を返し、ドアへと向かう。部下が慌ててドアを開け、五十嵐が出ていく。

「なにボケっとしとんじゃ! はよう行けっ!」

 中年男に背中を押され、宗吾も部屋を出る。足音を追いかけ、階段に五十嵐の背中を見つけると、なぜか胸が弾んだ。
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