オッズ

兵馬俑

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オッズ(3)

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 甲斐はモーターボート競争法違反の疑いで逮捕された。自首だった。

「芹沢っ! ちょいっ! 待てやっ! おいっ!」」

 東京の競走会本部の前で、凛義は蒲生に呼び止められた。蒲生は八百長レーサーだ。

「お前っ……俺のこと売るんやないやろなっ……」

「売りませんよ」

「ほんまかっ? 自首するんやったら、自分一人でしいやっ! 他を巻き込むんやないぞっ!」

 胸ぐらを掴まれた。

「こんなところを見られたら、怪しまれますよ」

 凛義が本部を見上げると、蒲生は舌打ちして離れた。

「ほんまに自首するんか……?」

「はい。もう、この仕事を続けられる気がしないので」

 蒲生は怪訝そうな顔をした。凛義はぺこりと頭を下げ、正面玄関へと歩き出した。

 調査室は面接会場のようだった。五人の幹部が長テーブルに座っている。壁際にも十人ほどの関係者が険しい顔つきで立っていた。

「わかった。今後は二度とそのような不正をしないと誓約書を書いてもらおう」

 聞き取りを終えると、一番年嵩の男が言った。

「え」

 凛義は虚を突かれた。

「これまでの不正は、不問に付す」

「いや……俺、辞めます。そのつもりで今日は来ました」

 当惑の滲んだ声で言うと、男は破顔し、明るい声で言った。

「安心したまえ。うだつの上がらないB級レーサーならともかく、きみはトップルーキーだ。確かに八百長はけしからんが、それだけ技能があるとも言える。きみはボートレース界に必要な人材だ」

「それに、八百長を主導していたのは甲斐選手だろう。きみは甲斐選手に目をつけられ、八百長に誘われた。いわば被害者だ。選手を辞めるほどの責任はない」

「いや……でも俺、」

「処分がないことに疾しさを感じると言うのであれば、半年間の出場停止期間を設けよう。それで今回の件は全て水に洗い流し、心を入れ替えて再出発したまえ」

「いや、俺もう」

「我々はこれ以上、ボートレースのイメージを落としたくないのだよ。甲斐の逮捕だけでも大打撃だというのに、きみまでも八百長していたとなれば、ボートレースが信用を失うだけでなく、ひいてはJRA、JKAといった公営ギャンブル全体の存続問題に関わる。辞めるのは簡単だが、残されたレーサーはどうなる? 背信行為をしたきみは問題だけを残して業界を去り、真面目なレーサーが割を食うのか?」

「それは……」

 パッと頭に過ったのは、奥秀人の顔だった。自分が辞めることで奥が割を食う……そう思うと、凝り固まっていた胸がぐらついた。

「きみに良心があるのなら、甲斐選手が落とした信頼回復に尽力しなさい」

「……」

「半年間の出場停止」

 有無を言わせぬ口調だった。凛義は頭を下げ、調査室を辞去した。

 複雑な心境だった。八百長をすることで自分は精神を保っていた。半年休んで復帰したところで、また同じことを繰り返すだけなんじゃないか……

「芹沢くん?」

 エレベーターが来るのを待っていると、誰かに名前を呼ばれた。

 振り返った凛義は息をのんだ。

「井岡……さん」

「珍しいね。何してたの?」

「あ……いや……井岡さんこそ、何しに来たんですか?」

「俺、辞めるんだ。だからパワハラとかいじめがなかったかとか、聞き取り調査で呼び出された」

 井岡はからりと言ったが、凛義は動揺した。辞める原因を作ったのは自分だ。

「すみません」

「やめろよ。きみにいじめられた覚えはないよ」

「でも、辞めろって言いました」

 井岡は「ははっ」と快活に笑った。

「そうだったな。……あれは堪えた」

「すみません」

「だから謝るなって」

「井岡さん……奥さんに1着を譲られたと思っているんですよね?」

 言うと、井岡の頬がぴくりと痙攣した。

「違うんです。井岡さんを1着に押し上げようとしたのは、本当は俺なんです。別に、井岡さんを助けたかったわけじゃない。八百長のためです。人気のない井岡さんを前に行かせれば、配当が高くつく。俺はそう思ってあのレースに臨みました。本当に、すみませんでした」

 深く頭を下げた。

「……なんで」

 しばらくして、沈んだ声が降ってきた。

「なんで、俺には才能がないんだろうな。俺がきみだったら、その才能を余すことなく使うのに……」

 凛義は顔を上げられない。長い沈黙を挟んで、井岡は言った。

「前に俺、『勝っても嬉しくないんだろ』って言っただろ。そうしたらきみは、『ギャンブルだろうが』って答えた。きみは、ギャンブルが嫌いか?」

 凛義はゆっくりと顔を上げる。井岡は住之江の時のような、同情の眼差しでこちらを見ていた。

「……嫌いです」

「レースをギャンブルとしてでしか、考えられない?」

「……はい」

「そうか。それはしんどいかもな」

 エレベーターのドアが開いた。井岡が「下?」と聞く。「はい」と答えると、「一緒に降りよう」と誘われた。誰もいない箱に二人で乗り込む。

「あの日、俺に大金を賭けてくれた人がいたんだ」

「っ……いくらですか?」

 井岡は照れくさそうに笑った。

「九万。……バカだろ? こんな崖っぷちレーサーに九万なんて、正気の沙汰じゃない」

 凛義は絶句した。オッズの歪みの原因を、まさかこんなタイミングで知ることになろうとは。

「結果的に、彼には恐ろしい額の配当金が入った。でも、彼は儲けたくて俺に賭けたわけじゃない。……ただ、俺を勝たせたかったんだ」

 エレベーターが一階に到着し、井岡に続いて外へ出る。

「きみにもいるんじゃないのか。金のためでなく、純粋に一人のレーサーとしてきみを応援してくれる人が」

 弟の顔が浮かんだ。

「……います」

「その人の期待に応えるだけでも、俺はいいと思うけど。ギャンブルは途方もないよ。途方もないものを相手に苦しんだって、解決策なんか見つからないと思う。……まあ、負け続けた俺が偉そうに言っても説得力ないけどさ」

「いえ……あの……」

 失礼かもしれないが、どうしても聞いてみたかった。

「井岡さん……競艇ファンから罵倒されたり、しないんですか?」

「ははっ、それ俺に聞く? ……そんなのしょっちゅうだよ」

「ムカつかないんですか?」

「そりゃあムカつくけど……そういうものだと思って割り切ってる」

「……すごいですね」

「すごくないし、割り切れないきみが悪いわけでもない」

 二人で屋外に出る。

 競走会本部は東京オリンピック開催前に完成した。六本木という街に相応しい瀟洒な十階建てで、周囲にはカフェやホテルが立ち並び、緑地帯が美しい。

「まあ、しばらく休むなら、引退した人から話聞いたり、ファンと交流したり、ちょっと違うことやってみなよ。何か心境の変化があるかもしれないし」

「どうして……俺が休むって知っているんですか?」

 屋根の下で井岡は足を止めた。凛義を見てにこりと笑う。

「きみみたいな優秀なレーサーを競走会が手放すわけがない」

「……俺は、レーサーを続けても良いんでしょうか」

「続けるんだったら、俺は応援するよ」

 胸がギュッと締め付けられた。

「じゃあ、行くよ。応援してる」

 屋根の下から井岡が出ていく。その姿が見えなくなっても、凛義の鼓動は一向におさまる気配がない。

 違う。俺は、励ましの言葉が欲しかったわけじゃない。お前なんかレーサー失格だと、罵倒されたかったのだ。

 気づくなり、凛義は走り出した。歩道を曲がったところで井岡を見つけ、「井岡さんっ」と声を張り上げる。井岡の背中がビクッと跳ね、けれどこちらを振り向こうとはしない。

 彼の前に回り込んだ凛義は、「あっ」と思わず声を上げた。そっけなく視線を斜め下に向けた井岡の目には涙が滲んでいる。

「……なにしにきたんだよ」

「……本当のこと、言ってください」

「本当のことって?」

 苛立つ声。さっきとはまるで別人だった。

「俺はレースをギャンブルとしてでしか考えられない……金を賭けてるファンのことが、嫌いで嫌いでたまらないんです。こっちは真剣勝負をしているのに、奴らは金がかかっているというだけで選手を人間としてではなく駒だと思い込むっ……だから平気で罵倒する。井岡さんは一人の期待に応えるだけでも良いって言いましたけど、俺はそうは思わない……思えないんです」

 自分の中ではとっくに「向いていない」という結論が出ている。なのに誰もそれを言わない。

 井岡はもううんざりだというふうに、震えるため息をついた。

「きみが罵倒されるのは、負けた時なんだろ」

 凛義は言葉の意味がわからなかった。

「俺が、ボートレーサー人生の中で、一番罵倒を受けたのは、あの日だった」

 頑なにこちらを見ようとしない井岡の目尻から、ツウっと涙がこぼれた。たまらないというふうに目を閉じ、拳をきつく握りしめる。井岡は辞める。きっと誰に引き留められることもなく。

「俺が罵倒されるのは、勝った時なんだ」

「っ……」

 想像しただけで背筋が寒くなった。言葉を失う凛義を置き去りにして、井岡は足早に去っていく。遠ざかる背中が「もう関わってくれるな」と訴えていた。
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