後宮の棘

第9章 使、命

第326話 寒い

もしやと思って作っておいた煙幕が思いの外役に立ったな、と東左はほくそ笑んだ。

おかげで、なんとか逃げ果せることができそうだ。


はじめから退路は考えていた。


紫瑞陣営には元々から戻るつもりはない。

このまま市中側に逃げて民に紛れてまた機会を狙えばいい。

本当であればここで始末を付けたかったのだが、どうやらこれ自体があの女の術中にハマっていたのだ仕方がない。

後ろから追いかけてくる足跡は３人分。

やはり追いかけきたか。

チッと舌打ちをする。

いくつか暗器を投げたり仕掛けて足止めを狙いながら目的の階に到着する。


ここから関塞上部に出られる。

勝った。


自然と口元に笑みが漏れた。

いつの間にか雨が上がり、目の前には広い夜空に星が瞬いていた。


外に出てしまえば、あとは関塞の縁を乗り越えるだけだ



窓枠を超えると外気が頬に触れる。



今日は月があるせいか明るい夜だった。

逃げるのには少し不向きであるが仕方がない。

そう思った所でおや？っと違和感を感じる。


視界に入ってきた、黒い影



認識した時にはすでに遅かった。


「グッ！！」

腹に強烈な衝撃を感じて、状況が確認出来ないまま体が二転三転と石造りの床に打ちつけられた。


「逃すかよ」

地の底から響くような低い声だった。


片膝をついて受け身を取る。

この声を自分はよく知っていた。

月明かりをバックにゆらりと立ち塞がった影は


「冬隼！」

「殿下！」

追いついてきた2人の女性の声が夜空に響いた。

目の前の男は、、紅冬隼。

主人がもっとも恨んだ男。


この男を苦しめるために自分は働いた。


この男を道連れにせよ


どこかでもう亡い主の声がするような気がした。

妻が無理なら大元のこの男を消せばいい。

そうだ、まだその手があった。



ゆらりと東左は立ち上がった。
腹にずきりと痛みが走る。おそらく骨が数本折れている。それでも戦えない怪我ではない。


腰の双剣をゆっくり抜く。




「そうだ、お前達の目的は俺のはずだ」

チリっと彼が腰の剣を鞘から浮かせたのが分かった。

その鞘から少しだけ顔を見せたその刃は、月明かりを反射してギラリと光を放った。

陰になって表情の見えない彼の双眸だけが妙に光を放っていた。


一撃で、仕留めてやる。


双剣を握りなおすと地を踏みしめた。



3歩で間合いをつめる、紅冬隼は身動きすらしない。

どうやら速さについてこられなかったらしい。

口元に笑みがもれた。


これで任務は終了だ。


そう、思った。

そのはずだった


「遅い」

気がついた時には、自分の体が傾いていた

わけが分からず見上げた奴の姿は先程と変わらない

ただ、ギラリと光っていた双眸が冷たい光を放っていた。


僅かの後、体が冷たくて硬い何かにぶつかった。

視界には満点の星空と月


そして嗅ぎ慣れた生臭い血の香り。


痛みも恐怖も感じなかった。

急速に身体が冷えて行くのを感じる

寒い、ただただ寒い。