後宮の棘

香月みまり

文字の大きさ
表紙へ
上 下
3 / 234
1巻 行き遅れ姫の嫁入り

1-3

しおりを挟む
   二章 


「まさか、今夜も来るとは意外でした。あ、お茶はいかが? それともお酒?」

 冬隼が寝室に入ると、すでに翠玉はそこにいた。
 くつろいだ様子で、腰掛けの手すりに体を預けている。
 しかし、昼間の出来事があった後に、よくこれだけ間が抜けた調子で居られるものだ。
 自分はまだ根に持っているというのに。なんだかそれも悔しいが。

「お前ときちんと話し合おうと思って来た。今日みたいな勝手な事をされる前にな! とりあえず、酒でいい」

 そう告げて、どかりと長椅子に座る。翠玉が立ち上がり、用意されていた酒を注ぐ。杯を受け取り、口に付けようとしたところではたりと止まる。
 いや、待て待て! 毒が入っていたらどうする?
 突然動きを止めた冬隼を、翠玉が不思議そうに見返してくる。
 そして……その顔が次第に楽しそうな笑みに変わる。不意に彼女が、手を伸ばしてきて、杯を奪われる。そしてそれを自らの口に当てて、少量を口に流し込み、不敵に微笑んだ。
 こちらの意図を察知して、危険はないと言っているらしい。
 なんて女だ。彼女から、杯が返された。まだ量はかなり残っている。悔しいが飲み干さないわけにはいかない。杯を受け取るとそのまま中身を一気にあおった。半分やけだ。

「あ、私小さい頃から毒飲み慣れているから、少しの毒じゃ反応しないんだった!」

 飲み干した瞬間、なんとも不吉な言葉が彼女から発せられた。
 ゴホッと咳き込む。とっさに喉に変な力が入って咽せる。クソ! この女は‼
 ひとしきり咳き込み、落ち着いた頃、ギロリと彼女を睨みつけた。相手は相変わらず、不敵に笑うだけだった。

「毒なんて飲み慣れてどうにかなる物なのか?」

 気を取り直して、自分で酒を注いで、あおった。今度はきちんと喉を通っていった。

「多少はね? この国の王室ではやらないの? うちの国では結構やる人多いのよ? 暗殺だらけだったから」

 さも当然と言ったようにケロリと問われる。いったい、こいつの国の内部はどうなっているのだ。兄が暗殺されて、翠玉自身も毒に慣らされて育つほどとは、かなり後継争いが熾烈しれつだったのだろう。
 訓練後に、泰誠と李梨から聞き取った内容を思い出す。

「殿下が警戒するほどには悪い方には見えません! むしろお国ではそれなりに苦労してきたのではないかと思いますよ?」
「そうです。奥方様にとっては、武術は兄上様たちとの大切な思い出! それをお取り上げになるのはあんまりですよ!」

 二人に詰め寄られ力説された。一体午後の数時間で、この女は何をしたのだろうか。自分の部下を一気に味方に引き込んだ。
 二人からきちんと話し合って、お互いに分かり合うべきです! と言われ、明日も朝の訓練に翠玉を連れてくるよう強く要望された。

「あのお方、上手くすれば殿下にとっては最良の伴侶はんりょになるかもしれませんよ。だからきちんと、分かり合って下さいね」

 最後に泰誠が言っていた言葉が蘇る。人を見る目は確かな男だ。奴の中で何かが引っかかったのならば、それは確かめなければならない。

「お前の国では後継争いが盛んだったのか?」

 仕方ないとため息をついて、話を振る。彼女の驚いた視線がこちらに向けられる。なんだ、俺がお前の事を知ろうとするのがそんなに意外か。

「そうね」

 ふっと彼女の表情が和らいだ。

「現皇帝は父の四番目の子よ。その前と同じ年に生まれた全ての男は、みんな成人を待たずに亡くなっているわ。それが何を意味するか、同じ皇族に生まれた貴方なら理解できるでしょう?」
「そうだな……できる。お前の祖国の話を聞かせてくれ! 話はそれからだ」

 彼女が、また驚いたようにこちらを見て、柔らかく微笑んだ。なんだ、そんな顔もできるんじゃないか。冬隼は、ふとそんな事を思い、翠玉の話に耳を傾けるのであった。


 ◆


 風を切る。春の暖かな風が頬を撫でて、過ぎ去る。
 うん、気持ちいい!
 数日間ずっと厩舎きゅうしゃに閉じ込められていた無月もご機嫌で走っている。朝から鍛錬をしたのに、今日はまだまだ元気が有り余っている様子だ。こうして無月と共にいる時間が、翠玉にとってはとても落ち着く時間だ。それはたとえ走る場所が変わっても。

「ねぇ、ちょっと演習場の方まで行ってもいい?」

 馬場を軽く回り、厩舎きゅうしゃの前まで戻ると、坐昧に声をかける。

「大丈夫ですよ! 無月の調子も良さそうですし。でも殿下の言いつけ通り、立ち入り区域は守って下さいね」

 そんな答えが返ってきて、あぁそうだったと自分の後方に神経を集中する。男と女が一人ずつ無月の後ろに同じように騎乗して控えている。二人とも顔がよく似ている。双子のようだ。今朝から、翠玉に付けられた護衛だ。もともと輿入れの際から用意されていたらしく、男の方は宦官かんがんだという。
「護衛なんて必要ない気もするけれど、監視役は必要ですから」と、夫の部下の泰誠に説明された事を思い出して、目を回したくなる。
 まだ夫が完全にこちらを信用していないのはよく分かるが、この二人どう見ても自分よりは弱そうだ。要人の護衛に使われるくらいだ、それなりの力はあるのだろうが、多分翠玉が本気で暴れたら、三十秒で片がつく。きっとそれは夫も泰誠も分かっている。
 少し後方が窮屈になったと思うしかない。
 しかし、悪い事ばかりではなかった。その代わりに、馬場と演習場の一部への自由な立ち入りが許され、その範囲ならば模擬刀を使って鍛錬する事が許可された。
 昨日の夫との夜を思い出す。
 彼はふらりと突然やってきて、祖国での生活について話せと言った。
 仕方なく、あらかた掻い摘んで話して聞かせたところ、盛大に大きなため息をついて「分かった」とつぶやくと「寝る」と言って寝台に向かった。
 え、ちょっとあんた、「話はそれからだ」って言わなかった? 何か話す事があったのではないのか。
 呆然としているこちらを置いて、彼はそのまま布団に入ってしまった。
 この人本当に意味がわからない。慌てて杯や酒を片付けて、自分も寝台に向かう。
 嘘でしょ? 規則正しい寝息が聞こえた。
 さっきまで服毒を疑った女の横で、よくもここまですぐに眠れたものだ。相当疲れていたのか、はたまた翠玉の話が眠くなるほどつまらなかったのか。
 まぁいい、多少腹が立つが好都合と考えよう。夫が寝てしまったので、今日は夜のお勤めをしなくて済むのだ。まだ一度しか経験はないが、アレはあまり好きになれそうにない。痛い上に、翌日まで響く。特に馬に乗る場合は。
 内心少し安心して、翠玉も布団に入った。久しぶりに動いたからだろうか、夫と同じくらいの速さで眠りに落ちた。
 そして朝起きたら、新しい護衛と制約が用意されていた。
 これが「分かった」に含まれるものなのかどうなのかは推し量れないが、かなり緩和されたのは分かる。彼なりに何かを思って動いてくれたのだろうと思う事にした。
 演習場に向かうと、一番端の演習場は無人だった。
 今日はもっと奥の方で部隊展開の訓練をやっているらしい。気にはなるが、そこまで入る事は許されていない。
 あぁつまらない。チラリと後ろの二人の気配を窺う。ピタリと後をついてきている。演習場の入り口まで行き、ゆっくりと無月から降りると、後ろの二人が慌ててそれにならう。

「模擬刀をそれぞれの分用意してもらえる? ちょっと体を動かしたいの」

 そう指示をすると、二人の顔が少し強張る。双子って本当によく似ているものだ。先に動いたのは女の方だ。
「かしこまりました」と言うと、兵舎に向かった。
 そのまま彼女が持ってきた模擬刀を持って三人で演習場に入ると、二人の前に立ちはだかる。

「相手になってくれる?」

 そう笑うと、彼らが一瞬で緊張したのが分かった。

「二対一でいいわ」


 ◆


 屋敷やしきにいるはずの側仕そばづかえが慌てて冬隼の元にやって来たのは、あと一刻ほどで午前の訓練が終わるくらいの時間だった。
 差し出された書簡を確認して、目を剥く。慌てて、泰誠にその場の指導を任せ、騎乗すると厩舎きゅうしゃに向かって走り出す。途中の演習場で、目的の姿を見つけ、唖然とした。

「いい? 貴方はどうしても軸がブレるから、まずは体の中心を意識して打ち込んできなさい」
「ハイ! こうですか?」
「そう! いい感じよ! これを意識しておくといいわ」
「ありがとうございます!」
「そして、貴方は力で攻めすぎ! 自分より強い力の相手だったら勝ち目ないのよ! 打ち込んだ後の処理をきちんとしないと、こちら側が隙だらけよ」
「え、本当ですか!?」
「ホラ!」
「あ、本当ですね」

 目的の妻と、その妻に付けた護衛二人が、模擬刀片手に何やら剣術講座をしているではないか。今度は何をやってくれているのか。
 護衛二人は自邸の護衛兵で、それなりに腕もある。しかし、確かにまだまだ荒削りなところもあるため、その内鍛えなければと思ってはいたのだ。彼女もそこを見抜いたのだろうか。熱心に稽古をつけている。
 しばらく眺めていると、双子の男の方がこちらに気づき、慌てて礼を執った。

「あら、一人でどうしたの?」

 模擬刀を肩に担いで、翠玉がこちらに向かってくる。他の二人はかなり息が上がっているのに、こちらは涼しい顔をしている。

「邸に戻るぞ! 皇帝から使いが来た」
「あら、そうなの? 分かった。いってらっしゃい」

 あまりにも他人事の返答にがくりと力が抜けかけた。この女どうして時々間が抜けるのか。

「お前も行くんだ! 陛下に婚姻の挨拶をする許可が出た」

 言った瞬間、彼女の顔が絶望的な色を見せる。今までにないくらい、嫌そうな顔だ。
 問答無用で、あまり……否、かなり乗り気でない翠玉を引きずるようにして邸に戻り、すぐに召し替えを済ませて、馬車に乗り込む事となった。

「ねぇ、本当に行かなきゃだめ?」
「当然だ! お前の顔見せのためのお召しなんだぞ」
「そうよね、やっぱり」

 馬車に揺られる道すがら、同じようなやり取りは三回目になる。横に座る妻は、先ほどから憂鬱そうなため息を漏らしている。
 いったい何が嫌なのかは分からないが、それほど皇帝に会う事がこの女にとって憂鬱な事なのだろうか。むしろ、皇弟の結婚を直々に祝いたいなどと微笑ましい限りの話であろう。喜びこそすれ、憂鬱そうにするとは大変不敬な話である。
 その辺りの事をわきまえられない女ではないと思っていたのだが。

「さっきから何だ、辛気臭い! 皇帝陛下の前でそんな顔間違ってもするなよ!」

 いい加減に鬱陶しくなり、横目で睨み据えた。

「分かっている! 分かっているわよ~」

 こめかみに指を当てて頭痛がするとでも言いたげに、彼女は首を縦に振る。頭に飾られた飾りがこすれ合い、シャラシャラと音を立てる。こうしてきちんと着飾っていると、一国の皇女に見えるから不思議だ。とても先ほどまで砂埃にまみれて剣を振るっていた女には見えない。

劉妃りゅうひよ」

 視界の端で彼女を観察していると、形のいい唇が微かに動いた。
 りゅうひ……

「側室の……劉妃か?」

 すぐに頭に浮かんだのは、皇帝の側室で第二皇子の生母である、貴妃だ。

「そう、異母姉の劉華遊りゅうかゆう

 彼女がまたため息をもらす。

「あのお方もいるのでしょう?」

 昨夜聞いた話を思い出す。確か異母兄弟達との関係はすこぶる悪かったと聞いた。
 その彼女の異母姉が、皇帝の側室としているのだ。

「劉妃との関係も悪いのか?」

 姉の近くに嫁いでくるくらいだ、てっきり仲が良いのだろうと思っていた。

「悪いどころか、あの母娘の当たりが一番強かったわね。あー懐かしい」

 最後の言葉は棒読みだった。ハハハと乾いた笑いで彼女は遠い目をしている。
 自分の記憶が正しければ、劉妃は十年ほど前にこの国の当時皇太子だった兄に正室候補として嫁いできた。美しく詩歌にも秀でており、それはそれは有望な正室候補だったのだが、いかんせん気位が高く、苛烈な性格をしていた。
 翠玉が虐められたと言うのであるなら、そうかもしれないと簡単に納得できるくらいには、劉妃の性格は分かりやすい。
 結局のところ、その性格が災いしたのか、兄が正室に選んだのは、同じように他国から嫁いできた、今の皇后だった。聡明で、慈悲深く人徳のあるお方だ。本当に兄がこちらを選んでくれて良かったと思っている。

「流石に皇帝の側室だ、皇弟の正室に今更嫌がらせもできなかろう。まして、第二皇子の生母だ。皇子の将来を考えたら、下手な事は出来ないと思うぞ」

 皇帝の側室と皇弟の正室、どう考えてもあちらの方が位は上だ。
 しかし、翠玉には形だけとはいえ禁軍将軍が夫という切り札がある。特に皇子を抱える母親の立場としたら、禁軍を敵に回す事だけは避けたいはずだ。
 現に、翠玉がこの国に到着して以降、後宮から翠玉へ祝いの品が届き続けているのだ。当の本人は飾り物や優美な衣装など全く興味がない様子で、知らないようだが。

「うん、そうなんだけどね。何ていうか、一番思い出したくない時代の象徴みたいな人だから、顔を見なきゃいけないだけでも憂鬱」

 ため息まじりに視線を翠玉に移す。相変わらず浮かない顔をしていた。
 この二日、どれだけこちらがぞんざいに扱っても睨んでも怒鳴っても、こんなに萎れている姿は見る事ができなかった。それだけ彼女にとっては憂鬱な事なのだろう。

「劉妃がお見えになるかどうかは分からんが、こちらでもフォローはする。だから、その辛気臭い顔はしまえ」

 だからつい、自分にしては優しい言葉が出た。むしろ、彼女に対しては初めての思いやりを含んだ言葉だ。泰誠が見ていたら、絶対にニンマリと笑うだろう。良かった、連れてこなくて。翠玉は一瞬、驚いたようにこちらを見て、困ったように微笑んだ。

「そうね、ごめんなさい」

 ポツリとつぶやいて……パンッ!

「っ!」

 止める間もなかった。おもむろに両手を持ち上げたと思ったら、勢いよくその手を自身の両頬に打ち付けた。いわゆる気合いだ。

「おい‼ 何をしている!」

 慌てて、彼女の両手を頬から引き離す。あんなに激しい音がしたのに、腫れや赤みは然程出ていなかった。

「何って気合いをいれたのよ? 貴方に迷惑を掛けないよう、立派な嫁を演じるわ!」

 なぜ怒られるのか分からないとでも言いたげだ。思わず、腹の底から盛大なため息が出た。先ほどまでのしおらしさは何処かへ消え失せている。皮肉にも活はしっかり入ったようだ。

「頬に手の跡がついていたら、いくら立派に振る舞っていてもダメだろう」
「大丈夫! つらの皮が厚いから私」

 当の本人はあっけらかんとしている。
 そういう話でもないのだが……なんだかもうどうでも良くなってきた。


 案内されたのは皇帝の邸宅である紅華宮こうかきゅうだ。皇帝が普段政務を行うのは、その隣の湖古宮こうこきゅうであり冬隼はこちらに通されるものだと思っていた。要はこのお召しは公式なものではないという事だ。
 皇帝である兄はこうして時々非公式に自分の宮に呼びつける事がある。そうした事が気軽にできるほどには、二人の間に信頼関係が築かれているのだが、そうした場合は何か裏がある事が多い。
 異国から迎えた妻を紹介しろという名目で何か話があるのだろう。折しも皇家は今、冬隼の二つ上の兄がひと月前に病没したために喪に服している。皇帝自らが公式に祝いを述べる事が憚られるため、このような形での謁見えっけんでも、誰も不思議には思わない。
 チラリと隣を歩く翠玉を盗み見る。先ほどまでとは打って変わって、落ち着いた様子で優雅に歩を進めている。この様子ならば大丈夫だろう。
 長い廊下を抜けると、謁見えっけんの間に通される。極めて個人的な、しかし相手に礼を尽くす時にのみ使われる部屋だ。中に通されると、兄である皇帝と、皇后が簡易的な玉座に座っていた。ゆっくりと、翠玉を先導し、礼を執る。

「皇帝陛下、皇后陛下にはご機嫌麗しく。お召しの機会を頂きまことにありがとうございます」

 衣摺れの気配がする。翠玉も同じように礼を執っているのが分かった。

「冬、突然呼び立ててすまないな。面をあげよ」

 兄のよく通る声が頭上から降る。ゆっくりと面を上げると、なんとも嬉しそうに目を輝かせる兄と目が合った。

「ついに、そなたも伴侶はんりょを迎えたようで、本当に安心したぞ」
「兄上、ご心配おかけしました。こちらが妻の劉翠玉にございます」

 ゆっくりと翠玉に視線を移す。優雅に礼を執り、意思の強い瞳を二人に向けている。

「翠玉にございます。至らぬ点は多々ございますが、皇帝陛下の末永い繁栄に添えますよう、夫を支えていく所存にございます。なにとぞよろしくお願い申し上げます」

 朗々と歌うような声が響く。よもやここまでとは、長年蔑ろにされていたとはいえ、流石は皇女は皇女なのだ。高潔な雰囲気が滲み出ている。

「なんとも聡明そうな姫ではないか。弟の事をよろしく頼むぞ」

 兄は満足そうに翠玉を見つめる。

「もったいなきお言葉、ご期待に沿えますよう、精進いたします」

 翠玉も朗らかな笑みを浮かべて返している。

「ほんに、健康そうで賢そうな姫だ事。冬隼殿、ご成婚を心よりお慶び申し上げます」

 二人のやり取りを優しげに見守っていた皇后が、口を開く。こちらも朗々と歌うような気品のある声だ。

「ありがとうございます」

 軽く微笑んで二人を見上げる。
 この場には劉妃はいないようだ。皇帝と皇后の座る上座をざっと確認して、内心ホッと胸をなでおろす。
 このような場で姉妹喧嘩を繰り広げられたらたまらない。流石に翠玉も場はわきまえているだろうが、この女は突然突拍子もない事をし兼ねない。まだ二日ばかりではこの女の行動までは読めないのだ。不安の種は少ない方が良い。
 その後は始終和やかな雰囲気で謁見えっけんが行われた。
 皇后陛下は翠玉の思慮深く聡明なところ(冬隼にとっては疑問が残る部分もあるが)が気に入ったようで、近々後宮でお茶でもどうかと誘っていた。兄は散々心配していた弟がようやく結婚した事が嬉しいのか、始終ニコニコとしていた。
 だが、それは冬隼と翠玉がそろそろ辞そうかというタイミングまでだった。

「冬、少し折り入って話したい事があるのだが」

 それまでとは打って変わって、真面目な顔で兄が言う。
 やはり、何かあったか。冬隼も心得顔で頷く。
 翠玉を退室させなければ。そう思って彼女を振りかえろうとする。

「では、私は中庭でも拝見させて頂いておりますね」

 彼女の方が反応は早かった。きちんと二人に礼をつくし、なんでもないような素振りで退室していった。

「的確に場も読めて、いい姫を娶ったな」
「ほんに、あの劉貴妃と姉妹とは思えないほど落ち着いた姫ですわね」
「確かに……そうだなあ」

 翠玉が退室すると、皇帝夫妻の会話が一気に砕けた。自分だけの時であれば、この人達はいつもこんな感じだ。

「あまり姉妹仲は良くなかったと聞いています。母君も違いますし、同じ宮でも育った環境は全く違ったようです」

 掻い摘んで説明をする。今後、皇后との付き合いで翠玉が後宮を出入りする事も多くなるかもしれない。知っておいていただいて損はないだろうと判断した。

「あら、そうなの。今日ここに彼女も呼んだのですけどね。皇子のお稽古の時間に重なってしまって間に合うか分からないとの返答だったから、かえって良かったのかもしれないわね」

 心得たと言うように皇后が頷く。これでこの問題は一安心だろう。

「さて、本題だがね。冬」

 不意に兄が口を開く。場の空気が一気に緊張した。

「少しキナ臭いんだ」 


 ◆


「おやまぁ、どこの汚い娘かと思えば翠姫ではないかえ」

 謁見えっけんの間を出た翠玉は、ブラブラと中庭を歩き、池のほとりで鯉を眺めていた。
 すると、懐かしい、と言っても感慨深くはない声が背後から翠玉をとらえた。
 嘘でしょう……、今ですか?
 謁見えっけんが終わって、完全に気を抜いていた翠玉は、その場でピシリと固まった。
 頭のなかに選択肢が浮かんだ。
 一、振り向く
 二、全速力で逃げる
 本能は二を推奨している。しかし、本能通りに動くには、この場所を知らなすぎた。下手に逃げて迷子になる危険性の方が高い。
 仕方なく、一を採用する。ゆっくり振り向くと、そこには昔から美姫と名高い目鼻立ちの整った女と、その子供であろう、八歳くらいの男の子が立っていた。

「華姉上……」
「劉貴妃です。もう、皇帝陛下との謁見えっけんは終わったようね」

 劉貴妃はチラリと謁見えっけんの間を見て、フンと鼻を鳴らした。

「堅苦しい場は面倒だから良かったわ。皇子、こちらは貴方の叔母上よ、ご挨拶なさい」

 心底どうでも良さそうに呟くと、足元にまとわりついている皇子に優しく声をかける。この人がこんな優しい声を出すなんて。こ、怖い。背筋がゾッとした。
 母に促され、皇子はゆっくりと翠玉の前に出てきた。流石、母に似て美しい顔立ちをしている。

「おはつにお目にかかります。せいともうします。おばうえにお会いできて光栄にございます」

 この年齢にしてはかなり堂々とした態度。利発そうな皇子だ。

「こちらこそ、殿下。翠玉と申します。お会いできて嬉しゅうございます」

 屈んで目線を合わせると、ニッコリと微笑んでやる。皇子は、少し照れたように笑い、慌てて母の足元に戻った。なんと可愛らしいのだろう。

「それにしても、その年で輿入れとは。嫁の貰い手がなかったのか?」

 そんな可愛らしい皇子の母がこの女だとは信じたくない。とげを含んだ言葉は相変わらずだ。懐かしい気さえする。

「武芸に勤しんでおりました故、いつの間にかこの年になっておりました」

 どの口が言うのだと内心思いながらも、何でも無いように返す。

「武芸などまだやっておったのか!? なるほど、禁軍将軍の妻には丁度よいのかもしれないわね。それにしても相も変わらず生意気な娘だ事」
「それは失礼いたしました。祖国の教育が悪かったのでしょうね。あ、あなた様も同じでしたわね」

 できうる限りの最大限の皮肉を交えてやると、劉貴妃の眉が吊り上がり、みるみる歪む。
 あぁこの顔、相変わらず醜い。もっと違う顔をしていれば、この人はとても美人なのに勿体ない。

「何もかも祖国のせいにするでない。そなたの母君の教育の賜物たまものであろう」

 ばさりと切り捨てて、吐き捨てた異母姉の言葉に翠玉は呆れる。嫁いでなお、彼女はまだ母のことを引きずっているのだ。敵は十年経っても憎いという事か。
 いいかげんウンザリしてきた。自分達で母の命を絶っておきながら、まだ母を貶めようというのか。いつまでも、嫁いでなおも……我慢していたが糸が切れた。

「では、同じ事をお返しいたしましょう。祖国のために嫁がせたのに、祖国と婚国を結びつける努力もなさらず、ご自分の野心だけを優先して、ここまで両国の関係が悪くなるのを放っておくような皇女をお育てになった貴方のお母君にも」

 ああ、言ってしまった。きちんとすると夫と約束したのに。
 怒られるよね、最悪離縁かな。うん、それならそれで国へこっそり帰って、どこか田舎で田畑を耕そう。うん、そうしよう。諦めにも似た感情が湧いてくる。
 目の前の劉貴妃は怒りでワナワナと震えている。


しおりを挟む
表紙へ
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

婚約破棄されまして・裏

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:539pt お気に入り:6,724

紅雨 サイドストーリー

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:4

二番煎じな俺を殴りたいんだが、手を貸してくれ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

宇宙は巨大な幽霊屋敷、修理屋ヒーロー家業も楽じゃない

SF / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:65

息抜き庭キャンプ

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:106pt お気に入り:8

自衛隊のロボット乗りは大変です。~頑張れ若年陸曹~

SF / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:76

継母の心得 〜 番外編 〜

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:3,983pt お気に入り:4,738

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。