お前に『幸福』は似合わない

アタラクシア

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間章 雨の降る前

第34話 ここから

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さかのぼること23年前。よく晴れた空の下で――男がせかせかと働いていた。

名は青谷あおたに義久よしひさ。そう、時雨の父親である。まだ夏とは言えない月であるが、額に汗を浮かべながらパソコンを叩いている。

ここは『阿波野原製紙株式会社』。生前に喜久が働いていた場所だ。この時はバブルが弾けて不況の時代。それでもそこには必死に働く人達の姿があった。


「喜久!これを頼めるか?」
「はいはい――わっかりました。今日中に終わらせます」
「すまん助かる!」

自分の仕事も終わっていないというのに上司の仕事を受け入れる。優しさ、上司の頼み、というのもあるにはあるが――最大の理由は終わらせられるだけのがある他にない。

「なぁ喜久!これどうすんだっけ?」
「あーそれはな――」

片手で仕事をこなしつつ同僚の質問に懇切こんせつ丁寧ていねいに答える。模範もはん解答のように分かりやすい説明に同僚もすぐに理解を示していた。

「先輩……ここミスしちゃいましたぁ」
「はぁ?何やってんだよ――ったく。直しといてやるから、自分の仕事に戻れ」
「ありがとうございます!」

後輩からの頼みもすぐに承諾しょうだく。喜久にとって尻拭いは仕事のうちにすら入らないようだ。


この会社での喜久のあだ名は『スーパーマン』である。どんな仕事もこなし、上司からは好かれ、同僚からは頼られ、後輩からは尊敬される。嫉妬すら湧かないほどのまさしくスーパーマンであった。

「なぁお前には弱点の1つや2つはないのかよ」

率直な疑問を持った同僚――岩尾いわお晴太はるたが喜久に聞く。

「顔が良すぎるくらいかな」
「分かった。欠点は自尊心ナルシストね」

そんなことを言っているがイケメンなのは事実である。今の美的感覚から見ても整ってると言わざるおえない。

仕事ができてイケメン。こんな良物件に女性が寄ってこないはずもなく。――だがこれまで寄ってきた全ての女性は交際を断られている。その理由はただ一つ。

「――あとだ?」
「3ヶ月くらいかな」
「もうすぐじゃねぇか。今度はどっち似になんだろうな?」
「村雨は俺に似てるからなぁ……次の子は海琴みこと似かな」

喜久には愛する家族が居たからだ。学生時代からスーパーマンだった喜久。手に届く範囲の物は全て手に入った。お金も、尊敬も、女も。

――そんな中で出会ったのが今の妻である海琴。唯一自分に惚れなかった海琴に興味を抱いた喜久だったが、時間が経つにつれて逆に海琴のことを好きになっていった。

なんやかんやラブロマンスがあって結婚。長女の村雨も産まれ、次の子も産まれようとしている。まさに幸せな人生。前世で何をしたのかが気になるほどだ。

「名前は決めてあるのか?」
「それがまだなんだよ。家族総出で考え中でよ」
「男の子だっけ?女の子だっけ?」
「女の子だ。俺は男が良かったんだけどな。一姫二太郎ってよく言うじゃん?」
「俺んとこは3人とも男だから分かんねぇ」

絵に描いたような幸せな家族。これからもずっと幸せが続くように……じゃない。これから幸せが大きくなるように。そんな願いを喜久は――青谷一家は持っていた。


――そんな話をしている時。喜久の後ろで人が転ける音がした。

「どうしたー?」
「ご、ごめんなさい転けちゃってぇ」
「ちゃんとした見ろよー。ほら雑巾ぞうきん取ってきて」

新人のOLだ。OLの女性は半泣きになりながら雑巾ぞうきんを取りに行った。

「どうしたどうした?」
「すみません。僕の不注意で当たっちゃって」
「そうか……ちゃんと拭いとけよ」
「すみませーん」

サラッと自分の責任にする喜久。その光景に女性だけでなく、男性すらもキュンと心臓を揺らした。


自分のハンカチを出して床を拭こうとした時――顔の横からタオルが差し出された。

「使っていいわよ」
「……お、おう。ありがとう」

――脳を揺らす香水の甘い匂い。
――シルクのような美しい髪。
――絵画のように見惚れてしまう顔。

その女の名は――雨宮祐希。後に悪霊となる女であった。


貸してもらったタオルで床を吹いていると、隣からひそひそ話が聞こえてきた。どうやら若いOL2人の声だ。

「雨宮さんって美人よね」
「そうよね~もう嫉妬すら湧かないもん」
「あの人が男だったら狙ってたのになぁ」
「どうせ男でも手が出ないでしょ?」

雨宮の話だ。彼女もまた仕事が出来る女であった。まさしく女バージョンの喜久である。

「……」
「そーいえばお前。ちょっと前に祐希ちゃんに告白されてなかったか?」

どこか気まづそうな顔をしていた喜久に晴太が話しかける。

「されたよ」
「……もしかしてオーケーしたのか?」
「なわけねぇだろ。俺は海琴一筋だ」
「はは、だよな」
「……だから気まづいんだよ」

遅れて雑巾ぞうきんを持ってきたOLの対応をして椅子へと座る。

「なんでだ?女の子をフるのは1回だけじゃないだろ?」
「まぁ……そうだけどさ。なーんか違うんだよ。あの人。怖いっていうか……恐ろしいっていうか……。関わっちゃいけない感じがするんだよな」
「おい失礼だぞ?」
「あ……すまん」
「お前らしくねぇな。……でもそこまで言うなら何かあるんじゃないか?」
「そうかなぁ……」

歩いていった雨宮の方に顔を向ける。――目が合った。背筋が凍るような冷たい目。喜久は思わず顔をらした。
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