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三日月
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尚弥は,二人が帰ってくるのを、気を揉んで、ハラハラして待っていた。
娘には,なんと声をかけたらいいのだろう?秘密を知って,どういう心境なのだろう?父親の尚弥のことをどう思っているのだろう。
保奈美は,自分が人魚だと知って戸惑っているに違いない。自分には,娘を慰めたり,励ましたりすることが果たしてできるのだろうか。
自分は,親といえども,単なる人間だ。海保菜とは,違う。娘の気持ちに寄り添いたくても,自分には,娘の気持ちが理解できる訳がない。そう思った。自分は,生粋の人間の男性と女性との間に生まれた,生粋の人間だ。娘が今感じていると想像するショックや戸惑いは,自分の知らない,生涯経験することのないものだ。考えれば考えるほど,娘の力になれるのか,不安が募る。
そして,妻の海保菜も,今は大変に違いない。でも,その辛さも自分にはうまく想像できない。直接娘を助けるのが難しくても,せめて保奈美を助ける海保菜を支えたいのだが,それすらも,できないのかもしれない。
「まず、庭で歩く練習をしてね。」
海保菜が車から降りようとしていた保奈美に指示した。
「また体を慣らさないとすぐこけちゃうよ。最初は,びっくりするくらい覚束(おぼつか)ないと思う。」
保奈美は,歩こうとしたが,すぐにこけた。
すると、これまで何とかギリギリ守られていた心の砦(とりで)が破れ,そのまま起き上がれずに座りこみ、いつまでも号泣し続けた。
海保菜は,何も言わずに手を差し出したまま、保奈美が落ち着いて,手を掴んでくれるのを待った。言葉を何もかけずに,そっとしといた方が良さそうだった。
しばらくして、保奈美は,また普通に歩けるようになっていたので、玄関まで行った。
「よかった!無事でよかった!大丈夫だった!?」
尚弥が海保菜の顔を見ながら,保奈美に言葉を向けた。
「今は,まだ大丈夫じゃないかな…でも、乗り越えられる。大丈夫。」
海保菜が保奈美の代わりに答えた。
「あなたは?」
海保菜は,尚弥の質問を無視した。
「保奈美は,今一人になりたいと思うんだ。部屋まで案内してくれる?一人では,まだ階段上れないと思うから。」
尚弥は,すぐに頷いた。
「一人で大丈夫!」
保奈美が苛々して言った。
「保奈美、助けてもらおう。甘えていいよ。また歩けるようになったばかりだし、階段は難しいよ。海に行く前から上れていなかったし…。」
海保菜が説教っぽく言った。
保奈美は,それ以上何も言おうとはしなかった。
尚弥は,娘と一緒に階段を上りはじめた。足元はおぼつかなさそうだったから,手をつないだ。
それでも,途中で足がもつれて、転んで,泣き出した。
「大丈夫!?お母さん呼ぼうか?」
尚弥は,焦った。
「嫌だ!呼ぶな!」
保奈美が叫んだ。
「何だ!?…怖いの?」
保奈美は,返事しなかった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」と呟(つぶや)きながら泣き続けた。
「何がごめんなさい?あなたは,何も悪いことしていないよ。」
保奈美は,何もできずに、ただただ泣き続けた。
海保菜は,保奈美の泣き声が聞こえてきて、気になり、階段の下まで様子を見に行ったが,保奈美のそばに行くべきかどうか迷った。しばらく考えてから,声をかけるのも諦めて、何もせずにキッチンへ戻った。
「お父さんは,お母さんと結婚する時にすでに分かっていたよ。人魚だって。人魚だからこそ好きになったというのもあるかもしれないし…決して人魚が嫌いじゃないよ。 だから、保奈美も人魚でもいいよ。謝らなくていいよ。」
「私は,人魚なんかじゃない!」
保奈美が声を荒げて,怒鳴った。
「でも…はい、はい、わかった。落ち着いて。」
尚弥が優しくなだめるように言った。
娘を部屋まで案内すると、すぐに階段を下り,海保菜が待つキッチンへと早足で向かった。
「大丈夫だった?」
海保菜は,大丈夫じゃないと分かりながら,尋ねてみた。
「それは,こっちの台詞だ…大丈夫なの、あの子!?すごく不安定そうだけど…。」
「大丈夫じゃないよ。でも、まあ,大きな衝撃を受けた割には,よくやっていると思うよ。私だったら,もっと動揺していたかもしれない…。」
「彼女に何をしたの?」
「何をしたのって!?何もしていないよ。私は,助けただけだよ。体は,変わっていたよ。助けるしかなかった。他に,どうしたらよかったというんだよ!?」
「それじゃなくて…彼女の反応はどうだった?」
「それは,今の様子を見れば,わかるでしょう?良い反応じゃなかった。うまくいかなかった。」
「あなたは,大丈夫?」
尚弥には,海保菜はかなり取り乱しているように見えた。
「…わからないわ。」
海保菜が正直に答えた。
尚弥は,妻の肩に自分の手をかけた。
「できるだけのことはしたし、きっとまた話に来るよ。待てばまた懐(なつ)いてくるよ、きっと。」
「そうだといいけど…。」
「きっとそうなるよ。親子だもん。このまま,ずっと恐れ続けることはない。」
「でも、私たちはあの子を騙(だま)したよ…簡単に癒える傷じゃない。時間が経っても,ダメかもしれない…。
私のせいでアイデンテイテイークライシスに陥っているの。そして,私の事を恐れているから、本当に怖いから,話もできないし,助けられない。無力で,何もできない。もどかしい。
助けたいのに、そばにいてあげたいのに…保奈美は,私にそばにいてほしくない。私を見る彼女の目には,もう恐怖しかないよ…泣きたくなる…。」
「保奈美は,あなたの事がどうして怖いの?」
「なぜだろうね…。」
海保菜が嫌味っぽく言った。
「待てば、時間は解決してくれる。」
海保菜は,頷いたが,半信半疑だった。
保奈美がショックから立ち直り、傷が癒えるまで,相当時間はかかる。そして、助けられるかどうか,自信がない。
「あなたは,彼女の母親だから大丈夫。何とかなる。」
「彼女は,母親だと思っていないよ,騙(だま)したから。私も人間の母親役を演じすぎて、あまりうまく接せないの…何が自然なのかわからない…そして,娘なのに…人魚のくせに,人魚として,どう娘と接したらいいのかわからない。」
海保菜が嘆いた。
「あなたは,彼女の事を一番知っている。人魚であれ、何であれ、母親だもの。」
「いや、今は,もう違うの。全てが変わっちゃった。あの子も、私も…数日前と同じじゃない。」
「変わったのは,すべてじゃないでしょう?あなたの保奈美に対する愛情は,変わっていないでしょう?揺らいでいないでしょう?」
尚弥が鋭く大事なところをついた。
「揺らぐどころか,もっと強くなった気がする…。
彼女は,人魚じゃないと思っていた。彼女の中に,私の魂の一部があるとは,思っていなかった。一生真実を知ることも,理解してもらうことも,ないと思っていた。海に興味があるのは,分かっていたけど…同じだと思っていなかった。
同じだと知った時は,嬉しかった。でも,嬉しい反面,ものすごく怖かった。 今も,怖い。どうしたらいいか,わからないの。どう接したらいいかも,わからないの。
一番そばにいてあげなきゃならないときなのに…私には,ちゃんとできないかもしれない。」
「彼女の気持ちの整理がついて,話に来るのを待っていて。だいぶ経っても,その様子が見られなかったら、僕らから話してみよう。
この危機を一緒に乗り越えようよ。」
「あなたは,いつから私の味方なの?」
「ごめん。これまでちゃんと力になれていなかったかもしれないけど、これからは,一緒に歩むよ。」
尚弥が海保菜を抱き寄せながら,言った。
その夜、保奈美は,晩御飯の時間になっても,二階から下りてこなかった。
次の日の朝も,下りてこなかった。
海保菜は勇気を振り絞って,話に行った。
「保奈美、入ってもいい?」
「いやだ。」
「ご飯持ってきたよ。何か食べなきゃ。帰ってきてから,何も食べてないでしょう?」
返事は,なかった。
海保菜は,戸を開けた。
保奈美は,着替えずに,帰って来た時の格好のままで,ベッドの上でうつ伏せになっていた。顔は,涙で真っ赤だった。
「保奈美…。」
海保菜は,慰める言葉を探したが,見つからなかった。口ごもって,しばらく何も言えなかった。
気を取り直して,もう一度話し始めた。
「保奈美、あなたが私の事を信頼していないのは,わかる。怖いのも,わかる。会いたくないのも,わかる。そして、押し付けるつもりは,毛頭ない。
でも、食べなきゃだめだよ。あまり食欲がないかもしれないけど、食べないと体力は戻らない。お願いだから,何か食べて。」
保奈美は,ご飯を受け取って食べようとしたが,飲み込めなくて,すぐに吐き出した。すると、泣き始めた。
「ごめんなさい。何か食べられるものを持ってくるわ。体は,しんどい?痛いの?」
「痛くない…。」
海保菜は,頷いた。こういう会話でも,情けないとわかりながら,娘が応じてくれて,嬉しかった。
「じゃ、持ってくるね。」
しかし,海保菜が持ってきたものを拒否した。
「海藻は,要らない!私に一体何をしたんだ!?私の体をダメにした!」
「何もしていない…まだ完全に戻っていないだけ。時間はかかるよ。
そして、部屋にこもって,寝てばかりだともっとかかるよ。
体を動かさなきゃ。食べなきゃ。
人間に戻りたければ、ベッドで寝ていないで、人間の体を使わなきゃ。」
「普通に戻れない…。」
保奈美は,泣き続けた。
海保菜は,俯いて、どう言えばいいのか,少し考えた。保奈美の「普通」という言葉の使い方は,気に入らなかったが,彼女が言う「普通」という状態には,もう戻れないのは,確かだった。
海保菜は,しばらく黙ってから,やっと口を開けた。
「今は,辛いと思う。怖いと思う。今のあなたは,どれだけ辛いか,私には想像もつかない…。
でも、いつか,きっと,また元気になるよ。時間が経てばね…。
でも、普通というものには,もう戻れないかもしれない。
食事などは,数日したら,すぐ元に戻ると思う。足も,数日で戻るはずだ。
でも、体は,変わっちゃったからね。もう完全に戻ることは,ないよ。体も,心も。
人間と人魚の間でふらふらしているように感じるかもしれないけど,数日前の自分には,もう戻れないと考えた方がいい。」
「出ていけ。」
「わかった。
でも,これを置いとくから,食べてね。お腹が戻るまで,これを食べて凌ぐしかない。
今のあなたには,きっとおいしく感じ、必要としている栄養が沢山摂れるよ。」
保奈美にお皿を渡すときに、海保菜の手が保奈美の手に少し触れた。
「触らんといて!」
保奈美は,手を引っ込めて,大きな声で叫んだ。
海保菜は,すぐに後ずさりした。
「ごめんなさい。怖いのに,ごめんなさい。わざと触ったんじゃない。ただ,食べて楽になってほしかっただけ。」
海保菜は,涙を呑んで,慌てて保奈美の部屋から出て行った。
しかし,とても悲しくて、部屋から出ると,こらえきれずに,涙が頬を伝い始めた。
「お母さん、どうした?」
龍太がやってきて,泣き面の母親を見て,尋ねた。
「何もない…。」
海保菜は、慌てて涙を拭いた。
「保奈美は,大丈夫?どうして部屋から,出てこないの?」
龍太は,事情が知りたいという気持ちをこれ以上抑えられなくなり,訊いた。
昨日から,保奈美が戸を開けてくれないから,龍太も,自分の部屋に入れずにいる。迷惑をしている。それなのに,保奈美には,何があったのか、まるで見当がつかない。打ち明けるどころか,戸すら開けてくれない。普段は,何でも話してくれるのに…。龍太は,何か事情があると察しながらも,少し傷ついていた,
「大丈夫だよ。一人になりたいだけみたい。」
「でも,保奈美は,普段部屋にこもって,泣いたりしない。そして,お母さんも,普段泣かない。
心配だ…。保奈美は,いつも僕に話すのに…話してくれないし,ずっと様子がおかしい。」
「もう少し待ってあげて。きっと,また話してくれるよ。」
海保菜が行ってから,龍太が保奈美の名前を呼んでみたが,やっぱり返事は,なかった。
海保菜も,保奈美が弟の声に反応するかどうか気になって,反応を見に戻ってきた。
「あなたでも,ダメか…。」
海保菜が小さい声で呟いた。
「返事してくれない…病気かな?」
龍太は,本当に心配になってきた。
「病気じゃない。」
海保菜がキッパリと言った。
「訊いても教えてくれないかもしれないけど,何があった?」
龍太は,訴えるような目で母親を見た。
海保菜は,苦しそうな表情をして,すぐに息子から目を逸らし,俯いた。
「心配してくれてありがとう。そのうち,話せるときが来たら,話す。」
そう言い終わると,海保菜は,逃げるように,慌てて階段を下りて行った。
お昼も,晩も,保奈美の部屋に,ご飯を持って行った。でも、ご飯を置くだけで、声をかけたり,話したり,しようとはしなかった。
保奈美は,要らないと言った割には,よく食べていた。
次の日になると、保奈美がようやく部屋から出てきた。
キッチンを通って,すぐに外へと向かった。
「ちょっと…!どこ行くの!?」
海保菜が心配そうに尋ねたが,返事はなかった。
海保菜は,仕方なく,後をついて行った。
保奈美は,外のブランコに座り、地面をまじまじと見つめた。
「足は,戻ったね。」
海保菜が恥ずかしそうに,小さい声で言った。
保奈美は,無反応だった。
「まだ話してくれない?怖い?それか、怒っている?」
また返事がなかった。
「あなたは,まだ話したくないかもしれないけど,私は話すね。」
海保菜が口調を少し明るくして,話し始めた。
「保奈美が今傷ついているのは,分かる。途方にくれているのも,分かる。
でも、話してくれないと、関わってくれないと、一人でこれを乗り越えるのは,とても困難だと思う。まだほとんど何も話せていないし…。
あなたの気持ちを話してくれたら,分かるとは言わないけど,あなたが楽になるように,助けたいし,力になりたい。
まだ信じにくいかもしれないけど、私は,あなたの母親だし,あなたの事を愛しているよ。
あなたが生まれてから,毎日少しずつ成長していくのを近くで見守ってきた。数日前に,あなたが見た体で,あなたを産み,ご飯を食べさせて、おむつを変えて,世話をした。生まれてから今日まで,毎日一緒に過ごしてきた。
でも,本当のことが話せないから,助けたくても,助けられない時もあった。
今なら,助けられる。正直で、ありのままで接して,話せる。
そして,助けたい…あなたが前に進めるように本当に助けたい。」
海保菜が涙ぐみながら,言葉に気持ちを込めて話した。
「あなたの助けは要らない。ほしくない。」
保奈美の反応は,素っ気なかった。
「怖いんだね?
でも、皮肉だけど,今あなたが感じたり,考えたりしていることが理解できるのは,私ぐらいしかいないよ?
今のあなたの気持ちがわかるのは,私だけ。話してごらん。」
「あなたには,私の気持ちの何がわかる!?」
「…そうだね。わからないけど,想像できるよ。
自分のこれまでの現実が玉砕されて,常識が覆されて,自分とは何かよくわからなくて、怖いでしょう?
裏切られて,安心して頼れる人がいなくて,辛いでしょう?寂しいでしょう?
母親は,人間じゃないとわかって、自分も人間じゃないとわかって…。」
「やめて!うるさい!」
「わかりやすいね…そこだね。自分は,人間じゃないと言われたくないんだね。聞きたくないんだね。まだ受け止められないんだね。
でも、もう放っとけない。
私は,随分長いこと待ったんだよ。あなたが生まれてから今日まで,ずっとこうして話せる日が来るのをひたすら待ったんだよ。
話したい。そして、あなたにも信頼して話してほしい。」
「できない。」
「今は,まだできないね…。
じゃ、もうちょっと待つわ。」
「もう放っといてくれ!これまで何を訊いても答えてくれなかったのに,ベラベラ喋って…うるさい!」
「保奈美、私は,あなたの母親だよ。あなたは,私の可愛い娘だよ。わかる?
あなたは,どうも私に何か変なことをされたと思い込んでいるみたいだけど、何もしていない…モンスターじゃない…助けたかっただけ…!」
「ごめんなさい。」
保奈美の口調は急に変わり,とても柔らかくなった。
「なんで?謝るべきなのは,私。あなたは,謝らなくていいよ。」
「あのとき、モンスターと言ってしまって,ごめんなさい。ひどかった。」
「いいよ…怖かったし。大丈夫。」
「大丈夫じゃない…。」
「じゃ、私の事をモンスターだと思っていない?」
「…思っていないと思う…わからないけど…綺麗だと思ったけど…ただ、できない。」
「綺麗だって!?」
海保菜は,目に涙を浮かべて、とても嬉しそうに聞き返した。
「悪いけど…一人がいいの…近寄りたくない。」
「保奈美、お願い!」
海保菜は,手を差し伸べて,保奈美の手を握ろうとした.
「いやだ!」
保奈美は,ブランコから飛び降りて,数歩後ろへ下がって,海保菜を怖そうに見つめた。
海保菜は,保奈美の目に映っている恐怖の色を見て、敗北感を感じた。悔しい気持ちで胸がいっぱいになり,俯いて,ゆっくりと家の方へと戻って行った。
玄関で,尚弥が迎えてくれた。
「どう?」
「話してくれない。また怖い動物を見るような目で見られちゃった…。」
すると、尚弥が妻の手を取って,また外へと引っ張って行った。
「いや、押し付けちゃだめだよ。一人で話してきて、その方がうまくいく。」
「僕と話してくれても,あなたと話さないと意味がない。あなたしか助けられないんだから。」
尚弥は,娘の前に座り,目を合わせようとした。保奈美は,すぐに目を逸らせた。
「どうしてお母さんに,そんなに意地悪するの?」
「意地悪していない。ただ,放っといてほしいだけだよ。」
「放っとけない。あなたが困っているから、助けたいだけだ。ダメなん?」
海保菜は,尚弥に任せて,何も言わないことにした。
「彼女には,何もできない。」
「うーん、それは,話してみないとわからないだろう?」
「話すことは,何もない。」
「いや、たくさんあると思うけど。」
「尚弥、もういいよ。そっとしてあげて。」
海保菜が初めて口を開けた。
「でも、解決しなきゃ…。」
「時間しか解決できないことが沢山あるよ。」
海保菜は,尚弥の肩に手を一瞬かけてから,家の方へと歩き去った。
海保菜がいなくなってから,尚弥は,娘とまた目を合わせた。
「ほら,帰った。君は,満足したか?追い出して。」
保奈美は,答えなかった。ただ俯いて,地面を見つめ続けた。
「保奈美、僕は,あなたのお母さんを愛しているんだ。結婚する前から,もちろん人魚だとわかっていたし,それなりの覚悟もあった。
でも,関係ないんだ。素敵な人だから,結婚したんだよ。
そして,お母さんは,今あなたを心の底から愛していて,助けたいと思っている。」
「私は,知らなかったし…人じゃない!」
「…人じゃない?人間じゃないという意味?
その通りだ。だから、何?
彼女は人魚じゃなかったら,僕たちは,今この話をしていないし、今のあなたに役立つこともできない。
人魚だからこそ,必要としているんだよ。人魚だから,助けられるんだよ。だから,その,「人間じゃない。動物だ。」みたいなことは,言わないで欲しい。
僕には,今のあなたを助けることができない。僕の親も,助けられない。龍太も,助けられない。彼女にしか助けられない。
あなたさえ彼女を受け入れて,ゆるしたら、彼女は,あなたのために万全を尽くす。
あなたが生まれてから,本当の事が話したくて、話したくて…12年も待って,ようやく話すチャンスが訪れたんだ。あなただって,話したかったでしょう。知りたかったでしょう、お母さんの事?よく質問していたんじゃない?
今なら,話せるよ。仲良くなるチャンスだ。ずっと,あなたたち二人を隔てていた壁をぶちこわす,二度とないチャンスだ。だから、責めないで。恐れないで。」
「だって…受け入れるって…人魚なんて存在しないはずなのに…。」
「そう言いながら,本当は分かっているでしょう?
そして、人魚であれ、何であれ、母親だし、大事にすべきだよ。 冷たく突き放すのをやめて,今すぐ話に行って。」
「…したいけど…できない。」
「なんでそんなに怖い?あなたのお母さんは,怖い人じゃない。本当の姿も,怖くない。僕は,その姿に惚れたし、恋に落ちた…どうしてここまで怖がる?」
「…魔女みたいなことができるから!私の体なのに…どうして彼女が触ったら…!?怖いよ。」
「僕には,詳しいことは知らないけど…助けただけでしょう?助けて、何が悪い?助けてくれた人が,どうして魔女になるわけ?」
「だって,どうしてその魔法みたいなことができるんだ!?」
「僕には,うまく説明できないけど,お母さんなら説明できる。今すぐ,仲直りしてきて。もう呆れたよ。」
「したいけど…。」
「なら、して。
昨日、お母さんだって,怖かったよ。どう伝えたらいいかわからなかったし,あなたがどう反応するか,不安だった。ずっと隠していた自分の本当の姿をあなたに初めて見せて,怖かったと思わない?相当怖かったよ。
でも、それでも見せたし、伝えたし、あなたが嫌がっても,助けた。あなたのために奔走した。
なのに、恨むの?門違いだよ。
僕たちは,これまであまりいい親じゃなかったかもしれない。でも、過去はもうやり直せない。変えられるのは,未来だけだ。だから,もう一回信じてみて。
お母さんを愛して。そして、彼女にも自分を愛させて。これ以上,我慢させないで。」
保奈美は,ゆっくりとうなずいてから,立ち上がった。
海保菜は,皿を洗っていた。
「ごめんなさい。」
保奈美が小さい声で呟いた。
「いや、こちらこそごめんなさい。話したくないと言ったのにしつこくて…。」
海保菜が振り向かずに,言った。もう保奈美には,泣いている顔を見られたくなかった。最近,見せすぎたと反省していた。
「私も傷つけたくない…喧嘩したくない…理解したいし,知りたい…でも、怖い。」
保奈美がゆっくりとした口調で,慎重に言葉を選びながら,言った。
海保菜は,これを聞いて,ようやく振り向いて,涙で真っ赤になっている顔を娘に見せた。
「あなたは,私を知らない。だから,どんなことで傷つくかも,分かるわけがない。見せていないから。教えていないから。
本当の顔もほとんど見せたことがないのに,わかるわけがない…だから、謝らなくていい。私が悪い。怖い思いや辛い思いばかりさせて,本当にごめんなさい。」
海保菜が深く頭を下げて,言った。
「うーん、違う。私が悪い。モンスターじゃないし,魔女じゃない。私のお母さんだ。大事にしなきゃ。」
保奈美は,かなり苦労して言った。
「…ありがとう。」
海保菜は,愛しそうに保奈美を見た。娘に近づいて,触れたいのが顔に書いてあった。
「ハグしていい?」
保奈美は,少しためらった。
「体は,変わらないよ。約束だ。脈は,少し早くなるかもしれないけど…。
やっぱりまだ怖いね。いいよ。」
海保菜がまた保奈美に背を向けた。
すると、保奈美は,慎重に近寄って行って、母親の背中に軽く手をかけた。
海保菜は,ゆっくり振り向いて優しく,娘の体に腕を巻いて,抱きしめた。
「もう傷つけない,絶対に。」
海保菜が呟(つぶや)いた。
保奈美の心がまた走るように脈が速くなって、怖そうに胸を手で押さえた。
「大丈夫よ。変わらないから。」
海保菜は,自分の手を保奈美の胸に優しく当てて、保奈美の手を自分の胸にかけた。
「ほら、私も今速くなったでしょう?同じでしょう?」
すると、尚弥が入ってきた。
「おやおや!よかったじゃないの!もう大丈夫だね。」
海保菜は,尚弥の言葉を聞くなり、保奈美を放して、くすくすと笑った。
「いや、まだまだ時間はかかるよ。魔法じゃないからね。人の心は難しいものだよ。」
娘には,なんと声をかけたらいいのだろう?秘密を知って,どういう心境なのだろう?父親の尚弥のことをどう思っているのだろう。
保奈美は,自分が人魚だと知って戸惑っているに違いない。自分には,娘を慰めたり,励ましたりすることが果たしてできるのだろうか。
自分は,親といえども,単なる人間だ。海保菜とは,違う。娘の気持ちに寄り添いたくても,自分には,娘の気持ちが理解できる訳がない。そう思った。自分は,生粋の人間の男性と女性との間に生まれた,生粋の人間だ。娘が今感じていると想像するショックや戸惑いは,自分の知らない,生涯経験することのないものだ。考えれば考えるほど,娘の力になれるのか,不安が募る。
そして,妻の海保菜も,今は大変に違いない。でも,その辛さも自分にはうまく想像できない。直接娘を助けるのが難しくても,せめて保奈美を助ける海保菜を支えたいのだが,それすらも,できないのかもしれない。
「まず、庭で歩く練習をしてね。」
海保菜が車から降りようとしていた保奈美に指示した。
「また体を慣らさないとすぐこけちゃうよ。最初は,びっくりするくらい覚束(おぼつか)ないと思う。」
保奈美は,歩こうとしたが,すぐにこけた。
すると、これまで何とかギリギリ守られていた心の砦(とりで)が破れ,そのまま起き上がれずに座りこみ、いつまでも号泣し続けた。
海保菜は,何も言わずに手を差し出したまま、保奈美が落ち着いて,手を掴んでくれるのを待った。言葉を何もかけずに,そっとしといた方が良さそうだった。
しばらくして、保奈美は,また普通に歩けるようになっていたので、玄関まで行った。
「よかった!無事でよかった!大丈夫だった!?」
尚弥が海保菜の顔を見ながら,保奈美に言葉を向けた。
「今は,まだ大丈夫じゃないかな…でも、乗り越えられる。大丈夫。」
海保菜が保奈美の代わりに答えた。
「あなたは?」
海保菜は,尚弥の質問を無視した。
「保奈美は,今一人になりたいと思うんだ。部屋まで案内してくれる?一人では,まだ階段上れないと思うから。」
尚弥は,すぐに頷いた。
「一人で大丈夫!」
保奈美が苛々して言った。
「保奈美、助けてもらおう。甘えていいよ。また歩けるようになったばかりだし、階段は難しいよ。海に行く前から上れていなかったし…。」
海保菜が説教っぽく言った。
保奈美は,それ以上何も言おうとはしなかった。
尚弥は,娘と一緒に階段を上りはじめた。足元はおぼつかなさそうだったから,手をつないだ。
それでも,途中で足がもつれて、転んで,泣き出した。
「大丈夫!?お母さん呼ぼうか?」
尚弥は,焦った。
「嫌だ!呼ぶな!」
保奈美が叫んだ。
「何だ!?…怖いの?」
保奈美は,返事しなかった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」と呟(つぶや)きながら泣き続けた。
「何がごめんなさい?あなたは,何も悪いことしていないよ。」
保奈美は,何もできずに、ただただ泣き続けた。
海保菜は,保奈美の泣き声が聞こえてきて、気になり、階段の下まで様子を見に行ったが,保奈美のそばに行くべきかどうか迷った。しばらく考えてから,声をかけるのも諦めて、何もせずにキッチンへ戻った。
「お父さんは,お母さんと結婚する時にすでに分かっていたよ。人魚だって。人魚だからこそ好きになったというのもあるかもしれないし…決して人魚が嫌いじゃないよ。 だから、保奈美も人魚でもいいよ。謝らなくていいよ。」
「私は,人魚なんかじゃない!」
保奈美が声を荒げて,怒鳴った。
「でも…はい、はい、わかった。落ち着いて。」
尚弥が優しくなだめるように言った。
娘を部屋まで案内すると、すぐに階段を下り,海保菜が待つキッチンへと早足で向かった。
「大丈夫だった?」
海保菜は,大丈夫じゃないと分かりながら,尋ねてみた。
「それは,こっちの台詞だ…大丈夫なの、あの子!?すごく不安定そうだけど…。」
「大丈夫じゃないよ。でも、まあ,大きな衝撃を受けた割には,よくやっていると思うよ。私だったら,もっと動揺していたかもしれない…。」
「彼女に何をしたの?」
「何をしたのって!?何もしていないよ。私は,助けただけだよ。体は,変わっていたよ。助けるしかなかった。他に,どうしたらよかったというんだよ!?」
「それじゃなくて…彼女の反応はどうだった?」
「それは,今の様子を見れば,わかるでしょう?良い反応じゃなかった。うまくいかなかった。」
「あなたは,大丈夫?」
尚弥には,海保菜はかなり取り乱しているように見えた。
「…わからないわ。」
海保菜が正直に答えた。
尚弥は,妻の肩に自分の手をかけた。
「できるだけのことはしたし、きっとまた話に来るよ。待てばまた懐(なつ)いてくるよ、きっと。」
「そうだといいけど…。」
「きっとそうなるよ。親子だもん。このまま,ずっと恐れ続けることはない。」
「でも、私たちはあの子を騙(だま)したよ…簡単に癒える傷じゃない。時間が経っても,ダメかもしれない…。
私のせいでアイデンテイテイークライシスに陥っているの。そして,私の事を恐れているから、本当に怖いから,話もできないし,助けられない。無力で,何もできない。もどかしい。
助けたいのに、そばにいてあげたいのに…保奈美は,私にそばにいてほしくない。私を見る彼女の目には,もう恐怖しかないよ…泣きたくなる…。」
「保奈美は,あなたの事がどうして怖いの?」
「なぜだろうね…。」
海保菜が嫌味っぽく言った。
「待てば、時間は解決してくれる。」
海保菜は,頷いたが,半信半疑だった。
保奈美がショックから立ち直り、傷が癒えるまで,相当時間はかかる。そして、助けられるかどうか,自信がない。
「あなたは,彼女の母親だから大丈夫。何とかなる。」
「彼女は,母親だと思っていないよ,騙(だま)したから。私も人間の母親役を演じすぎて、あまりうまく接せないの…何が自然なのかわからない…そして,娘なのに…人魚のくせに,人魚として,どう娘と接したらいいのかわからない。」
海保菜が嘆いた。
「あなたは,彼女の事を一番知っている。人魚であれ、何であれ、母親だもの。」
「いや、今は,もう違うの。全てが変わっちゃった。あの子も、私も…数日前と同じじゃない。」
「変わったのは,すべてじゃないでしょう?あなたの保奈美に対する愛情は,変わっていないでしょう?揺らいでいないでしょう?」
尚弥が鋭く大事なところをついた。
「揺らぐどころか,もっと強くなった気がする…。
彼女は,人魚じゃないと思っていた。彼女の中に,私の魂の一部があるとは,思っていなかった。一生真実を知ることも,理解してもらうことも,ないと思っていた。海に興味があるのは,分かっていたけど…同じだと思っていなかった。
同じだと知った時は,嬉しかった。でも,嬉しい反面,ものすごく怖かった。 今も,怖い。どうしたらいいか,わからないの。どう接したらいいかも,わからないの。
一番そばにいてあげなきゃならないときなのに…私には,ちゃんとできないかもしれない。」
「彼女の気持ちの整理がついて,話に来るのを待っていて。だいぶ経っても,その様子が見られなかったら、僕らから話してみよう。
この危機を一緒に乗り越えようよ。」
「あなたは,いつから私の味方なの?」
「ごめん。これまでちゃんと力になれていなかったかもしれないけど、これからは,一緒に歩むよ。」
尚弥が海保菜を抱き寄せながら,言った。
その夜、保奈美は,晩御飯の時間になっても,二階から下りてこなかった。
次の日の朝も,下りてこなかった。
海保菜は勇気を振り絞って,話に行った。
「保奈美、入ってもいい?」
「いやだ。」
「ご飯持ってきたよ。何か食べなきゃ。帰ってきてから,何も食べてないでしょう?」
返事は,なかった。
海保菜は,戸を開けた。
保奈美は,着替えずに,帰って来た時の格好のままで,ベッドの上でうつ伏せになっていた。顔は,涙で真っ赤だった。
「保奈美…。」
海保菜は,慰める言葉を探したが,見つからなかった。口ごもって,しばらく何も言えなかった。
気を取り直して,もう一度話し始めた。
「保奈美、あなたが私の事を信頼していないのは,わかる。怖いのも,わかる。会いたくないのも,わかる。そして、押し付けるつもりは,毛頭ない。
でも、食べなきゃだめだよ。あまり食欲がないかもしれないけど、食べないと体力は戻らない。お願いだから,何か食べて。」
保奈美は,ご飯を受け取って食べようとしたが,飲み込めなくて,すぐに吐き出した。すると、泣き始めた。
「ごめんなさい。何か食べられるものを持ってくるわ。体は,しんどい?痛いの?」
「痛くない…。」
海保菜は,頷いた。こういう会話でも,情けないとわかりながら,娘が応じてくれて,嬉しかった。
「じゃ、持ってくるね。」
しかし,海保菜が持ってきたものを拒否した。
「海藻は,要らない!私に一体何をしたんだ!?私の体をダメにした!」
「何もしていない…まだ完全に戻っていないだけ。時間はかかるよ。
そして、部屋にこもって,寝てばかりだともっとかかるよ。
体を動かさなきゃ。食べなきゃ。
人間に戻りたければ、ベッドで寝ていないで、人間の体を使わなきゃ。」
「普通に戻れない…。」
保奈美は,泣き続けた。
海保菜は,俯いて、どう言えばいいのか,少し考えた。保奈美の「普通」という言葉の使い方は,気に入らなかったが,彼女が言う「普通」という状態には,もう戻れないのは,確かだった。
海保菜は,しばらく黙ってから,やっと口を開けた。
「今は,辛いと思う。怖いと思う。今のあなたは,どれだけ辛いか,私には想像もつかない…。
でも、いつか,きっと,また元気になるよ。時間が経てばね…。
でも、普通というものには,もう戻れないかもしれない。
食事などは,数日したら,すぐ元に戻ると思う。足も,数日で戻るはずだ。
でも、体は,変わっちゃったからね。もう完全に戻ることは,ないよ。体も,心も。
人間と人魚の間でふらふらしているように感じるかもしれないけど,数日前の自分には,もう戻れないと考えた方がいい。」
「出ていけ。」
「わかった。
でも,これを置いとくから,食べてね。お腹が戻るまで,これを食べて凌ぐしかない。
今のあなたには,きっとおいしく感じ、必要としている栄養が沢山摂れるよ。」
保奈美にお皿を渡すときに、海保菜の手が保奈美の手に少し触れた。
「触らんといて!」
保奈美は,手を引っ込めて,大きな声で叫んだ。
海保菜は,すぐに後ずさりした。
「ごめんなさい。怖いのに,ごめんなさい。わざと触ったんじゃない。ただ,食べて楽になってほしかっただけ。」
海保菜は,涙を呑んで,慌てて保奈美の部屋から出て行った。
しかし,とても悲しくて、部屋から出ると,こらえきれずに,涙が頬を伝い始めた。
「お母さん、どうした?」
龍太がやってきて,泣き面の母親を見て,尋ねた。
「何もない…。」
海保菜は、慌てて涙を拭いた。
「保奈美は,大丈夫?どうして部屋から,出てこないの?」
龍太は,事情が知りたいという気持ちをこれ以上抑えられなくなり,訊いた。
昨日から,保奈美が戸を開けてくれないから,龍太も,自分の部屋に入れずにいる。迷惑をしている。それなのに,保奈美には,何があったのか、まるで見当がつかない。打ち明けるどころか,戸すら開けてくれない。普段は,何でも話してくれるのに…。龍太は,何か事情があると察しながらも,少し傷ついていた,
「大丈夫だよ。一人になりたいだけみたい。」
「でも,保奈美は,普段部屋にこもって,泣いたりしない。そして,お母さんも,普段泣かない。
心配だ…。保奈美は,いつも僕に話すのに…話してくれないし,ずっと様子がおかしい。」
「もう少し待ってあげて。きっと,また話してくれるよ。」
海保菜が行ってから,龍太が保奈美の名前を呼んでみたが,やっぱり返事は,なかった。
海保菜も,保奈美が弟の声に反応するかどうか気になって,反応を見に戻ってきた。
「あなたでも,ダメか…。」
海保菜が小さい声で呟いた。
「返事してくれない…病気かな?」
龍太は,本当に心配になってきた。
「病気じゃない。」
海保菜がキッパリと言った。
「訊いても教えてくれないかもしれないけど,何があった?」
龍太は,訴えるような目で母親を見た。
海保菜は,苦しそうな表情をして,すぐに息子から目を逸らし,俯いた。
「心配してくれてありがとう。そのうち,話せるときが来たら,話す。」
そう言い終わると,海保菜は,逃げるように,慌てて階段を下りて行った。
お昼も,晩も,保奈美の部屋に,ご飯を持って行った。でも、ご飯を置くだけで、声をかけたり,話したり,しようとはしなかった。
保奈美は,要らないと言った割には,よく食べていた。
次の日になると、保奈美がようやく部屋から出てきた。
キッチンを通って,すぐに外へと向かった。
「ちょっと…!どこ行くの!?」
海保菜が心配そうに尋ねたが,返事はなかった。
海保菜は,仕方なく,後をついて行った。
保奈美は,外のブランコに座り、地面をまじまじと見つめた。
「足は,戻ったね。」
海保菜が恥ずかしそうに,小さい声で言った。
保奈美は,無反応だった。
「まだ話してくれない?怖い?それか、怒っている?」
また返事がなかった。
「あなたは,まだ話したくないかもしれないけど,私は話すね。」
海保菜が口調を少し明るくして,話し始めた。
「保奈美が今傷ついているのは,分かる。途方にくれているのも,分かる。
でも、話してくれないと、関わってくれないと、一人でこれを乗り越えるのは,とても困難だと思う。まだほとんど何も話せていないし…。
あなたの気持ちを話してくれたら,分かるとは言わないけど,あなたが楽になるように,助けたいし,力になりたい。
まだ信じにくいかもしれないけど、私は,あなたの母親だし,あなたの事を愛しているよ。
あなたが生まれてから,毎日少しずつ成長していくのを近くで見守ってきた。数日前に,あなたが見た体で,あなたを産み,ご飯を食べさせて、おむつを変えて,世話をした。生まれてから今日まで,毎日一緒に過ごしてきた。
でも,本当のことが話せないから,助けたくても,助けられない時もあった。
今なら,助けられる。正直で、ありのままで接して,話せる。
そして,助けたい…あなたが前に進めるように本当に助けたい。」
海保菜が涙ぐみながら,言葉に気持ちを込めて話した。
「あなたの助けは要らない。ほしくない。」
保奈美の反応は,素っ気なかった。
「怖いんだね?
でも、皮肉だけど,今あなたが感じたり,考えたりしていることが理解できるのは,私ぐらいしかいないよ?
今のあなたの気持ちがわかるのは,私だけ。話してごらん。」
「あなたには,私の気持ちの何がわかる!?」
「…そうだね。わからないけど,想像できるよ。
自分のこれまでの現実が玉砕されて,常識が覆されて,自分とは何かよくわからなくて、怖いでしょう?
裏切られて,安心して頼れる人がいなくて,辛いでしょう?寂しいでしょう?
母親は,人間じゃないとわかって、自分も人間じゃないとわかって…。」
「やめて!うるさい!」
「わかりやすいね…そこだね。自分は,人間じゃないと言われたくないんだね。聞きたくないんだね。まだ受け止められないんだね。
でも、もう放っとけない。
私は,随分長いこと待ったんだよ。あなたが生まれてから今日まで,ずっとこうして話せる日が来るのをひたすら待ったんだよ。
話したい。そして、あなたにも信頼して話してほしい。」
「できない。」
「今は,まだできないね…。
じゃ、もうちょっと待つわ。」
「もう放っといてくれ!これまで何を訊いても答えてくれなかったのに,ベラベラ喋って…うるさい!」
「保奈美、私は,あなたの母親だよ。あなたは,私の可愛い娘だよ。わかる?
あなたは,どうも私に何か変なことをされたと思い込んでいるみたいだけど、何もしていない…モンスターじゃない…助けたかっただけ…!」
「ごめんなさい。」
保奈美の口調は急に変わり,とても柔らかくなった。
「なんで?謝るべきなのは,私。あなたは,謝らなくていいよ。」
「あのとき、モンスターと言ってしまって,ごめんなさい。ひどかった。」
「いいよ…怖かったし。大丈夫。」
「大丈夫じゃない…。」
「じゃ、私の事をモンスターだと思っていない?」
「…思っていないと思う…わからないけど…綺麗だと思ったけど…ただ、できない。」
「綺麗だって!?」
海保菜は,目に涙を浮かべて、とても嬉しそうに聞き返した。
「悪いけど…一人がいいの…近寄りたくない。」
「保奈美、お願い!」
海保菜は,手を差し伸べて,保奈美の手を握ろうとした.
「いやだ!」
保奈美は,ブランコから飛び降りて,数歩後ろへ下がって,海保菜を怖そうに見つめた。
海保菜は,保奈美の目に映っている恐怖の色を見て、敗北感を感じた。悔しい気持ちで胸がいっぱいになり,俯いて,ゆっくりと家の方へと戻って行った。
玄関で,尚弥が迎えてくれた。
「どう?」
「話してくれない。また怖い動物を見るような目で見られちゃった…。」
すると、尚弥が妻の手を取って,また外へと引っ張って行った。
「いや、押し付けちゃだめだよ。一人で話してきて、その方がうまくいく。」
「僕と話してくれても,あなたと話さないと意味がない。あなたしか助けられないんだから。」
尚弥は,娘の前に座り,目を合わせようとした。保奈美は,すぐに目を逸らせた。
「どうしてお母さんに,そんなに意地悪するの?」
「意地悪していない。ただ,放っといてほしいだけだよ。」
「放っとけない。あなたが困っているから、助けたいだけだ。ダメなん?」
海保菜は,尚弥に任せて,何も言わないことにした。
「彼女には,何もできない。」
「うーん、それは,話してみないとわからないだろう?」
「話すことは,何もない。」
「いや、たくさんあると思うけど。」
「尚弥、もういいよ。そっとしてあげて。」
海保菜が初めて口を開けた。
「でも、解決しなきゃ…。」
「時間しか解決できないことが沢山あるよ。」
海保菜は,尚弥の肩に手を一瞬かけてから,家の方へと歩き去った。
海保菜がいなくなってから,尚弥は,娘とまた目を合わせた。
「ほら,帰った。君は,満足したか?追い出して。」
保奈美は,答えなかった。ただ俯いて,地面を見つめ続けた。
「保奈美、僕は,あなたのお母さんを愛しているんだ。結婚する前から,もちろん人魚だとわかっていたし,それなりの覚悟もあった。
でも,関係ないんだ。素敵な人だから,結婚したんだよ。
そして,お母さんは,今あなたを心の底から愛していて,助けたいと思っている。」
「私は,知らなかったし…人じゃない!」
「…人じゃない?人間じゃないという意味?
その通りだ。だから、何?
彼女は人魚じゃなかったら,僕たちは,今この話をしていないし、今のあなたに役立つこともできない。
人魚だからこそ,必要としているんだよ。人魚だから,助けられるんだよ。だから,その,「人間じゃない。動物だ。」みたいなことは,言わないで欲しい。
僕には,今のあなたを助けることができない。僕の親も,助けられない。龍太も,助けられない。彼女にしか助けられない。
あなたさえ彼女を受け入れて,ゆるしたら、彼女は,あなたのために万全を尽くす。
あなたが生まれてから,本当の事が話したくて、話したくて…12年も待って,ようやく話すチャンスが訪れたんだ。あなただって,話したかったでしょう。知りたかったでしょう、お母さんの事?よく質問していたんじゃない?
今なら,話せるよ。仲良くなるチャンスだ。ずっと,あなたたち二人を隔てていた壁をぶちこわす,二度とないチャンスだ。だから、責めないで。恐れないで。」
「だって…受け入れるって…人魚なんて存在しないはずなのに…。」
「そう言いながら,本当は分かっているでしょう?
そして、人魚であれ、何であれ、母親だし、大事にすべきだよ。 冷たく突き放すのをやめて,今すぐ話に行って。」
「…したいけど…できない。」
「なんでそんなに怖い?あなたのお母さんは,怖い人じゃない。本当の姿も,怖くない。僕は,その姿に惚れたし、恋に落ちた…どうしてここまで怖がる?」
「…魔女みたいなことができるから!私の体なのに…どうして彼女が触ったら…!?怖いよ。」
「僕には,詳しいことは知らないけど…助けただけでしょう?助けて、何が悪い?助けてくれた人が,どうして魔女になるわけ?」
「だって,どうしてその魔法みたいなことができるんだ!?」
「僕には,うまく説明できないけど,お母さんなら説明できる。今すぐ,仲直りしてきて。もう呆れたよ。」
「したいけど…。」
「なら、して。
昨日、お母さんだって,怖かったよ。どう伝えたらいいかわからなかったし,あなたがどう反応するか,不安だった。ずっと隠していた自分の本当の姿をあなたに初めて見せて,怖かったと思わない?相当怖かったよ。
でも、それでも見せたし、伝えたし、あなたが嫌がっても,助けた。あなたのために奔走した。
なのに、恨むの?門違いだよ。
僕たちは,これまであまりいい親じゃなかったかもしれない。でも、過去はもうやり直せない。変えられるのは,未来だけだ。だから,もう一回信じてみて。
お母さんを愛して。そして、彼女にも自分を愛させて。これ以上,我慢させないで。」
保奈美は,ゆっくりとうなずいてから,立ち上がった。
海保菜は,皿を洗っていた。
「ごめんなさい。」
保奈美が小さい声で呟いた。
「いや、こちらこそごめんなさい。話したくないと言ったのにしつこくて…。」
海保菜が振り向かずに,言った。もう保奈美には,泣いている顔を見られたくなかった。最近,見せすぎたと反省していた。
「私も傷つけたくない…喧嘩したくない…理解したいし,知りたい…でも、怖い。」
保奈美がゆっくりとした口調で,慎重に言葉を選びながら,言った。
海保菜は,これを聞いて,ようやく振り向いて,涙で真っ赤になっている顔を娘に見せた。
「あなたは,私を知らない。だから,どんなことで傷つくかも,分かるわけがない。見せていないから。教えていないから。
本当の顔もほとんど見せたことがないのに,わかるわけがない…だから、謝らなくていい。私が悪い。怖い思いや辛い思いばかりさせて,本当にごめんなさい。」
海保菜が深く頭を下げて,言った。
「うーん、違う。私が悪い。モンスターじゃないし,魔女じゃない。私のお母さんだ。大事にしなきゃ。」
保奈美は,かなり苦労して言った。
「…ありがとう。」
海保菜は,愛しそうに保奈美を見た。娘に近づいて,触れたいのが顔に書いてあった。
「ハグしていい?」
保奈美は,少しためらった。
「体は,変わらないよ。約束だ。脈は,少し早くなるかもしれないけど…。
やっぱりまだ怖いね。いいよ。」
海保菜がまた保奈美に背を向けた。
すると、保奈美は,慎重に近寄って行って、母親の背中に軽く手をかけた。
海保菜は,ゆっくり振り向いて優しく,娘の体に腕を巻いて,抱きしめた。
「もう傷つけない,絶対に。」
海保菜が呟(つぶや)いた。
保奈美の心がまた走るように脈が速くなって、怖そうに胸を手で押さえた。
「大丈夫よ。変わらないから。」
海保菜は,自分の手を保奈美の胸に優しく当てて、保奈美の手を自分の胸にかけた。
「ほら、私も今速くなったでしょう?同じでしょう?」
すると、尚弥が入ってきた。
「おやおや!よかったじゃないの!もう大丈夫だね。」
海保菜は,尚弥の言葉を聞くなり、保奈美を放して、くすくすと笑った。
「いや、まだまだ時間はかかるよ。魔法じゃないからね。人の心は難しいものだよ。」
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