星月夜の海

Yonekoto8484

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満月

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春爛漫(らんまん)の季節になった。花が咲き,鳥のさえずりが毎朝聞こえるようになった。あんなに冷たかった風が少しずつぬるく,穏やかになり,新しく咲いた草花と暖かい陽射しの香りを漂わせる。

なんだか気分がうきうきして来る季節ではあるが,海保菜には,春は他のどの季節より儚く,脆(もろ)いものに感じる。

どの季節も、すぐに過ぎ去り,移ろい行くものなのだが,春は特に短く感じる。花が咲き乱れ,新しい命が産まれ,生気が溢れ,燃えたぎる。しかし,その華やかさ故に,手に触れないままに,すぐに滅んで行くところがあるような気がする。一時的なものにしか感じない。

海保菜には,秋の方がしっくり来て,居心地がいい。

保奈美は,疲れて家に帰ってきた。普通の疲れではなかった。太陽は,いつもより眩(まぶ)しくて、熱く感じたし、どんなに水を飲んでも,喉が渇いたままだった。喉が渇きすぎて、家に帰ると,すぐにグラスに水を入れて,飲んだ。階段を上ろうとしたけれど,途中で足が痺れて,動かなくなった。しばらく立ち止まらざるを得なかった。思うようには,足を動かせなかった。また足に少し力が入ると,また上り始めた。足は痺(しび)れたままだから,痛かったが、その痛みと痺れと闘って上り続けるしかなかった。 上り切ると疲れ切って、晩御飯まで横になって,休んだ。

晩御飯の時間になると,足が元に戻っていて、普通に階段を下りられて,安心した。

尚弥が,保奈美の顔を見ると
「帰って来てから顔を見ていないなぁ。どこに行っていたの?」
と訊いた。

「そうだね…ちょっと寝ていた。」

「寝ていた!?」
海保菜がびっくりして,聞き返した。
「あなたは,二歳ぐらいになってから昼間に寝たことがほとんどないよ。全然昼寝しない子供だった、ずっと。大丈夫?調子が悪い?」
海保菜が心配そうに尋ねた。海に連れて行ってから,どうも様子がおかしい。

「大丈夫。」
保奈美は,嘘をついた。

海保菜は,保奈美の顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いよ…。」

「大丈夫だってば!」
保奈美がイライラして,声を荒げて言った。

「なら、いいけど.あのグラスに入っていた水を全部飲んだ!?いつも半分ぐらいしか飲まないのに…。」
海保菜がまた驚いた。

「喉が渇いていただけだよ。大丈夫。」
保奈美が面倒臭そうに答えた。

「大丈夫。」と言っているけれど,海保菜は,見抜いていた。大丈夫なわけがない。振る舞いも,口調も,顔色も,雰囲気も,全部どことなくおかしかった。でも、病気にも見えなかった。
「まだ飲む?まだ喉が渇いているかな?」

保奈美は,黙り込んで、返事をしなかった。

すると、海保菜は,すぐに保奈美のグラスに水を注いであげた。
「体は,欲しているみたいだし、飲んで。」

晩御飯を食べ終わると、龍太はすぐに階段を上がりかけた。
「保奈美は?行かないの?」
と呼びかけたが,保奈美は,下の踊り場で躊躇して、上ろうとする勇気が出せなかった。

「今は,やめとく。」
そう言ってから,キッチンに戻った。

「一階で勉強してもいい?」
保奈美が海保菜に訊いた。

「いいけど、どうして階段を上りたくないの?」
海保菜は,キッチンから,保奈美が踊り場で上るかどうか迷って悩んでいるところを見ていたのだ。

「わ,私…ただ…上りたくないだけ。」
保奈美が少し吃りながら答えた。

「どうしたの?私に話していいよ。いつでも,何でも,聞くから。」
海保菜は,暖かくて,優しい笑顔を浮かべて,娘を安心させようとした。

「大丈夫だというなら,放っといて、海保菜。何も,大袈裟に,心配せんでも。」
尚弥が呆れて,言った。

保奈美は,もう一回階段に挑戦することにした。今回は,全然ためらわずに,階段を駆け上った。調子が戻ったと思って,喜んだ。でも張り切りすぎて,いざ上まで上り切るとバランスが崩れ,こけそうになった。また横になった。
「どうしていうことを聞かないの!?私の足でしょう!?」

龍太は,保奈美が困っていることに気づいていたが,「どうした?」と訊いても教えてくれそうになかったし,そっとしておくことにした。

次の日も,同じだった。太陽は,とんでもなく熱く感じた。喉も,ずっと渇いていて,何回潤しても,楽にならない。また階段を上ろうとしたけれど,半分しか上れなかった。足が動かなくなって、途中で力が尽きて,仕方なく座りこんだ。

海保菜は,全部キッチンからじっくり見ていた。娘が沈んだ顔で,階段に座るのを見ると、出てきた。
「下りてきて。」
と優しく声をかけた。保奈美は,すぐに下りてきた。
「今日は,一階で過ごしてみたら?」

「私は,一体,どうなっているのだろう?私の足は,どうして動かないの!?どうしていうことを聞かないの!?」

海保菜は,返事せずに、娘の質問を質問で返した。
「足は,いつから痛い?」

「痛くない。」

「痛くない?」

「うーん、痛くない。ただ弱くて…なんか,痺れている感じ。動かないし、どうしたらいいのか,わからない。」

「何もしなくていい。休んだらいいよ。」
海保菜が水を渡しながら,言った。

何も言っていないのに,喉が渇いているのが母親にばれていて、水を渡されて、どこか恥ずかしかったが、水を受け取ってすぐに飲み干した。

「あなたの体は,すごく水分を欲しているよね…横になってみたら,どうかな?」
海保菜が不思議な表情を浮かべて,提案した。

「いや、大丈夫。昨日できなかった宿題も残っているし。」

「寝ていたから?」

保奈美は,頷いた。晩御飯後に,また寝たことをお母さんに話すつもりはなかった。

保奈美は,晩御飯の用意が終わるまで,ひたすら宿題をして、眠い顔でテーブルの椅子に座った。目の前の水をすぐに飲んで、静かに食べ始めた。

ところが,パンをいつも通りパクパク食べていたら,急に喉に詰まりそうになって、うまく呑み込めなかった。咳が出て,止まらなくなった。

「大丈夫!?」
海保菜がすぐに飛び上がり,そばに駆け寄った。

保奈美が,もっと水を飲むと,咳がようやく収まった。

龍太も,怖そうに,お姉さんを見た。

「パンは食べなくていい。残していいよ。」
海保菜がそう言ってから,また席についた。

保奈美は,お母さんの言葉に甘えて,パンを残した。

晩御飯が終わると,お父さんの横にソファに座った。

「え?一緒にいてくれるの?」
尚弥も驚いた。
「嬉しいけど…珍しいね!」

保奈美は,小さくうなずいた。

「宿題は,終わった?」
海保菜が尋ねてみた。

「終わっていない…でも、もう眠くて、眠くて…もうできない。」

海保菜は,頷いた。
「なら、休んで。宿題のことは,心配しなくていいよ。何とかなるから。体の方が大事。私の膝に頭を置いて、ゆっくり寝て。」
海保菜が「おいで」と手招きした。

保奈美はすぐに甘えて、お母さんの膝の上で横になった。小さいときから,していないことなのに、恥ずかしく思う気力もなかった。

「パンは,固かったね?」

保奈美は,小さく,ゆっくりとうなずいた。

「階段も上りにくいね。」

保奈美は,また頷いた。

「大丈夫。大丈夫。安心して休んで。私が見守るから。」
海保菜は,保奈美が寝るまで,ずっと頭を撫で続けた。

「階段上れないって,どういうこと!?どうしたの?!病気?」
保奈美が寝てから,尚弥が心配そうに訊いた。

「わからない。」

「本当は,分かっているでしょう?」
問いただそうとした。

「いや、本当にわからないの。私の血を受け継いでいる。それだけがわかる。でも,どうなるか,わからない。」

「血を受け継いでいるって,彼女も…!?」

「わからない…私の血が今彼女をいじっているのは,確か。彼女の体がどう反応するか、体が勝つか,血が勝つかは、まだ不明。」

「もしあなたの血が勝ったら?」

「他に混血の子供は,いないから,わからない。」

数日,この状態が続いた。金曜日になると,海保菜が夜遅く家を出て,浜へと向かった。最近戻れていなかったし、両親に保奈美の事を相談したかった。

「来た!よかった!最近あまり顔を見ていなかったから,心配していた。また病気になったら,どうしようと思って…。」
仁海が,言った。

「ごめん。最近、ちょっと保奈美の対応で忙しくて、なかなか抜け出せなかったのだ。」

「え?何かあったの?」
拓海が尋ねた。

「多分…体が変わっているかもしれない…人魚の体に。」
海保菜が保奈美の症状を話すと 、両親は真摯になって,話を聞いてくれた。海保菜が話し終わると,「そうか。」と静かにうなずいた。

「どう思う?」

「海保菜が言う通りだと思うよ。海の力は,ずっと彼女の体の中を巡っている。人魚の血は,彼女の静脈の中を流れている。無理はない。海の力が彼女の中でどんどん強くなって、彼女の心身を支配しようとしかけている。これまで体を支配してきた人間の血が,人魚の血に乗っ取られている。いずれ負けるだろう。」
拓海が言った。

「やっぱり,そういうことか…じゃ,私はどうしたらいいのかな?」

「何もしなくてもいいんじゃないの?というか、あなたには,何ができるの?この段階だとじっと見守るしかないわ。実際,体が変わり始めたら,色々出来ることがあるけど…体が変わったら,ここに連れて来て。」
仁海が言った。

海保菜は,頷いた。
「…やっと会ってもらえる…ずっと尋問されてきた。「家族はどこ?」,「どうして会わせてくれないの?」…やっと話せる。」
海保菜が少しだけ嬉しそうに言った。

「でも、彼女には,まだ何も言っていないの。そして,どう言ったらいいのか,わからない。私が人魚で、彼女も人魚になろうとしているって,いったい,どう言えばいいの?そのことをいきなり言えるわけがないのに…。どうしたらいいのだろう。」

「それは、難しい問題だね。でも、考えたことがあるでしょう?この日のことを想像したことがあるでしょう?」

「いや,ほとんどないね。この日が来るかどうか,わからなかったし。
ずっと言いたかったし,何度も言ってしまいそうになった。
なのに,今,どう言えばいいのか,見当がつかない。
どのくらい時間は,残っていると思う,変身するまで?」

「それは,私たちにもわからないのよ。でも、大丈夫。何とか乗り切れる。保奈美も,あなたも,きっと大丈夫。強いから。乗り越えられる。」
拓海が娘を励ました。

「でも、あまり人間しかいないようなところに一人にさせるのは,当分やめといた方がいいじゃない?そばを離れずに,しっかり見守ってあげたほうがいいよ。」
仁海が諭(さと)した。

「はい。」
海保菜は,慌てて帰ろうとした。

「そして…。」

「はい?」

「喜んでいいよ!保奈美は,しばらく大変だし,あなたも苦労すると思うけど,ある意味,初めて親子になれるから。海の事,自分の事をようやく知ってもらえるから。」
仁海が付け加えた。

「もし気に入らなかったら,どうしようかな?」

「最初は,きっと拒絶するよ。でも、拒絶されても,根気強く、辛抱強くそばにいてあげて。いずれ、わかってくるから、いろんなことが。自分のこれまで,彼女に見せられなかった姿を見せて、愛情を注いで見守ってください。」
拓海が言った。

「そして、私は,知らない人魚のおばあさんに過ぎないけど,助けるよ。サポートするよ、あなたも、彼女も。」

「ありがとう。」
海保菜が涙目で言った。

「早く戻ってあげて。」
拓海が促した。

海保菜は,納得して、すぐに浜へ戻った。
「早く戻らないと。保奈美は,やっぱり,今,私を必要としているのだ。早く戻って,慰めてあげないと。説明する言葉を見つけて、早く話さないと。」
と考えながら,帰路についた。

すると,気になる人影が目に入った。この時間帯,誰かが浜辺にいるのは,珍しい。

海保菜は,恐る恐る人影に近づいて行った。人影が動いていないのも,おかしかった。まるで眠っているかのように,じっと座っていた。程よい距離を保ちながら,慎重に近寄ると、海保菜は,ハッとした。

保奈美だった。

海保菜は,慌てて駆け寄り、体を揺すって,起こした。
「保奈美!保奈美!」
海保菜が肩を揺さぶりながら,パニックや驚きを隠さずに,呼びかけた。

保奈美は,深い眠りから目覚めたかのように,ゆっくりと目を開けた。
海保菜が,心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「保奈美、なんでこんなところにいるの!?大丈夫!?」

「ここ,どこ!?」
保奈美は,狼狽(うろた)えた。

「ここは,どこかわからないの?」

「わからない。ここ,知らない!」

「この間一緒に来たところだよ。」

「海?」

「そう。どうやって,ここまで来たか,覚えていないの?起きてなかったの?」

「全然,わからない。」

「海の中に入った?」

「わからない…何も覚えてない。」
保奈美は,焦って自分の手を分析した。

「手は,どうした?」

「何もない。」

「どうやって,家の中から,出られた?鍵は開いていた?」

「わからない。何も覚えていない…そして,海って…お母さんは,どうしてここにいるの?」

「あなたを探していたよ。」
海保菜が少しだけ間をおいてから,反射的に嘘をついた。

「夜中起きたら,いなかったから、私とお父さんは,ずっと探していたよ。」
海保菜は,自分の娘に安易に嘘をついてしまう自分にむかついた。今も,逃げ道を選んでしまう。今なら,話せるのに。正直に言えるのに…言葉が見つからない。

「ごめんなさい。」
保奈美が泣き出した。恐怖で体が震えた。

「大丈夫,大丈夫!あなたは何も悪くないの!」
海保菜は,思わず娘を暖かく,強く抱きしめてしまった。滅多に抱きしめたりしないのに。

「でも、どこにいるかわからないし、どうやってここまで来たかも覚えていないし、何も思い出せない。夢遊病だ。私は,おかしくなっているみたい…。」
保奈美が涙目で嘆いた。

「あなたは,何もおかしくないよ!前とは違うから,おかしく感じるかもしれないけど、おかしくないの、全然!大丈夫。」
海保菜は,娘の肩を優しく握った。なんとか慰めたかったし,話したかった。全部,話したかった。そして、何よりも思いっきり、恐れずに抱きしめたかった。これまで,一度も,思いっきり抱きしめたことがないのだ。自分が偽っているから,罪悪感もあったが,それよりも,もし人間なら,娘を自分の世界から守らないといけない、自分とかかわることによって,何か危ない目に遭うかもしれないというのが,気がかりで,思いっきり抱きしめられずにいた。

でも、今は,自分がどんなに娘を抱きしめても,傷つけることはないことがわかっている。自分の正体がばれても,娘は危なくない。溺れさせられることはない。むしろ、正体を見せなければならないし,いろいろ教えないといけない。今は,自分と関わることが娘の助けになる。自分の血を確かに受け継いでもらっている。確認できた。もう左右されることはない。

さっきのハグは,ここ十年ぐらいのどのハグより,心はこもっていた。しかし,まだ壁はある。話せていないから,今も,秘密が邪魔になる。

そして,ハグしても,娘の体の温もりを,まだこの手では感じられない。自分の手ではないから,何も感じられない。自分の手じゃないと,娘に触れても,その温もりを感じることはない。これも,悔しかった。

今でも,思いっきり娘を抱きしめることができない。おそらく話すまでは,無理だろう。話しても,しばらく無理かもしれない。保奈美に嫌われ,疎(うと)まれるに違いないから。

「夢遊病は,大丈夫じゃないの! 私は寝たまま,このよく知らないところに来てしまった!しかも、全然覚えていない! 大丈夫なんかじゃない!…なのに,お母さんは,どうして嬉しそう?なんで喜んでいる!?」

「よく知らない場所じゃないの。あなたは,この間だけじゃなくて、小さい時にも,何度もここに来ている。小さいとき、私の家族に会わせたのも,ここだったよ。思い出の場所だよ。」
海保菜が小さい声で言った。

「そんなことは,もう覚えていないわ。」

「うん、覚えているわけがないよね。とても小さいときだもの。物心がつく前だ。」
海保菜は,それ以上何も言わなかった。もっといろいろ言いたかったけど、口ごもってしまった。

保奈美は,ようやく海の方へ眼をやった。早速釘付けになって、目を離せなくなった。まるで,幻覚を見ているようだった。

海保菜は,これに気付いて名前を呼んだが、返事はなかった。海保菜は初めて少し怖くなった。肩をゆすってみた。それでも反応が鈍かった。

「入りたい。触れたい。もう一度感じたい。」
保奈美が物欲しげに海を見ながら,呟いた。

海保菜は,少し考えた。入らせてあげたかったけれど,今海に入って,体が変わり始めたら,大変だ。まだ話せていないし。

海保奈美は,娘を止めることにした。
「今は,入らない方がいいと思う。今はやめといて。」

「入りたい。あんなに怖かったのに,入りたい。なんか、いつの間に,怖いとか吹き飛んでいる。」
保奈美は,自分が,自分の意思に反して,ここまで海に惹かれていることが自分でも,不思議そうだった。

「今はダメだよ。」
海保菜は,目を輝かせた。
「でも、もうすぐ入れる。私も一緒に入れるよ。」

海保菜が保奈美の海に向かって,物欲しげに差し出した手を握って,言った。
「今日はもう帰ろう。ここから離れると,楽になるよ。」

「帰りたくない。」

「保奈美…あなたは泳げないし…。」
海保菜は,必死で海から離れる理由を探した

「なんか、今なら泳げそうな気がする。」

「…もうできるだろうね。」
海保菜が小さい声でつぶやいた。
「でも、まだダメ。来て。」
海保菜は,保奈美の手を握り直し,家へ向かった。

保奈美は,抵抗した
「放して!」

「だめよ、保奈美。」
海保菜は,無理やり手で引っ張って,帰らせようとした。

保奈美も,諦めてお母さんの後をついて行った。でも,夜空をふと見上げると、それもすぐに釘付けになって,立ち止まってしまった。

「お月さんだよ。何も変わったものじゃないよ。」
海保菜がまた手を引っ張った。

でも、保奈美は,それでも動こうとはしなかった。無理やり引っ張って行かれる羽目になった。

「満月?」

「いや,前来た時と同じ。小望月だよ。」

「私…。」
保奈美が,何か言いかけて,また立ち止まった。

「何?」
海保菜が心配そうに訊いた。

「どうしたかわからないけど、まるで何かに取り憑(つ)かれているみたいだ。怖い」
保奈美は,とうとう泣き始めた。 

「とり憑かれていない。大丈夫。」

「大丈夫じゃない。」

「大丈夫。信じて。」
海保菜がまた娘の手を強く握って,言った。

「なら、どうして,眠ったままこんなところまで歩いてきたの!?なんで,自分のしたことを何も覚えていないの!?なんで、本当は入りたくないのに,さっき海の中へ飛び込もうとした!?」
保奈美は,ヒステリックになっていた。

海保菜は,また言葉が見つからなかった。ここまで心を取り乱している娘を前にして,自分も怖くなった。

娘と自分の現実は違いすぎた。生まれも,育ちも,価値観も,現実も,全く違っていた。そして、その現実と現実との間には,とんでもない距離があった。

ここで,自分の現実を口にしても,保奈美は喜ばない。受け止めにくいものである。受け止めるのに時間はかかる。衝撃も受けるし、最初は,きっと激怒するだろう。怖くなるだろう。海保菜のことも,自分の事も,怖くなるだろう。

海保菜は,ずっと話したいと思っていた自分の現実を話すのが,急に恐ろしく思えてきた。話してしまったら、保奈美は,もう元に戻ることはないし、しばらく当てもなく彷徨うことになるだろう。辛い思いも沢山することになる。それなら,話すのは,申し訳なさすぎる。娘のことが,急にとても可哀想に思えてきた。

でも、娘は,もうすでに元に戻れない。話すことで苦しみが始まる訳ではない。もうすでに始まっている。

話さないといけない。どんなに辛くても、どんなに話しにくいことでも,話さなければならない。

「理由は,ちゃんとある…。」
と言いかけたが,また言葉が途切れて、それ以上何も言えなくなった。

海保菜は,話す代わりに,保奈美の体を自分の腕で優しく包んで、一緒に歩いて帰って行った。保奈美は,まだ動揺していて,落ち着かなかった。

「大丈夫、足?」

「大丈夫。なんで?」
保奈美は,訝(いぶか)しそうに母親の顔を見上げたが,海保菜は,返事しようとはしなかった。

家に帰ると,海保菜は,二階へ上がらずに一階で保奈美と一緒に過ごすことにした。
「大丈夫?」
と優しく保奈美に尋ねた。

保奈美は,海保菜の態度がいつもとは違うから,ますます心配になっていた。すごく優しくて、温かい。いつもとは違う。逃げていない。そばにいてくれている。このお母さんの看取るような態度を見て,自分の状態は,本当に危ないと確信した。

保奈美は,返事しなかった。大丈夫ではなかった。怖かった。何もかもが怖くて、わけがわからなかった。

「痛い?」
海保菜が心配そうに訊いた。

「うーん。」
保奈美は,首を横に振った。痛くない。怖いだけだ。

「じゃ,階段を上るのは,しんどいと思うから、今夜は,ここで寝よう。私も一緒に寝るよ。そばにいるよ。」
海保菜が優しく言った。

保奈美は,反応しなかった

「…どうした?」
海保菜は,保奈美の暗い表情が気になった。

「…怖い…すごく怖い!」
保奈美が泣き出した。

「大丈夫。怖いのは、分かるけど、恐れなくていいよ。そばにいるし、大丈夫。」
海保菜は,慰めようとした。

「お母さんだって、私がいるからそう言っているだけで、本当は,「この困った子をどうしよう?」と思っているでしょう!」

「違うよ。本当に大丈夫だから,大丈夫だって言っているの。」
海保菜が落ち着いた声で言った。

「でも…でも…。」
保奈美は,落ち着かない。

「シー。もういいよ。いくら考えても,わからないことは,考えなくていいよ。頭を悩ますな。とりあえず,体を休めて。体は,きっと今弱く感じると思う。でも、また強くなる。保奈美も,きっと今途方に暮れていると思う。でも、私がいるし,あなたは大丈夫。」

「…誰にも言っていないことを話していい?」

「いいよ。話して御覧。」
海保菜は,自分の顔をお月様みたいに照らして、温かく微笑んだ。

「自分の中に,もう一人の自分がいるみたいだ。もう一人の自分みたいだけど、違うの。とても違うの。でも、そのもう一人の自分が今私と闘っていて,負けそう。私は,何もできない。強すぎて,勝てない。怖い。」

海保菜は,強く保奈美の手を握った。
「恐れるな。自分の知らない自分も,きっと美しいよ。怖いものじゃないよ。戦わなくていい。」

海保菜は,そう言ってから,慎重に、少し躊躇(ちゅうちょ)しながら,保奈美の胸に自分の手を当ててみた。保奈美の胸の中にあるものが,いきなり動いて、保奈美はびっくりして飛び下がった。

海保菜は,変な顔をして保奈美を見た。
「これだよ。怖いものじゃない。」

保奈美は怖くなり、小さく喘ぎながら,胸を自分の手で押さえた。

「触ったらどうなった?」

「心が…跳ねた。いや、走り出した。…よくわからないけど,止まらない。今も動いている。助けて。止めて。」

「ずっと隠してきたけど,私の中にもあるのよ,同じものが。飛び跳ねるものが。
止められない。でも,止めなくていい。
思いっきり,受け止めてみて。その自分に,今の自分を委ねてみて。いいものだから。せめて,いいものだと私は,信じている。」

「私の中に何がある!?お願いだから教えて!怖いよ。」

「言わなくて悪いけど…言ったら,あなたがもっと怖がると思う。また然るべき時にいうね。」

保奈美は,海保菜の体にしがみついて、むっきになって、要求した。
「今,言って。お願い。私を助けて。」

海保菜は,彼女の背中を撫でて、落ち着かせた。
「もうじきいうよ。大丈夫。」
そして、海保菜がまた保奈美の胸を自分の手で押さえた。

保奈美は,逃げようとした。
「やめて!やめて!」

保奈美は,海保菜から離れて,走り続ける胸を押さえながら,泣きそうになっていた。

海保菜は,嬉しかった。娘が,海の力を感じられるようになったのだ。海の引力を感じられている。これで、自分と海と母親がつながっていることをやがて発見する。

「それは,何!?魔法!?魔女なの!?」

「魔法はかけていないし,かけられないよ。魔女じゃないよ。」
海保菜は,悲しく否定した。

やっぱり,感じるだけではわからない。伝わらない。この難しくて,ややこしいことが感触だけでは,伝わるわけがない。呪われていると思うだけだ。言葉が必要だ。でも、言葉で説明しようとする勇気は,まだなかった。
「しばらく,私に近付かないで。そうすると必ず収まるから。」

「いやだ!一人にしないで!一緒にいて!怖いの!」
保奈美がまた泣き出した。

「違う。一人にしない。絶対に,一人にしない。そういう意味じゃなくて,私の体に触れてはいけないってこと。触れると,またおさまらなくなるから。」

「いいから、一人にしないで!怖いよ!」
保奈美は泣きながら,しがみついてきた。

「わかっているよ。でも、大丈夫だから…。」
海保菜も,涙が滲んできた。

「言わなければならないことが言えない。どうしても,口から出ない。どうしよう。」
海保菜は,そう考えながら,保奈美を強く抱きしめ返して、慰めようとした。

保奈美の胸の中がまた,彼女の意思に反して,独りでに走り始めた。心だけが走っているみたいだった。

海保菜は,保奈美のパニックを感じ取って,言った。
「あなたの胸の中のものは,しばらく収まらないと思うあなたの中にあるものは懐柔できない、制御できないようなとてつもなく強いものだ。でも、綺麗なものだよ。だから,恐れなくていいよ。」

「でも、胸の中に嵐があるみたいで,コントロールできないから,怖い。勝てない。」

「コントロールしなくていい。戦うものじゃないよ。自分だよ。自分自身と戦うと,しんどいよ。あなたは,負けていない。勝ち負けではない。闘いではない。あなたが闘いにしているだけだ。胸の中のものと自分は同じだから,抑えようとしないで。
怖いだろうけど,もう諦めて。胸の中の自分に舵を取らせて。任せていいの。諦めて任せると、葛藤が解けて,楽になるよ。」
海保菜は,一生懸命説明しようとした。

海保菜は,もう一度娘の胸を押さえた。今回,保奈美は,慌てなかった。逃げようともしなかった。胸が騒ぎだしても,じっと我慢した。

「そうそう。恐れないで。暴れずに,リラックして。浜で見た波と夜空を思い出して、身を委ねてみて。自分の中の力に逆らうな。自分の全てを委ねてみて。そうすると、全てが見えてくるよ。」

「できない!消えそうになる!怖い!」
保奈美は,抵抗した。

「いったん消えてもいいの。完全に身を委ねてみて。自分の体の中を流れるものに,逆らうのをやめて,身を任せて。」

海保菜は,迷った。ここまで海のエネルギーを感じているのだから、手を当てるだけで,娘の体を変えられそうだった。力は,入れなくても,こうして手を当てるだけで、体がここまで反応しているのだから,少しでも力を入れたら,確実に変わり始める。

しかし,する気にはなれなかった。まだ話せていないのに,そのびっくりさせるようなことができるわけがない。娘は怖がって,焦るだけだ。海保菜は,娘の体が自然に変わるのを待つことにした。どうせ,もう長くないし。

海保菜は,娘の胸から手を離した。

「嫌だ!何かわからないものに,身を任せたりゃしないよ!」

「海に飛び込もうとしたとき、そのまま飛び込ませたらよかった。 本能に抵抗することを教えてしまった。これを闘いにしてしまったのは,私。ごめんね。こうして話すのは慣れていないから…。」
海保菜は,頭を抱えて,言った。

「ずっとだけど、何の話かわからない!」

「もうすぐわかるよ。今は,とりあえず横になって,休んでいて。体も,心も,疲れている。休養した方がいい。
私も,あなたのそばを離れないから,安心して。ここにいるよ。」

保奈美は横になると,意外とすぐに寝た。

海保菜は,保奈美の隣で横になって、娘の寝顔を見た。手を指しだして,保奈美の手を握ってみた。すると、すぐ悪夢にうなされているかのように苦しそうに,寝返りを打ち始めた。海保菜は,これを見て,すぐに手を離し,自分の手を見下ろした。

「魔女だと思われても,仕方がない。一体,どう説明すれば,わかるのだろう。何を言ったら,わかるのだろう。 伝える言葉を見つけなくちゃ。魔女だったらいいのに…魔女なら、すぐにイメージが湧くから、すぐわかるだろう…でも、いつまでもぐずぐずして悩まずに,早く言わなきゃ。人魚だって。もう時間がない!」
海保菜は,そう考えて,自分を諭した。

娘だって,海についていろいろ勉強していたようだし、人魚の事を知らないはずがない。漠然としたイメージは持っているはずだ。そのイメージがたとえ現実とは,違っていても、話は通じるはずだ。

次の朝になると、保奈美はすっきりしていた。

「気分は?楽になった?」

「うん、普通に戻った。」

海保菜は,保奈美の「普通」の使い方に少し胸を痛んだ。

「今は,もう大丈夫だと思う。」
保奈美は,すっかり気を取り直した調子で,言った。

「昨日も,大丈夫だったよ。昨日も,普通だったよ。そう思えないかもしれないけど。」

「冗談でしょう?昨日,私はだめだった。全然大丈夫じゃなかった。」

「いや,大丈夫だったよ。」
海保菜は,優しく娘の肩を撫(な)でた。

「昨日やっていたことをもう一回やってみて。同じところを触って。」

「いや、やめといたほうがいい。「普通」のままでありたいと思ったら,私には近寄らない方がいい。私は「普通」じゃないから。」

「どう言う意味?」

「もうすぐ分かる日が来る。」

「いつ!?いったい,いつになったら言ってくれる!? 何を隠しているの!?もういい加減にして,言って!私にも知る権利はあるよ!私は,大丈夫だというでしょう!?なら、その証拠を見せて。 苦しめたいの!?」

「いや、助けたいだけ。あなたを守りたいだけ。」
海保菜は,項垂(うなだ)れて,言った。

「なら、ちゃんと話して!私は,もう子供じゃないから,ちゃんとわかっている!元気な人は,海に飛び込みたいとか、抑えられない衝動に駆られない!心も走り出したりしない!元気な人は階段を楽に上れる!足が動かなくなったりしない!喉の渇きも,水を飲めば治るはずだ。ずっと渇いたままのはずがない。私は,ずっと喉が渇いている!ずっとおかしい!」
保奈美は,またヒステリックになっていた。

「まあね…でも、それは全部人であることが前提だから…もし、人じゃなかったら…人じゃないから…だから…。」

「人じゃないからって!?何を言っているの!?」

「うまく言えなくてごめんなさい。」
海保菜は,申し訳なさそうに俯いた。

「言えないなら、もう放っといて!近づくな!」
保奈美は,怖い目で海保菜を見た。
「あなたは,何者かわからないけど、私はそれになりたくない!呪いとか,魔法とか,いらない!」

娘の言葉は,針のように心に突き刺さり,グサッときた。
「呪いじゃない。魔法じゃない。私は,何もしていない。あなたは,私の大事な娘だよ。決して傷つけたりゃしない。助けたいし、守りたい…それができなくて、思いが伝わらなくて,ごめんなさい。私も怖いよ。」

保奈美は,笑った。
「本当?お母さんは,何が怖いの?」

海保菜は,また返事ができずに俯いた。

保奈美は,もう呆れて,階段をすいすいと駆け上った。

海保菜の心の中には,「ごめんなさい」しか言葉がなかった。

保奈美は,昼食も食べず、一日寝て過ごした。娘は,夕食の時間になっても下りてこないから、海保菜が心配になって,様子を見に行った。

尚弥には,「喧嘩した」としか事情を説明していなかった。

龍太は,保奈美の異変にも,母親の異変にも,気づいていたが,自分が首を突っ込む事柄ではないということも,察知していた。特に,保奈美がしんどそうにしているのは,気がかりだったが,自分には何も出来ないのは,熟知していた。母親の様子から見ると,ただごとではないのは確かだし,下手に手を焼かない方がいいと思った。

保奈美の様子を見に,二階へ上がってみると,保奈美は,ベッドで寝ていた。

海保菜は,ベッドの端っこに座って呼びかけた。
「保奈美、晩御飯は?」

でも、返事はなかった。

「保奈美、朝の事はごめんなさい。私が悪かった。いつも,私が悪い。もっと頑張らなきゃね。改めなきゃ。」

「いや、私も悪かった…ただ調子が悪いだけなのに,私に魔法をかけたとか,出鱈目なことを言って…。」

「そんなことを置いといて、もう下りてきたら?」

「できない。具合が悪い。」

「朝から,何も食べていないからじゃない?お昼も抜きにしたし,それは,誰でも気分が悪くなるよ。」

「それじゃない。本当に,おかしい。」

「食べた方がいいよ。力が必要だ。食べないと体が弱って,もっとしんどくなるだけだ。起き上がって。」

保奈美は,起き上がろうとしたが、とても苦しそうな顔をして,すぐには,起き上がれなかった。少し奮闘してから,ようやく座れた。

「どうしたの!?そんなに痛いの!?」
海保菜は,驚いて,訊いた。

「痛いよ。」
保奈美は,呻(うめ)いた。

「どこが?」

「お腹が痛いし…よくわからないけど,しんどいよ。」

海保菜は,足ではなくて,お腹だと聞いて、少しほっとした。
「やっぱり,お腹だね。何か食べなきゃ。栄養を摂らなきゃ。体はね、朝の話じゃないけど…今の保奈美の体は,いつもより力を必要としている状態だから、食べないと、すぐにしんどくなると思う。いつもだったら,昼ごはんを抜きにしたぐらいで,こんなにしんどくならないだろうけど,今はいつもより消耗しているから…一緒に来て。」
海保菜は,保奈美の手を握って,彼女の体を引っ張った。

すると、保奈美は立ち上がろうとしたが,すぐに足が崩れて,倒れた。

「保奈美!!大丈夫!?やっぱり,足も…?」

「大丈夫じゃない。足は、全く動かない。まるで足がないみたいだ。痛い…。」

「足が痛い!?いつから?朝は大丈夫だったのに…。」

「寝ていたから,わからないよ。」
保奈美は,単純に答えた。

「見せて。」
海保菜は,いつも一生懸命隠している訛を出しながら,言った。

ここまで足が動かなくなっていたら,もう遅い。

体が変わる。もしかして,もう始まっているかもしれない。

海保菜は,娘の足をとても優しく手に取って,調べた。よく見ると、予想通りだった。足に鱗(うろこ)ができはじめていた。海保菜が娘の足を撫でると,また幾つか新しくできた。

保奈美は,海保菜の目線を追って,鱗(うろこ)に気が付いた。すぐに悲鳴を上げた。

これを見て、海保菜は,もう人間の芝居ができなくなった。いつも努力して,演じていた人間のお母さんの要素が,体以外は,蒸発して,消えていった。

初めて人魚になって,娘と一緒に座っていた。体は,娘の部屋で変身するわけにはいかないから,人間のままだったけど、心の中では,もう自分の正体をさらけ出していた。もう隠したくなかった。見せたかった。

「保奈美、落ち着いて。」
海保菜は,訛を隠さずに、人魚の言葉で言った。

「私には,いったい、何が…!?足に鱗(うろこ)ができている…私は,魚になるの!?」

「違う!違う!」
海保菜は,笑った。
「大丈夫。焦ることはない。病気じゃないから。」

「大丈夫とか,やめて!大丈夫なわけないじゃない!?異常に決まっている!」
保奈美は,疑わしく、少し驚いた顔で海保菜を見た。海保菜には,娘にその顔で見られている理由は,最初思い当らなかった。

「でも、本当に大丈夫。人間じゃないだけだよ。」

「お母さんの声はどうした!?」
保奈美は,目を丸くして,海保菜を見た。

海保菜は,ハッとした。保奈美に指摘されて、鱗を発見してから,自分が違う言葉を使い始めたことに初めて気が付いた。

保奈美には,訛っているにしか聞こえなかったが,もう完全に違う言葉でしゃべっていた。保奈美には,全く通じないはずの言葉だ。

海保菜は,混乱して,尋ねた。
「わかるの、今の言葉!?」
海保菜は,無理して人間の言葉に戻ろうとしたけど、娘の前では,もう隠せなかった。自分でも,少し困惑した。

「また変わった!」
保奈美は,呆然として母親の顔を見た。保奈美は,とても小さいときから,海保菜の本当の声を聞いていなかったから,記憶にはなかった。
「これがお母さんの声!?聞いたことがない!なんで,いつも違う声で話しているの!?そして,なんで今は,違うの?」

海保菜は,自然に出て来なくなっていた人間の言葉を使うのを諦めた。
「もう隠せないから…もう終わりだ。嘘とか,秘密とか,隠し事は,もうお仕舞(しまい)。」
海保菜は,意味深く言った。

「秘密って,自分の声の事だった!?普通に話したらいいのに。隠す必要ないのに。」

「いや、声だけじゃない…。」
海保菜は,自分の言葉が娘に通じているのが不思議で,たまらない。教えたことがないのに。娘には,海保菜の言葉自体が違うことに気付いている気配すらなかった。ただ訛っているように聞こえるようだ。普通に理解できている。自分のすぐ目の前で,いつの間に,娘がこの力まで身につけて,人魚に変わろうとしている。感心を覚えるとともに,ちゃんと助けられるかどうか,ますます不安になってきた。

「とりあえず、私と一緒に来て。ここには,いられないの。体がどんどん変わるし、これ以上しんどくなる前に、早く行かなきゃ。」

海保菜が保奈美の目をまっすぐ見ながら,言った。

「…変わる?」

海保菜は,視線を背けずに,保奈美の顔をまっすぐ見て,うなずいた。

「変わるって…?」
保奈美は,涙を流し続けた。

「そう、変わるの。」
海保菜は,また保奈美の足を手に取って,娘に見せた。

「ほら、こうしてどんどん増えていくの。」
海保菜は,娘の足を手で少し押さえると,鱗(うろこ)がまた増えた。

保奈美は,怖くてもっと激しく泣き始めた。

「お父さんに言ってくるから,ちょっとだけ待っていて。すぐ戻ってくる。泣かないで。泣かなくていいよ、本当に。あなたは大丈夫。信じて。」
海保菜は,娘の肩に手をかけて,言った。

海保菜は,自分の首飾りを手で持って内心で祈りの言葉を唱えながら,階段をすごい勢いで,下りて行った。 晩御飯を食べている尚弥の手を引っ張って、キッチンの横の部屋に連れて行って,事情を話した。

「何だって!?」

「さっき,言った通りだ。今すぐ,海に連れて行かなきゃ。」

尚弥は,ただ頷いた。

保奈美の前で,隠していたパニックが,今顔に出てしまっていた。
「こわいの。彼女に,どう伝えたらいいのかわからないの。」

「大丈夫。あなたなら,きっと言葉は見つかる。」
海保菜の肩に手をかけて,言った。
「よかったね。ようやく話せる日が来たね。」

海保菜は,小さくうなずいてから,滲んでくる涙を堪えて,下りてきた時と同じ勢いで,階段を駆け上った。

保奈美の前では,また気を取り直して,落ち着いたふりをして,冷静に対応した。

保奈美は,激しく泣きじゃくっていた。

海保菜は彼女の前に跪いて、娘の顔を見た。

「大丈夫。泣かなくていいよ。体が変わっているから,怖いけど、大丈夫よ。助けるよ。信頼して。必ず助けるから。」

「変わっているって…なんで!?何に!?」

「多分言葉でいうより,見せた方が早い。でも、ここでは見せられない。今すぐ行くよ。」

保奈美は頷いた。

海保菜は,娘の体を持ち上げて,毛布で包み,車まで運んだ。

「重い!本当に,大きくなったね!もう12歳だから,当たり前か…。」

「私の膝の上で寝て。 近くで様子が見たい。」
海保菜は,自分の膝に娘の頭を乗せて,車に乗った。

「どこに行くの?」

「海。」

「なんで?」

「そこに行けば、楽になるから。助けられるから。ここだと,ほとんど何もできない。」

「熱い!」
汗が保奈美の額を流れた。全身,汗だらけだった。

海保菜は,保奈美のおでこに手を当ててみた。
「高熱だね。辛いと思うけど,海に行かないと,何もできないの。あと,少しだけ辛抱して。すぐ行くから!」

海保菜は,エンジンをかけた。

「たくましいね。あともう少しの辛抱だ。海に行ったら,楽になるし、全部話す。大丈夫。」
海保菜は,保奈美の手を強く握ってあげた。

できるだけ早く行こうとしたが、信号待ちが長くて,なかなか思うようには進まなかった。

熱が更に上がり,体中が痛くて、保奈美は,とうとう嘔吐してしまった。
「死にそう…。」と呟(つぶや)いた。

「死なないよ。水があれば大丈夫。海に着いたら,楽になるよ。」

「動けない。何もできない。」
保奈美の息が荒くなっていた。

「よく我慢しているね。また動くようになるよ。もう少し少し辛抱すれば。」

保奈美は,しばらく黙った。海保菜がまたおでこに手を当てて,熱を測ってみた。

「お母さんの手は冷たくて、気持ちいい!動かないで!」

「気持ちいい?」
海保菜は,驚いた。海の力が流れているから,気持ちいいどころか,苦しくなるかなと心配していた。

「気持ちいい。」

「痛くない?胸も痛くならない?」

「ならない。」

「そうか。」
今,体が海の力と一つになろうとしているから,痛くないのだ。気持ちよく感じるのだ。体の中の二つの血の戦いは,もう終わっているのだ。

「体は,もう血と戦っていない。従っている。」
と海保菜は,静かに納得した。

海保菜は頷いて、片手を保奈美のおでこに当てたまま、もう片方の手でハンドルを操作した。

浜に着くと、海保菜が車を止めて、娘を毛布ごと抱き上げて、波打ち際まで走って,抱えた。

波の直ぐ前の、海から数メートル離れたところに娘を下ろした。

保奈美がもう一度吐いた。海保菜は,手で水を掬って、保奈美の体の上にかけた。すると、息はすぐに安定し、楽になった。熱も下がった。

「よかった!」
海保菜は,安心した。
「でも、この人が見えるところには,いられない。」
娘をまた抱きかかえて、小さい洞窟の中へ移動した。

娘の体を包んでいる毛布をとると,驚きの声が漏れてしまった。

「何!?」
保奈美が海保菜の声を聞いて,また怖くなった。

「何もない…ただ、思ったより早いだけ!どんどん変わっている!」

保奈美は,自分の下半身を見下ろした。膝より下は,ほぼ完全に鱗で埋まっていた。

保奈美がこれを見ると,また悲鳴を上げて、泣き始めた。

「保奈美、そんなに怖がらないで。そんな恐ろしいことじゃない。」
海保菜が緊張してきて、言った。

「鱗を見るだけで,この反応だったら,海保菜の体を見たら,どんな反応をするのだろう。」
海保菜は,思った。毛布を畳んで、洞窟の隅っこに置いた。

「どうして,こんなところに連れてきたの!?私の体が,何でこんなに変わるの!?何になるの!?ちゃんと話すと言ったでしょう!話して!」

「はい、話します。私は,これまでずっと偽ってきた。ずっと,ずっと前から,嘘をついてきた。 ずっと話したくて,話せなくて,苦しかったのに、ようやく話せる今は,言葉が見つからない。」

「いいから、話して!お母さんも,海に入ると体がこうなるの?」

「…いや、もっと変わる。私は、人間じゃないの。人魚だよ。そして、あなたも…あなたをこの洞窟で産んだの。」

「は!?何を言っているの!?」

「信じないの?」

保奈美は,首を横に振った。

「でも、これで,もう分かったでしょう?体がこんなに変わる理由…わからないの?あなたも,人魚になるの。」

保奈美は,ぽかんとした顔で,海保菜を見た。

「証拠がほしい?自分の体を見れば,充分証拠になるけど、怖くて見たくないね。わかった。見せるよ!ずっと見せたかった自分の体をようやく見せる。怖いけど。」

「体を見せる?どこに行くの!?行かないで!」

「水に少し入ってくるだけ。すぐ戻ってくる。違う体で戻ってくるけど、私だから、ちゃんとわかって。」

「水に入るの!?」

「入る。これまで,「海に近付かない方がいい」とか、「危ないから,気を付けた方がいい」とか,言ってきたけど、海は,あなたに力を与えるよ。今は,特に、力になる。」
海保菜は,また水を手で掬(すく)い,保奈美の体にかけた。

「すごく気持ちいい!」
保奈美は,感動した。

「気持ちいいね。」
海保菜は,優しく愛を込めて,微笑んだ。

「でも、体がもっともっと変わる。水をかけると…。」
保奈美は,自分の足を痛そうに押さえながら、言った。

「そう、それの助けにもなる。じゃ、行ってくる。」

「足が…足が…伸びようとしているみたい。」

「大丈夫。戦わないで。伸びてもいいの。」

「いやだ!痛い!止まってほしい…何かできないの?人魚なら,何かできるでしょう?」

「…止められないよ。ごめんね。体が出来上がるまで,我慢するしかない。」

海保菜は,自分の本当の姿を見せる前のこの娘との最後のひと時を記憶に焼き付けたかった。見せたら、どう反応するかわからないし、全てが変わる。もう元に戻らない、親子関係も、何もかも。

「あなたの心を走らせて、頭を冷やして楽にさせた姿を見せるよ。ありのままの。」
海保菜が海に飛び込んだ。

満月が空に浮かぶ。水中にも,その光がしっかりと届いていた。

海保菜は,保奈美の反応を想像して、洞窟に戻るのを一瞬ためらった。体が重く感じた。

でも、今だと思って、自分の体を水の中から引っ張り上げた。

洞窟の床に座った、娘の真ん前に。

海保菜は,最初,娘と目を合わせる勇気がなかった。

保奈美は,母親の体をよく見て、その美しさに唖然(あぜん)とした。服を全く纏わず、お腹より下が長くてたくましい尻尾になっていた。腕と尻尾は,綺麗な鱗(うろこ)に覆われていた。鱗は,月明りに照らされて,輝く。恐怖より先に感嘆を覚えた。

しかし,海保菜がようやく目を合わせると、保奈美は,とても怖く海保菜の体を見つめていた。恐怖で全身が震え、また泣きそうになっていた。

「そんなに怖そうに私を見ないで。私だよ、保奈美。ママだよ。」
海保菜は訴えるように言って,また俯いた。

「ごめんなさい。びっくりさせてごめんなさい。」
娘の怖そうに自分を見る目を見ていると,海保菜は,謝らずにはいられなかった。

保奈美は,またしんどくなっていた。体は,水をかけられてから,前より早く変わっていたし、体中が熱かった。最初,足に集中していた痛みは,お腹や背中などにも広がっていった。

保奈美の苦しそうな姿を見て,海保菜は,助けたくて,娘にまた呼びかけた。
「保奈美、私に見せて。おいで。慣れるまで怖いだろうけど,この姿の方がずっと今のあなたの役に立てるの。体が違うだけだよ。同じだよ。怖いとは,思わなくていいよ、私の事。」

保奈美は,首を横に振った。

放っとけなくて、海保菜が保奈美の近くまで自分の体を引きずった。手を指しだして、保奈美の足を触った。

「触るな!そのべちゃべちゃした手で私に近付くな!」
保奈美が洞窟の奥の方へ体を引きずりながら,叫んだ。

「保奈美、お願い。助けたいよ。今,あなたを助けられるのは,私しかいない。抵抗しないで。協力して。」

保奈美は,もっともっと奥の方へ自分の足を引きずった。体が重たかった。

海保菜も,後をついて行った。
「保奈美、待って。逃げるのをやめて。私から,逃げないで。お母さんだよ。」

保奈美は,一番後ろの洞窟の壁に体がぶつかって、洞窟の凸凹(でこぼこ)な壁面が背中に食い込んだ。汗が,額から滴り落ちた。痛くて、歯を食いしばっていた。頭を横にして逃げようとしたが,もう逃げる場所はなかった。もうどこにも,逃げる場所がない。

「保奈美、見せて。逃げないで。一人では,辛いでしょう?痛いでしょう?痛みを和らげてあげるよ。 助けるよ。」

保奈美は,海保菜の言葉を無視したから,海保菜がまた手を差し出して,保奈美の腕をさすった。

「触らないで!って言ったでしょう!触らないで。近づかないで。いやだ。」

「でも、私が触れば,楽になるでしょう。本当に助けたいよ。」

保奈美は,また首を横に振った。
「助けたいのではなくて、もっと変えたいだけでしょう!?いらない! 変わりたくない!」

「私が触ったから,変わっているのではないよ!私が触る前から,変わっていた。数週間前から,その兆候はあった。私のやったことじゃない。私は,決してあなたを傷つけたりしない。助けようとしているの。
でも,私が助けても,助けなくても,この体になる。血には,逆らえないから。」
海保菜は,自分の体を指さしながら,言った。

「止められないけど,早めるなら,できる。痛みを和らげるなら,できる。」

「いらない!助けてほしくない!尻尾は,いらない!」

「…もう遅いよ。勇気を出して,自分の体をよく見てごらん。もう人間じゃない。そして、どんどん変わる。自分の血だから、止められない。そして、一人では大変だよ。

海に飛び込めば,すぐ終わる。もっと早くなる。でも、それが嫌でしょう?私は海に飛び込ませないよ。丁寧に,優しくするよ。早すぎないように,痛みをほどほどに抑えてあげる。少しずつ水をかけながら,見守る。
でも、私がそうしても、何もしなくても,結果は同じだよ。」

「いやだ!いやだ!」
保奈美は,泣き叫んだ。

「保奈美、聞いている?お母さんの言うことを聞いて。和らげずに,痛みに耐えるのは,大変だよ。私の言う通りにした方が身のためだよ。お母さんは,あなたを助けたいだけ。」

「あなたは,お母さんなんかじゃない!」
保奈美は,怒鳴った。

保奈美の言葉が心に深く突き刺さった。事実だから。ありのままの姿でここに座る海保菜は,保奈美の知っている「お母さん」じゃない。この姿で保奈美の母親をしたことがない。2歳になってから,この姿を見せたこともない。 その事実の恐ろしさに改めて気づかされて、海保菜は,胸が苦しくなった。

「お母さんじゃない!?なら、一人で頑張ってみて!しんどいよ。覚悟しといて!」
海保菜は,そう言い捨ててから、涙を見せないように娘に背を向けた。

でも、保奈美は,海保菜の涙を見た。

いつも一生懸命自分の気持ちを隠し,見せないように細心の注意を払ってきた母親の顔が痛みと苦しみで溢れていた。涙を堪えようともせずに,顔をくしゃくしゃにして泣いていた。この姿だと,自分の感情も隠せないようだ。

体は,どう見ても別の生き物のもので,母親だとは思えなかった。しかし,顔は,紛れもなく,母親のものだった。保奈美は,申し訳なくなった。今辛いのは,自分だけではないと母親の顔が語っていた。

海保菜は,自分の全てをようやくさらけ出し,娘に見せられて,一種の解放感はあったものの,予想していたとはいえ,拒絶されて,呆然としていた。これまで経験したことのない胸の痛みを覚えた。

洞窟の中は,しばらく沈黙に包まれた。満月の光が洞窟の中へ差し込み,二人の姿を照らした。

保奈美は,月明かりに照らされた母親の後ろ姿の美しさにしばらく見惚れていた。身体中の鱗(うろこ)に月明かりが反射し,宝石のようにキラキラと輝いた。この世のものとは,思えない美しさだった。

でも,どんなに綺麗でも,自分が今からこの生き物に変わろうとしていると思うと,恐怖を感じ,背筋がゾッとする。

海保菜は,ようやく自分を落ち着かせ,気を取り直してから,娘の方を向きなおした。娘の苦しそうな声を聞いていると,自分のことを考えていられなくなった。
「保奈美、こんなに苦しまなくていいよ。助けてあげるよ。助けていい?」

保奈美は,足をお腹に抱えて、苦しそうに座っていた。顔が引きつって、泣いていた。

「戦わなくていいよ。どうせ,勝てないのだから。もう負けたから。助けてあげるから,おいで。」

保奈美は,頷いて海保菜の方に体を動かそうとしたが,動けなかった。お腹が痛すぎて,体がすぐに横へ倒れた。

「保奈美!」
海保菜は,すぐに保奈美の体を波の方に引っ張っていき,全身に水をかけた。すると息が安定し、熱も下がった。

でも、まだしんどそうだった。お腹をずっと痛そうに押さえていた。

「お腹が痛い?」

保奈美は頷いた。

「嫌だろうけど、服を脱がなきゃ。特に、ズボンを。邪魔だよ。」

保奈美は,すぐに首を横に振った。
「嫌だ!あなたみたいに裸になって,海で泳いだりするつもりはない!魚になりたくない!」

「魚じゃないし…ズボンだけでいいから脱いで。」

「どう見ても,魚だよ!」

「自分も,そうであることを忘れちゃだめよ?私の娘だから。私が魚なら、あなたも魚だよ。わかった?」

保奈美は,黙って首を横に振り続けた。

「首を横に振るな。自分の体を見てごらん。あなたは,人間じゃない。私の娘だよ。人魚の娘だ。海に近付くとドキドキが止まらないし、少しすると体も私と同じ体になる。親子だ。血だ。逃げられないよ。

そして、逃げてほしくない…。

私は,これまでずっと我慢した。どんなに言いたくても、どんなに見せたくても、どんなに感じたくても,全部堪えてきた。

あなただって,知りたかったでしょう?今なら,見せられる。話せる。何でも,話せる。自分の手で触れる。」
海保菜は,泣きながら言った。

「本当に,初めて…というか、大きくなって初めて会っているような気分だ。まるで,一歳のときから,会っていないみたいだ。

あなたがニ歳になってから,この姿を見せていない。でも、その前は,この姿で抱っこしたりしていたよ。少しも嫌がらずに,私の腕の中で寝てくれた、何度も。あのときから,さっきあなたの手に触れるまで,私は,ずっと見ているだけで,関われていない。触れていない。ずっと近くで…でも,遠くから見ているようで,本当の事が言えなくて…もどかしかった。そういう生活を十年以上続けた。苦しみと淋しさの極まりだった。

毎日考えたよ。いつか,こうして対面する日が来るかどうか。その日が来たら,この姿を見て,あなたがどう思うか。私の家族に会わせられる日が来るかどうか。でも、ずっと見せたいと思っていた。知ってほしかった。話したかった。拒絶されても,縁を切られてもいいから,本当の私を知ってほしかった。

でも、いざ見せると,やっぱりいや?…やっぱり気持ち悪い?やっぱり好きになれない?やっぱり,この母親を愛せない?

まあ、時間はかかると思うけど…今はまだショックから立ち直れないと思うけど…体も痛いし,変わっているから怖いし…。」
海保菜は,隠そうともせずに,娘の前で涙を恥知らずに流して見せた。

保奈美は,お母さんの涙を見て,手を差し出し,海保菜の腕をつかんだ。

「ん?触ってくれるの?」
海保菜は,涙を我慢できずに泣き続けた。そして、保奈美の手を強く握った。

保奈美は,少し嫌がったけど、手を引っ込めなかった。

「嫌なのに,ありがとう。」
海保菜は,まだ物足りなさそうに娘の手をすぐに離さずに,しがみついた。

少しすると,海保菜は,やっと涙が止まって落ち着いた。

「もう嫌だ…!止まってほしい!止めてほしい!」
保奈美が久しぶりに弱音を吐いた。

「私も止めてあげたいけど,できないの。」

「お,お母さんがやっているでしょう!嫌だって,言っているのに!」

「だから、違うって!
あなたは人魚だから,体が変わっているの。つまり、体が変わりたいから,変わっているの。自分の意思だ。私の意思じゃない。人魚じゃなかったら,私が触っても,海の近くまで来ても,体は変わりゃしない。私は,魔法は持っていないし,人間を人魚に変えるなんてことできないよ。」

それでも,保奈美は首を横に振り続けた。
「やめて!」

「首を横に振るな。あなたは,自分でも気づいているはずだ。逆らえないってことに。今だって、頑張って闘っているでしょう?でも、無理でしょう?自分がどんなに嫌でも,どんなに抵抗しても、体はどんどん変わるでしょう?闘っても,無駄だ。諦めなさい。諦めて、身を海に任せなさい。」

「いやだ!」

「保奈美!怖い思いはさせたくないけど,あなたにどうしてもわかってもらわないといけないことがある。

私は,海だ!海と,私と,あなたは,一緒だ!」
海保菜が手を保奈美の胸に当てた。しかし,当て方が,前とは,違っていた。電力が針金を通るように,海保菜の手から,エネルギーが流れていた。そのエネルギーが保奈美の中に流れ込んできた。

保奈美は,すぐに悲鳴を上げた。
体中に激痛が走り、体が信じられない速さで変わり始めた。

「やめて!やめて!」
保奈美が喘ぎながら叫んだ。でも,声はほとんど出なかった。

「あなたの中には,海が生きているのよ。私と同じだよ。そうじゃなかったら、私がこうして触っても、あなたの体は反応しない。でも、反応しているでしょう?感じられるでしょう?とてつもなく強い力を。そして、体の全ての細胞がその力に反応して,変わろうとしているでしょう?わかった?あなたの体は,海の力に支配されている。」

「やめてください…。」
保奈美が喘ぎながら言った。

海保菜は,すぐに保奈美の胸から手を離した。

保奈美は息が切れて,苦しかった。でも、それでも,涙は止まらなかった。

何も返事しなかった。声を出せなくなっていた。首を振って意思表示をするのも怖かった。

「ごめんなさい。やりすぎたね。」
海保菜は,娘をまた抱き上げた。

「そこまで感じるとは,思わなかった。感じても,そんなに闘う力があると思わなかった。
闘いすぎだよ。無駄なのに…諦めたらいいのに…。
なんか,「助ける」と言いながら,あまり助けられなくて,ごめんなさい。」

保奈美は,何も言わなかった。ただ歯を食いしばり、お腹と背中を押さえて,痛みに耐えた。お腹と背中から鰭が生えて,少しずつ伸びてきていた。

海保菜は,少しずつ娘の体に水をかけた。背中も優しく撫でてあげた。

保奈美は,手も変わりはじめ、何もできずに泣き続けた。すると、海保菜は,保奈美の手を自分の手で優しく包み、強く握った。
「こんなことに耐えないといけなくて,ごめんなさい。できるものなら、止めてあげたい。でも、できない。早めることしかできない。」

保奈美は,黙ったまま,何も言わずに海保菜の体に強くしがみついて、放さなかった。

「抵抗しなくなったね。よくやっている。お疲れ様。怖いだろうに…身を任せているね。本当に,よくやっている。」
海保菜が娘を褒めた。

保奈美は,ゆっくりと頷いてから,ようやく口を開けた。
「どうして,これまで黙っていたの?どうして,言わなかったの?」

「守りたかったから。」

「誰から?」

「それは,誰にも言えない。口止めされている。」

「私には,言えるでしょう。本当に罪を償いたいと思ったら。」

「いや、言えない。」

保奈美は,追求するのを諦めた。お母さんは,やっぱりどの姿でも口が堅い。話題を変えることにした。
「お母さんの家族って,どこにいるの?」

「そっちの海にいるよ。あまり遠くない。」
海保菜が,海を指で差しながら,言った。

「今日、この後,会いに行くつもりだけど、大丈夫かな?他に行くところがないよ。」

「…大丈夫。私も会ってみたい。でも、私の顔を知らないでしょう?」

「知っている。写真を何度も見せているし、いつも話している。本当のことが言えなくて,私が辛かったことも知っているし、数日前にあなたのことで相談に行ったところだよ。浜で寝ていた,あの日ね。」

「相談した?」

「うん、心配していたから。」

「じゃ、ずっと私だけが知らなかったってわけね?」

「うーん、龍太も知らないし,お父さんの家族も知らないし。知っているのは,ずっと私とお父さんと、私の家族だけだった。

でも,もう少し早く言わなくて,ごめんね。人魚だとわかった瞬間,話せたのにすぐには,話せなかった。卑怯(ひきょう)だった。本当は,知っていたよ。階段を上れなくなった時から,いずれこうなるのは,わかっていた。でも、言い出しにくくてね…。」

「なんで,今なら言える?」

「言わないというのは,あなたが人間の場合の約束だったから、人魚だとわかった瞬間、もう守らなくてもよかった。

だから,龍太には,まだ話せないの。保奈美も話してはいけないよ,絶対に。」

保奈美は,暴れなくなり,おとなしく海保菜の腕の中でじっと我慢していた。久しぶりに自分の下半身を見下ろしてみた。

足は,もう蛙(かえる)の足みたいに指と指の間がくっ付いて、広がっていた。これを見て,保奈美は難しい顔をした。

「大丈夫。あともうちょっとだから。大分出来上がってきたよ。あと、足が一つに固まったら,終わり。」

保奈美は大きく溜め息をついた。
「いやだ。」と小さく弱音を吐いた。

「でも、そうなったら泳げるよ。海で初めて泳げるよ。」

「泳ぎたくない。」

「そうか。今だけだよ。人間に戻れる。必ず戻れる。」

保奈美は,急に海保菜の腕を強く握ってきた。

「どうした?」

「いやだ。足が…足が…。」
保奈美がまた泣き始めた。

「もう足じゃない。一つになるの。これみたいに。泳げるように。」
海保菜が自分の尻尾を指さして,言った。

保奈美は,頷かなかった。涙が頬を伝った。

「私の腕を握って。お腹を掴んで。何でもいいから,とりあえず私にしがみついて、感じないように。見ていると辛いでしょう?見なくていいの。」

保奈美は,頷いて、強く海保菜のお腹に腕を回し,しがみついた。海保菜が息苦しくなるほどだったが,声を上げなかった。娘を強く抱きしめ返した。

海保菜は,娘の足がしっかりと一つに結ばれるのを見届けてから,保奈美の肩を優しく揺すった。
「もう終わりだよ。長い時間、よく我慢したね。起きてみて。」

保奈美は,手を解いたが,それ以上動かなかった。

少し慣れるまで待った方がいいのか、早く水の中に入らせた方がいいのか、海保菜は一瞬迷った。しかし,短い時間では慣れないし、逆に気まずくなるかもしれないので、早く波の方へと手を引っ張って,案内した。

「行こう。」
海保菜が優しく、小さい声で言った。

「行こうって…動けないよ。」

「動ける。自分の体だから。動きたければ,動けるよ。最初は,覚束無いだろうけど,ちゃんと動くよ。」

保奈美は動くつもりはないということが,はっきりと海保菜に伝わった。

「嫌なら、いいよ。引っ張ってあげるから,私の手を取って。」
海保菜は,優しく手をさしだし,保奈美が掴んでくれるのを待った。

保奈美は,躊躇(ちゅうちょ)しながら途中まで手をさしだしたが、自分の視野に入った途端に,手が止まってしまった。驚いて,自分の手を見た。開けたり、閉じたりしてみた。自分の思い通りに動くのは、不思議でたまらなかった。でも、気持ち悪かった。

保奈美は、目を逸らし,投げ捨てるような仕草で,自分の手を海保菜に指しだした。

海保菜は,保奈美の手を取り、しっかりと握った。いったん手を保奈美の肩にかけてから、水の中へとゆっくり進んでいった。

いきなり飛び込んだら,保奈美は怖がると思って、遠慮した。
「今から潜るけど,いい?」

「…怖い。」

「水に潜ったことがないね。人魚の娘のくせに…私のせいか。」
海保菜は,小さく笑った。
「大丈夫。ちゃんと水の中で呼吸できる体になっているから。」

保奈美は,疑わしそうに海保菜を見た。

「信じていない?
とりあえず,行ってみよう。息ができなかったら、私の背中を叩いて知らせて。」

次の瞬間には,海に飛び込んでいた。海保菜は,どんどん深く潜って行った。

しばらくすると、保奈美は,力いっぱいで海保菜の背中を叩いた。

「息ができない?」
海保菜が返事を待たずに,急いで水面へと力強く泳いで行った。

保奈美は,咳が始まり、止まらなかった。水を沢山吐き出した。

「ごめんなさい!もう息ができると思っていた!」

「触らないで!」
保奈美は,海保菜の手を振り解いた。すると、泳げないから体がすぐ水の中へ沈みかけた。

海保菜は,また娘の手を掴んで、助けた。

「何?私が溺れさせようとしたとでも思っているの!?そんなことをするわけがない!あなたは,私の大事な娘よ。宝物だ。決して溺れさせたり,傷つけたり,しない。」

「もう聞きたくない!」

「あなたが赤ん坊の時に,この手であやしたし、この手でご飯を食べさせたし、ずっとこれまで大事に育ててきたのに。」

「モンスターだ!…怖い!」
保奈美がまた泣き始めた。

「モンスター!?モンスターなんかじゃない。あなたの母親だよ!母親の事をモンスターと呼ぶな。ずっと守ってきたのに。大事に育ててきたのに。
私がモンスターなら、あなたは,何?あなたもこの体から,生まれたんだよ!このモンスターの体の中で,十か月成長してから私がこの浜で産んだよ。」

保奈美は,咳が止まらなくて,返事できなかった。

「ごめん。まだ水中で息ができる体になっていなかったね。今からなるよ。」

咳がようやく止まって、保奈美は,自分の喉を掴んだ。

「今なら、息できるよ。きっと。」
海保菜が言った。

「もう二度と行かない!」

「行くの!ここにはいられないよ。人間に見つかったら大変だよ。行こう。」
海保菜は,また保奈美の手を握り,飛び込んだ。

潜っても、保奈美は,口を手で覆い,目を閉じていた。

海保菜が気づくと、小さく笑いながら言った。
「目を開けていいよ。口も。きっと大丈夫。」

保奈美は,恐る恐る目と口を開けてみた。水がすぐ口の中へ流れ込んできて,最初は溺れているような気分で怖かったが,少し待ってみると,空気と同じように水を吸ったり吐いたりできるようになった。

「ほら、大丈夫でしょう?」

保奈美は,自分の首を手で掴んだ。思わず、「なんで?」と言ってしまった。言葉は,ちゃんと喉の中から出てきた。

海保菜は,優しく笑った。

保奈美は,おじいちゃんとおばあちゃんにすぐにハグされた。

「本当に久しぶりだね…全然覚えていないだろう,僕たちの事?」
おじいちゃんが涙目で言った

保奈美は,何も言わなかった。

海保菜は,ちょっとだけ後ろへ下がって,涙ぐみながら静かに見た。

「大丈夫?疲れているだろうね。」
仁海が心配そうに保奈美に言った。

保奈美は,何も言えずに黙ったままだった。何か言いたかったが,怖かった。

「泳げる?」
仁海が海保菜を振り向いて,尋ねた。

海保菜は,首を横に振った。

「あんなに小さかったのに…大きくなったね!綺麗な女の子に育ったね。」
仁海は,感心した。

「でも、すごくしんどそうだね。」
おじいちゃんが保奈美の顔を見て,心配そうに言った。

「そうだね。早く休んでもらった方がいいね。」
仁海は,保奈美の腕を持って,寝室まで案内した。

「海保菜もおいで。疲れたでしょう?」

「いや、私は…。」

「どうした?」

「私がいない方が,保奈美は,よく眠れると思う。」

「え?母親でしょう?」

海保菜は,俯いたまま何も言わなかった。

「はい、わかった。」
仁海は,保奈美を寝室まで案内した。

「ここでゆっくり休んで。安全だからね。大丈夫だからね。私たちは,あなたの家族だし,何も心配しなくていい。体はきっと疲れているから,何も考えずに休んで。お母さんにいてもらった方がいいよね?いてほしいよね?」

保奈美は,ただ俯いて,何も言わなかった。

「そうか。しんどいね。怖いね…なんか,何もできなくてごめんね…もしよかったら,横になってみて。」

「…ありがとう。」
保奈美が囁(ささや)くような小さい声で言った。

仁海は,すぐに保奈美を優しく抱きしめて,頭を撫(な)でた。
「私は,あなたのおばあちゃんだから,我慢せずに我儘を言ってもいいよ。全然遠慮くしなくていいからね。あなたの事がずっと大好きだから,前からずっと。私もおじいちゃんも。甘えていいよ。横になれる、自分で?」

保奈美は,少しも動かなかった

「動くのが怖い?」

保奈美は,何も言わなかった。

「この体も、慣れていないけど、ちゃんと動くよ。口も動くし、喋れるし…大丈夫。」

保奈美が突然泣き出した。

「怖いね…ごめんね。一人にするね。でも、何かあったら呼んで。」
仁海は,もう一度肩に手をかけてから,部屋を出ようとした。

「ごめんなさい…。」
保奈美がまた小さい声で言った。

「謝らなくてもいいよ。怖くてもいいよ。ゆっくりお休み。」

「海保菜…一人では怖いと思うよ?」
仁海が皆のいる部屋へ戻り,言った。

「私がいるよりましだろう…怪獣だと思っているから。」

「そんなことないでしょう!」

「いや、本当に怖いと思うよ。」

「怖くても,そばにいてあげなきゃ。彼女は,今あなたを必要としているよ。」

「これ以上,怖い思いをさせたくない。」

「私たちは,他人だからそっとしとくけど,あなたは,他人じゃない。母親だ。そばにいてあげて。」
拓海が言った。

「どんな姿でも,保奈美のお母さんだから。それを彼女も認めるはず。怖くても,あなたの顔を見ると心,のどこかで安心するはず…。」
仁海が賛成した。

「お母さんじゃないと言われちゃったし,モンスターと呼ばれちゃったし…。」
海保菜は,あまり気が乗らなかった。

「そんなこと,関係ない。今は,そばにいて見守るべきだ,あなたが。今すぐ,行ってあげて。」
拓海が言った。

「保奈美、お母さんを連れてきたよ。」
仁海は,泣いている孫の顔を見て慰めようとした。
「そして、泣かなくていいよ。私たちは,あなたの家族だし,助けたいと思っているよ。傷つけたりしないよ。」
仁海が優しい声で言った。

「でも、傷つけてしまったね…。」
海保菜がそうつぶやいてから,娘の隣に座った。泣き続ける保奈美の背中を優しく撫でてあげた。

「今日は,もう寝よう。一人がいい?一緒がいい?」

保奈美は,何とも返事しなかった。

「体は,もう痛くないよね?怖いだけだよね?」
仁海が訊いた。

「保奈美、体が痛い?」
海保菜が黙っている保奈美に尋ねた。

保奈美は,首を小さく横に振った。

「なら、いい。よかった。」
仁海は,部屋から,出て行った。

「寝れそう?

…明日は帰るよ。長くいなくてもいい。

帰りたいでしょう?なら、帰る体力があるようにゆっくり休んで。」

保奈美は,小さく頷いた。

「綺麗だね…本当に。」
海保菜が感心して,呟いた。
「私の子供だとは信じられないくらい…ほら,私も今日初めて見たから。」

保奈美は,何も言わなかった。目線も合わせなかった。

「やっと私の家族に会わせられて,よかった。喜んでいるよ。保奈美は大変だけど…。」

「私も…よかった…。」
保奈美が小さい声でつぶやいた。

「ありがとう。」
海保菜は,保奈美を抱きしめて慰めたい母性本能を抑えて,床の上で横になった。

月光が暖かな陽射しに変わるまで,疲弊し切って力の尽きた二人が,倒れるように眠った。
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