花の記憶

Yonekoto8484

文字の大きさ
6 / 13

百合

しおりを挟む
「だから、玉子焼きを食べたんだってば!」
哲雄がムキになり、幸子に怒鳴り返した。恵美に、朝ご飯に何を食べたのかを訊かれ、幸子が誰に何を言われようと、牛丼を食べたと真剣に主張し、気がついたら、喧嘩に発展してしまっていた。

幸子は、病気になる前は、淑やかで穏やかな性格で、人と喧嘩をしたという話を聞いたことすらなかった。自分には厳しいが、その分、他人には優しく、博愛主義者だった。波風を立てるようなことが大嫌いで、他人と言い合いになるぐらいなら、たちまち自分の主張を撤回し、何もなかったことにするタイプだった。真剣に主張したことがあるのは、子供のことぐらいで、竹を割ったような性格だから、その時も、次そのやり合った相手と顔を合わせた時は、いつも通り愛想良く挨拶していた。

ところが、病気になると、その気立ての良い性格は変わり、哲雄とのなじり合いは後を経たない。幸子は、見違えてしまいそうになるくらい、頭から湯気を立てて、自分の記憶違いは正しいと主張をし、一向に退かない。それに対し、哲雄は、もともと怒りっぽくて、身も蓋もない言い方をする人だから、売り言葉に買い言葉になり、怒りが際限なくエスカレートして行く。

「あなたは、どこで朝ご飯を食べたか知らないけど、私はこの台所で牛丼を食べたわ!」
幸子は、負けまいと言い返す。

「朝ご飯に牛丼を食べるわけないじゃん!一緒に食べたじゃん!あなたが忘れているだけだろう⁉︎」
哲雄が青筋を立てて、怒鳴った。

「もう…何も知らないくせに…馬鹿!!」
幸子は、とうとう、自分の記憶が間違っていることを指摘されたことが突き刺さったのか、涙目になっていた。

恵美と勇翔は、二人の揉め事を止めに間に入りたいと思っても、何も出来ずに手をこまねいていた。子供たちは、固唾を飲んで、訳もよくわからないままに、二人のやりとりを聞いている。

しばらく、この調子で激しい言葉のやり取りは続いた挙句、いつまで経っても埒が開かないので、恵美はとうとう、これ以上聞いていられなくて、提案した。
「お母さん、悠美と散歩して来たら?悠美は、さっきから散歩に行きたがっているよ。そうだよね、悠美?」

悠美は、別に散歩に行きたいとは思っていなかったから、母親の提案を聞いて、一瞬戸惑ったが、すぐに空気を読み、頷いた。

「おばあちゃん、行こうよ。」
悠美が母親に調子を合わせて、祖母を誘ってみた。

幸子は、すぐに頷き、悠美と手を繋いで、タッタッと歩き出した。

幸子は、症状が進み、忘れ物が激しくなるのに対し、自分のその状態を正常ではないと自覚できていることから、苛立ちや不安の気持ちが募り、哲雄の対応もそれらを和らげるどころか、火に油を注ぐようなものなので、どうしても収まらないことが増えている。その度に、幸子は、歩いて、体を動かすことで、神経を落ち着かせようとしている。なぜか、6歳になり、3人の孫娘の中で幸子の病気を一番理解している悠美がその相手をすることになっていた。

ところが、3人の中で一番理解できているとはいえ、忘れっぽくなる病気という程度の認識しかなく、詳しいことは理解できていない。それに、自分の近所なら自信はあるものの、悠美は祖父母の近所にそこまで詳しくはない。公園までの道のりぐらいしか知らないのである。それでも、祖母の見張り役が務まると誰かが判断したようである。

幸子は、最初、悠美もよく知っている道を進んでいたが、途中で突然曲がり、違う方向へ進み出した。

悠美は、これを見て、不安になった。
「おばあちゃん、こっちなの?道を知っているの?」

「もちろん、知っているわよ。こっちでいいよ。」
幸子が自信満々に答えた。

しかし、悠美は、祖母の自信に満ちた返事を聞いても、とても安心出来なかった。朝ご飯に何を食べたのか思い出せない人が、道を覚えている訳がない。そう思った。しかし、自分の不安を口に出しても、どうにもならないことを、先程の祖父との激しいやりとりを聞いて分かり切っていた悠美は、それ以上何も言わずに、必死で目印になるものを探しながら、仕方なく祖母について行った。

一番目印になりそうなものは、祖母が曲がった通りの角の家だった。家の庭の花壇には、百合が沢山咲き誇り、とても綺麗だった。悠美は、「帰れなくなったらどうしよう⁉︎」
と恐怖を胸に抱きながら、祖母と手を繋いで歩きながら他の道標を探して過ごした。

歩きながら、祖母はあれこれ話してくれた。自分の幼い頃の話や両親や兄弟の話など、沢山してくれた。しかし、悠美は、道が分からなくなり、祖母は道がわかっているとも確信が得られなくて、気が気ではなく、生憎(あいにく)話を聴いているどころではなかった。

ところが、ちょうど祖母が4回以上道の角を曲がり、自分の探し当てた道標の数が多くなりすぎて、全て覚えられる自信もなくなり、自力で帰るのは無理だと悠美が絶望しかけていたところへ、あの百合の咲き誇る花壇が視野に入った。

悠美は、声を上げそうになるくらい嬉しくなり、安堵した。これで、無事に帰られる。悠美は、肩の荷が降り、密かなにため息をついた。

そして、無事に帰られるという安心感を得られたということよりも、祖母は最初からちゃんと道がわかっていたことが、悠美には嬉しく、誇らしく思えた。

しかし、祖母は、最初からちゃんとわかっていたし、気を揉んでいる必要はなかったと喜ぶと同時に、悠美は、少し後ろめたかった。祖母だって、ちゃんとわかっているのに、朝ご飯に何を食べたのか覚えていないから、道も覚えているわけがないと決めつけて、疑って、悪かったと反省した。そして、散歩をまた一からやり直して、祖母の話をちゃんと聴きたいと思った。

しかし、一度過ぎてしまった時間は、いくら願っても、もう戻らないことを幼い悠美がこの経験から学んだのである。

祖父母の家に帰ってみると、今度は、哲雄が母親と言い合いになっていたようだった。

「だから、病気のせいだってば!」
恵美が必死で父を諭した。

「病気なんかじゃない!歳で頑固になっているだけだ、臍を曲げて!」
哲雄が恵美の言い分をすぐに否定した。

恵美がまた何かを言おうと口を開きかけたが、幸子と悠美の姿が見えると、すぐに口をつぐんだ。

幸子と悠美がまたテーブルに座ってみると、空気が静まり返り、しばらく気まずい沈黙は続いた。

すると、哲雄との言い合いをもうとっくに忘れ、娘と哲雄が先まで揉めていたことにも気が付いていない幸子が沈黙を破った。
「みんな、クッキーを食べない?この間、焼いたのが余っていて、二人じゃ食べきれないから、食べてもらわなきゃ。」

幸子がそういうと、みんなの表情が一斉に明るくなり、先まで緊迫していた空気が一気に和んだ。

先までみんなを困らせ、空気を冷たくさせていた祖母の病気が、今度は、みんなを癒やし、空気を元に戻したのを見て、幼い悠美は、思った。
「不思議な病気だなぁ。みんなは、不幸だという風に言うけど、不幸だけではないかもしれない。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...