花の記憶

Yonekoto8484

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百合

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「だから、玉子焼きを食べたんだってば!」
哲雄がムキになり、幸子に怒鳴り返した。恵美に、朝ご飯に何を食べたのかを訊かれ、幸子が誰に何を言われようと、牛丼を食べたと真剣に主張し、気がついたら、喧嘩に発展してしまっていた。

幸子は、病気になる前は、淑やかで穏やかな性格で、人と喧嘩をしたという話を聞いたことすらなかった。自分には厳しいが、その分、他人には優しく、博愛主義者だった。波風を立てるようなことが大嫌いで、他人と言い合いになるぐらいなら、たちまち自分の主張を撤回し、何もなかったことにするタイプだった。真剣に主張したことがあるのは、子供のことぐらいで、竹を割ったような性格だから、その時も、次そのやり合った相手と顔を合わせた時は、いつも通り愛想良く挨拶していた。

ところが、病気になると、その気立ての良い性格は変わり、哲雄とのなじり合いは後を経たない。幸子は、見違えてしまいそうになるくらい、頭から湯気を立てて、自分の記憶違いは正しいと主張をし、一向に退かない。それに対し、哲雄は、もともと怒りっぽくて、身も蓋もない言い方をする人だから、売り言葉に買い言葉になり、怒りが際限なくエスカレートして行く。

「あなたは、どこで朝ご飯を食べたか知らないけど、私はこの台所で牛丼を食べたわ!」
幸子は、負けまいと言い返す。

「朝ご飯に牛丼を食べるわけないじゃん!一緒に食べたじゃん!あなたが忘れているだけだろう⁉︎」
哲雄が青筋を立てて、怒鳴った。

「もう…何も知らないくせに…馬鹿!!」
幸子は、とうとう、自分の記憶が間違っていることを指摘されたことが突き刺さったのか、涙目になっていた。

恵美と勇翔は、二人の揉め事を止めに間に入りたいと思っても、何も出来ずに手をこまねいていた。子供たちは、固唾を飲んで、訳もよくわからないままに、二人のやりとりを聞いている。

しばらく、この調子で激しい言葉のやり取りは続いた挙句、いつまで経っても埒が開かないので、恵美はとうとう、これ以上聞いていられなくて、提案した。
「お母さん、悠美と散歩して来たら?悠美は、さっきから散歩に行きたがっているよ。そうだよね、悠美?」

悠美は、別に散歩に行きたいとは思っていなかったから、母親の提案を聞いて、一瞬戸惑ったが、すぐに空気を読み、頷いた。

「おばあちゃん、行こうよ。」
悠美が母親に調子を合わせて、祖母を誘ってみた。

幸子は、すぐに頷き、悠美と手を繋いで、タッタッと歩き出した。

幸子は、症状が進み、忘れ物が激しくなるのに対し、自分のその状態を正常ではないと自覚できていることから、苛立ちや不安の気持ちが募り、哲雄の対応もそれらを和らげるどころか、火に油を注ぐようなものなので、どうしても収まらないことが増えている。その度に、幸子は、歩いて、体を動かすことで、神経を落ち着かせようとしている。なぜか、6歳になり、3人の孫娘の中で幸子の病気を一番理解している悠美がその相手をすることになっていた。

ところが、3人の中で一番理解できているとはいえ、忘れっぽくなる病気という程度の認識しかなく、詳しいことは理解できていない。それに、自分の近所なら自信はあるものの、悠美は祖父母の近所にそこまで詳しくはない。公園までの道のりぐらいしか知らないのである。それでも、祖母の見張り役が務まると誰かが判断したようである。

幸子は、最初、悠美もよく知っている道を進んでいたが、途中で突然曲がり、違う方向へ進み出した。

悠美は、これを見て、不安になった。
「おばあちゃん、こっちなの?道を知っているの?」

「もちろん、知っているわよ。こっちでいいよ。」
幸子が自信満々に答えた。

しかし、悠美は、祖母の自信に満ちた返事を聞いても、とても安心出来なかった。朝ご飯に何を食べたのか思い出せない人が、道を覚えている訳がない。そう思った。しかし、自分の不安を口に出しても、どうにもならないことを、先程の祖父との激しいやりとりを聞いて分かり切っていた悠美は、それ以上何も言わずに、必死で目印になるものを探しながら、仕方なく祖母について行った。

一番目印になりそうなものは、祖母が曲がった通りの角の家だった。家の庭の花壇には、百合が沢山咲き誇り、とても綺麗だった。悠美は、「帰れなくなったらどうしよう⁉︎」
と恐怖を胸に抱きながら、祖母と手を繋いで歩きながら他の道標を探して過ごした。

歩きながら、祖母はあれこれ話してくれた。自分の幼い頃の話や両親や兄弟の話など、沢山してくれた。しかし、悠美は、道が分からなくなり、祖母は道がわかっているとも確信が得られなくて、気が気ではなく、生憎(あいにく)話を聴いているどころではなかった。

ところが、ちょうど祖母が4回以上道の角を曲がり、自分の探し当てた道標の数が多くなりすぎて、全て覚えられる自信もなくなり、自力で帰るのは無理だと悠美が絶望しかけていたところへ、あの百合の咲き誇る花壇が視野に入った。

悠美は、声を上げそうになるくらい嬉しくなり、安堵した。これで、無事に帰られる。悠美は、肩の荷が降り、密かなにため息をついた。

そして、無事に帰られるという安心感を得られたということよりも、祖母は最初からちゃんと道がわかっていたことが、悠美には嬉しく、誇らしく思えた。

しかし、祖母は、最初からちゃんとわかっていたし、気を揉んでいる必要はなかったと喜ぶと同時に、悠美は、少し後ろめたかった。祖母だって、ちゃんとわかっているのに、朝ご飯に何を食べたのか覚えていないから、道も覚えているわけがないと決めつけて、疑って、悪かったと反省した。そして、散歩をまた一からやり直して、祖母の話をちゃんと聴きたいと思った。

しかし、一度過ぎてしまった時間は、いくら願っても、もう戻らないことを幼い悠美がこの経験から学んだのである。

祖父母の家に帰ってみると、今度は、哲雄が母親と言い合いになっていたようだった。

「だから、病気のせいだってば!」
恵美が必死で父を諭した。

「病気なんかじゃない!歳で頑固になっているだけだ、臍を曲げて!」
哲雄が恵美の言い分をすぐに否定した。

恵美がまた何かを言おうと口を開きかけたが、幸子と悠美の姿が見えると、すぐに口をつぐんだ。

幸子と悠美がまたテーブルに座ってみると、空気が静まり返り、しばらく気まずい沈黙は続いた。

すると、哲雄との言い合いをもうとっくに忘れ、娘と哲雄が先まで揉めていたことにも気が付いていない幸子が沈黙を破った。
「みんな、クッキーを食べない?この間、焼いたのが余っていて、二人じゃ食べきれないから、食べてもらわなきゃ。」

幸子がそういうと、みんなの表情が一斉に明るくなり、先まで緊迫していた空気が一気に和んだ。

先までみんなを困らせ、空気を冷たくさせていた祖母の病気が、今度は、みんなを癒やし、空気を元に戻したのを見て、幼い悠美は、思った。
「不思議な病気だなぁ。みんなは、不幸だという風に言うけど、不幸だけではないかもしれない。」
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