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チコリ
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年月が過ぎ、幸子は、自分でご飯を食べたり、トイレに行ったり、話したりすることが出来なくなってしまった。もちろん、ある日、いきなり出来なくなったのではなく、何らかの途中経過を経て、少しずつ衰えて行ったのだが、その途中経過をはっきりと覚えている者は、いない。
症状がここまで進んでしまうと、哲雄も、さすがに妻の病気を認めざるを得なくなった。そして、妻が治らない病気であるということを受け止めるに連れて、哲雄は、角が取れ、柔らかくなって行った。幸子のためにご飯を作り、人匙ずつ食べさせたり、トイレまで連れて行き、転けないように一緒に座って見張ったり、前の哲雄なら考えられなかったような献身的で、心のこもった介護が出来るようになった。
恵美は、母親の介護を長年手伝って来た心身のストレスが溜まりに溜まって、ある日、生理でもないのに、子宮から出血し始めた。数日様子を見ても、出血は止まらずに、逆に量が増えて行ったので、入院し、しばらく幸子の介護のお手伝いを休むことになった。哲雄は、娘が介護のストレスで危ない状態になったのが心苦しくて、堪らなかった。
「俺たちのことは気にしなくていいから、ゆっくり休養して、体を治すことに専念するんだよ。」
と娘に伝えといた。
高校生になった悠美が周期性嘔吐症を発症したり、中学生になり、陸上部に入った直美が大会の度に嘔吐したり、子供たちにも、ストレスが原因と見られる症状が出始めたが、心配させたくないから、子供たちのことは、哲雄と幸子には内緒にした。
恵美が退院し、回復すると、またすぐに幸子の介護に関わろうと動き出した。介護疲れで体調を崩し、回復したばかりの娘に、また幸子のことをお世話になるのは、哲雄は、正直、抵抗はあったが、80過ぎでガタが来ている身としては、一人だと、どこまで幸子の介護ができるかは限界があり、恵美にお世話になるしかなかった。
高校生になってから近所の介護施設でバイトを始めた悠美は、仕事が終わって、携帯を見ると、母親からメールが届いていた。
「おばあちゃんが転けて、おじいちゃんは、もう一人では無理!って言っているから、おばあちゃんが今日からうちで暮らすことになった。おじいちゃんも、毎日手伝いに通うって言っている。」
悠美は、幸子が転けたことを聞いて、少し心配になったが、母親のメールの文面を見る限り、病院には、行っていないようだから、大きな怪我はしていないようだと安心した。哲雄が一人で世話するのが難しくなったことを聞いて、おじいちゃんは、きっと悔しいと思った。おじいちゃんのこれまで、なるべく人を頼らずに頑張って来たことを知っているから、哲雄の辛い心境を簡単に想像できた。
しかし、大好きなおばあちゃんが家にいると思うと、気分がウキウキして、帰るのが楽しみになった。
配偶者が認知症になると、施設にお世話になる人が多い中、哲雄は、最初から、絶対にそうしないと決めていた。結婚する時の「健やかな時も、病める時も」の言葉を肝に銘じ、自分の夫としての義務だと思って、幸子の介護に従事して来た。しかし、80を過ぎてから、いずれ限界が来ると薄々感じるようになっていた。そして、とうとうその日が来たのだった。哲雄は、悔しいそのものだった。
幸子がいなくなって、ポカリと穴が空いたような広い家に一人で座っていると、やるせない気持ちでいっぱいになり、幸子が病気になってから、ずっと自分に思わせないように心掛けてきた思いが、抑え込めずに、胸の底から込み上げて来た。
「このはずじゃなかった。」
哲雄は、そう思いながら、幸子が病気になって初めて、涙を流した。しかし、その彼の涙を受け止め、慰めてくれる者は、誰もいなかった。哲雄は、生まれて初めて、自分のことを世界に独りぼっちと感じた。
しかし、哲雄は、直ぐに気を取り直し、その晩、早く寝ることにした。早く寝て、早く起きて、幸子に会いに、恵美のところへ行こうと思った。
幸子は、病気である。それは、今では、もう否定する余地のない事実である。病気が治ることもない。しかし、病気でも、やっぱり、自分には、幸子しかいない。その幸子とは、一瞬でも長く、一緒にいたい。そう思った。
哲雄は、その晩、夢を見た。幸子がまだ元気な時の夢だった。
「ねえ、この花、知っている?」
幸子が哲雄の見たことのない小さな草花を見せて来た。
「知らないよ。」
哲雄がぶっきらぼうに言った。
「チコリというよ。花屋には売っていないし、お店のウインドウに並んだり、花束に使われたりすることもない。でも、それでも、こういうコンクリートの隙間からでもしぶとく生えて、胸を張って咲いているよ。
…私は、この花が好きだ。」
幸子がチコリの花を愛おしそうに眺めて、言った。
哲雄は、目を覚まして、思い出した。
「そうだった!幸子は、あの花が好きだった!薔薇より、好きかもしれない。」
哲雄は、起き上がって直ぐに、チコリの花を探しに、外へ行った。確か、幸子がチコリを摘んで、哲雄に見せて来たのは、これぐらいの季節だった。
哲雄は、幸子が10数年前にチコリを摘んだという場所に行ってみて、すぐに笑顔になった。あの時と同じように、コンクリートの隙間から、チコリの花がニ輪、見事に咲いていた。
「よーし!これを持って、幸子に会いに行こう!」
哲雄は、一輪のチコリの花を大事そうに手に持ち、車に乗った。もう一輪は、そのまま咲かせておこうと思った。
症状がここまで進んでしまうと、哲雄も、さすがに妻の病気を認めざるを得なくなった。そして、妻が治らない病気であるということを受け止めるに連れて、哲雄は、角が取れ、柔らかくなって行った。幸子のためにご飯を作り、人匙ずつ食べさせたり、トイレまで連れて行き、転けないように一緒に座って見張ったり、前の哲雄なら考えられなかったような献身的で、心のこもった介護が出来るようになった。
恵美は、母親の介護を長年手伝って来た心身のストレスが溜まりに溜まって、ある日、生理でもないのに、子宮から出血し始めた。数日様子を見ても、出血は止まらずに、逆に量が増えて行ったので、入院し、しばらく幸子の介護のお手伝いを休むことになった。哲雄は、娘が介護のストレスで危ない状態になったのが心苦しくて、堪らなかった。
「俺たちのことは気にしなくていいから、ゆっくり休養して、体を治すことに専念するんだよ。」
と娘に伝えといた。
高校生になった悠美が周期性嘔吐症を発症したり、中学生になり、陸上部に入った直美が大会の度に嘔吐したり、子供たちにも、ストレスが原因と見られる症状が出始めたが、心配させたくないから、子供たちのことは、哲雄と幸子には内緒にした。
恵美が退院し、回復すると、またすぐに幸子の介護に関わろうと動き出した。介護疲れで体調を崩し、回復したばかりの娘に、また幸子のことをお世話になるのは、哲雄は、正直、抵抗はあったが、80過ぎでガタが来ている身としては、一人だと、どこまで幸子の介護ができるかは限界があり、恵美にお世話になるしかなかった。
高校生になってから近所の介護施設でバイトを始めた悠美は、仕事が終わって、携帯を見ると、母親からメールが届いていた。
「おばあちゃんが転けて、おじいちゃんは、もう一人では無理!って言っているから、おばあちゃんが今日からうちで暮らすことになった。おじいちゃんも、毎日手伝いに通うって言っている。」
悠美は、幸子が転けたことを聞いて、少し心配になったが、母親のメールの文面を見る限り、病院には、行っていないようだから、大きな怪我はしていないようだと安心した。哲雄が一人で世話するのが難しくなったことを聞いて、おじいちゃんは、きっと悔しいと思った。おじいちゃんのこれまで、なるべく人を頼らずに頑張って来たことを知っているから、哲雄の辛い心境を簡単に想像できた。
しかし、大好きなおばあちゃんが家にいると思うと、気分がウキウキして、帰るのが楽しみになった。
配偶者が認知症になると、施設にお世話になる人が多い中、哲雄は、最初から、絶対にそうしないと決めていた。結婚する時の「健やかな時も、病める時も」の言葉を肝に銘じ、自分の夫としての義務だと思って、幸子の介護に従事して来た。しかし、80を過ぎてから、いずれ限界が来ると薄々感じるようになっていた。そして、とうとうその日が来たのだった。哲雄は、悔しいそのものだった。
幸子がいなくなって、ポカリと穴が空いたような広い家に一人で座っていると、やるせない気持ちでいっぱいになり、幸子が病気になってから、ずっと自分に思わせないように心掛けてきた思いが、抑え込めずに、胸の底から込み上げて来た。
「このはずじゃなかった。」
哲雄は、そう思いながら、幸子が病気になって初めて、涙を流した。しかし、その彼の涙を受け止め、慰めてくれる者は、誰もいなかった。哲雄は、生まれて初めて、自分のことを世界に独りぼっちと感じた。
しかし、哲雄は、直ぐに気を取り直し、その晩、早く寝ることにした。早く寝て、早く起きて、幸子に会いに、恵美のところへ行こうと思った。
幸子は、病気である。それは、今では、もう否定する余地のない事実である。病気が治ることもない。しかし、病気でも、やっぱり、自分には、幸子しかいない。その幸子とは、一瞬でも長く、一緒にいたい。そう思った。
哲雄は、その晩、夢を見た。幸子がまだ元気な時の夢だった。
「ねえ、この花、知っている?」
幸子が哲雄の見たことのない小さな草花を見せて来た。
「知らないよ。」
哲雄がぶっきらぼうに言った。
「チコリというよ。花屋には売っていないし、お店のウインドウに並んだり、花束に使われたりすることもない。でも、それでも、こういうコンクリートの隙間からでもしぶとく生えて、胸を張って咲いているよ。
…私は、この花が好きだ。」
幸子がチコリの花を愛おしそうに眺めて、言った。
哲雄は、目を覚まして、思い出した。
「そうだった!幸子は、あの花が好きだった!薔薇より、好きかもしれない。」
哲雄は、起き上がって直ぐに、チコリの花を探しに、外へ行った。確か、幸子がチコリを摘んで、哲雄に見せて来たのは、これぐらいの季節だった。
哲雄は、幸子が10数年前にチコリを摘んだという場所に行ってみて、すぐに笑顔になった。あの時と同じように、コンクリートの隙間から、チコリの花がニ輪、見事に咲いていた。
「よーし!これを持って、幸子に会いに行こう!」
哲雄は、一輪のチコリの花を大事そうに手に持ち、車に乗った。もう一輪は、そのまま咲かせておこうと思った。
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