美形×平凡 短編BL小説集2

鯛田オロロ

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さようなら、伯爵(オメガバース・ファンタジー)

さようなら、伯爵

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夫が私と結婚したのは、私の家の持参金と夫の爵位との交換のためだった。私はそのために、遠く海を越え新大陸からこの小さな島国にやって来たのだ。

初めてアルファの夫、フェリクスに会ったとき、その堂々たる美丈夫ぶりに圧倒された。栗色の髪と初夏の新緑を思わせる瞳の美丈夫だった。

私は、少女のようにのぼせ上がった。しかし、私のような、男のオメガで、オメガというのに醜く、巨額の持参金の他、夫を喜ばせるものを何一つもたないものが、少女のように思いを寄せては気味が悪かろうと思った。

彼は、先の大戦に志願して参戦し、大陸各地を転戦した。怪我を負いながらも、帰国せずに平和のために指揮を取り続けた真の勇者である。

彼がこの婚姻に乗り気ではないのがすぐにわかった。私をひと目見て、困惑の色が浮かんだから。喜んでいるのは私だけなのだ。

配偶者として愛されることはないだろうが、精一杯彼に尽くそうと心に決めたのだった。せめて、家族として、領地をもり立てるパートナーとして。



結婚式後の初夜の晩、夫は私をいたわり私が苦しまないように抱いてくれた。その日は発情期ではなかったから、今思えば、夫はよく務めを果たしてくれた、と思う。

それからは、発情期には必ず夫は私を抱いた。

私は婚前に母から夫に丁重に扱われるための心得を説かれていた。

行為で快楽を得ようというのは下賤のもののすること。それに、お前のような醜いものが行為中に汚い声を出したら、夫の興が削がれるだろう。平静でも醜いのだから、決して顔を歪めてはならぬ、と。

私は母から性行為に言及されいたたまれなかった。しかし、それは大変貴重な助言だったと思う。私はその教えを守ろうと努力した。発情期にそれを守るのは容易ではなかったが。

とにもかくにも、私が快さを感じていないように振る舞ったために、夫が発情期には義務で私を抱くことを続けてくれたのだろう。

醜い私の顔も体も声も、彼の興を削ぐだけだろうから。



領内の寡婦の家に住む夫の母である前伯爵夫人は、私を面罵した。お前の腹から生まれてくる子は醜いだろうからかわいそうだとも。新大陸の粗野で野卑な血が交じるとも。

彼女にとって、結婚してしまえば、私の持参金さえ手に入れば、私はどんなに罵倒しても良い、下賤の者なのだ。

私の発情期に合わせて、首都から帰宅した夫と、義母との会話を聞いてしまったことがある。

「本当にあの醜い男がわたくしの孫を産むなんておぞましいわ」

「母上、お家のためです」

「ええ……そうね……あなたにはつらい役割だわ、あなたはこんなに美しいのだもの」

「発情していれば、不器量も大して気になりませんよ」

「まあ! 可哀想なわたくしのフェリクス……」



夫は、私の発情期を除いて、大半を首都の屋敷で過ごした。彼は私を首都にはめったに連れて行かなかった。連れて歩くのを嫌がった。当然だ、私を連れて歩くのが恥ずかしいのだ。醜い男のオメガ、粗野な新大陸人、巨額の持参金だけが取り柄の男を。

一緒に社交の場に出たことは数えるほどだが、誰もが私と夫を不釣り合いだと思っているのはわかった。それは、婚約したころからわかっていた。社交界は、私たちの結婚を面白おかしく話の種にした。

とある晩、首都で催されたさる公爵のパーティで夫はくるくると妖精のような軽やかなデビュタントと踊っていた。私はシャンパン片手に夫を目で追っていた。

彼が私の夫だとは信じられない。夫は巧みに乙女をリードしていた。まるで物語の一幕だ。

私は、貴婦人に声を掛けられた。知らぬ顔だ。男に一人で話しかけるのだから、既婚者か未亡人だろう。

「まあ、あなたの夫のお相手はシュナイダー嬢ですわね。今年のデビュタントの中で彼女が一番ですわ、もう多くの崇拝者がいて」

「たしかに美しいお嬢さんですね」

「お家柄もとてもよろしいのよ、シュナイダー侯爵の娘さんなのですもの」

ああ、お前は新大陸から来た、血統の悪い、見てくれも悪いオメガの男、とはっきりと言われたわけだ。

貴婦人が厚ぼったい真っ赤な唇の間からため息を漏らす。

「ふう、彼女も昨年デビューしていましたらね」

そして、思わせぶりにちらりと私を見た。

昨年デビューしていれば、夫は彼女と結婚したと?

「輝く美貌なら、彼も持っていますからね」

彼の持たないもの、すなわち金だ。金を用意できなければ彼とは結婚できない。

この貴婦人は顔が大変広かったらしい。この私の発言は広まって、下品な大陸の不器量な男に金で買われたとしてフェリクスの自尊心を大層傷つけてしまったようだった。



夫は跡継ぎを残すという義務のために、私のこの貧相な男の体を抱かねばならなかった。発情していれば気にならないと言っても、苦行には違いないだろう。

夫の体には先の戦で貫通した弾丸の跡、銃剣での切り傷が残っていた。

発情に浮かされた私は、言葉を吟味することなく、その傷をなぞり、美しいと言った。平和のための傷だと。彼は、二度とそんなことをに言うなと声を荒らげた。

私は、その時も失敗した。



夫はよく首都に一人で行き、ほとんどこちらには帰ってこない。首都に真に愛する相手がいるのかもしれない、と私も思っていたし、口さがない使用人らは、あの醜いオメガでは愛人を持っても仕方がない、とささやいていた。

夫は領地で醜い私を抱く自分への褒美として、首都で美しい女性を抱くのだろう、と。

本来ならば、屋敷の女主人と言える私はその使用人たちに罰を与えなければならないのだが、私の心は深く沈んでいてそれどころではなかった。

夫は首都に行くたび、私に本を買ってきてくれた。欲しい本はないかと聞いてくれた。恐らくは、罪悪感からだろう。

あなたも、お読みになったら、そう勧めたが夫は険しい顔をして拒絶した。

「本を読むなど僕には無益な時間だ」

新聞の話を振ると露骨に嫌な顔をされるが、夫とせめて本の話ぐらいはできると思ったのに。

私は少しでも夫の役に立ちたくて、領地の管理を任されている家宰のダルトンと領地を見て回った。そうすれば、彼も私の働きを認めてくれると思ったから。

私の持参金で、壊れている長屋を直し、井戸を掘り、橋を掛け、教会付属の孤児院を拡張し、村の子と孤児のための学校を新設した。学校では、私も教鞭を取った。

領地に帰ってきた夫を伴い、馬で領地を回り、直した橋や長屋のことを説明して回ると、夫は苦悩の表情を浮かべた。

「これじゃあ、まるで君が伯爵だ」

まただ。私はその時も夫を傷つけた。



夫が気に入ってくれるかもしれないと、伯爵家の庭園に手を入れ、往時の姿を蘇らせては見たものの、夫は関心を示さなかった。義母はいくらか喜んだようだった。しかし、新大陸人の持参金で由緒ある貴族の庭園が蘇るのは、やはり面白くないようだった。夫も、彼女と同じなのかもしれない。

彼は、貴族としての生活様式を保つため、首都で華やかに暮らすために私と結婚した。ただ、そのために。



フェリクスは私を疎ましく思っているのだろう。

久々に夫婦で招かれたパーティでは、私に当てつけのように見目麗しい貴婦人たちと次々と踊ってみせた。体を密着させて、官能的に。

なんて夫だ。

その翌日、夫は貴婦人とその夫と出掛けていった。貴婦人は私に鈴のような声で囁いた。

「あなたの美しいご主人をお貸し下さいませね。あれほど美しい人をあなたが独り占めなさってはばちが当たりますもの」

さっと血の気が引いた。彼女は、おそらく夫と肉体関係を持っているのだ。彼女の夫の公認で。なんておぞましい。

泉の辺で、三人で裸で交わるに違いない。彼女は夫にしなだれかかって、歩いていった。



このところ、私は離婚の二文字が頭にちらついて離れなかった。

結婚から五年、私たちは子宝に恵まれなかった。私は孕みやすいオメガだというのに。

義母は、私を石女と呼んで憚らなかった。

「オメガは多産だけが取り柄だというのに、お前と来たら……」

そう言って、あからさまにため息をついた。

それに、夫からの愛は望めない。彼は私を愛さない。それどころか、私を疎ましく思っている。

私も彼に愛を伝えることはしなかった、せめてともに家をもり立てるパートナーとして見てもらえれば、と思ったが、私は余計に疎まれただけだった。

夫は月の大半を首都の屋敷で過ごし、発情期中の性行為でしか夫と時間を分かち合えなかった。これには律儀に帰ってくるのだから、やはり貴族にとって後継ぎはどうしても欲しいものだろう。

私は夫に金銭は与えられたが、後継ぎは産んでやれていなかった。この先も難しいかもしれない。

そんな折、私は前伯爵夫人や使用人たちからあらぬ疑いを掛けられた。

私が、家宰のダルトンと不貞をはたらいている、と。親密すぎると。親密なのは当たり前だ、常日頃一緒に領地の仕事をしているのだから。私は努力して優秀な彼の信頼を勝ち得たのだ。

何よりも辛かったのは、夫まで私を疑ったことだ。領地のことは、首都の夫に手紙を送りすべて報告していたというのに。

私の中で、何かが壊れた。

夫だって、首都で不貞をしているだろうに。夫の罪は問われないのだから不公平だ。罪のない私が責められているとは。

「フェリクス、あなたがそう思いたいならそう思えばよろしいでしょう」

「な、なんだと!!」

「私は、ダルトンとここを出ます」

もうずっと前に用意していた離婚の申請書にサインをして、結婚指輪、婚約指輪、その他、夫のくれたものは全て置いて、島国をあとにした。ここにいては悪い評判に不快にさせられるだろうから。

なんの落ち度もないダルトンには大変悪いことをした。身寄りのないダルトンは、ちょうど伯爵家には嫌気が差していたところです、と笑ってみせ、私の気持ちを軽くしてくれた。

ダルトンのほかに、小間使いの少年のロブも我々についてきた。

「ローレンス様、ダルトン様! 俺もどうか連れてってくだせえ! きっとお役に立ちますから! この屋敷は階下から天井裏まで腐ってやがりますからねえ!」

私とダルトンはおおいに笑った。清々しいほどだった。

そして、私とダルトンとロブは海を渡り、大陸にやってきた。

私たちはダルトンの手配で新しい名前を手に入れ、街のはずれに家を買って暮らし始めた。メイドをひとり雇い入れた。このメイドはフローと言った。

そこでしばらくして、私は自分が身ごもっていることを知った。フェリクスの子に違いなかった。私は彼と以外は経験がないのだから。別れてきてから知ることになるとは、なんたる皮肉。

生まれてきた子は男の子でアランと名付けた。フェリクスと同じ髪の色、目の色をしていた。赤子ながら、目鼻立ちが整っているように思えた。

私もフェリクスもナースメイドと家庭教師の手で育てられたが、アランはフローとダルトン、ロブの手を借りつつも、自分の手で育てることが出来た。伯爵家にいれば、取り上げられてしまっただろう。

成長すればするほど、アランはフェリクスに似てくる。本来ならば伯爵家の跡継ぎになっていた子だ。それなのに、婚外子にしてしまった。知らせればフェリクスに子供を取られてしまうかもしれないから。

私の実家の財産は分けてもらえる権利はあるのだが、フェリクスと別れ、黙って消えた私に対し、父も母も激怒しているだろうから難しいだろう。

弱気になってはいけない。私の力で、アランを育て上げなくては。



半年ほどして、ダルトンが言った。

「新聞にすみずみ目を通しておりますが、いつまでもフェリクス様と旦那様の離婚の記事が載りませんね」

「おかしいな。なぜだろうか」

「フェリクス様のほうとしても公表するタイミングをうかがっているのでしょうか?」

「話題になったほうが、高額の持参金を持った娘がたくさん集まるのではないか? 資産家の未亡人でもよかろう」

「あれほど、旦那様に無体に振る舞いながら、フェリクス様は何を考えていらっしゃるのか」

ダルトンが眉をしかめる。

そこにアランをあやしながら、歌うようにフローが口をはさむ。

「旦那様を愛しているから離婚したくないのではなくて?」

フローのあまりの突飛な発言に私たちは苦笑いをした。

「君は、フェリクス様の旦那様にした仕打ちを見ていないからそう言うのだ」

そうだ、私は随分と嫌われていた。器量の悪い、しかもでしゃばりな男、しかもいっこうに子をなさない。これでは嫌われても仕方がない。

でも、今、大陸に渡ってから一年が経ち、私は大分健全な精神を取り戻したと思う。

フェリクスの私への態度は、貴族社会の中ではそう悪いほうではない、むしろごく一般的だったのだろうが、温かいものではなかった、と。私は怒ってよかったのだと。

それから、ダルトンとフローは結婚し、娘のエリーが生まれ、アランとエリーは兄妹同然に育った。

私は、アランが三つになると、教会付きの村の小学校で教師の仕事をはじめた。貯金が目減りするばかりだっただからだ。

伯爵家にいたころの教壇に立った経験が少しは役に立った。あの頃と違うとすれば、あの頃は伯爵夫人の肩書があって敬意を持たれたが、それを実力で勝ち得なければならないことだ。

子供たちには、辛抱強く、毅然と接する必要があった。

オメガの発情期に仕事を休まざるを得ないのは辛かったが、アランの洗礼式を執り行ってくれた神父さまは私がオメガであることも知っており、私が休まざるをえないときは有り難いことに神父さまが代わりに授業を受け持ってくれることになった。

その他に、翻訳の仕事もはじめた。初めて大学を出たことが活かせたように思う。当初は世間知らずな私は安く買い叩かれたが、今はそれなりに良い条件で買い取ってもらえるようになった。

ロブも街で靴磨きをしてその収入を家に入れてくれている。

ダルトンは役所で働き、さらに家の隣の畑と果樹園で野菜と果物作りに精を出している。

フローは家事と子守をしてくれている。

私たちは、一つの共同体と言えた。皆が共同体の存続のために努めた。私たちは家族になった。そう、私はここで生まれてはじめて、信頼と愛情によって結ばれた家族を手に入れたのだ。



フローが翻訳をする私の部屋をノックした。もうお茶の時間だろうか。

「旦那様、お客様がお見えになっていますわ」

「誰?」

「エセル・ピレンヌと名乗られました」

聞いた覚えのない名だ。学校の関係者か、翻訳の関係か。ここに来て、人付き合いも大分広がってきていたので、知らないものが訪ねてくることもままあった。

「客間にお通ししてくれ。私もすぐ行く。お茶の支度を頼む」

私はおざなりに衣服を整え、階下に降り、客間の戸を開けた。

客人が立ち上がる。

私は、驚きのあまり、声も出なかった。

そうだ、フローは知らないのだ。

「すまないね、君も偽名を使っているから、僕も使わせてもらったよ」

彼の、フェリクスの顔を。彼は、実に魅力的な笑顔を浮かべた。しかし、私の胸に去来したのは、場違いなわずかなときめきと、何百倍もの恐怖だった。

「君と子どもを連れ戻しにきた」

しかしこんなところに隠れていたとはね、と質素な客間を見回しフェリクスが独り言のようにつぶやいた。

なんてことだ、アランのことまで把握しているとは。そういえば、数週間前にロブが言っていた。随分身なりのいい島国なまりの大陸語を話す紳士が駅にいて、ロブのところで靴を磨いたと。彼は金払いがよく、ロブは土産にハムやソーセージを買ってきた。

それがひょっとすると、フェリクスの手のものだったのかもしれない。

「あ、あの子は私の子です、あなたの子ではありません! フロー! 子供たちを安全な場所に!」

「は、はい!」

フローが子どもたちが遊んでいるはずの庭に急ぐ。

「もう遅いよ、アランはもう預かっている。あの子は僕の子だ」

「なんてことを!」

エリーだけを連れて血相変えたフローが帰ってきた。

「旦那様! アラン様がいらっしゃいません!」

「フロー……大丈夫だ、彼は私の元夫だ。アランは無事だ。フロー、お茶はいいから下がっていてくれ、彼と話をしなければならない」

「は、はい、旦那様」

気丈なフローが青ざめ震えている。一刻も早く、元夫からアランを取り戻さなくてはならない。

「アランは、私の子です。早く返してください、どこにいるのですか」

「アランは、私たちの子だ。そうだろう?」

アランを一目見れば、誰でもフェリクスの子と気づくだろう。それほど、二人は瓜二つだった。

「私たちに執着しないでもらいたい。さっさと正式な嫡出子をお作りになって、我々のことはお忘れください」

「アランは婚外子ではない、正しく嫡出子だよ。私達の婚姻関係は継続中だからね」

「な、なぜ! 私はサインした申請書を置いてきたでしょう!」

「ゆえに、君がダルトンと結婚していても婚姻は無効だ」

「ダルトンはフローの夫です!」

「あれは、君との関係を隠す偽装ではないのか?」

「彼らは真実の愛で結ばれた夫婦です! まさか、本当に離婚申請を出していなかったのですか!? なぜ!? 早く再婚でもなんでもなさればいいでしょう!」

何を考えているのだ。フェリクスは不遜に足を組み替え、片方の眉を上げた。

「君は帰ってこなければいけないんだ」

「何故!? あなたは私を避けていたでしょう!? 私たちには信頼関係などなにもない!」

フェリクスが目を閉じ、苦しげに息を吐いた。

「僕は、認めることができなかった。君といるといつも僕の不出来を突きつけられるようだったから」

「領地経営のことを仰っているのですか? あなたは、領地の経営に熱心ではなかった。かわりに私がしたことが、それほどご迷惑とは思いませんでした」

「迷惑ではない」

そこで、フェリクスは一旦言葉を切った。言うべきか言わざるべきか迷っているようだった。私はいらいらとその言葉の続きを待った。

「君は笑うだろうが……僕は、読み書きに困難がある」

出てきたのは、思いがけない言葉だった。

「え?」

「昔からだ。字がとっちらかって見えるんだ。踊っているように。形が読み取れ無いんだ」

「では、私が送った報告書は?」

「とってはある。君からの手紙だから。ただ、内容は正確には理解出来ていない」

「……そんな。それなら、おっしゃってくだされば、口頭でお伝えしましたのに」

「君に無能だと呆れられるのが怖かった、馬鹿だと思われるのが。読み書きに困難があることも……君に弱みを見せるようで……言えなかった」

「やはり、私を信頼してくださっていなかったのですね」

フェリクスは力なく首を左右に振った。

頭が痛い。ダルトンもこのことは知らなかったはずだ。彼の極力誰にも知られたくない秘密には違いなかった。

彼の友人に引き合わそうとしないのも、このせいもあったのだろうか。

「あなたは、私を進んで傷付けました。それは、識字能力に難があるためなのですか?」

「君を嫉妬させたかった。君の気を引きたかった」

彼のその企みは大成功を納めた。私は嫉妬もしたし、気が狂いそうだった。

何か、会話がうまく噛み合っていない気がした。

「あなたは心底気に食わない私を苦しめるために、私の発情期以外は首都にいたと? 女遊びにうつつを抜かしていたと? 私がお嫌いなら、なぜ、離婚申請をお出しにならないのですか? まさか、本当に私の再婚を邪魔するために?」

「違う! そう矢継ぎ早に言わないでくれ」

「石女がせっかく出ていったのですから、新しい妻を娶ればよかったではないですか。今度はそこまで持参金の多寡にこだわらなくていいはずですよ、城も領地ももうあらかた直しましたから」

何が違うというのだろう。私がとにかく気に入らなくて、私の神経を逆なでする方法をひたすら考えていたのだろう?

「僕は、どうかしていた」

「あなたは私に一体どうして欲しいのですか? もう一度、領地の管理人として働けということですか?」

「違う、君は、私の伴侶として、息子と一緒に帰らなければならないんだ」

「それはあなたの勝手な論理でしょう! 今さらなんです? わざわざ島国からこんな大陸の鄙びた村に!」

「今更というが、君たちは名前を変え行方をくらましたではないか! やっと見つけたのだ、それで君を、君たちを迎えにきたのだ!」

「私を元のとおりに働かせたいからですか!? 文字の読めないあなたの代わりに!」

「やっぱり、君は僕を軽蔑したね! 文字の読めない不出来な僕を! だから言いたくなかった!」

「私が!? 私は、あなたをお慕いしておりましたよ、あなたをお支えしたいと思っておりました。私はなかなか子供を授かれませんでしたから、せめてあなたのお役に立ちたいと! どうやら、私は優秀な土地の管理人だったようですね!」

「そんなことは言っていないだろう!」

「私があなたの土地の管理人として働く間、あなたは、首都でぷらぷら遊んで愛人とよろしくやっていた! あなたが、私を裏切った!」

「そもそも君が僕を愛していないのではないか! 君からもらえないものを、女たちからもらって何が悪い!? 君は、私との性行為を嫌がっていただろう!」

「あ、あれは……」

かっと顔が熱くなる。不貞の原因が私の性行為中の態度にあるというのか、この男は。あまりにもひどい言い分だ。

待て。何かおかしい。

私が彼を愛していないから?

彼が私を愛していないからではなく?

私の愛などいらないだろう。何を言っているんだ?

「君は、体は熱くしながら、身を固くして私を拒んでいた! 私を嫌っているからだろう!」

それは、私が快楽を感じているのを彼が気味悪く思い、興が削がれるから。

何か、おかしい。

私が彼を嫌っているから、私が彼を馬鹿にするから、私が彼を愛さないから、彼は仕方なく、私に冷たく当たったというふうに主張しているのだろうか?

自分の悪い行いを、すべて人のせいにするとは。

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「それは! 聞いていたのか……それは……私が愚かだったから。容姿に劣る君と結婚してやったのだと、そう思わなくては自尊心が保てなかったからだ」

もう、この男に感情を揺さぶられたくないのに。ずるい論法に振り回されたくないのに。

「埒があかない! 早くアランを返してください!」

「君が帰るといえば、すぐにでも会わせてやるさ!」

「何故、私があなたの家の領地の面倒を見に帰らなくてはいけないのですか! 人を雇いなさい、人を! 持参金付きの土地管理人は魅力的かもしれませんがね! 醜男と婚姻関係を結ぶデメリットを覆すほどの! それに、後継ぎがいれば忌まわしい性行為をもうせずに済みますからね」

息が苦しい。人生でこんなに大きな声で怒鳴り続けたことはない。

「僕との性行為はそんなに忌まわしいか!」

「さぞかし苦痛だったでしょうね、私との子作りは!」

「だから! 苦痛だったのは君だろう!? 私は、苦痛ではない! そばにいれば、いつでも君を抱きたくなる! 今でもだ! 君は僕など望んでいないのに!」

フェリクスが得体のしれないことを口走っている。

彼は、私との性行為には満足していた? この話はどこに向かっているのだ。

「アルファの欲望とは随分見境ないのですね、愛も子を成すという理由がなくとも、オメガといると、行為に及びたくなるのですか……おいたわしい……」

後継ぎの確保と、土地管理人と肉体の満足のために、彼は私を連れ戻したいということか。

「愛しているからだ、君を、愛しているからだ!」

愛している? 彼の愛しているとは、便利、という意味なのか?

「これまでの私の人生で一番面白い冗談ですよ、伯爵」

「冗談などではない!」

「あなたの戯言にはうんざりです! 持参金が惜しかったのですか? それとも後継ぎが惜しいのですか?」

「ローレンス!」

彼はあっという間に距離を詰めると、私を引き寄せ骨が軋むほど締め上げた。

「は、なせ、畜生!」

フェリクスは、私の口を、彼の口で塞いだ。

こんなときなのに、その感触の場違いな心地よさに、かえって怒りが湧いてくる。このままでは流されてしまいそうな自分がおそろしかった。

侵入してきた彼の舌を思いっきり噛んでやると、彼はようやく私を自由にした。彼の口の端から血が滴った。

私も彼も、酷く息が上がっていた。

「フロー! フロー! 客人が帰られる! 私も出かける!」

大声でフローを呼ぶと、代わりにダルトンの声がした。

「旦那様!」

「ダルトン! 君もついてきてくれ! フェリクスのところにアランがいる、連れ戻すんだ!」

続いて、フェリクスを睨みつける。

「フェリクス、これは誘拐ですよ。案内してください。アランの無事を確認したい」

「誘拐? 自分の子を連れて行くのがか!? 誰があの子を危険に晒すものか!」

「あなたは私を傷つけるためならなんでもやるでしょう!」

ダルトンが見かねて口を挟む。

「フェリクス様、ローレンス様にアラン様を引き合わせください」

「ダルトン! 誰が発言を許した! 貴様は黙っていろ!」

フェリクスのダルトンへの恫喝に腹の底から怒りが噴き出す。

「ダルトンは私の家族だ! ダルトンへの侮辱は私が許さない!」

フェリクスは目を見開いて私を見た。それから、顔を苦しげに歪めて、逡巡し、ごくりとつばを飲み、それからしおらしい声を出した。

「わ、わかった……僕が悪かった、許してくれ……」

今は、随分とフェリクスが小さく見えた。

かつてあんなに大きく見えていたフェリクスが。



駅前にある、このあたりで一番の宿屋に、アランはいた。

思わず力が抜ける。

この子には危機意識というものはないのだろうか。アランはナースメイドときゃっきゃと遊んでいた。

「パパ!」

それでも、私に気づいたアランは走ってきて抱きついた。私はアランを抱き上げた。

「お姉ちゃんともっと遊びたい!」

「もう遅いからね、今度ね」

無論、今度など無い。

「今度、やー! 今! 今遊ぶのー!」

「うんうん、遊びたかったね」

アランが大声で泣き叫び、腕の中で暴れ出した。この子のこの体力は父親譲りだろう。元気でいいことだが、いつまで私が抑えられるか不安になってくる。

「では、失礼します。金輪際、我々には近寄らないでいただきたい。今度は警官を呼びます」

「僕の爵位はアランに継がせる」

「そんなものはいりません。では」

「愛しているんだ、ローレンス! 僕は、君のこともアランのことも諦めないからな!」

「随分、愛のお軽いことで」

背中を向けると、彼は僕の背中に向かって独り言のように言った。

「……君は、そこのダルトンにさらわれた、と言うのはどうだい?」

不穏な内容に、思わず振り返る。

「……それは、どういう意味です?」

「僕は、さらわれた君を見つけ出し、ここまで助けに来た」

「誰が信じる、そんな話を!」

「僕の爵位が信じさせる」

フェリクスはうっすら笑みを浮かべていた。フェリクスの明るい緑色の目が、底なし沼のように見えた。

「フェリクス様! あなたは最低だ!」

ダルトンが叫ぶ。

「元はと言えば、ダルトン、お前が悪いんだ!」

「フェリクス、なんのことです!? ダルトンは何も悪くない!」

「私から言わせてもらえば、フェリクス様がローレンス様を放置なさったからですよ。あなたがそのちんけなプライドのために、ローレンス様を傷つけたのです」

「ははは! ダルトン! お前は実に嫌なやつだ! 僕はお前が羨ましかったんだ、ダルトン、伯爵の僕が、お前をね」

フェリクスが力なく笑う。

「僕は最低だよ、それでも、君を愛しているんだ、愛しているんだよ、ローレンス!」

彼が必死に叫ぶ。その切実な叫びは、真実を叫んでいるように聞こえた。彼は、私を利用しようとしているだけなのに。

「アランが泣くでしょう! 大きい声を出さないで!」

大きい声を出すなと、自分が大きい声を出している。私は酷く混乱していた。アランは大人たちの不穏な様子に、これまでにない泣き方をしていた。

かつて、どれほど彼の愛を望んだか。もう、遅い。家を出る前の私なら見え透いた言葉にすがりついてしまっただろうが、今の私はだまされない。

それなのに、ぐらぐらと私の土台が揺らされている。

もう、やめてくれ。私はもう彼に揺らされたくなどないのに。

私は必死に平静の仮面を被った。そして、ゆっくりとはっきりと言った。

「私の気持ちは変わりません。もう、あなたを恨んではいません。あなたに何の気持ちもありません。私たちは、静かに暮らしたいだけなのです」

大人の怒声はやみ、アランのけたたましい鳴き声だけがしている。可哀想に、ナースメイドはおどおどしている。

空気が張り詰めていた。

それを破ったのは、フェリクスだった。フェリクスの新緑の瞳から、すうと涙がこぼれた。

それは、まるでペリドットのように輝いた。それは、悲しいほどに透き通っていた。

思わず見入ってしまうほどに。

「……僕は、何も出来ることはないんだね」

先程とは打って変わって静かな声で彼は言った。

「ええ」

そして、今度こそ、私は彼に背中を向けた。ダルトンもそれに倣う。

振り返ってはいけない。決して。

たとえ、胸に氷の針を刺されたような痛みがあっても。


「さようなら、伯爵」


終わり


初出:2023/09/26
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赤林檎
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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