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誘拐
ファウスト教団私有の森にて
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少年は駆けていた。
黒々とした森はざわめき、ふたりの子供を飲み込もうとする。
月の白い光だけが、何か神聖な道標のようにふたりの行く先を照らしていた。
エリスは、小川のように清らかな長い銀の髪を翻し、繋いだ手の先を振り返る。
「っ……くるしいですか?」
半ば引き摺られるように走る美しい少年は、きつく目を瞑り、こくこくと首を振った。
「うん、わかりました」
エリスは弾んだ息をわずかに詰め、少年の手をぐんと引いた。前のめりに転げかけた細い肢体を、軽々と横抱きに抱えあげる。
「あ、あぶないな!」
「ハハ、あぶなくなんか」
エリスは心地よいアルトの声で軽やかに笑う。抱えられ、身を縮めてしがみついている少年を見下ろし、柔らかく笑み直す。
「私はエデン王国が騎士、星夜のエリスですから」
その息の乱れは、抱えられた彼よりもずっと冷静だ。不思議な金の瞳を甘く細める表情に、少年は沈黙した。やがて、小さく鼻を鳴らし、告げる。
「後方十メートルに三人、それから回り込んで前方に二人いるよ」
「うん、なるほど」
「勝算は?」
「九十パーセント、とお答えしたいですが」
若き騎士エリスは言葉を切った。ちいさく苦笑する。
「命の駆け引きはいつでもフィフティフィフティですからね……っ」
ざ、と土を踏み締め足を止める。その目前には、少年の予測通り二人の屈強な男。
「姫君、下ろします」
言葉と共に優しくも手早く少年を地に下ろし、エリスは腰の剣に手をやった。
「僕にはヴィオルって名前があるんだけど」
不満を洩らしながら、少年ヴィオルもポシェットのように紐で提げた分厚い古書を開いた。
「では、ヴィオル姫と」
「話は後で」短い嘆息をこぼし、ヴィオルは開いたページに指を馳せた。
「言いたいことがたくさんあるんだ──」
ボウ、と奇妙に羅列した文字らしきものが金色に光を宿し、宙へ浮かび上がる。ヴィオルが囁くように何事か呟き吐息を吹き掛ければ、それらは瞬く間に夜闇を薄橙に照らす蜜色の光の矢となり前方へと放たれた。
「僕はこちらを対処する。騎士さんは、」顎を背後へしゃくり、「あちらを」
「承知致しました」
エリスは力強くうなずいて、剣を鞘から引き抜いた。
細い音と共に氷柱のように鋭く冷涼な光が閃き、場の空気すら凍てつかせる。
束ねた銀の髪を揺らして踵を返せば、木々の間から異国風の片刃の剣を構えた男らが姿を現した。ひとり、ふたり、
「一人足りない」
闇の中に反射する剣の光と影の動きを目で数え、エリスは呟く。
「え?」
聞き取れなかったのか、ヴィオルが声高に聞き返した。
「一人足りません。剣の数と人影はふたり分」
「あっ、」
ヴィオルの声が、怯えに震えた。
「姫君?」
ヴィオルは答えない。ただ、震えた吐息がエリスの耳を掠めた。
「姫君、どうされました?」
「帰ら、なくちゃ」
「え?」
「教会に、帰らないと」
うわ言のように吐き出される淡い言葉に、エリスは険しい顔をした。背中を合わせた、少女のように美しい少年の手をさっと取る。握れば、薄い手のひらはつめたく、微かに震えていた
「帰しません」
ヴィオルが、拒むように首を振る。
「貴方の家は、帰るべき場所は、あの教団ではない。違いますか?」
「でも、帰らないと。じゃないとまた、……様が」
「どなたですって?」
その時、エリスの目前に立ち塞がる二人の剣士がわずかに左右に捌けた。その間を割くようにして姿を現したのは、すらりと背の高い、自身が剣そのもののようなつめたく張り詰めた気配を持った男だった。
夜闇に溶けるような漆黒の長い髪が、ぬらりと妖しく揺れる。
「司教……様」
ヴィオルの声が、恐怖に染め上げられた。
黒々とした森はざわめき、ふたりの子供を飲み込もうとする。
月の白い光だけが、何か神聖な道標のようにふたりの行く先を照らしていた。
エリスは、小川のように清らかな長い銀の髪を翻し、繋いだ手の先を振り返る。
「っ……くるしいですか?」
半ば引き摺られるように走る美しい少年は、きつく目を瞑り、こくこくと首を振った。
「うん、わかりました」
エリスは弾んだ息をわずかに詰め、少年の手をぐんと引いた。前のめりに転げかけた細い肢体を、軽々と横抱きに抱えあげる。
「あ、あぶないな!」
「ハハ、あぶなくなんか」
エリスは心地よいアルトの声で軽やかに笑う。抱えられ、身を縮めてしがみついている少年を見下ろし、柔らかく笑み直す。
「私はエデン王国が騎士、星夜のエリスですから」
その息の乱れは、抱えられた彼よりもずっと冷静だ。不思議な金の瞳を甘く細める表情に、少年は沈黙した。やがて、小さく鼻を鳴らし、告げる。
「後方十メートルに三人、それから回り込んで前方に二人いるよ」
「うん、なるほど」
「勝算は?」
「九十パーセント、とお答えしたいですが」
若き騎士エリスは言葉を切った。ちいさく苦笑する。
「命の駆け引きはいつでもフィフティフィフティですからね……っ」
ざ、と土を踏み締め足を止める。その目前には、少年の予測通り二人の屈強な男。
「姫君、下ろします」
言葉と共に優しくも手早く少年を地に下ろし、エリスは腰の剣に手をやった。
「僕にはヴィオルって名前があるんだけど」
不満を洩らしながら、少年ヴィオルもポシェットのように紐で提げた分厚い古書を開いた。
「では、ヴィオル姫と」
「話は後で」短い嘆息をこぼし、ヴィオルは開いたページに指を馳せた。
「言いたいことがたくさんあるんだ──」
ボウ、と奇妙に羅列した文字らしきものが金色に光を宿し、宙へ浮かび上がる。ヴィオルが囁くように何事か呟き吐息を吹き掛ければ、それらは瞬く間に夜闇を薄橙に照らす蜜色の光の矢となり前方へと放たれた。
「僕はこちらを対処する。騎士さんは、」顎を背後へしゃくり、「あちらを」
「承知致しました」
エリスは力強くうなずいて、剣を鞘から引き抜いた。
細い音と共に氷柱のように鋭く冷涼な光が閃き、場の空気すら凍てつかせる。
束ねた銀の髪を揺らして踵を返せば、木々の間から異国風の片刃の剣を構えた男らが姿を現した。ひとり、ふたり、
「一人足りない」
闇の中に反射する剣の光と影の動きを目で数え、エリスは呟く。
「え?」
聞き取れなかったのか、ヴィオルが声高に聞き返した。
「一人足りません。剣の数と人影はふたり分」
「あっ、」
ヴィオルの声が、怯えに震えた。
「姫君?」
ヴィオルは答えない。ただ、震えた吐息がエリスの耳を掠めた。
「姫君、どうされました?」
「帰ら、なくちゃ」
「え?」
「教会に、帰らないと」
うわ言のように吐き出される淡い言葉に、エリスは険しい顔をした。背中を合わせた、少女のように美しい少年の手をさっと取る。握れば、薄い手のひらはつめたく、微かに震えていた
「帰しません」
ヴィオルが、拒むように首を振る。
「貴方の家は、帰るべき場所は、あの教団ではない。違いますか?」
「でも、帰らないと。じゃないとまた、……様が」
「どなたですって?」
その時、エリスの目前に立ち塞がる二人の剣士がわずかに左右に捌けた。その間を割くようにして姿を現したのは、すらりと背の高い、自身が剣そのもののようなつめたく張り詰めた気配を持った男だった。
夜闇に溶けるような漆黒の長い髪が、ぬらりと妖しく揺れる。
「司教……様」
ヴィオルの声が、恐怖に染め上げられた。
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